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他人の心とは?
私にとって、世界は常に私の世界として私を中心に現れるもののように思えます。 だとすると、他人の心を理解する、了解する、というのは、どういうことなのでしょうか。 哲学では、このような問いに対して、どのような答があるのでしょうか。
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どうもお礼文ありがとうございます。 >結局、私から独立した真の他人、という地点にはいたらないような カントでは「物自体」といった概念が重要になってきますが(つまりそれは私とは無関係に他者が存在するということを言いたい)、が結局それが認識不可能となればやはりこの世界は意識内の表象として内在化されることになるんですよね。 フッサールの場合にはこの「物自体」といった概念すら消滅してしまうわけですが。 いずれにしろ、今この目の前のものが実像(実の表象)である、と言い切れるだけの証拠を他人に提示することは不可能なようです。
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- shift-2007
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例えば、私と他人はどこかでつながっている、つまり本を正せばひとつである。 大きな一つの塊のある部分に目がたくさん付いていて、それぞれが”私”を主張して世界を認識している。 そんなイメージはどうでしょうか。 自問自答しながら書いていますが、私とは何か、を理解しなければ恐らくこの問いに答えることが出来ないのではないでしょうか。 #14で書いた通り、どこからどこまでが私なのかはっきりしません。 しかし、私が世界を認識しているのだから、私が認識しなければ世界は存在しない、私が認識したものなのだから世界は私、或いは私の一部となります。 他人も私が認識している限り、私の世界の一部であり他人も私ですね。しかし、この事がたくさんの他人の中でも同時に起こっているのが理解できない、だって他人は世界の一部であり、世界は私なんだから。 ということですね。
お礼
返答いただきありがとうございます。
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変わったイメージですね。しかしなんとなく、無数の私と、この唯一無二の私自身との差がなくなってしまうような、もしくはこの私自身が消え去ってしまうような感じがします。 >他人も私が認識している限り、私の世界の一部であり他人も私ですね。 >しかし、この事がたくさんの他人の中でも同時に起こっているのが理解できない、 そうですね。この事がたくさんの他人の中でも同時に起こっている、ということは一体何のことなのか、よくよく考えるといまいち理解できていない感じがしてます。
>つきつめると最初の質問も、この、正しそうでいて相反するような二つの感>覚を、 >どう調停すればよいか、という事になってきそうですが、 >どうにか調停する方法や考え方があるのでしょうか。 自我というのはそれ自体で存在するのではなく関係的存在である。 という考え方でしょうか。 ハイデガーの共同存在(Mitsein)などそうですですが、とてもここで説明することは不可能ですので是非「存在と時間」をお読みになることをお勧めいたします。
お礼
たびたび返答いただき、ありがとうございました。大変勉強になりました。
補足
ハイデガーですね。うまくいえないのですが、なんとなく、現象学的な方法によって他人を考えると、上述のフッサールの時のように、また、カントの超越論的観念論が最終的に観念論であったように、それによって到達した地点は、結局、私から独立した真の他人、という地点にはいたらないような、そんな感じもするのですが、そうではないのかもしれません。ともかく学びながら、ゆっくり思索していくしかないようです。どうもありがとうございました。
- modoki666
