中世キリスト教と安楽死について

このQ&Aのポイント
  • 中世キリスト教思想では、安楽死を議論することさえ禁止されていた。
  • 中世キリスト教社会では、キリスト教支配が広まり、自殺を厳しく非難するようになった。
  • トマス・アクィナスも自殺を厳しく批判したが、具体的な記述が見つからない。
回答を見る
  • ベストアンサー

中世キリスト教と安楽死

「中世キリスト教思想のもとでは生命の神聖さを徹底的に重視していたので安楽死を議論することさえ禁止されていた」とレポートを書いたら、(1)「中世のキリスト教思想」の出典を明記し、「生命の神聖さ」と「安楽死を議論すること」の両者の関係をもう少し説明して下さいという講評で不合格になりました。 (1)「中世のキリスト教思想」はトマス・アクィナスだと思うんですが、それは『神学大全』に自殺を具体的に非難する文が載っているのでしょうか? また(2)ですが、中世キリスト教社会では、キリスト教支配が広まり、自殺を厳しく非難するようになったのは分かったのですが、具体的に引用できる本が見つかりません。トマス・アクィナスも自殺を厳しく批判したのは分かったのですが、これも「具体的にこの本のこの部分から分かる」という明確な記述が見つからず途方に暮れています。「神学大全」も図書館で見ましたが、膨大すぎてどこがその記述にあたるかを見つけられませんでした。 どうか皆さんのお力を貸して下さい。宜しくお願い致しますm(_ _)m

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.2

調べてみました。 >(2)ですが、中世キリスト教社会では、キリスト教支配が広まり、自殺を厳しく非難するようになったのは分かったのですが、具体的に引用できる本が見つかりません。 不合格になったのは、『生命の神聖さ」と「安楽死を議論すること」の両者の関係をもう少し説明して下さいという』と指摘があったとおり、レポート内に、両者の関係をきちんと説明していなかったからではないかと。 例えば、起承転結の<起>で、<中世キリスト教思想のもとでは生命の神聖さを徹底的に重視していたので、安楽死を議論することさえ禁止されていた>と書いた場合、その下に<承>として、<起>で述べたことを、具体的に書かなければならない。 <起>を補うわけです。 で、その時 文献をもってきて、「○○神学者は △△において こう述べた」 とか、ずらずら例をあげていく。 転は略してもかまわない。 で、最後に<結>で、「ゆえに中世において、安楽死を議論することさえ 禁じられていたのである」と結ぶ。 ただし、安楽死という言葉は、他の方も言うように、その当時無かったようです。 しかも、トマス・アクナイは、自殺を悪とした理由は、生命が神聖だからとしたのではないようです。 『 ・永遠のいのちに移るために自殺は禁止   ・悲惨を避けるために自らの命を殺すことはより多くの悪を引き受けることになる   ・自殺は回心の機会を奪う   ・強姦されることを回避の自殺はより大きな悪を引き受けることとなる   ・罪に陥ることからの回避の自殺もまた大きな悪   ・迫害の時の自殺も禁止  』 人間の死も、神の計画のひとつであり、神が計画を実行する前に、人間が勝手に自殺してしまうと、神の計画が実行できなくなり、神に対して大変失礼である(自殺は神への冒涜)という考えだったからではないでしょうか。 だから、トマス・アクナイをもってきて、主題を論じるなら、生命の神聖さ じゃ 説得力が無いように思えるんですね。 >中世キリスト教社会では、キリスト教支配が広まり、自殺を厳しく非難するようになったのは分かったのですが 古代ローマでは、変な習慣があり、自殺がはやったそうです。 それを阻止するため、キリスト教は自殺を禁止したのだそうです。 えっと http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%AE%BA 『キリスト教で自殺に対する否定的道徳評価が始まったのは、聖書に基づくものではなく4世紀の聖アウグスティヌスの時代とされる。当時は殉教者が多数にのぼり、信者の死を止めるために何らかの手を打たねばならなくなっていた。また10人に1人死ぬ者を定めるという「デシメーション」と呼ばれる習慣のあったことをアウグスティヌスは問題にした。693年にはトレド会議において自殺者を破門するという宣言がなされ、のちに聖トマス・アクィナスが自殺を生と死を司る神の権限を侵す罪であると述べるに至って、すでに広まっていた罪の観念はほぼ動かし難いものになった』 トマス・アクナイのこの言葉の出展元。。。。 >「神学大全」も図書館で見ましたが、膨大すぎてどこがその記述にあたるかを見つけられませんでした。 ですね。 普通に検索してもでてきませんでした。 再度 ググってみます。 ふーー あった。 http://www.nanzan-u.ac.jp/JINBUN/Christ/NJTS/011-Hamaguchi.pdf 『このようなことを 前提しながら , トマスは「自分自身を 殺すこと」 (seip.sumoccidere) が許されるか (11 一 1I, q.64 a. 5) を問い,7,) ア ウグスチヌス の 仁 神の国』とアリストテレスの『ニコマコス 倫理学』を根拠にし・・・』 ということで、彼がどうして自殺が罪だとしたかが、ここに書かれているようです。 というわけで、主題が正しくないようです。 あなたのあげた主題を説得力を持って説明するためには、トマス・アクナイじゃ駄目ですね。

