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連体修飾語は修飾語にならないんですか?

文英堂「これでわかる国文法 中学1~3年」と言う本の14ページに、 「連体修飾語は修飾語にならない」というのがあります。 それによると、 文の成分としての修飾語は全て連用修飾語で、連体修飾語というものは無い、とのこと。 「彼は有名な詩人です」の「有名な」は修飾語ではなく、「有名な詩人です」で述部なのだそうです。 私にはどうもよくわからないのですが、解りやすく教えてください。

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回答No.6

少し間が開いてしまいました。すみません。 「これでわかる国文法」を入手し、読んでみましたが。前に私が類推したように、連体修飾語は、文の成分としての修飾語とはならない、という意味です。わかりづらいという難点はありますが、それなりに意味のある説明だと思います。 また、小学校の教科書は時期的に入手に時間がかかるので(私も地方都市に住んでいます)、いわゆるガイド類を見てみたところ、光村では小2で主語述語、3年で述語の概念を教えるようです(用語=主語・述語・修飾語、も使うようです。)。なお、この段階では連体も連用も修飾語としているようです(もちろん連用・連体の語、概念は使っていません)。 ただ、他の社では上の学年でさらに詳しく(といってもさほどではありません)説明しているのに対し、光村では、六年で助詞入門的な内容をやるだけで、文の組み立てに関する文法事項は一切扱いません。 以上から、小学校では(塾でも)、非受験組には、主語・述語・修飾語の違いを理解させるだけで十分であると考えます。 受験組には、受ける中学によって対策は異なるでしょうが、文法事項が出題されるなら、前に書いたように文節相互の関係と文の成分との概念の整理を、教師、児童の両方がしっかり行うことが必要だと思います(受験対策としても、中学進学後の学習に対する備えとしても)。 なお、#5の方に僭越ながら答えるなら、現在の学校文法においては、文節=文の成分といった橋本文法そのままの説ではなく、むしろご指摘のような文節論の限界を補うために、新たな成分概念が導入されている、といえそうです。その徹底化が、#4で申し上げたような、光村の編集方針(中一段階=文の成分の概略をおさえ、連体・連用概念を明らかにするまでは、連体修飾語の概念をあえて封印する方法)に見ることができます。文の成分は、連文節としてそれ以上まとめられない文の構成単位として考えられています。ただ、文節相互の関係から文の成分への受け渡しについては、いまだ試行錯誤の段階にあると思います。私が国語の教材を作り始めた20年前から、その試行錯誤はいろいろ重ねられてきていますが、まだまだ十分とは言えません。 ただ、あの有名な小西大先生の「古文研究法」に載っていた東大一次の古文における成分に関する問題(たぶん50年ぐらい前のものでしょう)のような滅茶苦茶な概念の混乱(下記URL参照。そのサイトの方と何度かやりとりをして、内容に私見を反映させていただきました)は今ではなくなっていて、それなりに体系的で整った成分の考え方が構築されてきていると思います。また、文節の限界は、時枝先生の「入れ子構造」や渡辺実先生の「文節解体論」などによって次第に明らかになるとともに、乗り越えられていくのではないかと考えます(ただ、初学者に文法に教える際に「文節」という概念が相対的に優れ有効であるのは間違いがないと思います)。 なお、質問者の方にアドバイスを加えるとしたら、同じ文英堂の「くわしい国文法」を入手し、その20~21ページを読んでください。文節相互の関係(赤字)と文の成分(青字)の違いがよくまとめられています。 最後に、まとまりのないお答えに終始したことをおわびします。一度文の成分に関してはじっくり考えてまとめてみたいと思っているのですが、なかなかその時間がとれず、また非才ゆえ、手つかずでいるのです。

参考URL:
http://www.asahi-net.or.jp/~qm4h-iim/k990730.htm
azazasas
質問者

お礼

奥が深いですね。 丁寧なご説明、ありがとうございます。

その他の回答 (5)

