• ベストアンサー

明治時代に旗本等大名家以外の封建領主がいなくなった時期・経緯について

 本サイトでは回答者の皆様にお世話になっております。  明治初期に大名家が封建領主はなくなった過程は、教科書等でも説明があり、よく知られています(明治2年版籍奉還 明治4年廃藩置県)。ただ、江戸時代には、大名以外にも領地は狭いながら、旗本・御家人・朝廷・公家・寺社等の封建領主が存在していたはずです。彼らが封建領主としての地位を失う過程その他について教示いただきたく、下の質問をいたします。ご存知の方がいらっしゃいましたら、教示願います。公刊されている参考文献・サイト等がありましたら、示していただけますと幸いです。また、領主としての性格(旗本と寺社等)による違い・地域別の違い 等違いがありましたら、それぞれについて教示いただけると幸いです(一つの例について詳しく書き、後の例はそれとの違いを書く 等で結構です)。 1.旗本・御家人・公家・寺社等はどのような過程で封建領主としての地位を失ったのでしょうか?またその時期は? 2.大名は東京移住を強制されましたが、旗本・御家人・公家・寺社(住職等支配していた方)は、旧領土にとどまれたのでしょうか?とどまれた場合、旧領地・旧領民との関係は? 3.2とも関連しますが、旗本・御家人・公家・寺社(住職等支配していた方)は、封建領主としての地位を喪失後も、近代的な土地所有権者になる等で、実質的に旧領土を持ち続けた例はあるのでしょうか?ある場合は例を示していただけると幸いです。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mapato
  • ベストアンサー率69% (493/705)
回答No.2

こんにちは。 旗本・御家人領の解体は戊辰戦争開始当初から着手されていたようですが、具体的には明治元年八月二十二日と同二年十二月二日の二度にわたる減禄規定布達などによって漸進的に進められており、すぐに「廃藩」を行う力を持たなかった新政府にとって結果的に良いテストケースになったということです。 更にその一ヵ月後には出来たばかりの「田安」「一橋」両藩(徳川宗家を「静岡藩」としたように、御三卿を形式的に大名化したものでそれぞれ十万石でした)をも解体して「廃藩」への布石としました。 旗本や御家人の所領は非常に細分化されていた上、江戸初期はともかく基本的には「江戸在府」が義務付けられていたので、元々領地との結びつきは薄かったと思います(領地に一度も赴いたことがない者も多かったようです)。 そのような「地縁の薄さ」から解体が比較的容易であったことも、廃藩より先にそれが行われた理由の一つです(実際「田安」「一橋」両藩も領地が分散していた上江戸在府でした)。 旗本・御家人領の解体が十分に進んでいたからこそ、「静岡藩」成立によってどこかへ移らざるを得なくなった東海道筋の諸藩を(旗本・御家人領の多かった)房総半島などに移すことが出来たとも言えるのだと思います。

noname#138477
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございます。  旗本・御家人領の解体について、とても分かりやすかったです。御三卿の藩はわずか1ヶ月の短さだったのですね。始めて知りました。  全体的かつ多くの例を知りたかったため、あえて書きませんでしたが、この質問をした理由は、旗本の設楽氏が明治12年までは領地(正確には旧領地)に住んでいたことを書いてあったことです。設楽氏は徳川以前からほぼ連続して同じ土地(長篠の戦いがあったあたり)を支配していましたので、基本的に領地に在住していると考えていましたが、江戸在府を義務付けられていたのであれば、それほど領地への思い入れはなかったのかもしれません。質問の2並びに3の疑問がなお残りますが、設楽家のみが特別であったのであれば、旧領地に住んでもさほど問題はなかったのかもしれませんね。

その他の回答 (4)

  • hazu01_01
  • ベストアンサー率31% (341/1067)
回答No.5

維新後も設楽に居たとすると設楽甚三郎家の分家であり、設楽貞信に始まる設楽善左衛門家ではないかと思われます。 この家は伏見城番などを歴任した貞信が徳川秀忠に父の設楽貞道の旧領(貞道は家康から信楽の土地を没収され、別な駿河・遠江のうちに別な土地を与えられている。設楽は奥平信昌の領地となっていた。)三河国設楽郡のうち700石をもらっています。その後、2代貞政の時に下野国、丹波国などに1000石の加増地を貰っています。3代貞興の時には丹波国の領地を下野国に移され、弟の貞親に300石の分知をしていますので、ほとんどの代で1400石の知行です。そのうち半分を設楽に持っていることになります。 状況からすると、確かに三河国設楽郡は設楽氏の故地でありますが、設楽に残った設楽氏が分家筋であること、秀忠からの恩賞としてもらった土地であることからして、この設楽氏は徳川氏の譜代の家臣と見てよろしいかと思います。 明治12年まで旧領を保っていたとすると維新の時に薩長に味方し領地を保全されたのかもしれませんね。 設楽氏は一族で尾張家に仕えたものもおり尾張家からの情報もあったのかもしれませんね。

noname#138477
質問者

お礼

 再度の回答ありがとうございます。質問の動機について記入せず、再度の回答をいただくことになったことにお詫びします。  最初の段落に書いていただいた内容は、部分的には私が読みました書籍にも同様の記述があり、間違いないと思います。石高等は始めて知りました。500石程度の領地を勝手に想像していましたので、誤りが訂正され、嬉しいです。 ・明治12年まで旧領を保っていたとすると維新の時に薩長に味方し領地を保全されたのかもしれませんね   設楽家は、徳川家康の三河統一戦の時も、東三河では最初に家康に服属したと言われます。戊辰戦争の際も、勝者である明治政府側に早い時期から味方した可能性はあると思います。設楽家が封建領主としての地位を失った時期その他の疑問については、書籍を探してみたいと思います。ありがとうございました。  

