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芸術性と知性との関係
やはり、セットでしか考えられませんか? 必然的に、高い芸術性には知性の裏打ちが必要となりますか。あるいは、少数例は除いて、それが王道ですか?
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#11さんのコメントに付いてのコメント: 昔、私の先生がノーベル賞をもらった朝永振一郎の頭の良さにについて面白いことを言っていました。「頭が良いとは何か」ということに付いてです。それなりの寄与を成し遂げた物理学者は、皆自分は頭が良いと思っています。そのように自分に自信を持った人達が朝永さんと議論をしてみて、そのほとんどの人が朝永さんは頭が良い、と言うのです。だから朝永さんは頭が良いといってもいいのだ、というこでした。要するに、頭の良し悪しは多数決で決まるというのです。ただし、この選挙に参加できる人は、自分の頭に自身のある人達だけです。 私がこれを聞いたとき、芸術も同じだと思いました。例えば、私自身がリンゴを描くことを私のライフワークとしていたとします。何百枚も何千枚もいろいろなリンゴを描き続けて来て、自分にはリンゴを描くについて自信を持っているとします。この私がある展覧会で他の人の描いたリンゴを見て(あるいは、キュウリの絵を見て)、このような絵はまだ自分には描けないと、舌を巻きびっくりしたとします。その場合、その絵が芸術的に優れている可能性は高いでしょう。でも、それは自信があるとは言え、まだ私一人の意見です。さて、このように、「リンゴ」等にこだわり続けて来た人が何人も、その絵が凄いと言ったとします。その多数決によって、その絵は芸術的に優れていると結論できます。理由は分かりませんが、歴史的に見て、その分野に自分を捧げて来た人達の意見は以外に収束するようです。例えば、最も優れた作品を5つ選べと言われたら、順位はともかく、1~2個位の作品が共通に選ばれているようです。 そこで、次の定理がありそうです: 作品の芸術性の高さは、受け手の多数決によって決まる。ただし、その選挙の有権者は、自分を何かに捧げ続けて来て、自分の判断に自信がある者だけである。 ゴッホの絵のように、彼が生きている間は彼に票を入れた人は殆どいませんでしたが、彼の死後、当選ラインを大幅に超えて彼は議席を確保できました。彼が目指したのは芸術的知的究極であり、現世的な利益ではなかったので、彼はともかく、作品が残された我々にはそれで良しとすべきでしょう。(でも彼は『生きているあいだに理解されたかった~』とぼやいているかも知れません) その分野に関して経験に培われて身に付いた自信のを持っていない殆どの人達は、その作品を「善し悪し」で判断しているのではなくて「好き嫌い」で判断しているので、その芸術的価値とは関係ない判断だと思います。例えば、家のかみさんの容貌を私は好き嫌いで判断していますが、それを美学の立場から判断をしてはいません。この辺をごちゃ混ぜにしてしまうと、なぜゾウじゃ駄目なんだと言い出してしまいそうですゾオ。
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- noname002
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その方面の知識や教養が、さしてございませんもので、何をして芸術であるかという見解も、とくに持ち合わせておりません。飽くまで御参考ということで。。。 たまたま最近知ったのですが、ダッドという、1817年イギリス生まれ、「ラファエル前派」に分類される画家があります。この人は精神に異常を来たして父親を殺してしまったそうです。 参考Urlの解説に 「一生涯、精神病棟で過ごしたダッドにとって、絵を描くことで、知性の破壊を免れた。絵の話になると、聡明に話すことができた。しかし、いったん妄想の世界に入り込むと、話は、つじつまが合わなくなった。」と、あります。 作品の画像を見てみますと、なかなかのセンスと力量をうかがわせ、一見して狂気というよりは、むしろ知性的な感じがするくらいなのですが、解説にもあるように、細部において、だまし絵に通じるような、つじつまの合わないところが見られ、精神分析的な観点からも非常に興味深いものがあるだろうと思います。 一度、御覧くださいませ。 http://art.pro.tok2.com/D/Dadd/Dadd.htm
