フィクションドラマ:舞台特定あり・なし~どちら派?
あなたはどう思いますか?
以下の【A】と【B】の舞台設定の仕方を比べた場合、
フィクションドラマとして、
あなたはどちらがより好きですか?
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【A】
NHK連続テレビ小説では、
土地名・土地柄は現実のものを取り入れつつ、
番地や学校名は架空のものを使用しています。
たとえば、『瞳』(2008年度前期)では、
東京都中央区の佃・月島界隈が舞台となっており、
実際の住吉神社の例大祭に出演者が参加する形で、
ロケが実在のイベントに乗り込んでいる一方、
ヒロイン瞳が住む月島5丁目は架空の地名であり、
里子達が通う『月島東小学校』『月島南中学校』も、
実在しない学校です。
現実には、月島は4丁目までしかありません。
実際の佃・月島周辺の子供たちが通う公立学校は、
『月島第一小』『月島第二小』『月島第三小』『佃島小』
『佃中』『晴海中』です。
ドラマは虚構でも、佃・月島という街は確かに存在します。
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【B】
他方、全く舞台が特定できないドラマがあります。
たとえば、(外国のものしか挙げられなくて申し訳ないが、)
『素晴らしき日々』(The Wonder Years)などは、
1968~73年頃の米国を回顧・回想する青春ドラマで、
当時の米国の社会情勢を非常に如実に描いています。
ところがこのドラマ、(撮影地の話ではなく、)
舞台が米国のどこなのかサッパリ不明です。
当方は米国出身ではないし、米国には行ったことすらないので、
詳しいことはわからないのですが、ドラマを見た限りでは、
劇中にも舞台を示唆するエピソードは全くありません。
特に訛りや方言もなさそうだし、
気候から場所を判断できそうな材料は全くありません。
(まあ、アラスカやハワイでないことは確かだろうね。w)
NY・タイムズスクエアからの新年カウントダウン中継を
コインランドリーのテレビで見ながら、
主人公が恋人とキスをするシーンがあることから、
舞台はニューヨーク市と時差のない東部であるとも考えられます。
これが唯一、舞台を示唆するシーンだと言えなくもないですが、
作者にそのような意図があったとはとても思えません。
やはり米国のどこにでもあるような
郊外の住宅地、通りなどの街並みを一般化(均質化)して、
舞台を特定できないようにしているように見えます。
http://www.youtube.com/watch?v=oykOSd8ElK8
クサイ芝居ながら最終回の幕締めはとても好きですが、
結局は最後の最後まで、
「どこにでもあるような(ありそうな)街並み」
という描写で締めくくられています。
米国全体の社会背景は現実のものを正確に取り入れつつ、
主人公が活躍する舞台は【完全な架空の郊外住宅地】です。
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ドラマはいずれにしてもフィクションです。
ですが、【A】と【B】では同じフィクションでもかなり違います。
あなたはどちらのタイプのフィクションが好きですか?
お礼
ありがとうございます。これですね。 たいした事でもないのですがこのドラマなんていう名前だったのかなと気になってしまったので。 小学生の頃両親と一緒に見てた物で。