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「自己」「私」と言うものは、環境との交流の中で、認識していくものでしょうから、他人と言うものは始めは環境の一部でしょう。 初めから、他人と自分の区別や自分と物の区別を人間がしているわけではないでしょうから。 >体が抜け落ちて心が成立する? 初めは、声を環境に出して、自分の耳で聞く事になるし、それに誰かが言葉や身振りで反応してくれることにより確認できてくるのです。 それを何度も繰り返す事により、コミュニケーションが可能になり、環境の一部「コト」と印「ハ」が結びつくのです。 やがて、環境に出されて確認された一連の行為が、縮減されて、環境に出さずに「声にせずに」「言葉」で「思考」をする様になるのです。 そこで、あたかも「心と体」一体のものが、「心」と「体」に分離する様に感じるのでしょう。 心で思っていたものがすべて実現されないことを経験すればわかると思います。 つまり心が成立するのでなくて自分で「心」と「体」に分けて認識するのです。 そして、他人との交流の中でも、同じような「コト」を見たり感じたりをする事により他人の心と体を自分の心と体と言うものと相互参照して他人の「心」と「体」を認識するのです。 つまり、間主観的にというか、環境との相互参照によって得られたものを、自己参照しているように思うのでしょう。
お礼
たびたび回答いただき、ありがとうございます。
補足
ちょっと難しくてよくわかりませんでしたが、 >初めから、他人と自分の区別や自分と物の区別を人間がしているわけではない >環境の一部「コト」と印「ハ」が結びつく >やがて、環境に出されて確認された一連の行為が、縮減されて、環境に出さずに「声にせずに」「言葉」で「思考」をする様になる >そこで、あたかも「心と体」一体のものが、「心」と「体」に分離する様に感じる >つまり心が成立するのでなくて自分で「心」と「体」に分けて認識する と仰られていることからして、言葉によって世界を分けていき、それによって、他人の心、体、自分の心、体、世界の様々なもの、などを、分けて認識するようになる、というようなことでしょうか。しかし、 >つまり心が成立するのでなくて自分で「心」と「体」に分けて認識するのです。 と仰られていますが、言葉の形成の仕方によって、世界の色々なものや、他人の心が作られるのだとすると、言葉の形成に従って切り分けられたもの自体が世界のあり方であって、私の言葉の形成の仕方で世界そのものが変わる、ということになりそうです。これは、私の捉え方で世界自体が変わる(世界の見え方が変わるのではなく)、という観念論の捉え方と同じなのでしょうか。 それとも、 >環境との交流の中で >環境との相互参照によって と仰られることからして、まず世界の側になんらかの私から独立したもの、コト、というようなものがあり、それに影響されて、言葉の形成の仕方が定められる、という事なんでしょうか。もしそうだとすると、結局、まずはじめに、私から独立した世界と、その中の私から独立した色々なものがあり、さらには、私から独立した他人の心、というものが必要になりそうです。そして、そういった私から独立した他人の心、というのは、私中心の世界、という上述の捉え方と、対立するようにも思えます。だとすると、その二つの関係はどのようなものなのか、という問いが依然、残るように思います。
すいませんNO17ですが、次の通り訂正させていただきます。 どこまでも自己を主張しつづけることができるという意味では「限界がない」がありませんが ⇒、どこまでも自己を主張しつづけることができるという意味では「限界がない」ですが です。
お礼
たびたび返答いただき、ありがとうございます。
補足
たびたび返答いただき、ありがとうございます。
どうもお礼文ありがとうございます。 >私の体と心の関係の網(たとえば手を怪我したら、手が痛い、とか)を、私の世界の中に現れる他人の体にかぶせて考えて、その関係網の中心にあるものとして、他人の心を捉える、という感じなんでしょうかね。 >しかし、そうやって他人の体にかぶせた時に現れてくる関係網、という自体が、他人の心そのものなのでしょうか。 まず私に現われる他者を私と同じ主観として構成することによって他者の存在を確証しようとし、そのことによってすべての人に共通に存在する間主観的世界が保証されるということですので、あくまで保証なんですね。 その構成による他我は、いわゆる自己移入といいますか、自我が投影された人形のようなもので真に生きた他者となっていないという批判もあるようです。つまり、評判があまりよくありません。 後期フッサールでは「生活世界」の思想の方がより重要なようですが。 >とのことですが、これは、「独我論も多様なパースペクティブの一つなのだからそれを絶対視すべきではない」という感じのご意見なのでしょうか。もしそうだとすると、どうも、話の流れが逆のような感じもするのですが、どうなのでしょうか。 どうもそのようですね、ただ私がいいたかったのは次のようなことなんです。 他の自我やその他一切がすべてが、わが自我に対する現象に過ぎないとするのが独我論の立場ですが、どこまでも自己を主張しつづける限りはその独我論を論破するのは不可能です。しかし、どこまでも自己を主張しつづけることができるという意味では「限界がない」がありませんが、ただ一面的であるという意味では有限な立場である、ということなんです。 いくら「わたし」を考えてみても、あるのは唯一のこの自分と多数の他人であって人間一般の「わたし」というものを考えることは不可能です。 この一個の全体の中心としての「わたし」を分析してみるより他に「わたし」を知る方法はないです。 話はフィヒテの絶対我やヘーゲルの絶対精神といった普遍的自我の問題へ移行するのでしょうかね。
お礼
たびたび返答いただき、ありがとうございます。
補足
>その構成による他我は、いわゆる自己移入といいますか、 >自我が投影された人形のようなもので真に生きた他者となっていない >という批判もあるようです。つまり、評判があまりよくありません。 ということは、そうやって構成したものを、他人の心そのものと捉える捉え方のようですね。 確かにそうやって構成されたものを他人と呼ぶと、どうも「真の生きた他者」という感じがしない、と私も感覚的に思うのですが、 しかしながら、自分でそう思いながらも「真の生きた他者」とは何のことか、よくわかりません。 それに関連したことですが、 >他の自我やその他一切がすべてが、わが自我に対する現象に過ぎない >とするのが独我論の立場ですが、どこまでも自己を主張しつづける限りは >その独我論を論破するのは不可能です。 >しかし、どこまでも自己を主張しつづけることができるという >意味では「限界がない」ですが、ただ一面的であるという意味では >有限な立場である、ということなんです。 【他の自我やその他一切がすべてが、わが自我に対する現象に過ぎない】 とまで断定する訳ではありませんが、私には、世界のすべてが私を中心に現れているようには思えます。 しかし >ただ一面的であるという意味では有限な立場 と仰るのもわかるように感じます。 私も普段、ごく普通の世界や他人が実在しているという捉え方をしていますし、 私から独立した世界、私から独立した他人、という言葉を、ごく普通に理解しているように思います。 つまり、私中心でない世界の捉え方ということもしているわけです。 一方で「世界のすべてが私を中心に現れている」という感じがして、 もう一方で「私から独立した(他人を含めた)世界が存在する」という風に思うわけですが、 これらはどちらも正しいように感じますが、しかし、 二つを並べると両立しないように思えます。 つきつめると最初の質問も、この、正しそうでいて相反するような二つの感覚を、 どう調停すればよいか、という事になってきそうですが、 どうにか調停する方法や考え方があるのでしょうか。
- modoki666
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「私」というものを、人間が捉えるのは、環境の中で他人や物との交流 を通じて、自分の「心」と「体」を一体化して、「私」ということを理解する。 つまり始めは「私」は心身両義に渡るものである。 それが、言葉を使って思考する事によって、身体のほうを忘れて「私」が心だけになっていくことによって、世界は私を中心としてあらわれてくる。 他人の心を判るのは、「私」の成立過程が他人の身体と心の交流である以上当然である。 間主観的に出来上がったものを、主観的に捉える事により、身体が抜け落ちていくのではないでしょうか? 自信ありません。
お礼
ご回答いただき、ありがとうございます。
補足
まず世界、環境、他人があって、そういった、環境の中で他人や物との交流を通じて私が形成されて、最後に体が抜け落ちて、私の心というものが形成されていく、という訳ですか。なるほど。 しかしまだ、仰ることがよく理解できていないのですが、私を成立させていくものの一つである他人、というのは、どういうものなんでしょうか?また、私が成立する前の他人の心、というのはどういうものなんでしょう?
