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乾かせない水

ヨハネ4:13-14 イエス・キリストがスカルという村の井戸に水をくみに来たマリヤという女に語った言葉で 「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 肉体的にも精神的にも潤って乾かない水というのがあるのでしょうか? 紀元前の当時でも「水」は天からの恩恵で貴重で命の根源のように崇められてはいたと思いますが、永遠に人の内で湧く水とは何を示しているのでしょうか?

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noname#50219
noname#50219
回答No.5

真実に何かを言ったり、行為したなら、人はたった一瞬、それが香ることで、全ての苦しみから解脱します。 真実の言葉や行為には、一滴で、全ての苦を終滅に導く作用があります。

noname#91067
質問者

お礼

BABAaさんありがとうございます。お礼が遅れお詫びします。 >一滴で、全ての苦を終滅に導く作用があります。 イエスも処刑を受けた時、痛い、苦しいとは決して言わなかったのに「私は乾く」といって水を欲してましたね。 「死に水」は現実、真理を欲してのことなのか…と訳の解らない発想を持ちました。 「裸足のゲン」をテレビで見たとき、被爆した人が「み・水、水~」と命からがらで喘ぎ、「水を飲むと安心して死んでしまうから水をあげちゃだめだ」という場面は切なかったです。 それほど多くは要らない。ほんの少しでいい。香るだけでいいかもしれない。物質が沢山ある世界とイメージが香るだけの世界。 優劣があるというのか?幸せに。 少し現実逃避で実は夢ばかり見てました。目をつぶれば口を閉じれば幸せです。 順不同でも自己満足という不純な目的にもなりますが、返信は必ずしますので;

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

[永遠に人の内で湧く水とは何を示しているのでしょうか?] 生命(いのち)のもと、生命(いのち)の泉のことですね。いのちを心あるいは魂と置き換えればいいんですね。肉体とそれに宿るいのち(魂)が人間の真実である。水を飲んでも魂の飢えを乾かすことはできない、わが教えはあなたの魂に潤いを与えるといってるのですね。その潤いがあなたの永遠の命の泉への誘い水になるということですね。仏教的にいえば水は悟りへのきっかけという意味ですね。  いや、飽食の時代に多くの人達が自殺をする現状をみれば、水は生きる希望と考えてもいいですね。そのほうがわかり安いかもしれません。 参考に

noname#91067
質問者

お礼

mmkyさん、ありがとうございます。 私はつい最近まで魂(たましい)と塊(かたまり)は同じ字だと思っていましたが(冷笑)字の形容は似てても内容は違って、魂(たましい)=生きて宿る心と生きていたものの心も合わせて解釈して問題ないなら、精神世界に孤立するような塊(かたまり)の有限はないものなのかな。魂(たましい)に個々の境界や分断させてる異質なものがないのかどうかは詳しくないです。現実に似て人間らしく差異を指摘し合ってたり妥協があってもなかなか新鮮味があって良い感じかとも思う。 生きる希望を与えるというのは溢れるほどに与え続けるのでなく、「誘い水」というきっかけだけで、自分の中から、どこからか解らずとも出せてしまうようになるのだとしたら偉いのは自分でしょうか?きっかけを与えた人でしょうか? きっと潤ったら意地や虚勢を張ったりに翻弄されなくて、というかする必要もなくなって楽になれそう。 ここのマリアは若い女性でしょうね。未だ社会が歪んでいるのか、私も歪んで鈍感だったけど若かりし頃は希望を自力で出してギリギリ絶えて、「水を下さい」って言わ(え)なかったんです。今ではあの頃より随分乾きに絶えられないような変貌ぶりで神経質になってる。いかん、いかん、しかし潤うことなくそのまま衰えゆく可能性が高い(苦笑)。立派でもない情けないものでありながら「老い」も私の味方をして悟りへの道になると(謎)。

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  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.1

