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壱岐の道路

先日長崎の壱岐に旅行に行ってきました。 そこで遊んでいるときに、友達が、「ここって昔島流しされた人の刑罰の島だったんだよねぇ?」といわれ、ハッとしました。 その時、地図やカーナビを見つつもすっごく迷っていたところだったので、「だからこんなに道が整備されていないんだ!!!」と思いました。 (単に私たちの能力が低かっただけかもしれませんが・・でも、本当に真っ直ぐな道がほとんど無いのです。まあ、昔に比べれば整備されているのでしょうけど。) 京都は昔整備されたじゃないですか。それは政治、経済がうまくいっていたということですよね。と思うとやっぱり囚人たちだけで町や道路を作るのは困難だろうな、と思いました。 このことについての皆さんの意見や、解答等あればよろしくお願いします。 もし、すっごく勘違いで失礼な質問だったらすみません・・・。

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noname#5551
noname#5551
回答No.3

#1のnie02030です。ちょい補足です。 町の入り口からお城まで太くて真っ直ぐな道路で繋ぐ、というのは、実は危険な側面があります。 敵に襲われやすいのです。 壱岐が交易で栄えた時代は、周囲に同じくらいの力を持つ豪族が沢山いて、武力衝突も珍しくありませんでした。 よって、例えオカネが唸るほどあったとしても、そーゆうアブナイモノは作らなかったと思われます。 今度お友達と御旅行の時は是非、以前「ザ!鉄腕!DASH!!」で放送された彦根城下名物迷路道路へ車でいらっしゃることをお勧めします。 昔の人のセルフディフェンスの徹底振りが身体で味わえると思います。

その他の回答 (4)

  • gokuh_
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回答No.5

流刑の島という事でマンガや映画などに出てくる「全体が監獄の島」を思い浮かべているかもしれませんが、壱岐もひとつの国です。(昔の行政区画の国) 伊豆・対馬等と同列の位の国司が任命されていました。 行政府があり役人もおり、ただ規模が小さいというだけです。 当時の遠隔地・島への配流は今日でいう左遷に似た状況かもしれません。 島で軟禁される、拘束される、自由に振舞う・・・いろいろあるでしょうが 今日と交通事情が違いますから島に流されたら、簡単に京へは戻れません。 政界からは隔離され、中央の声も届かず、人に会いに行く事も出来ず来る事も無く。 宴や歌に遊び、きらびやかな文化の地で生活していた京の公家や上流階級の者たちにとって、それは耐え難い苦痛であったのではないでしょうか? 一般庶民の強盗犯や近隣の者を島に送っても懲らしめの意味合いは薄くなってしまいます。 ですから当時の日本の流刑の島というのはNo.2の方が書かれたように思想犯、国事犯がほとんどだったと思います。 華やかな世界を知っている人たちばかりです。

  • kame1417
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回答No.4

壱岐は大好きで何度も旅行に行った事があります。 5~6回レンタカーで島中走りましたので、道筋はほぼ記憶しています。 まずあなたの思う「壱岐の道が整備されていない」というのは申し訳ないですが 思い込みと偏見だと思います。 あなたの思う「道が整備されているか」という判断はあなたの書き込みを見る 限り「道が真っ直ぐかそうでないか」に重きを置かれているような感じを受けます。 確かに壱岐では曲がった道が多いものです。でもそれには理由があります。 それは壱岐は海に囲まれた比較的狭い島ですので、高低差のある山間の道は 必然的に曲がって作るしかない訳です。これは万国共通です。 当然ながら高低差のない場所には真っ直ぐな道もあります。 よって囚人も政治も関係ないと私は思っています。

noname#2594
noname#2594
回答No.2

びっくりしたので書きこみます。 ものすごく失礼だと思います。 壱岐に行った時、とても道は整備されていて とても快適なドライブでした。 楽しい思い出がいっぱいで、私にとっては楽園でしたので、 そんな発想は思いつかなかったです。 壱岐に行った時買った、“壱岐の風土と歴史”によると 島だから、島流しの先ではあったようですが、 江戸時代の壱岐への遠島というのは 思想犯、国事犯が主で神官、僧侶、役人が多く 知識人で穏健派のひとがほとんどだったようですよ。 島に文化をもたらした人が多いようです。 もともと多くの人が住んでいたわけで そこに年20人ほどの流人がいたとしても 全体としてはごく少数です。 知らないからと言って、 多くの人に誤解を与えるような無責任な質問は 良くないと思います。

noname#5551
noname#5551
回答No.1

壱岐は、いわゆる「魏志倭人伝」に国として紹介されているので、古代から人が住んでいる筈ですが…(^^;)。 少なくとも朝鮮半島との行き来が盛んだった古代~中世までは、貿易船の寄港地の一つとして、都ほど大規模では無いにしても、それなりの賑わいがあっただろうと想像されます。 壱岐に実際に行った事が無いので“道路が整備具合”がどの程度かは分かりかねますが、“道路の真っ直ぐ具合”で言うならば、京都の碁盤目道路のほうが特別のなのです。 あそこは古代特有の都市計画に基づいて、一気に作られた道路ですからね。 全国的には、道がくねって入り組んでる地域のほうが多いと思いますよ。 あと、流刑地に関してですが、昔は、現在ほど国境線がはっきりしておらず、行政的にボーダーラインな場所(=あまりしっかり中央政府の支配が及んでいない地域)が流刑地に設定されることがよくありました。 必ずしも無人地域ではありませんです。

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