お礼
まったく知らない画家でしたが、うまいものですね。こういう古い絵もいろいろな試みがなされていたということは、無知な私ははじめて知りました。
私の回答にも触れられているようなので、一言だけ、 昔の「天才論」で、名前は失念しましたが、 「天才とは、それを認める人がいて初めて「天才になる」という説がありました。今はその説は退けられていると思います。 つまり「天才は生得的なものでも能力でもなく」他者が決定するもので。 「認められない天才」などと言う言葉自体あり得ないというのです。 つまりこの説ではゴッホは生存中は決して天才ではありませんでした。 後に「天才」として「創り上げられた」のです。 天才論としては異端ですが、これに賛同する人が居てもいいでしょう。 世界に正解などあり得ないのですから・・・
お礼
私は同意しかねますけども、評価する人がちゃんと評価すれば大いに論じる価値があるのではと思います。
芸術性というのが知性がなければいけないのかと言われるとそうではないような気がします。例えば犬が書いた絵とか象が書いた絵とかそいうのがあったとしても、それを見ている受け手が芸術性が高いと感じればそれは芸術性があるのではないでしょうか?アインシュタインを天才と感じていてもアインシュタイン自身は自分を天才だとは言いませんでした自分は興味があっただけでそれ以外のものではないみたいなことを言っていました、やっぱり受け手によると思われます。 ただ芸術性の受け手を限定すると話は別になると思います。たとえば芸術を評価する人が「Aの絵は動物が書いた」「Aの絵を描いた動物は人間に飼われておらず野生の動物の通り道に絵の具と紙を置いただけだ」などの情報を知らなかったとしましょうそしてこの絵を見てどう思いますか?と聞かれて「芸術的だ~知性的だ~」と答えたらそれはそれでやっぱり芸術的なのではないかと思います。
お礼
創造主よりも受け手が鍵を握っているということでしょうか?そういわれれば、「トマソン」なども芸術足りえたように、より受け手のほうが上位に位置するということは言えるでしょうね。受けては常に知性が求められており、創造主はそうである場合もある思想でない場合もある。
私の言う「一回性」というのは画家や音楽家が同じモチーフを用いて同工異曲の作品を創ることをさすのではありません。 つまり技術や方法論を学習によって習得しても、 ゴッホという存在、ゲーテと言う存在、ショパンという存在は「一回きり」の存在で、例えば技巧によって本物そっくりのゴッホの贋作は作れるかもしれませんが、それはいくら精巧でもゴッホではありません。 芸術と言うのはあくまで『聖なる一回性』のものです。 またゴッホやピカソの芸術を芸術たらしめているのは彼らの持つ知性ではなく、あくまで感性と情熱であって、知性は不要とまでは言いませんが、 特に彼らの芸術に不可欠なものではありません。 また偶然を排する芸術は果たして芸術かどうかも議論の分かれるところです。 ある前衛書家は「同じ作品など二度と出来ない」と言っていますし、 焼き物などはその性質上絶対に同じものは出来ないし、 作り手はその偶然性に身を委ねるだけです。 写真家然りです。 岡本太郎がどういうか知りませんが、 象や犬やネコが転がったってそれは芸術です。 現にそいういうインスタレーションも存在しますから。 参考までに芸術における知を極端に排したのはニーチェです。
お礼
まとめのお礼で失礼します。 私の言う「趣味の」アマチュアというイメージは、日曜画家とかその辺の人が展覧会に出す様な作品をイメージして言いました。そこには、回答者さんのおっしゃるような、「知性の排斥」というような「知的」な作業が入っていないのです。体裁よくそれなりの入門をこなしているとか、かなり年季が入っていても、一般的に認知されているアウトラインからはみ出ないような、純インテリア向け作品といいますか(イメージしていただければよいのですが)そういう作品には、当然「激烈」なものが感じられません。当然感動もありません。 たとえば、象や犬が転がってできた作品が立派な作品であるという思考は、美術全体の歴史形式を作家の中で醸造して、それに対するアンチテーゼ的なものを目指したということで、力がある作品になるわけで、子供が無心で犬に絵の具を塗って紙に書かせたというのとは一線を画すはずです(作品としては同じでしょうが) つまり、こういう思考が必然的に「知性」を要求している。立派な作品主張ある作品をを残すには、必ず「知性」がなければなしえないのではないかということなんです。 あまりに当たり前のことを質問しすぎたのかもしれません。
