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どうして人を殺しちゃいけないんでしょうか?
人間は自分の必要不必要に動物を殺します。 だけど人間は殺してはいけない、と学校では教わります。 けど人間だって生き物ですから自然淘汰、という形での『殺し合い』は容認されるのではないでしょうか? 何故人を殺してはいけないのでしょう?
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- katura3
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子供に似たような質問をされたことがあります。 まず、不必要に動物を殺す行為は良くない事だと思います。(この事は、又、難しいのでうまく、答えられないですごめんなさい!) では、必要に動物を殺すことですが、考え方をちょっと変えて、生きるために命をいただいて、自分の体の骨や血となり共に食べた動物、植物も自分が生きてる限り一緒に命となって共に生き続けているから、いろんな、命に、生かされているから、体を大切にしてね!と話しました。では、人間はどうでしょう? 殺して命を受け告げられないし、法律もあるからね。 誰か、殺したい人がいるのかな?
- larme001
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確かに難しい問題ですね。人間個人レベルでみると、「自分」という存在を後世まで生かすために、他人を殺す行為はありでしょう。ただ、人間社会を一つの生命の種として考えると、生物学的な目的はおそらく人間という種をいき続けさせることになるでしょう。そのなかで、「殺しあう」ことというのは、自分たちの首を絞めているにすぎません。個々の人間の生存と、種としての生存それらを双方に満たす必要があるといえるでしょう。これは、人間以外でも群れ、種族、などで生きる生命すべてが同時に持つものです。 個どうしが殺しあうことは種として生きるのとは矛盾することだ、といいましたが、それではどこに線を引くか、ということになるでしょう。おそらく、人間、すなわち、高度な知能をもった生命は「殺しあうことは損だ」というような結論に至ったのでしょう。ここで、出来る限りの殺し合いをなくすことが、より個にとっても安全であり、人種を将来まで生存させることでもある、となったのでしょう。質問者さんは「自然淘汰という形での殺し合いは容認されるべきだ」といっていますが、それが、「出来る限り人がひとを殺すことを禁ずる。ただし、人を殺した者(重罪人)は、ルールに従う個々にとって危険な存在だから、彼らは死んでもらう。」というのが今の社会ではないでしょうか? ちなみに、国と国の間の生存でみれば、戦争が今でもあります。ただ、世の中は平等(差別しないという意味で)、平和主義へ向かっていますが、これは、言い換えると「弱肉強食をやめて、皆が皆の存在を尊重しよう。」という方向に我々人間社会は向かっているということではないでしょうか?つまり、個々が弱肉強食や自然淘汰による危険を、皆が一定のルールによって、お互いに保障することで、他人を蹴落としてまで回避しなくて良いように取りまとめつつ、結局は人間という種を後世に残していく為の種としての目的も果たすことに成功した(?)ということではないでしょうか?つまり、高度な知能を持ったことにより同種間の「殺し合い」が、無意味なもの、してはいけないこと、として定着していったのでしょうか。 人間が他の動物を殺す理由は、ほとんど人間の利益によるものでしょう。殺しすぎると、特定の動物がいなくなって結局は人間が困る。かわいいから、大切にしたいから、というのも、結局は人間の善意という心的安定を満たす行為であるのであって、「殺す」か「殺さない」かを好き勝手決めているのは今のところ人間の都合です。ただ、他の動物がどうなろうと、「人間」を後世に生かすことがとりあえずは出来ればいいのかもしれません。 最も、人間も他の動物も、植物も「生物」という枠組みで一つの仲間意識芽生えれば、殺さなくなるかもしれませんがね。今のところ、人間が生きる為に動物を殺すことは必要なので、そのような考えはあまり定着していないのでしょう。 長ったらしいですが、ふと考えたことですので、あくまで一つの考え方として。
- haya122
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哲学的・論理的に突き詰めると「人が人を殺しても良い」事になります。 言葉の意味だけを追求する、より哲学的になると「人が人を殺しても良い」事になります。 言葉に表現が伴わないと「人が人を殺しても良い」事になります。 >何故人を殺してはいけないのでしょう? という質問に対する回答は哲学だけでは不十分で芸術の面からの回答も必要です。
