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現在でも源(みなもと)さんは居ますか?

suicyoの回答

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回答No.6

私の知人にも源さんがいます。その方の家の近くに源三位頼政に関する伝承地があり、 聞いてみたのですが、「先祖代々ここに住んでいる百姓だが、源頼政の子孫とかの言い 伝えもない」ということでした。 もともと、源平藤橘などの氏(姓)は、明治になって法的には廃止となっています。その 廃止になった時に、公家や武家などのそれなり以上の地位にあった家にはそれぞれ家名 (名字・苗字)がありました。明治以後はその名字が正式な名前となります。例えば 明治維新の時点での総本家は 源氏  徳川家(清和源氏)→久我家(村上源氏嫡流) 平氏  西洞院家(堂上平氏) 藤原氏 近衛家(摂関家筆頭・藤原氏嫡流) 橘氏  ※平安時代に没落 源氏と藤原氏は、細胞分裂のように数え切れないくらいの家に枝分かれしていること はご承知のことと思います。源氏の足利・新田・武田・今川、平氏の北条・織田、 藤原氏の九条・西園寺などは有名ですね。明治維新の岩倉具視は村上源氏、三条実美 は西園寺の本家筋にあたります。 ですから、古代より脈々と続くこうした「お家柄」のご子孫たちは、上記の近衛・久我とか 九条・西園寺・岩倉・三条とかの家名を現在も名乗っておられますので、現在 藤原・源・平などを名字としている方々は、明治になってから名字としてそれらを 名乗るように決めた家ということですので、少なくとも「お家柄」の子孫ではない と見るのが無難でしょう。 (だからといって、絶対に藤原・源・平氏の子孫ではない、とは断言できませんが) なお、藤原道長とか藤原定家、源頼朝や平清盛などは、上記の家名がまだ無いか、 あっても定着していない時代の人物ですので、そのまま藤原・源・平を名乗っています。 藤原定家の子孫は、のちに冷泉家を名乗ります。 あと、橘さんはちょっと微妙ですね。橘氏は家名が成立する時代より前に没落して しまっているので、家名を持たないまま橘氏のままで明治を迎え、そのまま名字を 橘にした、という地方の旧家があっても別に不思議ではありません。

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