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どうして一方的なんでしょう?

ご覧頂いて有難うございます。 私は、哲学については浅い知識しかありません。 失礼でしたら、すみません。 先日、ヒルティの幸福論を読んでいました。 その時ふと思いました。 『なんでこういった本は、「幸福とは、~である。」という風に、きめてかかっているのだろう』と。フランクルの時もそう思いました。 以前何かの本に、「物事を一方的に決めるのは、その人にその物事を理解するだけの能力がないからだ」と書いてあり、私の少ない経験上ですが、私もそう思いました。 著者の経歴や、文体からはとても「分別がない」ようにはとても思えません。どうしてこういう書き方なのでしょうか? 私だったら「~だと思う。」調に書くのにな~と思っています。 程度の低い質問ですが、宜しくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.6

説として述べているからじゃないでしょうか。 説を述べる場合、「私はこう思う」と書かないと思うんですね。 「○○はAである。」の後に、どうしてそうなるのかを説明していますよね。 その人の説がどうしてそうなるのかを説明していて、その説明のおかしな理論があれば、その説は重要視されない。 もしくはその説の間違いを指摘される。 で、説は真理 絶対じゃないですが、じゃあ 「かもね」つくしの文書を読みたいか? 「かもね」とは10%くらいの真実と思えるものがあるから「かもね」なのか? それだけ説に自信がないので「かもね」なのか。 そんなに自信が無いのなら、発表しなきゃいいのに・・・ですよね? ある程度 これだと力説できるものを発表しないと、認められないじゃないですか。 だから「私はこう思う」は省いて、自説を公開するんじゃないかと。 ある人が「you know」を乱発する人は自分の発言に自信が無い人 と言っていた。 ウインブルドンで優勝した選手が、インタビューでなんと「you know」を乱発していた。 試合はつかみかからんばかりの勢いで、ポイントを取ると、腰を鎮めて股を開いて天突き運動をして、「うっしゃー やりー みたか この野郎」と言わんばかりに、試合相手を睨みつけていたのに、インタビューとなると、内股で「あの その えっと だって私が勝った理由は○○なのよ そう思うでしょ ねえ 同意して ねえ」という言い方。 試合中は肉食獣になり、試合が終わると草食動物になる種類なのでしょうか? 「だよね」という日本語もそう。 だよね は相手に同意を求めているので、自分の意見に自信が無い人が、自分の意見の正当性を相手に求め同意を得たくて「だよね」と使うと思えるんですね。 歌手の人で売れている人の中にも「だよね」を使っている。 売れていて自信満々でいいはずなのに、売り込みで売れているだけで、歌がいいからヒットしているわけじゃない と本人は思っており、自信ありそうで、実は深層心理の自信の無さが、発言をするとき、出てきてしまうのではないか と思えます。 で、説を唱えるとき「だよね」じゃ 弱いですよね。 「こうです」と強気で責めないと、誰も耳を傾けてくれない。 だよね と及び腰の説を誰が会議で聞くか? そんな及び腰の発言を危機に、誰が海外まで高い金払って聞きにいくか? 説の本を買うか? というわけで、自分の説に自信があったら「だよね」「そうでしょう?」「同意して」という意味合いの言葉を使わない方がいいと思うんですね。 言い切ってかまわないわけです。 言い切ろうと、かもしれない、と言おうと、反論されるときは反論されるし、覆される時は、発言内容の自信の程度に関わらず、くつがえされる。 大学生なら論文を書いてみてください。 「かもしれない」という言葉のみを使って、レポートを提出してみてください。 同じ文章であっても、言い切りの場合と「かもしれない」とした場合と、評価が違うと思います。 第一「自信が無いのなら、自信を持てる思考をした後、レポートを提出しろ 怠けるな 片手間にやるな 中途半端すぎる。」と書かれて返却されてしまうかも。 講師を唸らせる内容にしたければ、「私はこう思う」という表現は避けたほうが懸命かも。 ヒトラーが何故あれだけ人々の心をとりこにしたのか? 人種差別など、ものすごい自説を出したのに、ドイツ国民に支持された人ですよね。 演説の仕方がうまかったらしいです。 力強い発言内容だったので、人々はグイグイ彼の演説に引き込まれ、精神障害者や知的障害者、ユダヤ人は殺すべきだ ということに賛同したらしいです。 今でも、悪徳商法などで疲れれている手法だと思います。 テレビショッピングでも、言い切りでガンガン責め 今電話しないともう二度と手に入らないかのような勢いで自信ありげに紹介しますよね。 そのショーをやる前に綿密な計画を練るらしいです。 型落ちで最新機能はついていないその商品を大量に仕入れ、100個売れば、とんとん。  それ以上売れれば黒字になる。 この型落ちの古い機種をどうやって消費者に買わせるか? 「かもね」じゃ駄目ですよね。誰も買ってくれない。 言い切るんです。「今電話しないと もう在庫わずか! こんなお値打ちな商品はもう二度と出ません! ラストチャンス!」 在庫が余ったら、ほとぼりが冷めた頃、他のものと抱き合わせて、再度「今回限り! 二度と!」ってやればいいんです。 「何度目の今回限りでしょうか~」 とつっこむ視聴者はいない。 要するに説も売り込みが大事ってことですね。

