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秀吉の朝鮮出兵について

noname#46596の回答

noname#46596
noname#46596
回答No.8

>徳川の浪人問題の対策法なども教えて貰えないでしょうか? 浪人問題は「武士の身分」と名誉と「俸禄」という経済的な既得権を不可分のものとしたことが問題だと思います。 江戸時代は領内で取れた米を藩が大阪などの商人に売り、その売り上げから藩士に俸禄を支給していましたね。 そしてこの頃の武士の仕事は治安維持などの行政サービスでした。 しかし新たに浪人を雇って「おまわりさん」を増やしたからといって米の生産高が上がるわけではありません。 つまり藩の経済は領内の米の生産高という限られたパイを藩士の間で分け合うことで成り立っていたので、藩としてはこれ以上余分な武士は雇いたくなかったのです。 対策としては浪人を藩士として雇い「武士の身分」は保障しても、経済的には自活を求めるという対策があったと思います。 当時も貧乏侍は恥をしのんで細々と副業をやっていたわけですが、これを藩お抱えで大々的にやる。 たとえば藩の財力で土地を耕し、特産品を作る。 その際、そこで働くのは農民ではなく新たに召抱えた藩士。 また藩がよそから安く大量に材料を仕入れ、それを元にその藩士に工芸品を作らせる。 そしてこれらの特産品や工芸品は藩が買取り、その対価として貨幣をその藩士に手渡す。 藩は買い取った特産品や工芸品をよその土地で高く売る。 こうすれば浪人は武士の身分を保ちつつ経済的にもやっていけますし、藩としても新たな収入源を手に入れることができ、両者にとってメリットがあります。 結局、武士というすでに社会的な付加価値をさほど生まないにもかかわらず飯を食っている既得権者を経済的には「民営化」することで解決するんじゃないかと思うのです。 身分はあくまでも武士(藩士)であることを保障すれば、抵抗も少ないでしょう。 抵抗を避けるため事業を民営化しても○○の職員の身分は公務員のままにするとか、そういう現代の話に似てますね。 >戦い場所のなくなった武士の雇用問題が有ると思いますが(褒美としての土地の確保など) ちょっと当初の質問に関して。 この当時はさほど浪人問題は深刻な社会問題でなかったと思いますよ。 深刻になったのは関が原の戦い以後です。 また大名も本心では朝鮮出兵を歓迎していなかったと思います。 戦をするにはお金がかかります。 そして、ほとんど自腹を切って他人(秀吉)のためにリスクを犯さなければならないわけですから。 家康は「関東の領国経営に手間取っている」とか言い訳をして出兵を避けましたね。 結局、このことが財力・兵力の温存になり、その後、天下人になるのに有利だったようです。 あと、秀吉の朝鮮出兵に関して、新たな理由を考えてみました。 もしかしたらこの当時、秀吉はスペインなどが外国を植民地化してるという話を聞いていたのかもしれません。 突然、キリスト教を弾圧しだしたのもキリスト教が普及した土地はその後すべてヨーロッパの植民地になっていることに気づいたからとも考えられます。 となると彼なりに「これからは強い国が弱い国を植民地化することで栄えていく時代になる」という帝国主義的な発想をすでに持っていた可能性もあります。 もしそうなら、良い悪いは別として、時代を先取りした発想を持っていたことになりますね。

m41
質問者

お礼

御礼が遅くなりました。申し訳ございません。 秀吉の植民地政策!信長生存説本宮弘志氏の夢幻の如くでも題材になっていますね。 確かに関が原以降浪人問題は深刻化していくのですがそれはあくまで関が原が有った為兵力としての武士の存在価値が有ったという事で 秀吉がもう少し長生きしていたならばもしくは秀吉に有能な後継者が居て豊臣政権の平和が続いていたら直ぐにでも表面化する問題だと思います。 時代が変わりニーズが変われば当然戦いだけの戦人としての武士の必要性は無くなるのは当たり前ですが大久保長安などの台頭に対し忠勝が自分も腐れ武士になったものだと嘆いたと言う話も有ります。 これは現代社会にも当てはまり成長期と安定期では必要とする人材の種類が異なりますだからと言って旧臣の功労者に冷たく当たるわけにも行かず其処に長としての苦悩があるのだと思います。 論功行賞を明かすは手の内を明かすが如しと言われたと言いますが現代ではその方法も論じられるべきかと思います。 新しい時代に必要の無い功労者への対処いかにするべきだろうかと・・・

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