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ルソーの社会契約論
ルソーの社会契約論の中で道徳的自由という言葉が出てきますが、「一般意思に従うことによって道徳的自由を得ることが出来る」というのはどういうことなんでしょう?
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>For to be driven by appetite alone is slavery, and obedience to the law one has prescribed for oneself is liberty. ここでは「本能にのみつき動かされる状態は奴隷に等しく、法に従うことは人はみずからを自由にする」って言ってますよね。ここでの法というのはmoralとほぼ同義と理解していい(結構あらっぽく説明していますので、理解の道筋ぐらいに受け取ってくださいね)。 > 道徳的自由とは、つまり共同体が持つ自由、例えば自然状態には存在しなかった「正義、理性、道徳、所有」などによって生じる利点、例えば法律によって他人に自分の権利を侵害させないことなど、と考えていいのでしょうか? これはちょっとちがう。これはどっちかっていうと、ロックの考えた社会契約に近いです。 ルソーの場合は共同体に対して個人の自由を全面的に譲渡するのです。共同体に属する人々が一人残らず自分の身体と自分の権利を譲渡する。そうすることによって、人は平等になり、団結するようになる。さらに、全員が譲渡することによって、譲渡していないのと実質的には同じことになる(これ、ちょっとわかりにくいかもしれないけど、囚人のジレンマって知ってる?あれを思い浮かべてみてください)。 ここにおいて、共同体=個人となっていく。このように、個人の利益や権利や喜びを全面的に譲渡した結果、共同体の利益が自らの利益、共同体の権利が自らの権利、共同体の喜びが自らの喜びとなる。 > 「自分の欲求のみに従うことは奴隷状態」(自然状態)となっていますが、自らの欲求に縛られている限り自由ではありえない、ということなんでしょうか? そういうことです。この考え方っていうのは、いまのわたしたちにはちょっとわかりにくいんだけど、ヨーロッパでは伝統的な考え方です。 つまりね、すごく単純化して言うと、動物と人間はどうちがうか。 動物は本能に縛られている(自由がない)。人間は理性によって本能を抑えることができる(自由がある)っていう考え方なわけ。 自由っていうのは、いまのわたしたちだと、たとえば規則からの自由とか、抑圧からの自由とかみたいに考えるでしょ、だけどそうじゃなくて、何よりも、「本能からの自由」っていうことだった。だから、「規則に従って理性的に生きることが自由」という発想が生まれてくるわけ。これは結構押さえておかなきゃならないところです。 > ルソーは「一般意思はこれだ」という正しい答えは一つだけ、のようなことを言っているようなんですが、その一般意思の真偽性は、人数が多いほど、個人が考える「一般意思はこれだ」という全会一致はありえませんよね? そうですね。 まず、個々人の意志の単なる寄せ集めと一般意志をルソーは分けて考えてるのはいいですね。 一般意志っていうのは、個人が個人として考えているのでは、決して生み出すことができない。そこで、共同体の一員は、誤りのないような一般意志が生み出せるような市民となっていくことが求められるんです。 そこからルソーは教育の必要性ということを考えていきます。 なんかここらへん、おお、啓蒙思想っていう感じですが。 なんとなく話が見えてきました?
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- ghostbuster
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ごめんなさい、遅くなりました。 > 自分の自由を全体に譲渡しても、全員がそれぞれの自由を譲渡すればみな平等なので、自分の自由は損なわれない、ということですか? んーと、最後の文章は「自分の自由は損なわれないことと同じ」としたほうがいいかも。「と同じ」とつけるだけで、ぐっといかがわしさが増すような気がしますが(笑)。 ここではもう少し原文に即して見てみましょう。『社会契約論』の第六章「社会契約について」の項目です。引用はルソー選集7『社会契約論・政治経済論』(作田啓一・阪上孝訳 白水社)から。 ---(p.19)--- 要するに、各人はすべての人に自分を与えるから、だれにも自分を与えないことになる。そして、各構成員は自分に対する権利を他人に譲り渡すが、それと同じ権利を他人から受け取らないような構成員はだれもいないのだから、人は失うすべてのものと等価のものを手に入れ、また、持っているものを保存するための力を〔結社によって〕より多く手に入れるのである。 ----- ここでは「等価」というところに注目してください。 つづく八章では、この「等価」の中身がさらに具体的に述べられます。 ---(p.23-24)--- 人間が社会契約によって失うもの、それは彼の自然的自由と、彼の欲望を誘い、しかも彼が手に入れることのできるすべてのものに対する無制限の自由とである。これに対して彼がかち得るもの、それは社会的自由と、彼が持っているすべてのものに関する所有建都である。この埋め合わせについて思い違いをしないためには、もっぱら個人の力だけが限度を左右する自然的自由と、一般意志によって制限されている社会的自由との違いを、はっきり見分けることが必要だ。また、暴力の結果か先占有権にすぎない占有と、法律上の権原にもとづいてはじめて成り立ちうる所有権との違いを、はっきり見分けることが必要だ。 上に述べたところにもとづき、人間を真にみずからの主人たらしめる唯一のもの、すなわち道徳的自由を、社会状態において獲得するもののなかにつけ加えることができよう。なぜなら、欲望だけにかりたてられるのは奴隷状態であり、みずから課した方に従うことが自由だからである。 ----- 差し出すものと、受け取るものはちがうんです。 だけど、受け取るものの方がいいものだから、従え、と。差し出せ、と。 こう言っている。 え、ちょっと待てよ、なんだかうさんくさいぞ、と思ったあなたのために、つぎは「強制」が待ってます(笑)。 > 「自由の強制」 これは七章のところね。 ---(p.22-23)--- じっさい、人間としての各個人は、市民としての彼の持っている一般意志に反したり、あるいはそれと異なる特殊意志を持つことがある。彼の特殊意志は、共同の利益とはまったく違ったふうに彼に話しかけることがある。人間はだれでも絶対的な存在であり、本来は独立した存在であり、本来は独立した存在であるから、共同の利益のために課せられている義務の遂行を無償の寄付であるとみなし、自分にとって高くつく支払いにくらべれば、〔寄付をしないことで〕他人の受ける損失のほうが少ないと考えることもありうる。そして、彼は…臣民の義務を果たそうともしないで、市民の権利を享受するかもしれない。このような不正が進めば、政治体の破滅を招くだろう。 したがって、社会契約を空虚な公式としないために、一般意志への服従を拒む者はだれでも、団体全体によって服従を強制される、という約束を暗黙のうちに含んでいるのであり、そしてこの約束だけが、他の約束に効力を与えうるのである。このことはただ、彼が自由であるよう強制される、ということを意味しているにすぎない。なぜなら、このようなことこそ、各市民を祖国にゆだねることによって彼をすべての個人的依存から守護する手段であり、政治機構の装置と運動を生みだす条件であり、市民のあいだのさまざまな約束を合法的なものとする唯一の条件であるからだ。 ----- ここのポイントは「自由であるよう強制される」という部分です。 > 強制されるということは選択できないので「自由」ではない、と考えるんでしょうか? 果たしてこんなふうに強制されたものが「自由」と呼べるのか、ということですね? だから、これは上で見たように、差し出す「自由」と受け取る「自由」はちがうのだ、ということが、まず一点。 もうひとつは、「囚人のジレンマ」ゲームという観点から見ることができる。 このゲームは全員参加が成立の用件です。 ところが強制の存在しないところでは、各個人は非協力を選択する方が個人の利益になる。 こうなるとゲームの結果は相互裏切りとなる。 そうならないためにはどうしたらいいか。 強制する? だとすると、もはやゲームではなくなってしまう。 そうではなく、参加者が相互協力の方を選好(preferenceの訳語です。訳さない方がわかりやすいかも)するようにするためにはどうすればよいか。 それは政府を設立して、相互協力を選択することがすべての人の利益になることを保証することである。 確実に受け取る「自由」があるから、自分の「自由」をそっくり差し出す。 これは行為主体の観点から見るならば、みずからの選択(選好)です。 けれど、ゲームに参加する人が全員従わなくてはならない、という意味では「強制」ということになる。 たとえばサッカーをやってる人は、自分の自由にプレイしていると思ってますよね。パスを出すか、自分で持っていくか、あるいは後ろへ戻すか、その選択はその選手にゆだねられている。一方で、その選手はおびただしい約束事に拘束されてもいるのです。けれどもその約束事は、彼にとっては強制とは感じられない。約束事に従うことで、より大きな喜びを得られると思っているから。 そんな感じなんですが。「強制」と「自由」、感じがつかめてきたかな。
お礼
とても分かりやすい回答、重ねてありがとうございます。 英訳版の抜粋(解説とともに)しか読んでないので、日本語の文章で見ると考えやすくなりました。 英語版しか手に入らないんですが、それでもしっかり読んでみます。 とにかく「自由」よいう考えが、普段わたしたち(日本人)の考える自由とは違うということ、ここをしっかり押さえておきたいと思います。 一般意思に関しても、根本的に間違っていたということが分かって、とてもすっきりしました。 「囚人のジレンマ」というものも心に留めて、まずは全文読破から頑張ってみようと思います。 本当にありがとうございました!