maiko2dog
質問者

お礼

ご丁寧に回答頂きまして本当にありがとうございました!!!! これでレポートが進みそうです^^ 本当にありがとうございましたm(_ _)m

その他の回答 (1)

  • kgrjy
  • ベストアンサー率54% (1359/2481)
回答No.1

>安楽死を議論することさえ禁止されていた 中世の安楽死を論じた文献を提起すべきです。 それを見つけてレポート作成しましたか? 安楽「死」は安楽「殺」と言い換えられるほど、自殺とは違う概念であり、安楽死の是非は現代の末期(延命)医療が発展してはじめて論じようがあるのです。 添削者は中世において「安楽死が行われた」あるいは「それをとがめた」存在を求めています。 概念が芽生えてない以上、ないものを禁止のしようがないではありませんか。たとえるとタバコが南米から持ち込まれる以前から、存在すら知られていないタバコの喫煙が禁止されていたようなものです。 くりかえしますが中世の安楽死を論じたあるいは存在をとりあげた文献を提起すべきです。

maiko2dog
質問者

お礼

ご丁寧な回答ありがとうございましたm(_ _)m 早速文献を探してみます!

関連するQ&A

  • ヘーゲルは国家を本気で神格化したのでしょうか?

    ヘーゲルが国家公務員の集団を擬似神学的な仕方で神聖化したのには多少の誇張があるにせよ、… という記述をとある哲学書の中で見つけ、ちょっとキモチ悪いと思いました。 ヘーゲルが国家を社会の最高の価値を体現するもの~みたいに見なしていた、ということは聞いたことがありましたが、言いかえると上記のような考え方になるんですかね? 国家公務員の集団を神聖化、とは個人的にはキモいですね~ 最近、萱野さんなどが国家論で述べているように、国家なんてある見方からすれば単なる暴力装置ですよね? 暴力装置=神なんて大そうな転倒、パラドックスじゃないか?と思ったのですが、その辺、ヘーゲルは自説には何の疑問も抱かず、こういう思想を展開し続けたのでしょうか? ていうかヘーゲルにはある意味ミーハーというか、力のあるものは良いんだ!みたいなニーチェ的?な発想があったんでしょうか? その辺、ヘーゲルはどういう思想の持ち主だったんでしょうか?

  • 【悪いのはどっち?】貸し金融の取立てについて

    最近ニュースで貸し金業の取立て方の対応見直しが報じられております。数年前から「腎臓売れ!」とかいう取立ては禁じられており、今回はさらに自殺の生命保険に関して議論になりそうとのことですね。 ただ、そもそも借りた物は返すというのが日本の道徳であり、常識だと思います。マスコミも貸し金業者側だけ非難する論調が目立ちますが、借りていて返さない側の 責任は何故責めないのでしょうか? 「返せない」場合でも、そんな甘い見通しで契約に捺印した責任を借り手は免れないと思います。 具体的にはケースバイケースだとは認識してますが、 片方の側だけの非難はやや理不尽ではないでしょうか?