2929popo
質問者

お礼

うわ~、凄い!! こんなに長く書いてくださったんですね。 ほんとに感謝、感謝です!! 大学生なら論文を書いてみてください。 「かもしれない」という言葉のみを使って、レポートを提出してみてください。 同じ文章であっても、言い切りの場合と「かもしれない」とした場合と、評価が違うと思います。 ↑ 知り合いの大学の方に聞いてみます。 そういえば、うちの死んだじぃ様が 論文にブツブツ文句言っていたのを思いだします。 そのブツブツにこういう事がありました。 「ブツブツ・・・こ、、、っこの人な、、、名前がおっ『鬼殺熊五郎』!?」名前は偽名です。ただ、このくらいインパクトがありました。 要するに説も売り込みが大事ってことですね。 ↑ そうですね。分かりました。

2929popo
質問者

補足

うちの死んだじぃ様はいちよ大学で先生やってました。

その他の回答 (6)

  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.7

うーん。そもそも本というのは一方的なもんです。 というより、文章というのは書き手が読み手に対して一方的に書き送るものではないでしょうか。 相手の反応を待ちながら文章を書くようなことはそうそうありません。 (相手の返答まで先読みしてフローチャートにするという手はある) だから、「~である」と書こうが「~だと思う」と書こうが、それは一方的です。 ショーペンハウアーの受け売りになってしまいますが、「読書とは他人の頭で考えることである」なのです。 そこで読み手が無批判に読んでしまうのはやはり危険。 賢い読者というのは、ある程度距離をおいて批判的に見た方がよいようです。 しかし「AはBである」という文章を見たら、頭の中で「AはBである」とまず最初に反復し、それから「AはBだろうか?」と疑ってみて、その後「やはりAはBである」「いや、AはBではない」と判断するわけですから、どうしても先入観の「AはBである」という言葉の方が強く頭に入ってしまいます。 どんな文章でも、鵜呑みにさせてしまいやすい性質があるようです。 ですから、この手の幸福論などの本は、逆に読者が批判的であることを想定して書いている、という風に思ってもいいかもしれません。それを承知で「幸福とは~である」と言っているんだと思います。 別の読み方をすれば、「筆者はこうこうこういうことを幸福と呼ぶ」という定義づけをして、論説の足場を作ろうとしているのかもしれません。 なにせ幸福というものについては過去にいろいろな人がいろいろなことを言っていて、価値観がバラバラなのですから。 だから最初に筆者と読者の共通認識を築こうとするのは不思議ではないと思います。

2929popo
質問者

お礼

あ~なるほど。 お返事有難う御座いました。

noname#96295
noname#96295
回答No.5

ははは。。。ほんとですねえ。 そのせいか、哲学書、思想書は原語で読んだって鼻につくものが多くて。 でも日本語に訳したときに、文の匂いや風情というのはかわってしまいますから、 よけい断言調にならざるをえないですね。 英語のbe動詞にあたる各国語が、日本だと、だ、である、になることが多いでしょう。 be動詞自体は、けっして現実や真理を背負っている言葉ではないですよ。 発言する心の在りかと平らに続いた場所にかぎられて、何かの状態や存続しているものごとや出来事を示すんです。 示す、ということは、隠すの反対です。これは言語の発達にとって大事なことでした。 be動詞は、示すか、隠すか、しかない単純な言霊のような、古い言葉の子孫です。 しかも、つねに発話者の中に根っこを持っているのです。 印欧語で、自分の意志を強く示して断言するためには、それこそ、 助動詞を用いたり、私は~と断言する、と付けたりします。 日本語への翻訳というのは、デリケートな部分をたくさんスッ飛ばして成り立つものなんですよ。

2929popo
質問者

お礼

お返事有難うございます。 ははは。。。ほんとですねえ。 ↑ 専門家の方に共感して頂くと、なんか嬉しいです。。。 そのせいか、哲学書、思想書は原語で読んだって鼻につくものが多くて。 ↑ やっぱりそうなんですね~(^-^) 日本語への翻訳というのは、デリケートな部分をたくさんスッ飛ばして成り立つものなんですよ。 ↑ 私は外国語にも興味があります。 それでこういった事書いて頂けると凄く楽しくなります!!