  • OKAT
  • ベストアンサー率38% (247/639)
回答No.5

これは、「学校文法」における問題点の一つです。文の最小単位として「文節」を考えると、(もっと小さな単位に「単語」がありますが、ここでは「主語」や「修飾語」や「術語」の役割をするのは「文節」あるいは「連文節」である、という立場で説明します)  「彼は」(主語文節)+「有名な詩人です」(術語連文節) 普通なら「有名な」という文節は「詩人」にかかる「連体修飾語」です。「詩人です」という文節にはかかりません。「詩人」一つの文節にしてしまうと、「です」が浮いてしまって困ります。「です」という助動詞は付属語だから一つの文節にはなり得ません。だから「有名な」を「連体修飾語文節」とは考えにくいのです。  さらに、話をややこしくしますが、    彼はとても有名な詩人です。 という場合、「とても」は「有名な」にかかる「連用修飾語」ですが、全体の文のなかでは、どう説明すればいいのでしょう。    「わたしは男だ」と言った。 を文節で分けると、「わたしは」「男だと」「言った」となりますが、 本当は「わたしは男だ」「と言った」としたいところです。しかし、文節が「自立語+付属語」だと定義されれば、「男だと」が1文節になります。文節単位で考えることの限界は、こういうところに表れます。学校ではどう教えているのでしょう。 

回答No.4

「お礼」ではなく「補足」要求をいただいたと解します。 まず、「これでわかる国文法~」を読まずにご回答したのはまずかったと反省し、数日中に入手し、その上で(もし質問を閉じていらっしゃらなかったら)改めて言うべきことがあれば追加回答したいと考えておりました(ただいま風邪で外出できないもので・・・)。 また、私は現行版の国語の教科書は小学校4年以降のもの(~中3。全社)しか持っていません。光村のその範囲の教科書には、文法的な事柄が一切書かれていません(他社のものはまだ完全には目を通していません)。 以前は、小3で「文の三つの形」(主語と述語)を教えており、教科書によって高学年で修飾語を教えていたと記憶していますが、正直、私は最近中学校専門で、小学校向けの仕事(国語の諸教材執筆)をしていないので、現在のことは憶測でしかお話しできません。 誠に勝手ですが、しばらくお時間をいただければ(質問を開いておいていただければ)、上記文法書並びに小3の教科書を入手して勉強し(自分のために)、何らかのお答えをしたいと思います。 ただ、仕事を持つ身ゆえ(今、高校入試の来年度の模試作りなどで結構忙しいのです)、絶対に回答を差し上げるとはお約束できませんので、その点はお許しください。 ただ一言だけ。 今の光村の中一の教科書では「修飾語」という言葉で「連用修飾語」だけを挙げています。連体修飾語については、全く触れていません(確信犯として「連体」「連用」の別や「連体修飾語」をブラックボックスに入れてしまっていると解釈できます)。 そして、中二になって「活用しない自立語」(用言を学習した後)をやるときに、初めて「連体修飾語」という言葉(つまり連体と連用の違いも)が出てきます。ここで問題なのは、中一で教えた「修飾語」に「連体修飾語」を含むのか否かは、はっきり述べていないことです。 ただ、品詞を一通りやったあと、例に漏れず品詞一覧表を載せていますが、そこでは「修飾語になる」という範疇の下位に「副詞」と「連体詞」を並べ、「連体詞」の説明(定義、と言っていいでしょう)として「体言だけを修飾する」と述べています。ここから、光村でも「連体修飾語」を「修飾語」と考えていいことがわかりますが、ただ、それが中一における「修飾語」の概念、あるいは「成分」としての修飾語という概念とどう関連するのかは、教科書の文面だけからは判断できません。 一言のつもりが結局長くなりました。 問題はまだまだあるのですが、今日のところはこれで終わりたいと考えます。あまりお役に立てず済みません。なお、よろしかったら(可能なら)、質問者の方の立場をお答えいただけませんか。それによって、何をどこまでお答えするかが変わってくると思うのですが。

azazasas
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 まず私の立場ですが、塾で教えています。 教材は中学のものなのですが、 主語述語を答える問題は小学生でも出てくるし、 そのときに私は 「彼は有名な詩人です」は「詩人です」は述語、「有名な」は修飾語だと教えるだろうな、と思い、 もしかしたらこれはまずかったのかなと心配になり、投稿しました。 なお、ここは、「閉めなさい」の催促が来るまでは開いておきます。宜しくお願いします。