続けて失礼します。 岡本太郎は「子供の心をもち続けること」とはいっていますが、 >厳しい技術思想の修行をした末に、本当の芸術が現れる。 ・・・ということとは全く逆のことを言っています。 逆に知識や技術が子供のような無垢な精神を破壊すると・・・ だから自分も「子供にはとても及ばない!」と。 >当然ながら、「趣味」のアマチュアには期待できないものです。 アマチュアとはどういう定義でしょうか? カフカは生涯一事務員でした。 あえて、芸術と知性の相関を探るとすれば、 特にロマン派に関しては彼らの知性を総動員して知性の無力を証明したことでしょう。 「理性がわたしに教えたものは、畢竟理性の無力であった」 芥川龍之介
お礼
カフカやクノーが非凡なのは、それが「趣味」ではなかったからではないでしょうか。それにお答えを書いていらっしゃるんですが >特にロマン派に関しては彼らの知性を総動員して知性の無力を証明したことでしょう。 これこそが、「知性」が不可欠であったという証ではないでしょうか。それによってその無力を証明しえたのですから。
結局は皆さん古典派的芸術論を指向されてるわけですね。 例えば司馬遼太郎氏は、マチスやピカソについて、 先人の技法、方法論が彼らには理解できなかった。 だからこそ彼らのオリジナリティーが生まれたのだと書いています。 ではシュールリアリストの自動筆記やビートニクの即興小説、 ジョン・ケージなどの現代音楽はどうなるのですか? 彼らに高い知性があったとして、それと彼らの作品とどう結びつくのでしょうか。 またゲーテは全ての芸術の源は「個性」であると言います。 ゴーギャンは絵画は心で感じるものだと・・・ 無論反対の意見も多数あるでしょう。 いずれにしても、これは回答のない芸術論に過ぎません。
お礼
マチスやピカソは「同調」できなかったのでは?理解できなかったとしたら問題ですね。私個人の評価を下げます。 シュールリアリストなどは、自身の作品が現れてきた「意味」を知的に説明するでしょう。知性が要らないということを、十分知性によってあらわさなければならないです。ほかの例も同じではないでしょうか。
感情と芸術性というのはありだと思います。 ゴッホなんかそういうのが伝わってきますね あと感覚性と芸術性というのもありだと思いますね。 ピカソなんか言い例だと思います。 感覚や直感だけで書いたような最近のポップカルチャーというのがありますがやっぱり芸術的だとは個人的には感じません。やはり芸術というのは僕的には見た感じ知性が働くような絵が良いです。
お礼
ゴッホはすんごい迫力です。あれは「感情」というものの特に激烈なものでしょう。しかし「感覚」ともとれます。ピカソもあんな絵なんだけど激烈なものが背後にあるのが分かるので、感動があります。ポップカルチャーはそういう「激」的なものを人工的に廃する姿勢なのでしょうね。私もこれはあまり賛同しません。 やはり、感情にしろ感覚にしろ、劇的な心的エネルギーは「知性」を同伴している気がします。つまり、「知性」は感情感覚の誘発剤じゃないかと。
- cyototu
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#3です。 個人的意見ですが、私は芸術とは「好き嫌い」ではなくて、人間の関わった世界には「善し悪し」があるという信念に基づいた営みだと、勝手に思っています。好き嫌いは動物でも感じることができますが、善し悪しは、自分の埋め込まれた社会や歴史に強く影響された「知的判断」がなくては下せるものでなく、従って、芸術は人間だけに出来る営みだと思います。 もちろん善し悪しの基準は時代と共に変わる物であり、芸術の価値の判断も五百年千年という単位で変わって行く物だと思っています。たとえば、芸術におけるキリストのモチーフが西洋でもだんだんに少なくなっているのはその例でしょう。 バッハやモーツアルトの音楽にも、ゴッホの絵にも、しばしば同じ旋律や技法が繰り返し現れて来ますが、これらは「一回性」と言うような、その場限りの思いつきで出て来る物ではありません。必ずしも言葉にできない思索と、たゆまない訓練の結果「あれではなくてこれだ」との断固たる決意が浮かび上がり、その決意が、彼らをして何度も同じテーマを使わざるを得なくさせているのでしょう。 #5さんの言うように、破られた絵と完全に同じ物はもちろん再生できないでしょうが、その作品の中に、その到達した決意の現れを再生することは出来ると思います。