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受動態について
いつもお世話になっています。 受動態について質問があります。 Bill is loved by Jane. 上の文が英文として適切ではない(あまり、というか全然使われていない)のはどうしてなのでしょうか。loveという動詞自体が能動態に比べて受動態でほとんど使われないということは聞いたことがありますが、それとは別に、上の受動態の文におかしな点があるのであれば、どのような点がおかしいのでしょうか。 どなたかご存知のかた、ご教示ください。
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Gです。 >そこで、もしBill is loved by Jane.という文が成立してしまった場合、その文はどのようなフィーリングを聞き手(読み手)に与えるのでしょうか。あるいは、どのような状況下でならBill is loved by Jane.という文が成立する可能性があるのか。 つまり、普通のアメリカ人がこの表現をしたら、どのようなフィーリングを聞き手・読み手が感じるだろうか、と言う事ですね。 つまり、日本人が学校文法の悪影響で言ったと言うことではなく、アメリカ人が何かの理由でこの表現を使ったほうがいいだろうと感じたのでこの表現を使った。 その理由は何なのか。と言う事ですね。 誰かがBill is loved by many people!!と言われたのでそれに反対する為にC'mon!, Bill is loved only by Jane.とonlyをつけ、「同じ形の文章を使って」「愛されてはいるよ、ジェインだけにね」 と言うように「受身のフィーリングはそのまま出して(He is loved)」 only by Jane.と言う表現をすることは十分考えられます。 また、Nobody loves Bill. I am sorry for him. 誰もビルを愛してくれていない。 かわいそうな人。と言われ、そんなことは無いよ、ジェインには愛されているよ。No, that's not true. Bill is loved by Jane.と言うフィーリングを出すのも十分理解されます。 つまり、No, that's not true. Bill is loved by his family!!と言う感じにも使われますね。 つまり、誰も愛していない、と言う表現を、誰にも愛されていない、と言うフィーリングにとったわけです。 愛されていないからかわいそうだと言っているようにも聞こえるわけですから、そんなことは無いよ、(こう言っては悪いかもしれないけど) 他の人には愛されていないかもしれないけど、(あんな悪い奴と思われている人でも)家族からはちゃんと愛されているはずだよ。と言いたい時ってありますね。 この二つの例のように、愛されている、と言うフィーリングを「人が彼を愛している」と言う表現よりももっと状況にあった表現をしたい、つまり、愛されている、と言う受身にフィーリングを出したいからこそ、わざわざ受動態を使うわけです。 車の事故で亡くなった人について、車が彼を殺した、と言うよりも、車に殺された、と言うフィーリングの方が強いわけです。 ですから、He was killed by a carと言う表現をするわけです。 しかし、今現実に見ている車が彼を殺したんだってさ、と言う事であれば、This car killed him. This is the car that killed him.と言う表現になるわけです。 なぜなら、当然のごとく、いいたい事(フィーリング)は彼が殺された事ではなくこの車が殺した、なのですから。 そして、この車で彼が殺された、と言う事であれば、He was killed by this car!!と言う表現はちゃんとそのフィーリングを出しているわけです。 Bill is loved by Jane.と言う表現自体がおかしいと言うことではなく、この表現を使うにはそれなりにフィーリングが伴っていなければ使えない、と言う事であり、このフィーリングを言う機会は非常に少ないだろう、と言う事なのです。 なぜ私がフィーリングと言うものが文章の作り方を管理している、と言いすぎるほど言っているのがお分かりになりましたでしょうか。 こんな簡単な常識とも言える言葉の使用法の背景を学校で教えない、と言う事はおかしいわけであり、だからこそ、もう何億人と言う日本人でありながら英語で挨拶もできない「犠牲者」を作り上げたのは日本人がばかで知能指数が低いわけではないのです。 こんな簡単な事を、しかも毎日日本人は日本語の社会文法と自己文法によって日本語を使っていて、国語の学校文法を「神様」のごとくは扱っていないのにもかかわらず、日本の英語教育では教えようともしないのです。 そして、あまり使われていない、と言っているにもかかわらず、じゃどんな時に使うのか、と言う問いには答えられないのはなぜでしょう。 ではまたの機会にお会いしましょう。
