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「真の自分」は理性か?感情か?それ以外か?それは真実在か?

noname#254の回答

noname#254
noname#254
回答No.22

 おじゃまします。  本当に難しい問題で、一つ一つの発言を読んでいると大変勉強になります。ちょっと混ぜてください。  以下、僕の意見ですが、二部構成でお送りします。 一つ、問題の広がり・重層性を整理するこころみ 二つ、それを踏まえた私見  ちょっと長くなるかもしれません。 1.問題の広がり・重層性  「自分とは何か」という問題の難しさは、その問いが波及しうる領域やレベルが、非常に多角的・重層的なものであることが原因の一つだと考えます。以下、ざっと挙げます。 ・文学的主題としての「自己」 ・主体としての「自己」(哲学的) ・心理学的な意味での「自己」 ・身体論でいう「自己」  …まだあるかもしれません。が、とりあえず、こんなもんで。  最初の、文学的主題としての、というのは、個々の作品の中で造形されるものですから、ここでは議論の対象から外したいと思います。これを「自分の生き方」という意味で捉えても、それは個々の人が置かれた状況・立場の中で考えていくものですから、やはり外します。  二番目。うわ、大変…(いきなりやめたくなってきた)。 (気を取り直して…)まず思い浮かぶのが「われ思う、ゆえにわれあり」(デカルト)。判明明晰でないものをガンガン疑っていっても、そうして疑っている思惟の主体は疑えない。だから、これは確実だ、と。…ただし、現代の視点から言うと、その「疑う」という行為自体、脳内における生化学的過程として解体できるわけで、そうした疑念がmori0309さんの当初の質問には含まれているようです。僕としては、そうした「還元」もまた説明の一つではあると認めようと思います。が、あまり意味はない。思惟を担うのがセロトニンやらドーパミンやらの作用であるとしても、まとまった意識や思考がセロトニンで組み立てられているわけではない。「1万円札は紙だ」と喝破したところで「貨幣とは何か」を論じられないのと同じことです。  もう一つ、行為主体・意志主体としての「主体」があります。倫理的な局面で語られるものです。これはあまりmori0309さんの当初の質問には関係なかったんですが、その後の話の流れで「良心」とか「超自我」が問題になってますので触れた方がよさそうです。この「主体」に関しては、伝統的な「自律=自由」の主体観、ニーチェによるこれの破壊、フーコーの『監獄の誕生』などにおける否定的内面化を通じた「主体」成立論などがあります。  まず「自律的主体」を簡単に要約すると、「他によってではなく、自分自身を原因およびとして行為する主体」といった感じになるでしょう。バリエーションは色々あります。アリストテレスでは「不動の動者」。「自分以外の者を目的とせず、他の一切が自分を目的として運動するもの」、ほとんど神様です。あるいは「自分が決めたルールに自ら従うのが自由だ」とか。この捉え方は、特にドイツ観念論で洗練されます。カントは「自然法則、および道徳法則の立法者たる理性的存在者一般」として主体を称えていますし、ヘーゲルも「われなるわれわれ、われわれなるわれ」とか言って自律的主体のスケールを共同体レベルまで広げています。  が、こうした主体観に対して、ニーチェの「~とは誰か」という問いの立て方は破壊的な威力を発揮します。例えばカントは、人間を含む理性的存在者が「自然法則と道徳法則の両方を立法したのだ」と言いますが、そんなものを立法した覚え、あります? 僕はないです。そんなスゴイこと、したことない。…つまり、カントが語る主体とは、現実に存在する個別的・具体的な人間の誰でもありえない存在だったわけです。もちろんカントは、人間誰もがそうした主体なのだと主張したのですが、このことは「誰もそうした主体ではありえない」というのと、同じコインの裏表になってしまっています。結局、抽象的観念でしかない。いくら校長先生が卒業式で「主体的な人間になってください」と言ったって、「そんなのムリだよ」ってことになります。だからこれも「真の自分とは」という問いの答えにはなりにくいと思います。あまりにも空々しいでしょ?  で、フーコーの主体論。これ、述べる必要はないと思ったのですが、「叱られ経験→超自我形成」というのと枠組みが似ているので取り上げます。フーコーは近代的自我ないし主体の成立を、監獄で象徴させています。「監視塔を中心に円形に配置された獄舎。すべての獄舎の扉・窓は、中心の監視塔に面している。監視塔の視界は三百六十度。しかし半透明ガラスがはめてあって、囚人たちからは監視の獄吏を見ることができない」という状況。ここに置かれた一人一人の囚人は、獄吏が自分を見ているのかどうかわからないわけです。見られていないかもしれないし、見られているかもしれない。こうした中で、囚人たちは「見られているものと考えて」行動するようになります。