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どうして人を殺しちゃいけないんでしょうか?
人間は自分の必要不必要に動物を殺します。 だけど人間は殺してはいけない、と学校では教わります。 けど人間だって生き物ですから自然淘汰、という形での『殺し合い』は容認されるのではないでしょうか? 何故人を殺してはいけないのでしょう?
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法律に引っ掛かるからです。(当たり前!) ただ、殺す価値がある人物は、そうは居ないものです。 殺意を抱いてしまうような行いをするお方は、放って置けば、自ら命を絶つ運命にあるかと思います。 (それほど、人生・世の中は甘くは無い。) 確実に殺される状況以外では、必要の無い行為でしょう。
自然淘汰というかたちであなた自身が殺されてもかまわないということでしょうか。たとえば、あなたの考え方はおかしいから、殺しますとか、あるいは、屈強な人間が現れて、あなたが弱そうだから殺してしまえといわれて、そうですかと素直に殺されますか。
- masalee
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Tindalosという方が、最も回答に近いと思います。 他、自然淘汰の解釈、文献引用や観念的説明はほぼ無意味に近い、むしろ危険とさえ感じます。 私からも、明確に回答させてください。 ■結論1 【人を殺してはいけない】なんてことはありません。 ■前提 殺人が自由な社会では、自分自身も常に死と隣り合わせの、恐怖と疑心暗鬼の生活となります。法律は、このような無秩序な社会から抜け出すためにあります。 法律を決めるにしても、独裁者が自身の安泰のために、身勝手に決めるのでは意味がありません。このため、なるべく公平に全体が納得しやすいようにと、議会制度、民主主義等工夫されてます。 また一部の支配者/権力者の暴走を止めるには、権力は互いに監視し合い自律しなければなりません。 つまり【人を殺してはいけない】のではなく、【なるべく殺し合わないほうが社会が存続しやすい】というだけのことです。 ■結論2 質問内容は、おそらく以下に置き換えられます。 【何故彼らは、人を殺してはいけないと教えるのか?】 これは、つまり上記のような無秩序な社会を嫌悪し、安心と存続を優先するからです。 以上の2つの結論で、質問は回答出来たと思います。
- ayanonoa
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人を殺す理由が無いからです。
- magga
- ベストアンサー率15% (56/359)
僕なりの回答を試みようと思います。 皆、自分は楽しくいたいし、生きていたいと考えているでしょ? 皆、やな気持ちにされたり、傷付けられたり殺されそうになったらどう思うかな? 皆怖くなって、その人に対して、いやな気持ちになったり、やり返そうとするでしょ? そうしたら、やった人は皆にいやな気持ちを持たれて、やり返されたりして、楽しく生きていけるかな? じゃあどうしたら楽しく生きていけるのかな? 楽しくしてくれたり、生きる手助けをしてくれる人に対して、皆どんな風に思うかな? ありがとう、僕も何かしようか?って思うよね? じゃあ楽しく生きていきたいなら皆に優しくしていかなきゃねw こんな感じです。 人の権利を奪うと自分の権利を失う。 だからやってはいけない、君が不幸になるから。 参考になれば幸いです。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~
- u-nnmayouw
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頭で考えるのではなく感じなさい。
寂しい..... ね.
- konagoo
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『容認』とは何かを理解する理性は『殺し合い』は容認しません。 自分が愛する恋人、配偶者、子供、親、兄弟が死亡した原因が殺意ある殺人であったことを理解する理性にこれを容認することはできないのです。愛犬が殺意を持って殺された場合も容認しませんね。
- pittit
- ベストアンサー率50% (1/2)
まず、あなた自身が動物を殺した事があるか、が問題です。 もし無いなら、あなたは死を知りません。まず殺してください。 自分の手で殺した事があり、それでも良心の呵責を感じなかったかどうか。 感じたなら、あなたはその動物を一匹の個性ある対象として、世界に一匹の相手として見たということです。 もし感じなかったという場合は、なぜ殺したかが問題です。 自分が生きるために食べるために殺したというなら、その時あなたの命と動物の命は等価であり、能力のあるあなたが生き残ったという事です。 その時あなたと動物の関係は人と獣ではなく、生物と生物です。 どちらが上も正しいもありません。 何の理由もなく殺し、呵責も無いとすれば、その時あなたと動物は生物でもなく、たんぱく質の塊と塊です。 たとえ生きて無くても、塊には変わりありません。 あなたが動物をどう認識したかは質問からは分かりません。 でも並べると分かりますが、相手が人だろうと動物だろうと、相手を具体的対象としてみるか、抽象的概念としてみるかで殺せるかどうかが決まります。 自分との関係が近く、具体的な相手ほど殺せません。 これをエゴという人もいますが、関係とはそういうものだと思います。 全ての者が(人も獣も自然も)具体的に認識出来る相手のことだけ考えて、それ以外の抽象的な相手を取って食い、踏み潰しています。 ただ知らないだけで。 たまたま目に入った具体的とも抽象的とも言えない相手をどちらに含めるか、というのはあなた次第だと思います。 あなたが相手を殺さないでも生きていけるなら、そうする方がいいと思います。新しい仲間が1人増えます。 殺す必要があるなら、そうするべきでしょう。 あなたが自分と自分の世界をどれだけ広く認識できるかは、自分の命と能力を賭けて相手と向き合えるかどうかだと思います。 まず抽象的な動物とか人とかいう言い方を止めて、具体的な誰かと向き合ってみたらどうでしょうか。 その上で相手を殺せるかどうか、自分の心が教えてくれると思います。
