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ブッダは 神ですか

bananasandの回答

回答No.25

>いわば現実に実践をしているわけです。その主体です。そして このとき 意識に対応する意味での記憶という行為能力であるよりは >実践(要するに 生活)の主体としては 意志という能力行為のほうを取り立ててもいいのではないか こう考えました。 >それは したがって 潜在意識の命じるところに 時には 逆らってでも 自己表現をおこなっていく場合がある。 >つまり 意志行為のことですが この意志行為の軌跡として 潜在意識に蓄えた歴史は 時として  >その記憶行為を変革するほどの影響を持ち得るかも知れない。  説明の下手くそさにさじを投げられたこととは思いますが、ここは、まさに私が言いたかったことです。  そしてその結果として、「その主体」が自動化するとか、潜在意識に取り込まれるとかして消失する地点ですね。 >○ 絶対と直面する人は ただちにそのすぐあと あたかも何ものかに弾かれてしまうかのように   その感覚は消し去られてしまうのだけれど その〔感覚の〕一瞬において 悟っている。  この感覚のメルヘンにもかなりそそられますが、やめときます。  それより、「その主体」と〔感覚の〕の主について、くどいようですがダメ押しさせて下さい。  「その主体」は、「その主体」にとっては神から浮遊しているってことですね。  なぜかというと、その主体は、  たとえば「我思うが故に我が存在する」と思考している過程において、  森羅万象の基本要素である変化に起因するところのい・わ・ゆ・る・時間の次元を消費してしまっていて  その結果として得られた「我」は、森羅万象から既に乖離しているということです。言い換えると、この「我」は顕在意識プログラムの産物ということになります。  したがって、「その主体」が悟ることは絶望的です。楽園への帰還は「その主体」の消失ポイントですね。    前に人間と神との境界はないと記載しましたが、森羅万象からの視点で「その主体」の思考過程を含めて  境界がないということで 「その主体」からみて森羅万象から乖離した「その主体」は完全に神から遊離して接点はみあたりません。  あと、メルヘンとして付け加えるとすると、  森羅万象の中に<絶対>は存在しないが、<絶対>の存在なくして森羅万象の起源はない  ということでは  あるのですが、さらに<絶対>を構成する次元の中に人間知性の知覚していない次元が存在するなら  森羅万象へ直接干渉しうる<絶対>の存在を否定できないとは思うんですね。  たとえば、2時間の映画をはじめから時間をかけて見るのではなくて、全てのコマを一気に把握してしまう  ようなさらに上位の視点というか次元というような感じですね。  仮にそうであるなら、「その主体」こそが神に至る道であるという可能性が出てきます。そうであったとしても「その主体」がどうあれ、<記憶行為を変革するほどの影響を持ち得る>意識の創造という方向性には変わりはありまんけどね。

noname#80116
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  その主体は、  たとえば「我思うが故に我が存在する」と思考している過程において、  森羅万象の基本要素である変化に起因するところのい・わ・ゆ・る・時間の次元を消費してしまっていて  その結果として得られた「我」は、森羅万象から既に乖離しているということです。言い換えると、この「我」は顕在意識プログラムの産物ということになります。  したがって、「その主体」が悟ることは絶望的です。楽園への帰還は「その主体」の消失ポイントですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ と言う如く 《経験思考》には限界があり それに頼ることには望みが薄い。ゆえに 《「その主体」の消失ポイント》を捉えて――これが 言うまでもなく ブッディスムでは 《涅槃》のことでしょうが―― 《楽園への帰還》を描きこれを提出しようとされる。  このとき わたしの場合 同じ巡礼の旅路を歩むその過程で いわば後ろ向きに進んでいるという恰好なのだと考えます。  あぁ また書いてしまいました。煩悩多き・心無き bragelone の現状です。(こう言って 消さないところが あるのですね)。

noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。  最初は わかりませんでしたねぇ。ご見解のことですが。そして わたしたちは ここまで来ましたか という感慨がありますね。  ちなみに この質問に対する《役に立った》の票が いやに多いので 初めは 何かのいたづらかと思うほどでしたが また増えています。なかなか ありがたいことですよね。ご回答者のみなさんとともに どうでしょう ここまでたどりついて あとは 念入りに仕上げをおこなうというところでしょうか。  たぶん と言いますか もちろん 探究には終わりがありませんが この主題としては 最後の点検をおこなって ひとまづ 締めるという段取りとしたいと思います。(そう言えば 一たん 締めようかと思っていましたね)。  ★ たとえば、2時間の映画をはじめから時間をかけて見るのではなくて、全てのコマを一気に把握してしまうようなさらに上位の視点というか次元というような感じですね。  ☆ たぶん わたしは 実際にこういう試みはしませんが こういう説明はわかりやすいようですね。続けて  ★  仮にそうであるなら、「その主体」こそが神に至る道であるという可能性が出てきます。そうであったとしても「その主体」がどうあれ、<記憶行為を変革するほどの影響を持ち得る>意識の創造という方向性には変わりはありませんけどね。  ☆ たぶん(この言葉ばかり言っていますが) bananasandさんとわたしとは 同じ像を見ていて ほんの少し 顔を向けている方向がちがっているのかも知れません。むろんいろんな方向を向くわけですが 主として どちらに こだわりがあるか・ないか それによって 表現がちがって来ているようにも感じました。  bananasandさんは いわば神の方に顔を向けて しっかりと見ようとなさっている。わたしは この世へのこだわりを むしろ 捨てずに 逆方向を向いている。  それは 今回 たどり着いたところの  ★ 「その主体」と〔感覚の〕の主について  ☆ の問題です。おそらく 互いに同じ像(もちろん 仮りの像ですが)を見ている。そのとき bananasandさんは  ★ 「その主体」が自動化するとか、潜在意識に取り込まれるとかして消失する地点  ☆ これを捉えておられる。わたしの場合 たとえ《我欲や感情》の《主体》であっても その《わたし》を まだまだ積極的に 推(お)し出そうとするところがあります。釈迦に説法で 恐縮なのですが ちょうどこの質疑応答で 次のような思想を 引用しています。それを参照していただきたいと思います。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   《無住処涅槃 むじゅうしょねはん》:大乗仏教では 《無住処涅槃》ということが言われる。・・・生死の世界にとどまることなく かといって涅槃の世界にも入らない状態 すなわち生死煩悩の迷いの世界にも悟りの世界にもとどまらない涅槃のことをいう。   〔・・・この〕思想の背景には あらゆる人びとを救うためには 自らがさとりの境地に入っていては救うことができない といって煩悩に捉われていても救うことができない 自らはさとりの境地を体験しつつもその世界にととまらず 悩み多い人びとの住む生死界にあって活動することこそ菩薩の行である という大乗仏教思想の展開が見られる。(同上) (No.14補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ きわめて 傲慢な物言いとはなりますが それゆえ 顔を向けているのは この娑婆世界に対してなのです。  むろん bananasandさんは 悟りの境地を 堂々と 表現しようとなさる。これは したがって 趣味の違いであるのかも知れません。どちらも重要であり大切なのではないでしょうか。しかも とは言うものの  ★ そうであったとしても「その主体」がどうあれ、<記憶行為を変革するほどの影響を持ち得る>意識の創造という方向性には変わりはありませんけどね。  ☆ と はっきり 《この世に対して 顔を向ける》そのことつまり《革命》のことをも 主張されているということですがね。(革命とは 突然変異のようなことですが)。つまり これへのこだわりが わたしには 強い。bananasandさんは 《メルヘン》の中に さらっと 触れておられる。そういう違いであるように思います。  くどいように 重ねて触れますと

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     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • 《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するもの は あるか?  2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か らない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カミ という言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としての あり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。  5-1. 山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身である。分身も神ので あると言っても それぞれ《神の依り代》と呼ばれる補助線である。  6. 世界をつくったチカラが別にあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその 中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無 神論である。  8. このような《自然神 / 創造主神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分か らないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによ って(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉 で――けっきょく人間が――引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの神を意識するときにはおのれの内面に おいて この神と(つまりは 神という補助線についての己れの意識と)しばしば向き合 うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動 態としてあり得て―― 信仰とよばれる。  11-1. 信仰は 神を意識している限りで 人間のただの思念である。と同時に そ の神は もともと《非知なるナゾ》であるなら 人間のコギトを超えている。《非思考の庭》 として ひとの自然本性の内にあると想定される。  11-2. ゆえにしばしば人びとは このナゾのことを《霊》とも呼び 《アートマン(霊 我)》や《ブッダター(仏性)》や《アニマ・ムンディ(世界霊魂)》などとして呼びならわして いる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界のあり方を見ればそれはむしろ 神と して立てているナゾの内容とは――人間の持つ《のぞみ》という考え方において――対 立していることが少なくない。よってこの種の神を否定しようとする場合がある。むろん  無神論となる。  12-1. これは・これも 《無い神〔としての非知なるナゾ〕とわれとの関係》を内容と する信仰である。無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》 と証明しなければならない。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ 理由も必然性もどこにもない。非知なのであるから。風車に向かって突撃するようなも のである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・また人びとそれぞれわが心な る《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち 足りている。(と推測される)。  ご教授ください。

  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?