つまり、監視の獄吏を内面化して、「自分で自分を見張るようになる」ということです。これが主体。…ここでの主体は、それ自体で自立的なものではなく、否定的に作り出された非実体でしかない。主体なんて、こういうもんなんだ、というのがフーコーの議論です。おおざっぱですが。ニーチェの場合、「それでもなお主体であるためには」という志向が残っていますが、フーコーに至っては「自分自身の主人である」という意味での主体になることに不可能が宣告されているようです。  三番目。心理学的なもの。  これはずいぶんと話題になっているようです。今のところはフロイトですか。超自我はたしかに「自己の内面に入り込んだ他者」だというふうに、stomachmanさんと同様に僕も理解しています。利己的遺伝子の利他的ふるまいにたとえたのもわかりやすい。  ただ、フロイトって、人間観がペシミスティックなんですよね。けっこう早い時期からタナトス(死の本能)なんてことを言い出している。死の本能? そんなもん、あるんかいな? …僕の私的な考えでは、自殺願望・破壊衝動・闘争欲求などなどは、人が置かれた状況や、その人の精神状態などによる因果関係で大体は説明できるものであって、そういうのを「死の本能」なんて言って実体化するのはおかしい…と思うんですが。…これ以外にもエディプス・コンプレックスとその克服を通じた超自我形成過程の説明には、明らかな男女非対称がある。噴飯ものと言っていいくらいムチャクチャな議論…どうもフロイトは、あんまり信用できません。スキナー(アメリカ・行動主義心理学)あたりになりますと、「説明のための虚構にすぎない」とか言ってバッサリ切り捨ててます。都合のいいつじつま合わせ。そういうとこ、あると思います。フロイトには。  で、mori0309さんの「真実在=高め、導くもの」という捉え方で言うと、近いのはユングが挙げた元型の一つ「自己 (Selbst。Egoではなく)」や、あるいはエリクソンの言う「自己同一性(アイデンティティ)」でしょうか。両者とも、純粋な科学としての心理学というより、少し倫理学に片足を突っ込んだようなところがあって、「生きる目的」みたいなものを提示しています。一言で言えば「自分らしさを作っていく」みたいなことですが。これらになりますと、フロイトよりは自我の能動性に大きな役割が認められているように思います。周囲の社会と自我とが、相互媒介的に作用して作られる「理想の自分」、そしてそれに近づこうとする生の営み、という形。「存在は本質に先立つのだ! 自分の本質は自分で作れ!」というわけです。でも、これって、先に挙げた「文学的主題としての自分」と同じようなものですね。なんだかなあ…。  あ、ちなみに言うと、僕はフロイト以上にユングは信用してません。その筋の人にはメチャメチャ怒られるでしょうけど、あれ、エセ科学だと思ってます。トンデモ系の方々にとって居心地のよい砂上の楼閣。「集合的無意識? あるわけねーじゃん、んなもん」「シンクロニシティ? ぐーぜんだよ、ぐーぜん」というのが僕の立場。おもしろいのは認めるんですが。  さて、最後に四番目。  身体論です。身体論と言えば市川浩さん。精神と肉体を単純に二分するのではなく、渾然と一体となった相において人間を眺めてみるというものです。この立場の議論になると、身体というのは必ずしも「皮膚に包まれた肉体」という客観的な実在とは一致しません。鷲田清一さんが『普通を誰も教えてくれない』で使っている例ですが、例えば、怪我をして杖を使い始めたとき、どうしても違和感を感じるけれども、慣れてくるにしたがって、「感覚」が杖の先にまで伸びていく、なんてことがあります。他にも、公共の場所(図書館など)で、いつも自分が座っている席に他人が座っていると、なんだかムカつく、とか、テレビ中継でヘリコプターから撮った映像を見ると、自分も飛んでいるような眩暈を感じる、とか。要するに、「身体」は、意識の状態いかんによって、可塑的に広がったり縮んだりする、ということです。  「単なる思い込み」かもしれません。が、これはこれで、自分というものありようの一つにはちがいないでしょう。  第一部は、これでおしまいです。長くて本当にごめんなさい。で、結局、何が言いたかったかというと、「真の自分とは…?」という問いの立て方だと、ざっと挙げただけでも上記のような多岐にわたる領域のどこから考えたらいいのかわかんなくなっちまう…ってことです。議論が進むにつれて、だんだん明らかにはなってくるのでしょうが…。  問いの立て方って、けっこう大事です。問いの立て方次第で、思いもよらぬほど生産的な思考が生まれる場合もあれば、逆に、何かを決定的に見えなくしてしまうことだってある。…という、そういうことを言いたかったわけです。  二部は機会を改めます。そっちは短くて済むはずです。

mori0309
質問者

お礼

ozapanさん、長大な論考文、ありがとうございます。 しばらくのちに、お返事させてください。

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