  • mapato
  • ベストアンサー率69% (493/705)
回答No.4

#2です。 すみません、#3の投稿の出だしに「#1です」などとうっかり書いてしまいました。まったく失礼致しました。 #1さんにも大変申し訳なく、お詫び申し上げます。

  • mapato
  • ベストアンサー率69% (493/705)
回答No.3

#1です。 >御三卿の藩はわずか1ヶ月の短さだったのですね。始めて知りました。 すみません、書き方がわかり難くて誤解を招いてしまったようですね。 「その一ヵ月後」というのは二度目の布達があってほぼ旗本・御家人が解体された明治二年十二月二日より一ヵ月後ということでした。 田安・一橋両藩の立藩は徳川宗家と同じ明治元年の五月二十四日なので、藩が存続していたのは一年半強ということになるでしょうか。 わかり難い書き方で失礼致しました。 >この質問をした理由は、旗本の設楽氏が明治12年までは領地(正確には旧領地)に住んでいたことを書いてあったことです。 なるほど、そうでしたか。 お話を伺って少し調べてみたのですが、手元にある「国字分名集」から千石以上の旗本を抜粋した資料によりますと、二つある設楽家のうち「設楽甚三郎」家(二千百石余)が「三河設楽郡の旧族、永禄四年に家康に属す」とあるので、質問者さんの仰っている旗本かと思うのですが、領地は「武蔵内」となっております。 試みにほかのものでも調べてみましたが、最も知られる設楽家は「江戸時代の旗本、武蔵加須(埼玉県加須市)を領した」とありました。 もしこの家であった場合、江戸時代以前の領地は確かに三河なのですが、家康の関東入府に伴って武蔵加須の地を与えられて「旗本」となり、明治になって「旗本」という身分を失ったので父祖の地に戻った・・というようなことはないでしょうか。 飽くまで「その設楽家であれば」という仮定のうえ、後ろのほうは勝手な憶測ですので、まったく外れているかもしれませんが、そういう可能性もあるかもしれないと思い申し上げました。 見当違いでしたらすみません。 身分を失った旗本には新政府の役人となったりしている者も結構いますが、中には新しい職を得ること叶わず江戸(東京)にそのまま住み続けることが困難で、伝手を頼って帰農したり新天地を求めるような者もいたことでしょう。 そのような中に「父祖の縁」を頼って先祖の地に移る者があっても決しておかしくはないように思うのですが、如何でしょうか。

noname#138477
質問者

お礼

 再度のご回答ありがとうございます。なお、No.4に書いていただいた点についても承知しました(No.4の回答にはお礼を書きませんが、趣旨は承知していますので、ご了承ください)。  御三卿の藩について、とんでもない誤解をしてしまい、ご迷惑をおかけいたしました。自分で確認もせずにお礼文を書いてしまったことにお詫びいたします。  設楽家が江戸時代も設楽の地を領していたことは、・私の読んだ書籍が地元史家によるものでテレビ等でも有名な大学教授の監修を受けていること ・No.5さんの回答 ・設楽原歴史資料館(URL: http://www.geocities.jp/shimizuke1955/2090shitaragahara.html) で「竹広設楽家」が設楽を領した記述 から間違いないと思います。 *御回答後に上記を知ることができましたので、記入いたしました。このことに対するコメント等は不要です。 ・新しい職を得ること叶わず江戸(東京)にそのまま住み続けることが困難で、伝手を頼って帰農したり新天地を求めるような者もいたことでしょう。  明治初期の旧武士層の生活苦は大変なものだったと聞きます。ご指摘のケースもあったものと想像します。そうであれば、少なくとも旧旗本・御家人は、移動・居住地選択の完全な自由を有していた(明治政府からの規制はなかった)と考えて良さそうですね。

  • hazu01_01
  • ベストアンサー率31% (341/1067)
回答No.1

寺社だけですが、 明治4年1月 太政官布告 境内地を除くすべての領地の上知命令 明治4年6月 太政官布告 境内主域を除くすべての付属地の上知命令 の2度の上知令があり、寺社の経済を揺さぶられています。 その後、いくらかは境内地として寺社に戻されたようですが、ほとんどが国有地になりました。 旗本、御家人の領地ですが、彼らは徳川家の家臣ですので、徳川家が静岡に移るとそちらに移り、徳川家の版籍奉還及び廃藩置県などにより領地を失ったのではないでしょうか。

noname#138477
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございます。  寺社についてはまったく分かりませんでしたので、とても参考になります。明治始めには、廃仏毀釈もありましたから、特に寺にとっては深刻な事態だったことは、想像できます。    旗本・御家人については、少し前まで回答者様と同様の意見でしたが、最近読んだ本で、長篠の戦いの地を支配していた(戦いの当時も江戸末期も)設楽氏が、明治12年までに退去するまでは、支配していた土地に住んでいた旨の記載があり(ちなみ退去した先も所領地だった土地らしいです)、質問文に書きました疑問を持つようになりました。  旗本・御家人と一纏めで呼んでいても、大名と同じく外様がいたり(忠臣蔵の浅野内匠頭の弟の浅野大学は外様の旗本でした)、譜代であっても在地性の強い家もあったと思います(設楽氏は後者だったように思われます)。静岡藩とはまったく独立した存在の元旗本・元御家人がいなかったか、関心があります。  また設楽氏が独立していない場合(もしくは明治12年までに領地を失った場合)は、明治12年まで旧領地に住むことができた理由を知る意味で質問文の2・3にあげた疑問があります。

関連するQ&A

専門家に質問してみよう