芸術の価値とは必ずしも、そのディテールの中にある物だけではないからです。 岡本太郎の言っていることが本当なら、ゾウでもネコでも芸術家になれそうです。 以上の論旨でお判りのように、私にとって芸術とは知性の重要な営みの一つであり、人間を人間たらしめる個性、すなわち、多様な生き物の世界で、他の動物から人間を区別する重要なキーワードの一つだと思っております。 因に、人間とは何かを表すキーワードには芸術の他にも、言語(即ち、論理)、宗教、社会、戦争があると思っております。このどれ一つを除いても、人間の「知」を語ることは出来ないと思いますが、どうでしょうか。
お礼
同感いたします。作家には強い「精神性」が宿っている必要があるんです。それが必ずしも「知性」とダイレクトに結ばれないとしても、それなくして精神性はありえないのではないか、つまり、気力とか情熱、世俗に侵されない強さ純粋さ、そういう総合的な精神力は、結局「知力」という柱がなければ維持できないのではないか?そんな風に思いました。この柱が、どれくらいの重要度を持つかは疑問ですが。当然ながら、「趣味」のアマチュアには期待できないものです。そんなエネルギーありませんから。 岡本太郎は、「象こそ理想の芸術家である」と言うかもしれませんね。ただし、「純粋さ」のみを取り出せばです。 人間に固有のもの、それは「好み」ではなく「善悪」である。精神の戦いを経たものだ。それは芸術の不可欠要素である。と考えます。
#3さんの回答に疑問を挟ませていただきます。 >何度その絵を破かれても、手に入れた「論理」に従って、彼はその絵を再生することが出来ます。時々、子供が見事な抽象画とも思える絵を描くことがありますが、その子供には上で述べたような「知的論理」がないので、その絵を再生できず、従って、それを単なる偶然の結果であるとされ、芸術作品と認められていないはずです。 芸術の再生産というものが果たして「芸術」なのか私には疑問ですし。 子供の描いた「一回性」が非芸術であるという理論にも頷けません。 「何度破られても同じものが描けるよ!」というのと芸術本来の「一回性」とは 対極にあると思います。 岡本太郎も「子供以上の芸術家を私は知らない!」と書いています。
お礼
岡本太郎の言葉は、あくまで「子供の精神で」もって、それを保ち続けて、厳しい技術思想の修行をした末に、本当の芸術が現れる。ということでしょうね。それを大衆向けに崩したのか、あるいはある程度「無秩序ささえも、純粋さの美徳には覆われる」逆に言えば「取り繕ったこぎれいな作品には何の価値もない」という事なんだろうと思いまう。
質問の概念規定が曖昧な気がしますが・・・ 「芸術」といわれるものの「価値」はあくまで一人一人の鑑賞者の主観によって成り立っています。「芸術の客観的価値」というものは存在しません。 またこの場合の知性とはどのような概念をいっておられるのでしょうか? 「高い芸術性」というものは存在するでしょう。 しかしそれはいかなる意味においても知性の規定するものではないと思います。「知性的」な「知性のある人」が芸術作品を創る、という言い方は可能かもしれません。
お礼
質問自体があいまいでした。芸術の種類を規定しないと、煩雑になりすぎます。一般敵にと言うしかないのですが。 鑑賞者はまた別の要素であるような気がします。確かに、評価によって芸術と言う烙印が押されるのでしょうが、その評価もある程度は客観性があり、作家の考え作品の完成度を反映しております。ですので、作家作品そのものを説明すればよろしいのではないかと。 そうすると、例えば「パロディ芸術」のようなものは、必然的にオリジナルに対する知識が必要である。これは、知性(知識)を要求する端的な例です。また、もろもろの分野でも、それまでの先人足跡を消化昇華していかなければ、現代的な力のあるものを作るのはできない。その流れが、多かれ少なかれ多くの芸術分野にあるのではないかということです。それには必然的に、知力が必要です。
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お礼
ご丁寧な解説ありがとうございます。すごくわかりました。 評価する人がそれに値することが肝要でしょう。評価の手続きを、やたらめったら民主主義にするのでなく、知的作業を必須にすれば、おのずど結果がまとまってくるということで、問題点が分かってきました。
補足
しかし、ゴッホはすごいですね。何気で常軌を逸している(色使いとか窓外の風景など)