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- Ganbatteruyo
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Gです。 補足質問を読ませてもらいました。 >Bill is loved by Jane.という文は、文法的には正しいのに実際には使われないということは、そこには何らかの合理的な理由があると思うのです。その理由が何なか、どのような感覚が働いて使われないのかということが私の疑問です。 ここに私が6年間行ってきたフィーリングというものが入り込んでいるのであり、文法と言うものについての「見直し」を願ってきたわけなのです。 >文法的には正しいのに と言う表現は語弊があるのです。 学校文法では正しいとされるのです。 方程式的に「生徒に文章を変換する事に全く違和感を感じさせない」と言う学校文法です。 しかし、ネイティ文が毎日使う「社会文法」ないし「自己文法」では良くない、使わない、と言う「文法」がそういったらおかしいぞ!!と「表現管理」をしてくれているのです。 He am a boy.と言ったら学校文法でも社会文法でも間違いですね。 社会文法では「そう言ったら馬鹿だと思われる」から言わないのです。 アメリカの学校文法(国語)でも間違いとされています。 しかし今回の場合、Bill is loved by Jane.は日本の学校文法ではOKとしてしまっているのです。 形がOKだからこの文章はOKとする、わけですね。 社会文法ではOKではないのです。 この表現は使わない、おかしな人だと思われてしまう、と言う自己文法が出来上がっているからなのです。 よって、下に持ってくるyyk2005さんが使っている「文法」と言う表現は学校文法のことだということを前提にしています。 >例えば、日本語の文法では、「食べることができる」を文法的には「食べられる」 と表現すべきであるのに、しばしば「食べれる」と表現します。言葉の乱れと言ってしまえばそれまでですが、この「ら」抜き言葉が流行るのにも何らかの合理的な理由があると思うのです。例えば、「られる」には受身の意味があり、「食べられる」と表現してしまうと受身の意味とも取られかねないので、可能の意だと明示するために「食べれる」という表現を使っている、などです。 私もこの生きた日本語の変化はすばらしいものだと思っています。 そして、ここに「日本語を使うときの」フィーリングと言うものが働いているわけです。 そのフィーリングとは、受身に取られてしまわれたくない、だから表現として、食べれる、と言う表現をすることで、「可能」を相手に伝えられる、と言う社会文法が出来上がってきているわけです。 そして、では自分は使いたいフィーリングがあるのかどうか、というとこの表現になれていない、とか、自分の年齢を気にしている、とか、ビジネス内ではまだ定着していないから使わないほうが「実の為」と言い聞かせる、と言うフィーリングに基づいた「自己文法」が上司の前では使うな、若い部下と話す時は使ってみるか、というようなフィーリングが生まれ、結局この表現を使うのか使わないほうがいいのかが決めるわけですね。 この日本語の表現に対しての「社会文法」や「自己文法」があるからこそその使用ガ変わってくるわけです。 国語と言う学校文法が口出しする事ではないわけです。 そして、国語と言う学校文法はこの件だけでなく毎日「無視」されているわけです。 >「この草は食べられる」という表現には、「この草は(何かに)食べられる」という受身の意味と、「(何かが)この草を食べることができる」という可能の意味の2種類の可能性があり、可能の意だとはっきりとさせるために「食べれる」と表現するのではないかと思います。あるいは、他の理由があるのかもしれませんが、何であれ何らかの理由はあると思うのです。 そうですね。 フィーリングの違いを出来れば簡単に出したい、と言う人間の自然な欲求(フィーリング)だと言う事です。 >そこで、Bill is loved by Jane.という文にもこれを使わないのに何らかの理由があるのであれば、それをお教えいただきたいのです。もちろん、実際に使われていないという事実は今回のご回答でよく理解できました。受け身にする必要性もないということも分かりました。その上で、文法的に正しいのにも関わらず使われない理由(感覚)のようなものがあれば、お教えください。 と言う事で、学校文法で「フィーリングを感じなくては表現は使えない」と言うルールをはっきり取り入れればいいわけですが、それをしていない為に、「文法(つまり学校文法)では正しいのになんで?」と言う疑問が当然ながら浮かんでくるわけです。 