- ghostbuster
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なぜ人を殺してはいけないのか。 この問いは以前からくりかえしなされてきたものです。このタイトルで本も出ていますし、多くの識者がそれぞれに答えてもいます。にもかかわらず、人がこう問い返すことをやめないのはどうしてか。 それは現実に、人間は人間を殺し続けてきたし、いま、この瞬間にもおそらくは殺しているし、これからも殺し続けるからでしょう。 国が、組織が、個人が、人間を殺す、というのは、むしろ当たり前のこととして行われてきたし、これからも行われていくだろう。 それでもなお、この〈わたし〉が他者を殺さないのは、殺すこともできるのに殺さないのはどうしてなのか。むしろ、不思議なのはそのことであって、その答えを知りたいからにほかならないからなのではないか。 この不思議さを問うことは、ひとりひとりにとって重要であるし、折に触れ、立ち戻ってくる必要があるのではないかと思います。 その答えとして、多く見受けられるのが、「自分が殺されるのが厭なら、他人も殺してはならない」という、一種の等価交換の論理です(※以下は特定の回答に対する批判ではありません)。 けれども、この等価交換の論理を成り立たせるためには、「自分」=「他者」という前提が成り立たっていなくてはなりません。 ところが、この〈わたし〉にあっては、「自分」と「他者」は同等の価値を持つものではあり得ないのです。 世界は本質的に、「主観的」にしかわたしたちの前に立ち現れません。たとえば「わたしは頭が痛い」と感じる。これはあくまでも〈わたし〉にとってのみ現れている状態です。 他人が「頭が痛い」と言っているのを聞けば、わたしたちは自分の経験からその痛みを類推することはできますが、その類推が正しいかどうか、たとえば痛みの強度や質がほんとうに類推しているのと同じなのかどうか、だれにも判定することはできない。 あるいは「空が青い」と思う。けれどもあくまで〈わたし〉の目に映る「空の青さ」であって、その同じ状態がほかの人にとってはまた別の世界として現れているのかもしれない。 それをほかの人も同じように「空が青いね」と言っているのかもしれないのです。 〈わたし〉が感じている青、〈わたし〉が意味している空、それがほかの人と同じものかどうか判定できる人はどこにもいない。 自分を尺度に相手の気持ちを類推して、齟齬を生じた経験はだれにもあるでしょう。 けれども、その齟齬はむしろ当然のことなのです。 自分が自分である限り、人は自分以外の人の経験を共有することは不可能です。 それでも、わたしたちは現実にだれかと会い、行動をともにしたり、コミュニケーションをとったりします。そうして、その経験をもとに、わたしたちは相手を理解したように思います。 それでもこの相手は、あくまでも「〈わたし〉が理解したあなた」であって、〈あなた〉はまったく別個の存在です。 他者は〈わたし〉には決して到達することのできない存在です。 けれども、一方で「〈わたし〉が理解したあなた」は、〈わたし〉にとって、どうにでもできる存在です。 〈わたし〉が、目の前のあなたに腹を立て、「消えてしまえ」と願い、目をつぶってしまえば、実際にあなたの姿を目前から消してしまうことは可能です。 さらに、関係を絶つことも、もっと言えば、殺してしまうことも、可能です。それに対して〈わたし〉というありようを自分が消してしまうことは、生き続けるかぎり不可能です。 つまり、「〈わたし〉が理解したあなた」は〈わたし〉と同等ではありえないし、また、〈わたし〉を経験するようなやりかたで他者を経験することもできない。「自分」=「他者」という等価は、そもそも成立していないのです。 ですから、「自分が殺されるのが厭なら、他人も殺してはならない」という等価交換の論理は契約としてなら成立しますが、それ以上にわたしたちを説得するものではないのです。 では、どう考えたらいいのか。 この「殺せるのに殺さないのはなぜか」ということを鋭く問いつめたのがレヴィナスです。 『存在と無限』のなかにも、「存在論は根源的か」(『レヴィナスコレクション』所収)のなかにも出てきます。 ここでその箇所を引いて要領よくまとめるようなことはわたしにはとてもできませんので、代わりに岩田靖夫『よく生きる』(ちくま新書)から引用してみましょう。 ----p.136 からの引用---- レヴィナスの哲学では、実体的な意味で「私」というような者はどこにもないのです。他者との関わりなしには、私は私であると言えるような、私というものはどこにもないのです。私というものは、いつでも他者との関わりにおいて、その関わりの中でかけがえのないものとなるときに、私になる。そして、その「かけがえのないもの」と「かけがえのないもの」の関わりが愛という言葉で表現されていることなんですね。 だから「隣人を愛せ」という命令は、他者とのかけがえのない関わりの中に入れ、という命令です。そういう命令をわれわれは神から受けているのです。どこで受けているのだ。他者の顔において。顔の中でその命令が発せられている、と言うのです。レヴィナスは。 他者の顔に直面するときに、その顔から「殺すな」という命令をわれわれは受けとるのです。「殺すな」ということには、なんの理論的な根拠もありません。そこには命令があるだけです。 ------