- ghostbuster
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まず、一般意志について誤解があります。 一般意志についてはここで回答していますからこの回答#1を参照してください。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3166441.html > =一般意思は自分の意思 > =一般意思に従うことは、つまり自分自身の意思に従うこと このふたつがペケなのはいいですね? その上で「自由」についてもう少し説明します。 まずルソーのいう「自然状態」は大丈夫? ひとりひとりが孤立して住んでいる。 やがて助け合うことを覚える。そこから原始共同体が生まれる。ここで言語も生まれる。 そこからそこにある土地を囲って「ここはおれのものだ」と宣言する人が現れる。おお、そうか、と納得する人(ルソーは「おめでたい人」なんて言ってますが)がでてき、その人もそれならおれも、と土地を囲い始め、やがて土地を巡る争いから闘いが始まっていく。 こういう状態で、はたして個人は自由といえるのか。みんなが自由でいられるような社会を作らなければならない。 そこで出てくるのが「社会契約」です。 諸個人は自分の意志を打ち消し、一般意志を受け入れる。そのかわりに、共同体の一員となるのです。 これを自由の観点から見ると、「個人の自由」を手放し、共同体の一員としての自由を手に入れる。この共同体の一員としての自由が、「道徳的自由」ということです。 > moral liberty, which alone makes man truly the master of himself っていうのは moral liberty をいったい何と対置させているのか、押さえておかなくちゃなりません。 根本的に、西洋ではギリシャ時代から、人間は普遍的な理性(万人に共通する理性)を持っている、という考え方があるんです。個人は欲望によってその理性がくもらされている。その欲望を払い、普遍的な理性を自覚することによって、人間は真に自由になれる。 こういう思想は形を換えながらさまざまな人によって受け継がれていく。ルソーの言う「自由」もその系譜にあります。だからそこを、わたしたちが日常的に使っている「自由」という語とごっちゃにしないように。
お礼
回答ありがとうございます。 一般意思というものを理解してなかったと分かりました。 特殊意思を棄てて一般意思を採択することで、一般意思が自分の意思になるということではないんですね。 自由という概念についても、しっかり考えてみようと思います。 ところで、上の文に続く文は、 「For to be driven by appetite alone is slavery, and obedience to the law one has prescribed for oneself is liberty.」 道徳的自由とは、つまり共同体が持つ自由、例えば自然状態には存在しなかった「正義、理性、道徳、所有」などによって生じる利点、例えば法律によって他人に自分の権利を侵害させないことなど、と考えていいのでしょうか? 「自分の欲求のみに従うことは奴隷状態」(自然状態)となっていますが、自らの欲求に縛られている限り自由ではありえない、ということなんでしょうか? ルソーは「一般意思はこれだ」という正しい答えは一つだけ、のようなことを言っているようなんですが、その一般意思の真偽性は、人数が多いほど、個人が考える「一般意思はこれだ」という全会一致はありえませんよね? つまり、自分が一般意思だと思うものが集団の中で採択されなければ、その採択されなかった「意思」は特殊意思ということになるんでしょうか? 質問が多くなってしまいましたが、答えていただけたらと思います。 回答、ありがとうございました。
- ANASTASIAK
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意思によってのみ道徳が解放される、ということです。
お礼
回答ありがとうございます。 社会契約論の中にこんな文が出てきます。 「To the preceding aquisitions could be added the acquisition in the civil state of moral liberty, which alone makes man truly the master of himself」 これは「自然状態から文明に移行することで、道徳的自由を得ることができる =文明に生きるということは一般意思に従って生きる =一般意思は自分の意思 =一般意思に従うことは、つまり自分自身の意思に従うこと =自分の意思に従うことによって道徳的自由が得られる =自分の意思によってのみ、自由になる」 ということなんでしょうか?
補足
分かり易い回答、ありがとうございます。 囚人のジレンマも調べてみました。 この囚人のジレンマ=それぞれが特殊意思に従って行動することによって、それぞれの利益を損ねてしまう。 >全員が譲渡することによって、譲渡していないのと実質的には同じこと ここで共同体=個人となるんですね。 自分の自由を全体に譲渡しても、全員がそれぞれの自由を譲渡すればみな平等なので、自分の自由は損なわれない、ということですか? 「(自然状態から文明に移行することで)transformed him (a man) from a stupid, limited animal into an intelligent being and a man」となっていますが、これがまさに「本能に従って生きる(自由ではない)動物と、理性と規則に従って生きる(自由がある)人間」となるのですね。 しつこく質問して申し訳ないのですが・・・ルソーは「自由の強制」についても触れていますよね。 その考え方は、自然状態ではなく社会に生きることで「規則に従って理性的に生きることができる自由」を楽しむことが出来る。 一般意思によって成り立つ社会の恩恵を受けながらも、社会契約(=一般意思)に従わない者がいる。 なので、この社会の一般意思に従わない者は、社会によってその自由を強制される。 しかし、強制されるということは選択できないので「自由」ではない、と考えるんでしょうか? よろしくお願いします。