受動態とは学校文法では形だけを見ているのですね。 しかしネイティブ(日本語であろうと英語であろうと)の社会文法(社会的許容範囲)と自己文法(自己の経験と知識による許容範囲)では「受身」のフィーリングの重要さを見ているわけです。 これが、英語をネイティブのように使えるように教えているかいないかの大きな疑問点であるわけです。 私は学校文法は単なる知識として知っています。 そして、英語を使わなくてはならないと言う立場から社会文法と今まで育て上げてきた自己文法をフル回転で使わなくてはならないのです。 そして、自分でも分かっているわけですが、私自身の日本語に対する自己文法のレベルがあまりにも低いからこそ私の書いていることが分かってもらえないときが多く出てきてしまう、と反省もしています。 また書いてください。
補足
お礼が遅れ、申し訳ありません。 懇切なご回答、本当にありがとうございます。 「フィーリングを感じるからこそ、その表現(文法)を使う」ということですね。 本当に申し訳ありませんが、もう一つだけ最後に質問させてください。 仮に、Bill is loved by Jane.という文を使うことがあるとしたら、どのような状況が考えられるのでしょうか。「フィーリングを感じるからこその文法」ですが、逆もあると思うのです。つまり、文法的に成立することによってフィーリングを生み出すということですが。 例えば、日本語で「私は朝食を召し上がる」という文を表現しようとした場合、確かにこの文は普通はGさんのおっしゃる「自己文法」ないし「社会文法」に反しますので、思いとどまることになると思います。しかし、「私は朝食を召し上がる」という文がいったん成立してしまったあとは、「その文を作った(つまり話した/書いた)人は自分のことを尊敬されるべき人物だと考えている尊大な人か、あるいは本当に身分の高い人〈言い間違いとか、適切な言葉を知らない人という解釈は除きます〉」というフィーリングを生み出してしまうと思うのです。 そこで、もしBill is loved by Jane.という文が成立してしまった場合、その文はどのようなフィーリングを聞き手(読み手)に与えるのでしょうか。あるいは、どのような状況下でならBill is loved by Jane.という文が成立する可能性があるのか。何度も本当に申し訳ありませんが、ご教示いただけたら幸いです。
- Ganbatteruyo
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Gです。 こんにちは!! 私なりに書かせてくださいね。 受動態とは受身ですね。 (そんな事知っているよ、いわないで先を読んでくださいね) この事実を本当に日本の英語の先生は分かっているのでしょうか。 いいえ試験の為の知識ではなく使えるようになるための英語勉強の事です。 受動態が英語にあるから何でも能動態を受動態に変えられるという迷信は「この能動態の文章を受動態に変えなさい」と言う試験問題がある事がおかしいと思うようには教えてくれていないと言う証拠にもなります。 なぜ能動態を使いたいと感じ、その理由で使うのか、そして、なぜ受動態を使いたいと感じ、その理由で使うのか、根本的なことが分かっていないように思えます。 日本語の文章でも多分分かってもらえると思います。 Aは世界中で愛されている。 AはBに愛されている。 どっちが「自然」ですか? 勿論最初の文章ですね。 「愛されている」というフィーリングを出したいわけです。 多くに人が愛している、野ではなく、多くに人に愛されている、と言いたいわけです。 だから、He is loved by so many people.という表現が全く問題なく使えるわけです。 すばらしいフィーリング表現ですよね。 しかし、AはBに、の方はどうでしょうか。 本当にBに愛されている、という表現が「必要」なのでしょうか。 絶対必要な時って言葉である以上あるでしょうね。 その時にしかこの表現を使わないのです。 その絶対なる必要性を感じさせない状況ではこのA is loved by Bの表現は非常におかしいと言ってもいいくらいなわけです。 ですから、この個人と個人の間でのことであればB loves Aと言う表現の方がはるかに好まれるわけです。 と言う事で、なぜ使われないのか、と言う理由は文法ではないのです。 言う人のフィーリングがどれだけ「愛されているのか」という事を表現したいからわざわざ受動態を使うわけです。 そのための表現方法なのです。 ですから、そのフィーリングがないのであれば、受身のフィーリングの示す受動態は使われないのです。 自然だと思いませんか? これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。
お礼