お礼文ありがとうございます。 >しかし、このことと、上述の質問との関係が、いまいちわからなかったのですが、どのようなつながりがあるのでしょうか? 独我論もパースペクティブのひとつだ位の意味です。 フッサールの間主観性の問題かなとも思いましたが、とても私などに説明はできません。 フッサールの晩年の思想なんですが、他我意識つまり他人の自我がいかにして構成されるか考えようとするもので自己に所属する世界に他人の身体が現出することによって類推的に自我が転移されという一種の類推説、又は感情移入説とも解釈されているようですが。
お礼
たびたび回答いただき、ありがとうございます。
補足
>フッサールの間主観性の問題かなとも思いましたが・・・ >他我意識つまり他人の自我がいかにして構成されるか考えようとするもの・・・ 私もよくわからないのですが、問題の出発点、疑問点は、多分、そういう事になりそうです。 (他人の心の理解を問題にしながら、他人の考えを似たような事と述べるのも、変な感じですが) >自己に所属する世界に他人の身体が現出することによって類推的に自我が転移されという一種の類推説、又は感情移入説・・・ 私の体と心の関係の網(たとえば手を怪我したら、手が痛い、とか)を、私の世界の中に現れる他人の体にかぶせて考えて、その関係網の中心にあるものとして、他人の心を捉える、という感じなんでしょうかね。 しかし、そうやって他人の体にかぶせた時に現れてくる関係網、という自体が、他人の心そのものなのでしょうか。 それとも、まず、私からは独立した本当の他人の心があって、それを私が知るための方法として、上述ののような方法をとっている、という事なんでしょうか。 前者ですと、結局のところ、そうやって私が構成したものが、他人の心そのものであり、他人の心とは私が作り上げたもの、という風になりそうです。つまり、 >他我意識つまり他人の自我がいかにして構成されるか ということであって、もし仮に、何らかの理由で、私がちょっと妙な構成の仕方(手を怪我したら楽しいとか)をしていって問題を感じなかったら、他人の心というのは、まさにそういうものになりそうです。またさらに、そもそもそういう構成作業を行わなかったら、端的に他人の心などない、と言ってよいことになりそうです。これは日常の感覚とはズレていますが、そのズレはどこからくるのか、という疑問が浮かびます。 一方、後者ですと、そうやって作りあげたものとは独立に、他人の心なるものがあるので、 日常の感覚とは一致しますが、しかしだとすると、その私から独立した他人の心、なるものは結局何なのか、という疑問が以前残ってしまうように思えます。 どちらの捉え方が正当なんでしょうかね。 ところで、話はちょっとそれるのですが、 >独我論もパースペクティブのひとつ とのことですが、これは、「独我論も多様なパースペクティブの一つなのだからそれを絶対視すべきではない」という感じのご意見なのでしょうか。もしそうだとすると、どうも、話の流れが逆のような感じもするのですが、どうなのでしょうか。 私の理解した話の流れだと、まず、 【人間の認識というのは認識する者の必要、特に生の必要に相対的であり、世界は特定の観点からのみ認識しうるのであってこの相対的なパースペクティブ(見透し図)を絶対的な基準で乗り越えることは不可能】 という考えを主張Rとすると、 この主張Rは、【認識する者の必要、特に生の必要に相対的であり、世界は特定の観点からのみ認識しうる】というのですから、相対主義であり、この考えを極端な形で採用すると、前に書いたような理由で自己矛盾に陥る、という感じに思えます。ニーチェの主張の力点が、主張Rにあるのか、主張Rは自己矛盾する、ということにあるのかわかりませんが、ともかく、理屈ではそうなるように思えます。 だとすると、話の流れは、主張Rは自己矛盾に陥るので、どこかおかしい、という方向の流れになって、 「だから、何かしらの一つのパースペクティブを、絶対的真理(とまではいかなくても、他のパースペクティブと相対的なもの「ではない」ものとして)採用するべきだ」という主張の流れのように感じてしまいます。 この流れからすると >独我論もパースペクティブのひとつ ということは、「独我論も多様なパースペクティブの一つなのだからそれを絶対視すべきではない」という風にとらえると、論理の流れに逆向きになるように思えるわけですが、それでよいのでしょうか。
- shift-2007