悩んでおられるかもしれませんが。 はっきり言いますとこの手の問題は論理で答えるタイプのものではありませんよ。 たとえどれだけ理屈を突き詰めていっても、社会倫理との軋轢が必ず生じます。 人を殺してはいけないのかというのは社会倫理に対する問であり、その答えは殺し合いが横行したら困る程度で十二分です。 ある時、ふっと分かると思いますよ。 そうですね、国家の品格にも同じような事が書いてあります。あの本を持ち上げるわけではないですが、一回読んでみると何か分かるかもしれません。
- kobarero
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人を殺すということは、自分を殺すことです。従って、人を殺してはいけません。
- hakobulu
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多少、心理学的な私見混じりの回答になります。 「人を殺してはいけない」というのは社会的不文律であるより以前に、殺す人本人のためにならないから、ではないかと私は思います。 人を殺すにはたとえ理不尽であっても必ず何らかの理由があるはずです。 そして、その時点では殺すという方法をとるのが最善の方法、あるいは他にとる道は無い、と考えて(思いつめて)しまうわけでしょう。 人が生きるということは、朝起きてベッドから降りる時に右足から降りるか左足から降りるか、ということを始めとして、 また、無意識的なものも含め、全て『選択の連続』であるという見方ができると思います。 この中で、「人を殺す」という選択は、どんな理由があっても本人自身を不幸にする、という真理が含まれているのではないでしょうか。 他人を殺すということは、「自分と別の何かを殺す」ということではありません。 「自分と同じ人間を殺す」ということです。 私たちはひとりひとりみな違う、ということも事実ですが、しかし、実は誰しもアイデンティティ無くしては生きられない、ということもまた事実でしょう。 アイデンティティとは、自分が自分であることの確信(あるいは確認)、主体性を持つものとしての自己、といったような意味で、 明らかに他者の存在を前提にした(あるいは他者の存在に依存した)概念です。 私にアイデンティティがある(意識しているいないは別にして)のと同様に、相手にもそれはあるわけです。 何かの理由があって(理由がないという理由も含めて)私が相手を殺した場合、相手のアイデンティティも共に消滅させた(殺した)ことになります。 つまり、相手のアイデンティティが前提にしていた私という存在イメージも消滅することになります。 消滅したのは、確かに表向きは単なるイメージに過ぎないわけですが、人の心理は、これを他者に認識されていた(あるいは認識可能だった)自己の喪失、と捉えるのではないかという気がします。 世界中の自分以外の人間全てを殺した時のことを想定すると、この感覚は想像しやすいのではないでしょうか。 端的に言うと、他人を殺すということは自分を殺すことだ、という命題が成立するように思われます。 「想像」ということに関連してもう少し述べてみれば、人間には想像力があります。 理由さえあれば(場合によっては無くても)自分が他人を殺せるのだから、他人も自分を殺せるはずだ、という無意識的連想(想像)を働かせることはそう難しいことではないでしょう。 人間に対する根源的な怖れと不信感が無意識領域に強く刻印され、その後の人生を本人の気付かぬうちに揺さぶることになり、 理由のわからない焦燥と不安で精神に安らぐ暇を与えないことになるであろうことは容易に推測できます。 つまり、正確に言うと、 「人を殺してはいけない」ではなく、 「人を殺さないほうがよい」ということでしょう。 以上が「>何故人を殺してはいけないのでしょう?」という疑問に対する本質的な回答です。 しかし、人を殺してしまった後でこのことに気付く人間もいるので、社会的な相互契約としての「人を殺してはいけない」という制約は当然必要になります。 社会的契約としてこのような制約が必要だということは、取りも直さず人類の未熟さを示すものに他ならない、ということもまた事実だということになるでしょう。 いずれにしても「人を殺す」ということは、基本的に自らの人間としての可能性を全て放棄することになります。 「殺してはいけない」と他人から制約されなければ、その可能性の放棄を思いとどまることができない、あるいは制約があっても自らの可能性を放棄してしまう、 という根本的な人間性の否定に直結している、ということに気付く必要があります。 国家的規模の殺人、すなわち戦争、死刑は、そういった人間性の否定の方向へ国民を引きずるだけの、あるいは一時的な本能的満足感の替わりに永遠の負の記憶を植えつけるだけの値打ちしかないものであることを再確認する必要があるでしょう。