  • ruehas
  • ベストアンサー率68% (816/1194)
回答No.4

こんにちは。 この場合は「~である」でなければ辻褄が合わないと思います。 これは一方的な主観によって物事を観察したのではなく、様々な方向から分析した結果でなければなりません。 これに対しまして「~だと思う」は主観であり、この時点でそれは様々な分析を行なった「客観的な結果ではない」ということになってしまいます。従いまして、この場合はどうしても「~である」でなければならず、別に「謙虚さ」や「分別」の問題ではないです。 質問者さんは「幸福」などといった問題に客観的な結論はないと考えておられるようですが、そんなことは決してありません。 如何なる問題であろうともその「要因、構造、結果」といったものを冷静に分析してゆけばその「本質」を明らかにすることができます。これが即ち「哲学の手法」です。「物事を一方的に判断してはならない」というのはこういうことであり、それは別に断定をしてはいけないと言っているわけではないです。 では、その本に述べられていた結論が正しいかどうかというのは、それに用いられた論説や他の知見などといった様々な観点からまた客観的に評価されれば良いわけです。ですから、これを単純に「主観」や「言い回し」などから判断をしてしまうのであるならば、それがそもそも「一方的な決め付け」ということになります。

2929popo
質問者

お礼

ですから、これを単純に「主観」や「言い回し」などから判断をしてしまうのであるならば、それがそもそも「一方的な決め付け」ということになります。 ↑ そうですよね。 私もそう思います。ただ、そのことについても書くと、凄く文が長くなると思いやめたんです。話が広がりすぎるからですね・・ 御返事有難うございました。

  • notebleu
  • ベストアンサー率45% (34/74)
回答No.3

断言した方が説得力があるからです。 もともと哲学が必ず前提を必要とし、更に正解を完璧に証明出来ない事も理由の一つでしょう。 また、幸福という存在は多面性を持っているため、ある意味正解も複数あるのです。 まぁ、「結論が真」と「論理が正しい」は別のものなので、どちらかが正しければ断言してよいということです。 例えば、 『幸福は人間の生活目標である』 『環境破壊は幸福ではない』 『ゆえに、環境破壊は人間の生活目標ではない』 これは論理的には間違っています。しかし結論は真なので断言しても嘘にはならないのです。

2929popo
質問者

お礼

お返事有難う御座いました。

回答No.2

こんばんは テーゼ(命題)のない論文ないし論考を読みたいと思う人がどれほどいるのでしょうかね。 雑談でしたら、別に意見や主張がなくても構わないかもしれませんが、少なくとも「~論」のような論考において、「~である」と言えるようなテーゼがないと困るのではないでしょうか。説明や証明すべきテーゼがないと、論の意味がありませんよね。 そもそも、テーゼというのは「~である」で表されるものです。たとえば、「三角形の内角の和は180度である」というテーゼがありますが、これも「一方的」ないし「決め付け」と言うようなものとお考えになりますか? >以前何かの本に、「物事を一方的に決めるのは、その人にその物事を理解するだけの能力がないからだ」と書いてあり、私の少ない経験上ですが、私もそう思いました。 これはまったく違う文脈で語られたものではないですか? たとえば、上司が部下の置かれた状況を斟酌することなしに頭ごなしに叱り付ける、などといった状況です。 その意味では、引用された文章もある一定の真理を含んでいるように思われます。自分が知っている知識だけで物事の良し悪し等を判断するのはとても危険なことです。 しかし、考えてみれば、引用の言葉こそが「決め付け」ですよね。なぜ、「能力がない」と言い切れるのか、ぜひ説得力のある説明をしてもらいたいものです。そしてこの言葉を思想の領域に応用できるのかが、一番の問題ですね。 なお、「程度の低い質問ですが」と断っていらっしゃいますが、もう少し広い視野で物事をみる勉強をした方がいいのではないでしょうか。しかし、哲学のカテゴリーに質問をなさったということは、何かしら思うところがあったのでしょうか。これは「推測」です(笑) ということで、ここは哲学のカテゴリーですから、まずデカルトの『方法序説』を読まれることをお勧めします。

2929popo
質問者

お礼

しかし、考えてみれば、引用の言葉こそが「決め付け」ですよね。なぜ、「能力がない」と言い切れるのか、ぜひ説得力のある説明をしてもらいたいものです。そしてこの言葉を思想の領域に応用できるのかが、一番の問題ですね。 ↑ そうですね。ただ、今回はこのことについて省かせて下さい。 長くなります。。。 もう少し広い視野で物事をみる勉強をした方がいいのではないでしょうか。 ↑ 私自身、非常には視野が狭いと思っています。 それで色々な本を読んでいる最中にこういう事を思いました。 しかし、哲学のカテゴリーに質問をなさったということは、何かしら思うところがあったのでしょうか。これは「推測」です(笑) ↑ そうですね(^v^) まずデカルトの『方法序説』を読まれることをお勧めします。 ↑ お勧め、ありがとうございます。 私は色々と本を読んでいて、その著者が「何々は、こう言っていた」と いう類のものを時々見ます。それでそれに心惹かれるものがあったときその本を買っています。『方法序説』は有名なのでジュンク堂で立ち読みしたことがあります。ただ、買ってもその時点で興味が湧かなかったので買いませんでした。ただ、konstellationさんに興味を湧かせて頂いたので読んでみますね!(*^。^*)

2929popo
質問者

補足

お返事有難う御座いました。

noname#65902
noname#65902
回答No.1

その本に書かれた文章の全てに 「...と私(筆者)は思う。」と書くところを省略されたもの と思えば何も問題ありません。 いちいち「...と私は思う」と正確に言わない人も少なくないですから。

2929popo
質問者

お礼

御返事有難うございました。

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