  • キリスト教を信じたいのに

    こんにちは。迷える子羊です。暴れ羊です。 以前、深夜テンションで頭がカーッと熱くなり、以下のような宗教に対する攻撃を加えそうになりました。 以下その質問文です。 -------------------------------------------------------------------- 牧師先生に質問です。 まず、イエス様と神が教えのリソースの大本です。             ↓ その出来事を、その場で体験した人間が『当時の自分たちの言葉で』書き記しました。             ↓ イエス様がおそらく天に昇られた後、書き記した書物を訂正する本人がいないので、書き写しを繰り返して人々の間に広まりました。             ↓ ですが、当然多様な国に属する人々が理解するには、自前の言葉で理解する必要が出てきます。ですから、「翻訳」をしました。             ↓ そして神様の教えが素晴らしいと思う人は今も昔もたくさんいたことでしょう。ですから、「翻訳ミス」だけでなく、本来の神の教えを「誇張」して伝えた大バカ者がいるはずです。長い歴史の間で、一度もなかったと考えるのは現実的ではありません。             ↓ さらに教条を勝手にでっち上げ、偽典を作ったものもいます。そのうえ、今は亡き正典を勝手に「改ざん」して欠陥のある教典にしたものもあるはずです。             ↓ さらにここに拍車をかけるように、歪んで伝わった神の教えを究極至高のモノと大勘違いした当時の聖職者たちが、ニケ―ア公会議でイエスキリストを神とする「ことにした」ことは、ご存知の通りだと思います。              ここで突っ込みが入ります。 あるキリスト教徒の方に、ニケ―ア公会議のことについて教えていただいたことがありました。 説明曰く、「キリスト教を司る偉い方々がイエス様を神様だと判断したんだよ」といいます。 オイオイ、エライ奴というのは権力に首までどっぷりだろ。聖職者やっているからって、罪人でしかない、しかも聖書の原典に従って生きているわけでもない奴らが勝手に決めちゃダメだろ!! 別宗教の方に言わせれば、「そのほうが宗教としてやりやすかったんだろうね」とのこと。罪びとがやりそうなことです。 先に述べた「ニュアンスや言語性の違いによる翻訳ミス」や、「書写の繰り返しによる記述ミス」や、「聖書至上主義者による誇張」や、「異端者による教条の捏造」で、原始教会時代は様々な写本が流布していたそうですね。 その混沌に終止符を打つために、キリスト教の定義を定めた人がいます。 さて、ここで質問です。 「その定義、どこから来ました?」 神学だって、一介の罪びとたちが頭を突き合わせて勝手に「今伝わっている聖書」から「勝手に解釈したもの」でしょ? 聖書が本来どのような内容だったかも怪しいのに、「聖書に書かれていることは神のみ言葉だから完全無欠だ」なんて、笑止千万です。 そんなの、「神様やイエス様はこうあってほしい」という妄想じゃないですか。 オリジナルをどこまで追っても、一例をあげればせいぜい死海文書どまりです。それだって写本ですし、どうして完璧だなんて言えるのですか? そもそも西洋の歴史は、キリスト教が支配する世界から脱却するための歩みでした。 聖書原理主義者。彼ら、今でもテロ行為やって社会問題起こしてますよね? あと今までには見られなかった記述があったのではないかと噂される死海文書だって、バチカン大図書館の禁書庫に秘密裏に隔離されているって噂じゃないですか。あの市国の周りには、憶測とはいえ黒いゴシップが絶えないんですよ? カトリックが腐敗している以上、その総本山がどうかなんて、言わずとも知れたことですよね? それに、原始教会時代に焚書された写本の中に、正伝が混じっていないと本当に言えますか? たとえ焚書されるような内容だったとしても、それらの原典が本当に正伝ではないといえますか? であるならば、聖書やイスラエル民族史単体の視点で神のみ心にかなおうとするのは、いささか盲目的とは言えませんか? その愚昧さで、どれだけのものを踏みにじり続ければ気が済むのですか? いいですよね。身内から売国奴が出ようが戦犯者が出ようが思想犯が出ようが、悪魔にそそのかされたそいつと自分は関係ないって言い張れますものね? 何なら、キリスト教がもとで起きた災いを列挙しましょうか? キリスト教がもとで、何回宗教戦争が起きて人が死にましたか? 本当に隣人愛を実行するなら、神道の「自分が一番だけど、その分リーダーとしてボク頑張る!ほかのみんなも一緒にがんばろ!」という謙虚さを見習ったらどうですか? どうもその辺りが傲慢だと思うのです。 未だに教会は、仏教や中国哲学を邪で、かつ宗教と勘違いしてますものね? 何が偶像崇拝に傾倒している愚か者ですか。思い上がりも甚だしい。 こんな調子じゃ、神の恵みの初穂に預かりたくても信じられないじゃないですか。 「原罪だから仕方ない」でごまかさず、きちんとお答えください。 ------------------------------------------ 見るに堪えなくてすみません……。 クリスチャンにはなりたいのですが、教会への不信感と教会史の血なまぐささと、聖書に対して硬直的な向き合い方をしている福音主義の方が嫌で、どうしても信じられないんです。 あと、聖書の歴史的文献としての信ぴょう性が、どう理性的に考えてもどれも怪しいものばかりで、素直に受け入れたくないのです。 この葛藤を乗り越えるにはどうしたらいいですか?