ご存知かもしれませんが、イエスという人は比喩を多用する人です。 なので、「この水」は井戸水でそのままですが、「わたしが与える水」は物質としての水というより精神的な意味での水ととらえるのが定石だと思います。 したがって、「わたしが与える水」をもらったとしても、物質的には渇きを覚えることになるでしょうが、精神的には満たされているということになります。 「肉体的にも精神的にも潤って乾かない」という意味ではないと思います。 貧しいけれど幸せな人もいれば金持ちだけれどもちっとも幸せでない人もいる。 精神が満たされていることは物質など関係ないのだ、というところでしょうね。

noname#91067
質問者

お礼

nabayoshさん、ありがとうございます。 やはり精神的に満たす=幸せ。ということの例えで、人は一人で生きていけないものだから勿論誰か、そしてみんなと共有しうる水のことなのかとも思います。「信仰が永遠に自給自足できる水」ということかな。 「水の不思議」でネットサーフィンしてて、水は身近な存在なのに今だ謎が多いので驚きました。 奇跡的に地球は水を保持できる条件があって生物が生まれたことや、タレスが「水は万物の根源」として、後に元素ではなく水素と酸素の化合物(H2O)と知られても、現代科学でも理論に合わないらしく謎だらけ。心も謎だらけでどこか似てます。人体の成分もほとんど水ですし、心も水ではないか?と勝手に創造してました。 アタラクシア(不動心)という語源も水(アクア)から来てるとして、乾いていてこそ少しの水が精神的に充分に吸収しようとし、醍醐味を感じる染み渡るように満足を味わえ溢れるほどになれるのかな。幸せに成りたくてわざわざ貧しくする人もなさそうですが(笑)絶対的な目標のある人生は幸せってものかもしれないですね。

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     ゲツセマネとは  何なのでしょう?  ▲ (マルコ福音14:32-42) ~~~~~~~~~~~   一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。   そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。    ――わたしは死ぬばかりに悲しい。      ここを離れず、目を覚ましていなさい。   少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。    ――アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。     この杯をわたしから取りのけてください。しかし、     わたしが願うことではなく、     御心に適うことが行われますように。   それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。    ――シモン、眠っているのか。      わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。      誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。      心は燃えても肉体は弱い。   更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。   イエスは三度目に戻って来て言われた。    ――あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。      もうこれでいい。時が来た。      人の子は罪人たちの手に引き渡される。      立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆  その後の十字架の死および復活は 推移としてそのかたちに関しては 割り合い 分かりやすいと思われます。その前に起こったこのゲツセマネの祈りにかんして ご教示をお願いします。  ひとつには 何ごともなく 逮捕と裁判そしてはりつけへとつながって行くという見方があるようには思います。問題はないというひとつの見方です。  いまひとつには このゲツセマネにおいてむしろ その後の経過はすべて 決まったと考える場合があるのではないか?   何故なら イエスは 自分勝手に(《自分から死ぬのだ》*) 磔の刑に――正当に抵抗しつつですが――就くために すべての心と体と人格とを決めたということが考えられるので。     * 《自分から死ぬのだ》:     ▲ (ヨハネ福音書/ 10章 18節) ~~~~~~      だれもわたしから命を奪い取ることはできない。      わたしは自分でそれを捨てる。      わたしは命を捨てることもでき、      それを再び受けることもできる。      これは、わたしが父から受けた掟である。」      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▲ この杯を去らせてください。  ☆ についても おしえてください。むろんこれは イエスが人間であるということを表わすと見た上でです。要するに イエスも 泣いたということ。ほかに意味が 考えられますか?  あと思うことは このイケニエは もういっさい必要がないということ。これを示したものと思われますが いかがでしょう?

  • 《千年王国》について

     もし重要であるとすれば 基本的なことをおしえてください。  わたしは 何かひらめきが得られるかも知れないと思ったりはしますが よく分かりません。扱いかねます。  この質問は 《Q:ヘブル書に引くエレミア書の〈新しい契約〉とは?  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3807611.html 》でのご回答ANo.45に接して お尋ねするものです。  次の箇所が 焦点になっており そういう解釈としての説をなすようです。     ヘブル書8:7の一番目の言約がモーセを通じて与えられた律法な   らば、8:13の新しい言約はサムエル下7:4-17で言う永遠の言   約です。すなわち、ダビデの種からメシヤが来られ、イスラエル王国が   成立するという約束です。        イエスキリストがイスラエルの王様として来られたけれども、イス   ラエルの人々はイエスキリストを殺してしまい、イスラエルの王国は延   期されたのです。     そして、イエスキリストが再び来られてイスラエルの王国が成立す   るのがヨハネ掲示録20:6でいう1000年王国です。         〔参考・1〕サムエル記・下 7:4-17より 11-13節        ・・・主があなたのために家を興す。     あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子    孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。     この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座を       とこしえに堅く据える。 〔参考・2〕 ヨハネ黙示録20:6                      第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たち   に対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となっ   て、千年の間キリストと共に統治する。                                                                   * なお わたくしの立ち場は キリスト・イエスの出現で すべては決まっているというものです。