ご回答ありがとうございます。 もしご迷惑でなければ、もう一つ質問させてください。 Bill is loved by Jane. という文は、文法的には正しいのに実際には使われないということは、そこには何らかの合理的な理由があると思うのです。その理由が何なか、どのような感覚が働いて使われないのかということが私の疑問です。 例えば、日本語の文法では、「食べることができる」を文法的には「食べられる」 と表現すべきであるのに、しばしば「食べれる」と表現します。言葉の乱れと言ってしまえばそれまでですが、この「ら」抜き言葉が流行るのにも何らかの合理的な理由があると思うのです。例えば、「られる」には受身の意味があり、「食べられる」と表現してしまうと受身の意味とも取られかねないので、可能の意だと明示するために「食べれる」という表現を使っている、などです。「この草は食べられる」という表現には、「この草は(何かに)食べられる」という受身の意味と、「(何かが)この草を食べることができる」という可能の意味の2種類の可能性があり、可能の意だとはっきりとさせるために「食べれる」と表現するのではないかと思います。あるいは、他の理由があるのかもしれませんが、何であれ何らかの理由はあると思うのです。 そこで、Bill is loved by Jane.という文にもこれを使わないのに何らかの理由があるのであれば、それをお教えいただきたいのです。もちろん、実際に使われていないという事実は今回のご回答でよく理解できました。受け身にする必要性もないということも分かりました。その上で、文法的に正しいのにも関わらず使われない理由(感覚)のようなものがあれば、お教えください。
- taked4700
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love というと、どうしても個人の積極的な情熱のようなイメージが伴うので、その個人が特定されているなら、その個人を主語にした形が好まれると言うことではないでしょうか。 受動態は、能動態と違い、その動作の積極性を感じさせませんから、その動作をする動作主が明らかな場合は、どうしても能動態になる。 その意味で、動作主が特定されない場合は受身になりやすく、 No.1でsanoriさんがあげられた例文 >I wonna be loved by somebody. >とか >His songs are loved by many people. は成立すると言うことではないでしょうか。 同じようなことはknow にも言えて、googleで引いてみると "the fact is known by him"に該当するページが見つかりませんでした。 "he knows the fact" の検索結果のうち 日本語 と 英語のページ 約 217 件 "is known by him" の検索結果のうち 日本語 と 英語のページ 約 940 件 "he knows" の検索結果のうち 日本語 と 英語のページ 約 7,430,000 件 のようになります。 ただ、自分も含めて、日本の中学校では、普通に He is loved by her. のような文を教えていますけどね。
お礼
ありがとうございました。
- sanori
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love の受動態である loved は、わりと頻繁に登場します。 Bill is loved by Jane. も、文法的に間違いではないとは思います。 通常、そう言うか言わないかという、習慣の問題だと思います。 たとえば、 I wonna be loved by somebody. とか His songs are loved by many people. とかは、"習慣"としては普通だと思います。 しかし、 Bill is loved by Jane. は、変な感じです。 話し言葉の文なのに、妙に文語調なように見えます。 日本語でも、受動態にしたら変な文って結構ありますよ。 ○ 私たちはテレビを見ています。 × テレビは私たちに見られています。 ○ 僕はカバンを持っています。 × カバンは僕によって持たれています。 同じようなことじゃないでしょうか。 言葉は"生きて"いるものです。 習慣というのは、文法よりも先に来るものです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 あげあしを取るつもりではなく、もしご気分を害されたらお詫びいたします。 Longman grammer of spoken and written English(1999)によると、loveが受動態として使用される頻度は全体の2パーセントに過ぎないようです。 また、日本語では、そもそも無生物を主語にとらない傾向があるので、ご回答者様の挙げてくださった例で、英語と比較することは難しいのではないかと思います。
お礼
何度も丁寧なご回答をいただき、本当にありがとうございました。