  • 否定神学とヘーゲルの間にはどんな関係がありますか?

    マルクーゼの著書「理性と革命」の中に、ヘーゲルのイエナ時代の体系について「否定性が全ての有限な事物の構成要素であり」(p.73)という記述があるのを見つけたのですが、ここでいう否定性に関して3つ質問があります。 (1)否定神学がヘーゲルに与えた影響は? ヘーゲル的弁証法で大きな役割を果たしているのが否定性であるというのは、マルクーゼに限らずとも(コジェーヴも言っていますが)ヘーゲルの弁証法の常識だと思っていますが、それをヘーゲルが構成する基礎としたのがまさに否定神学だと言ってよいのだと(ウィキペディアを参考にして)思っています。そこで、具体的に、ヘーゲルのどの作品が最も否定神学の影響下で書かれた作品なのか教えていただけますか? (2)否定神学の参考書はありますか? これはそのままの質問で、否定神学について学ぶために手がかりとなる参考書(もしくは作品)はありますか?どの/誰の本がそれに関して手ごろでしょうか?概説書などがありましたら教えていただきたく思います。 (3)バタイユによる指摘? ウィキペディアの否定神学のページに、「こうした中世の神秘主義的否定神学は、…ドイツ観念論における神および絶対者概念の成立(バタイユが指摘するように、特にヘーゲルのそれ)にも影響した。」とありますが(http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=否定神学&oldid=24358761)、具体的にどの作品でバタイユが指摘しているか教えていただけますか? 以上です。皆さんの回答をお待ちしています。よろしくお願いいたします。

  • 聖書について

    テストでこのような問題が出るのですが、全くわかりません。 だれか分かる方教えていただけないでしょうか?? (1)ユダヤ教のメシア思想とキリスト教の「キリスト」理解の関係について。(「メシア」、「キリスト」の語義についても触れる) (2)新訳聖書の「福音書」について。(特に、「共観福音書」相互の文献学的関係がわかるように) (3)「ナザレのイエス」の生涯について。(歴史的イエス研究の立場から) (4)キリスト教の信仰対象としての「イエス・キリスト」について。 (5)キリスト教がイエスの十字架上での死の意味をどう理解したかを中心に、キリスト教の「贖罪論」について。 (6)エルサレム初代教会と、協会指導者としてのぺトロについて。(ぺトロについては、後のローマ・カトリック協会との関係についても触れる) (7)パウロの生涯、思想について。(パウロの思想の中心と言われる「信仰義認論」の内容が具体的に分かるように) (8)「ヨハネ黙示録」とキリスト教の終末論について。(「ヨハネ黙示録」の歴史的背景や精神的源泉についても触れる)