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私の車、私の家、私の仕事、私のお金、私の体、私の気持ち・・・ すべて、”の”が付きます。”は”ではないのです。という事は、私は車じゃないんです。 車や家なら言われるまでも無く分かりますが、体や気持ちも私じゃないんです。お腹が痛いのであって私が痛いのではありませんよね。 気持ちは私じゃありませんので、感情をコントロールできないのもそのせいですね。 それを踏まえて、 他人とは何でしょうか。 他人とは私じゃない人、のことですね。 私じゃないという言い方から分かるように、私がいなければ他人も存在しません。そういう意味では私が中心となって現れる世界の一部ですね。しかし、koumori44さんの目で見える他人、例えばshift-2007(この文章を書いている人)にとってもこの体は”私”ではありません。 では、我々にとって”私”とは何でしょうか。 私がいなければ他人はいないのと同じように、他人がいなければ私もいないと言えるでしょうか。そうすると互いの存在が無ければ有りえない存在になりますね。これはコインの表と裏に例えることが出来るでしょうか。表の無い裏はないし、裏の無い表も無い。 と、私が今感じるのはここまでです。 もう少し足を伸ばすなら、私が私を私と呼ばなくなったら、つまり自我が無くなったら世界はどう見えるのだろうと思ったりします。
お礼
再び返答いただき、ありがとうございます。
補足
>車や家なら言われるまでも無く分かりますが、体や気持ちも私じゃないんです。 私の車や、私の気持ちですら、私ではないことからして、他人の車も、もちろん私ではなくないでしょうし、誰のものでもない、その辺に生えている木も、私ではなくなりそうです。つまり「世界が私、という訳ではない」、というご意見のようですね。 しかし前回お答えしていただいた内容とのつながりがよくわからないのですが、 >世界が私なら他人も私のはず。 >他人の痛みは私の痛みじゃないでしょうか。 という前回のご発言は、どういう事だったのでしょうか? てっきり「世界は私である」という捉え方をしているのかと思ったのですが、それだと今回の発言と逆の事になりますので、「世界が私、と仮定するならば、他人も私であり他人の痛みも私であるが、実際はそうではない」という意味だったのでしょうか?
《社会的な独立存在》とは 《独立》の部分で 《自由意志》の存在を意味しています。ただし 《社会的な》意志の自由な発揮です。 人は意志の自由な選択によって ロビンソン・クルーソオになり そうでありつづけるといった非社会的な生活をすることも自由であり また 自己中心的になり人の意志を無視し存在を否定しようとするまでの反社会的なおこないを――《社会的な独立としての自由》ということに反して――するに至ることがあるという意味です。
お礼
たびたびご回答いただき、どうもありがとうございます。
補足
うーん、どうも、やはり、私には、仰られていることが どういう内容なのか、わからないようです。すみません。
#7・8・11を承けてのつづきです。 言おうとしたことは 全体から判断し得ると思うのですが 《人は 社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在である》 という意味です。 《関係性》と《独立性》とが同時にあって それゆえ 《他人の心も 自分の心の中に すべて おさまると思われる様相を呈している》はづです。あとは 《話し合い》です。 また《おさまる》というのは それだけの人格どうしの関係があるということ(公理)ですが そのすべてが 判然とわかるということではありません。自分の心についても わからない部分のほうが多いはづです。 いかがでしょうか。(昨夜はその後就寝しました。遅くなりました。)
お礼
たびたび返答いただき、ありがとうございます。
補足
>《人は 社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在である》 ですか。【社会的な独立存在】・・はて、なんのことでしょう。やはり私には何を仰られているのかよく理解できませんでした。たびたびお答えいただいたのに、どうもすみません。
お礼
どうも、またまた返答いただき、ありがとうございます。
補足
>いずれにしろ、今この目の前のものが実像(実の表象)である、と言い切れるだけの証拠を他人に提示することは不可能なようです。 確かにそんな気がしてしまいますね。懐疑論者からすると、他人の心というようなあやなものはおろか、間違いなく確かだと感じられる目の前の色々なものの存在までも疑いの対象になってしまうみたいですね。 ただ、そうだとすると、かえって他人の心というものの確かさも、認めてよいような感じもします。哲学的な懐疑論で確かではないといわれていても、どうしたって、目の前に自分の手があるのが確かに感じられますが、それと同じぐらい確かに、他人に私から独立した心があるのも感じるからです。 しかしやはり、そういった日常の感覚と、哲学的な結論の対立は、なんとか調停してみたいと思ってしまいます。 そういったことを探求する方針として、なんとなく、私の世界の中で他者なるものはどう構成されているのか、どういう存在なのか、という風にいくのも重要そうですが、言葉、概念の意味として、私から独立した、とか、超越論的、とか、外的な視点、というよう事が、一体何を意味するのか、そもそも意味がある言葉なのか、といった事を探求していくことによって、到達不可能に思える他人の心なるものが一体何なのか、なにかクリアに見えてくることがあるような、そんな気もします。