- ベストアンサー
老中は複数人許容される?
noname#83342の回答
将軍に直属し政務を統括した幕府の最高職。宿老・執政・閣老・奉書・連判・加判の列などといい、はじめは年寄・奉行ともいった。老中の設置時期は明確ではないが、1623(元和9)阿部備中守正次が宿労に任ぜられたのが初め。職務は34(寛永11)の規定によると、禁中ならびに公家・門跡・諸大名に関することをはじめ、大目付・町奉行・代官などの役人支配、奉書連判のこと、歳出入、大名請、知行制、寺社異国御用、参勤交代、大奥、金銀改鋳などを取り扱った。老中には、2万5000石以上の譜代大名が任ぜられ、小禄の大名がなくなった場合は加増され城主格となった。役料はなく、定員はほぼ4、5名で、月番と称し毎月1名宛交代し、政務の責任者とした。ほかに将軍の世子付の西丸老中、前将軍付の大御所様付老中があった。なお、老中の先任者を特に加判の列上座・老中首座と呼び、1787(天明7)松平定信が就任後、実力を増した。1866-67(慶応2-慶応3)月番制を廃し、海軍総裁・陸軍総裁・会計総裁・事務総裁・外国事務総裁に分け職務を専任させた。
関連するQ&A
- 本当に御三卿は老中の支配だったのですか?
本当に、御三卿(田安家、一橋家、清水家)は、老中の支配だったのでしょうか? 御三卿の当主は、城中席次も官位も、時の老中より格上です。 本当に御三卿は、当主よりも格下の老中によって支配されていたのでしょうか? 御三卿が、当主よりも格下の老中の支配下にあった?とは、どういう事なのか教えてください。
- ベストアンサー
- 歴史
- 松平定信は何故、いきなり老中首座になれたのか?
松平定信は何故、普通の老中を経る事もなく、最初からいきなり老中首座になれたのでしょうか? 老中になる譜代大名は通常、大坂城代や若年寄や京都所司代を経てから普通の老中になります。 そして、老中を何年間か続けた人達の間から家柄や能力を基に、老中首座が選ばれます。 天保の改革を行った水野忠那もそのようにして普通の老中になった後、何年間もしてから老中首座に選ばれています。 しかし、松平定信は最初からいきなり老中首座になっています。 松平定信が最初から老中首座になれた理由は何なのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 何故、松平定信は最初から老中首座になれたのか?
何故、松平定信は最初からいきなり老中首座になれたのでしょうか? 普通、老中首座になる人は、初めは奏者番や寺社奉行になって、その後、大阪城代や西の丸老中を経て老中になり、その後にやっと老中首座になれるものです。 しかし、松平定信は最初からいきなり老中首座になったみたいです。 最初からいきなり老中首座になった人は松平定信以外にいるでしょうか? 他に聞いた事がありません。 何故、松平定信は最初からいきなり老中首座になれたのでしょうか? 8代将軍の孫である事が関係しているのでしょうか?
- 締切済み
- 歴史
- 兼山秘策では御用取次の勢いが老中を上回る様子は何と
(⇩)下記の URL の『八代将軍・徳川吉宗 「御用取次」の権勢』という題のブログには、 https://bochan.exblog.jp/3505334/ https://bochan.exblog.jp/3505334/ 「御用取次」には享保元年(1716)5月、紀州藩出身の有馬氏倫・加納久通・小笠原胤次の3名が任命される。 そのうち有馬・加納の両名は、将軍吉宗の側近として多大の権勢をふるった。 儒学者・室鳩巣(むろきゅうそう)は1719年正月4日付けの書簡「兼山秘策」で、彼ら「御用取次」の勢いが老中を上回る様子を記している。 幕府の正史である「徳川実紀」も彼らの権勢が老中や若年寄を上回っており、政策決定に際して、幕府の役人たちがまず彼ら「御用取次」に相談した事を記している。 と書かれています。 質問があります。 儒学者・室鳩巣(むろきゅうそう)は1719年正月4日付けの書簡「兼山秘策」で、彼ら「御用取次」の勢いが老中を上回る様子を記している。 と書かれていますが、 “儒学者・室鳩巣(むろきゅうそう)は1719年正月4日付けの書簡「兼山秘策」” には、彼ら「御用取次」の勢いが老中を上回る様子は、どの様に記されているのでしょうか? “儒学者・室鳩巣(むろきゅうそう)は1719年正月4日付けの書簡「兼山秘策」” では、彼ら「御用取次」の勢いが老中を上回る様子は、どの様に記されているのでしょうか? https://bochan.exblog.jp/3505334/
- ベストアンサー
- 歴史
- 水野忠邦が老中首座に就いたのは、いつですか。
水野忠邦が老中首座に就いたのは、いつですか。 -------------------------- 水野忠邦 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E9%82%A6 天保10年(1839年)12月2日 - 老中首座 ----------------------------- ------------------------- 12月6日 (旧暦) http://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%886%E6%97%A5_(%E6%97%A7%E6%9A%A6) 天保10年(グレゴリオ暦1840年1月10日) - 水野忠邦が主席老中に就任 ------------------------- ■ 上記のように、ウィキペディアでは、二つの異なる日付が出ています。 どちらが、正しいでしょうか。 (12月2日、あるいは12月6日) (ネット上では、ウィキペディアを情報源とするものが多く、判定がうまくできません。) よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
- 長崎奉行を任命する上司は?
江戸幕府の職制のなかで、「長崎奉行」を任命する際は若年寄から本人に伝えられるのでしょうか。または遠国奉行は老中支配なので老中から本人に伝えられると考えていいのでしょうか。どなたか教えて下さいませんか。
- ベストアンサー
- 歴史