動物同属同士は力比べはしますが、相手を殺すまで力比べをしませんよね?。 人間は恨み、妬みなどで簡単に人を殺す人が居ます。 そう、眉毛がピックと動いた事を気にいらないと言って殺す人が居るかも知れませんからね。 人間だけですよね?、動物はそんな事はしませんよね?。 だから人を殺してはいけないと言うのでしょうね。 まぁ、感情を持ち遇わせたがゆえに同属を殺すと言う事は自然淘汰の罠の一部かも知れませんね。 そう、欲と感情を持たなければ力比べで済んだかも知れませんね。
- Kai_Rasen
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理由はいくつかあると思いますが、 今の時代ではまず「国という団体に属す以上、お互いの共存のために殺人は認めない」という事になります。 日本に生まれ、日本で生かれているという事は「日本で殺されず生活できる権利を得る」と同時に「誰かを殺したり誰かの物を取ってはならない義務を背負う」いう事です。 その権利や義務を放棄した人間には、どんな思想も通用しません。 人は「殺されたくないから」自分も殺しません。 身内を殺され怒り狂う人というのは「殺されない権利」を放棄してでも憎い人間を殺そうとするので、このような人には「殺しは正当化」されます。 人間は地球と言う団体で生かされているにすぎないので、その人ひとりだけでも日本の経済へ貢献し、周囲の人へ影響を及ぼします。 自分の体は自由に使うことが出来ますが、けして自分の所有物ではないと思います。自由な体を借りて何十年か地球で生かされる事を許されたのです。 そのような身の人間が他人を殺して良いわけはないですし、自殺もしてはならないと思います。 団体で共存しているから・自分が殺されたくないから この二つでしょうね。
- michael-m
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自然淘汰を簡単に言えば参考URL(ウィキペディア)のようになります。 しかし人間が殺しあう事は、それによって明確な優性遺伝子が伝達される訳でもなく、自らの命を延ばす訳でもなく、主の生存が許容量を超えている訳でもあり居ません。 つまり、人が人を殺す行為は自然淘汰ではないのです。 また、人は自由を有しますが、自由は「他の自由を奪わない範囲」での自由です。従って人を殺す(その人の自由を奪う)事は自由ではありません。 人は生きていくに必要な、他の動植物の生命を奪っています。これは人が生命である以上、逃れられない宿命です。しかしその行為には、自らの遺伝子を残そうとする、その為に自らの命を延ばすという、全ての生物に共通した目的があります。 しかし、不必要(上記条件に合わない)に他の生命を奪ったり、傷つけたりする権限は人にもありません。
- czc
- ベストアンサー率40% (2/5)
人が人を殺すということの動機を突き詰めていくと、多くの場合は、直接的、間接的に自分の生殖活動(恋愛、家族等)、生命維持(職場、財産等)を妨害するであろう他の生命体を排除しなければ自分の生存(遺伝子)が継続しないということに行き着くと思います。 他人を排除したいと思う場合については、感受性の個人差もありますが、自分を否定する発言、自分の敷地内への無断侵入、あるいは、すれ違ったときにぶつかっただけでも殺意を抱く人もいるわけです。 ところが、人間や他の動物の多くは、集団社会をつくって生活していくことも、生殖活動、生命維持の有効な一つの手段として取り入れたわけです。その集団のなかで生きていくには協調性が重要になるわけですが、その時に安易な短絡的な動機により、同じ生活共同体に住んでいるある人を殺めてしまった場合、殺めた当人、その家族、親類までもがその集団のなかでは生活しにくくなります。当然殺められた方の家族、縁者からも恨みを買うわけで、お互いの家系の将来、子孫継承に危機が迫ることになります。 人間は、遺伝子継承というような本能的な部分を、法律、社会ルールという理性と照らし合わせ、折り合いを付けながら生きているのではないでしょうか。 遺伝子継承については下記のところで少し書いています。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2711161.html