回答No.3

正確に言うと、こういうことです。 「連体修飾語」は常にほかの文節と連文節になり、その連文節が文の成分になる。言い換えれば、「連体修飾語」は単独では文の成分にはならない。(これは「連体修飾部」という連文節の場合も同様である。) (ここで「文の成分」というのは、文を組み立てている最終的な成分のことです。「成分」という単位は、教科書や文法学者によって定義がさまざまでわかりづらいのですが、光村の新しい教科書ではこの用語を使うこと自体をやめてしまいました。) 参考書に本当に「連体修飾語は修飾語にならない」と書いてあるのなら、それは間違い、あるいは言葉足らずであり、正確には、 「連体修飾語は修飾語という成分(最終的な文の成分)にはならない」とするべきです。 「彼は有名な詩人です。」の場合は、「有名な」という連体修飾語は「詩人です」という文節に係り、「有名な詩人です」という連文節になっています。この連文節が、文の中において「述部」の働きをしているわけです。連文節の成分は、必ず最後の文節の成分(働き)と同じになります。 なぜ連体修飾語が文の成分にならないかというと、文を組み立てる重要な要素ではないからです。例文で言えば、文の基本は、「彼は」という主語と「詩人です」という述語です。それに対し「有名な」は文全体における働きをしているというよりも、「詩人です」という述語を部分的に飾る働きをしているに過ぎません。極端な話、連体修飾語は省略しても文自体の構造には影響を与えないのです。「彼は詩人です。」これだけでも文として通用しますよね。それに対し、主語(実際には表面上省略されることもありますが、その存在自体が消えるわけではありません)や述語が省略されたら「詩人です。」「彼は。」という、文の形をもたないものになってしまいます。また連体修飾語は、原則的にそれが飾る部分といっしょに並んでいます。例文の場合「有名な彼は詩人です。」と語順を入れ換えると、元の文と意味が全く違ってしまいますよね。つまり、「有名な」はその直後の部分を飾っているわけですから、形・意味の両方の面から、ひとまとめにすることができるのです。 一方、連用修飾語(部)はというと、これは、連体修飾語(部)とは違って、文中をある程度自由に移動させることができます。 例「明日、私は 彼と、学校へ 行く。」 この文の根幹は、「彼はー行く。」です。修飾語は意味を添えているに過ぎません。それは連体も連用も同じです。ただ上の例文は、「学校へ 私は 彼と 明日 行く。」とすることもできます。だいぶん日本語としては不自然ですが、文法的に誤ったところはありません。このように、「明日」「彼と」「学校へ」という連用修飾語は、他の部分と結びつくことなく文中におかれます。唯一、述語よりは前にある、ということになっていますが、それは、連用修飾語は述部に係る(単文の場合)というのが原則だからです。よって、連用修飾語は、単独で成分になることもあるのです。 ただ、「本を 借りに 行く。」の「本を 借りに」のように連文節になる場合(連用修飾語が連用修飾語に係る場合)もあります。この場合はもちろん「本を」は単独で成分にはなりません。上で「原則」といいましたが、このように例外的に述語に係らない連用修飾語も存在するわけです。 話しがややこしくなりました。その根底には、「文節相互の関係」と「文の成分」という二つの概念(考え方の枠組み)を、教科書も先生も、そして生徒も、皆、はっきり分けて考えられていない、ということがあります。つまり、「並立の関係」や「補助の関係」、あるいは並立語、補助語とういうのは、文の成分とは直摂南の関係も持たない考え方です。なぜなら、並立の関係の文節どうし、補助の関係の文節どうしは、連文節になってはじめて成分として何になるかが問題になるからです。同様に、連体修飾語は、文節相互の関係を表すとみに意味を持つ言葉では会っても、文の成分とは直接関係がないのです。 それに対して連用修飾語は、文節相互の関係においても、文の成分においても、一つの確固とした単位になるのです(その理由は上に述べたとおりです)。 例えば、「私が描いた絵を先生が見る。」という例文の場合、「私が」と「描いた」は、文節相互の関係としては「主語ー述語」ですが、この文全体における成分という観点から見ると、その関係は部分的なものに過ぎません。 成分(文の全体構造)という観点からは、「私が描いた」が連体修飾部として「絵」に係り、それに連用格の「を」が付いて、「私が描いた絵を」という修飾部になり(これは修飾部という成分ですから当然述語に係ります)、そのあとに、「先生がー見る。」という基本(主語ー述語)が来ているわけです。 最後に、連文節(成分の単位)になる場合をあげておきます。逆に言うと、他の部分と連文節になるもの(連体修飾語など)は単独では成分にはならない、ということです。なお上にも書きましたが、連文節の成分は最後の文節の働きに等しいことを確認してください。 ●並立の関係にあるひとまとまり。 例「僕は海と山へ行った。」・・「海と山へ」で修飾部。 ●補助の関係にあるひとまとまり。 例「見ている人はだれですか。」・・「見ている」が更に連体修飾部として「人」に係り、「見ている人は」で主部。 ●連体修飾の関係にあるひとまとまり。 例「彼は有名な詩人です。」・・「有名な詩人です」で述部。 ●連用修飾語が連用修飾語に係るひとまとまり。 例「本を 買いに 店へ 行く。」・・「本を買いに」で修飾部。 ●接続の働きをするひとまとまり。 例「雨が突然降って来たら、これを来なさい。」・・「海女が突然降ってきたら」の全体で接続部。 ●呼びかけを表すひとまとまり。 例「そこを歩いているあなた、どこへ行くのですか。」・・「そこを歩いているあなた」の全体で独立部。 ●体言代用の「の」や、いんようの「と」を含むひとまとまり。 例「私は、海辺を一人で散歩するのが好きだ。」・・「海辺を一人で散歩するのが」の全体で修飾部(主部とする考え方もある)。 例「もうこんな面倒なことはやりたくないと、彼はつぶやいた。」・・「もうこんな面倒なことはやりたくないと」の全体で修飾部。