  • 中世のキリスト教について

    中世のキリスト教について 中世のキリスト教、特に破門と秘跡について質問です。 中世のキリスト教においては、教会が強大な力をもっていたということが分かりました。 教会の決定で信者を破門し、追放していたということですが その信者たちは教会から破門されたあとも 教会外で秘跡(聖なる儀式)をおこなっていたのでしょうか? もし行っていたなら、教会はそれを止めようとはしなかったのでしょうか? 調べてみましたが、よくわかりませんでした。 知恵をお持ちの方、ご教授願います。

  • 宗教家は、自殺(自死)をどう考えているのか?

    私はカトリックの信者ですが、近年カトリックでは、自死者や遺族に対しての対応が昔と著しく変化してきています。元々、「自殺は他殺と同様、生命をないがしろにし、神を冒涜する行為である。」と言う理由で大罪と位置付け、自殺者の葬儀は受け付けず、公然と差別してきましたが、近年は、自殺に至った事情や精神状況も勘案し、「審判者」たりうるのは神のみであって、人間が自殺者を裁くのは当たらない、という考えの下、自殺者の葬儀も行い、遺族に対してもサポートの手を差し伸べています。 しかし、そのような対応の変化に拘らず、やはり根底に流れている思想は、「自殺者は救われない」というものであり、決して自殺を肯定するものではないことは言うまでもありません。 そこで改めて疑問なのは、キリスト教(カトリックとプロテスタントなど)にかかわらず、他の仏教、神道などの宗教家は、自殺(自死)をどう捉えているのかということです。 勿論、自殺(自死)を肯定している宗教は存在しないと思われますが、 1)彼らは救われないと思っているのでしょうか? 2)自殺の防止や遺族のサポートなどのため、何かなさっていることはありますか? 3)葬儀や法要は普通にやってあげていますか? 又、 4)私の前問「よくも自殺をする勇気があるなと感心しちゃいます!」 http://okwave.jp/qa/q8235185.html のやりとりを読んで、何かコメントがあればご教示ください。

  • キリストの死

    イエス・キリストはどこで死亡したのですか? 復活をした後、彼は何歳まで生きたんですか?

  • ユダヤ教系の一神教特有の楽天主義とは?

    ショウペンハウエル著、斎藤信治訳「自殺について」 その理由というのは、自発的に生命を放棄するなどとは、「すべて甚だ善し」と宜うたあの方に対して余りに失礼な、というようなことではあるまいか。――もしそうとすれば、ここにもまたこれらの宗教の義務づけられた楽天主義が見出されるというわけで、この楽天主義は自殺から告発せられないように先手を打って自殺を告発しているのである。 (1) これは「自殺を犯罪と考えているのは、一神教の即ちユダヤ教系の宗教の信者達だけである」と認識している著者の記述の一節です。どうやら著者には、ユダヤ系の宗教には特有の楽天主義が存在するとの認識があるやに伺えます。今のところ、今日現在の全ての宗教は楽天主義であるとの私見があるので、一神教を単に「楽天主義」と形容した場合は読み流せます。しかし、唐突に「義務づけられた楽天主義」と形容されると素通りできません。 「一神教の義務づけられた楽天主義」とは何を指すか、その道に素養のある方々には心当たりがあるのですか。「一神教の」ではなく、「ユダヤ教の」、「キリスト教の」、「イスラム教の」と限定した「義務づけられた楽天主義」についての解説でも結構です。 (2)世間の通説なり思想界の定説として「今日現在の、全ての宗教は楽天主義である」との捉え方がありますか、ありませんか。通説や定説になっている事柄を自説のように記すのは滑稽なので、お訊きしておきます。 よろしくお願いします。

  • キリスト教での死

    キリスト教は大別してカトリックとプロテスタントがありますが、アングリカンチャーチも含めてこの3つの死と死後についてどのように解釈付けているのか教えてください。もし大差ないのであれば、同じと考えて説明していただいて結構です。それとこのことについて記述してある書籍なども示してくだされば幸いです。