azazasas
質問者

お礼

非常に詳しいご回答をありがとうございます。 付け足しの質問になりますが、 もし、小学生で、連文節だの主部・述部だのを習ってないとして、 (主語・述語・修飾語は習っているとして) 「彼は有名な詩人です」の文の成分を答えなさい。 と言うような問題があったとしたら、正解は、どう教えてやりますか? この場合でもやはり「有名な」は修飾語であると教えるのはイマイチでしょうか??

  • DMIM
  • ベストアンサー率17% (10/56)
回答No.2

「連体修飾語は修飾語にならない」も「連体修飾語というものは無い」も他の文法と比較しているような説明ですね。矛盾してもいそうですし。 私もよくわかりません。もうちょっと他に説明があったら、azazasasさんも私も何を言いたいのかわかるかも知れませんね。 因みに、修飾語と述部(≒述語)は種類が違います。 例えば、「Aは初心者ではなく、母親です。」と説明するようなものです。

  • ANASTASIAK
  • ベストアンサー率19% (658/3306)
回答No.1

主部と述部に分けて考えるからでしょう。 日本語でははっきりわかりづらいのだが、例えば英語の形容詞 には名詞に付くものと補語となるものとがある。 提示された例は連体形なので分離できない。もし、これが 彼は詩人として有名だ。 なら、そうはならない。

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