• ベストアンサー

秋元康の「象の背中」を読んで、中年の死の影を詠んだ短歌を作りました、批評を。

短歌を今年初めにはじめました。どこかの短歌サークルや先生が居るわけでもありません。現技巧やら、短歌の勉強をした上で、創作を始めた訳ではありません。まったくの素人です。 自分の心を率直に素朴に言葉にすることと、都会生活に住む人間の感覚を言葉にしたい、と言う事を心がけて、「アーバン短歌」と自分で納得しています。 他人がどんな感想を持つのか? 自分の短歌を人はどう読むのか? ちょっと気になります。 たまたま先日、秋元康の「象の背中」を読んで、中年の死の影を短歌に詠んで見ました。私の短歌をどう感じるか、率直な感想を書いてもらえますか? 下手くそだ、感動しない、表現が未熟等々、どんなに辛らつな批評でも、これからの短歌表現の肥やしにさせていただきますので、教えてもらえますか? 。。。。終わりの日 中年襲う 死の陰り いつかの時と 戯れ遊ぶ。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#19838
noname#19838
回答No.2

いちおう、文学は嗜んできました。 失礼ながら、正直なところ、「薄い」という感想です。語彙感覚の食い合わせが悪いかな、という印象ですね。 No.2のかたがおっしゃる「終わりの日」と「死」もそうですし、「死」が「陰ってゆく」のは当たり前すぎて心をざわつかせるものがない。 また、「戯れ遊ぶ」のが死に対する忌避なのか指向なのかが判然とせず、ではそういうものが混沌とした複雑な感情なのかと言えば、「いつかの時」が濃度を一気に薄めてしまっているから、その複雑さを支持できる理由が見あたらない。 また、「中年」という言葉が無造作に置かれていて、「死」との距離感がわかりません。ここで「分からないことをテーマにしている」と解釈しようにも、やはり全体の濃度の薄さがそれをさせてくれません。 個人的には、短歌には濃密さが必要と思っています。それには、語彙とその関連性の徹底的な断絶と差異化が求められましょう。その意味で「いつか」「どこか」「なにか」「終わり」「始まり」などのどうとでも解釈できる語は逆にマイナスです。語彙はつねに先鋭化させ、狭隘なところに押し込んでいく、その言葉の突端よって他者との差異を呼び起こす。その鋭さが質問者さまの歌には欠けているかと思われます。 ということで、「死」と「戯れ遊ぶ」こと自体は面白いものの、歌に濃度が足りません。その原因は、「終わりの日」「いつかの時」「中年」の3つの語彙が原因でしょう。今のままではぜんぜん「死」と「戯れ遊」べていません。死と戯れたいのなら、中年ではなく、たとえば「中年である私」、いつかではなく、たとえば「明日」、という具体性を強く感じさせる「表現」が必要です。 結局、一般的な言葉をちりばめて読者になんとはなしの共感を呼ぶだけでは名句たり得ません。そうではなく、先鋭化させて徹底的に「個別化」された作者特有の体験を語りながら、同時に読者個々の体験を呼び起こしてしまう、それができるかどうかが歌人の力量かと思います(その意味では、「自分の心を率直に素朴に言葉にすること」も結構ですが、そうしつつも、それがメタファーとして二重三重の解釈を纏わなければならないことを意識する必要があります)。寺山修司はその天才でした。 専門は小説論ですが、それに沿っての感想です。僭越ながら若造が批評させていただきました。

gyosui
質問者

お礼

的確なご指摘ありがとうございます...作者特有の体験を語りながら、同時に読者個々の体験を呼び起こしてしまう・・・メタファーとして二重三重の解釈を纏わなければならない・・・。まったくその通りです。ただ、言い訳をしないと言いつつも、文芸批評をやってきた者としては、こんな反論が浮かんでしまいました。「愛」は一つの概念で、愛にまつわる人間の現実の行為は、個別的な経験を伴うが、「死」は完全に人間のイメージが創造した概念でありながら、それに伴う個別の体験がないのです。愛を愛せる人間はいても、「死」を死ぬ人間はありえないのです。キスをしてセックスをして平和な家庭を営みと、<愛>の様態はさまざまに詠えるけれども、死んだ人間は「死」を詠えないのです・・・

その他の回答 (2)

  • 05fuku
  • ベストアンサー率15% (6/38)
回答No.3

ANo.2です。 質問者の方のお礼欄を読み、すこし齟齬を感じましたので補足します。 詩歌も文章も独立したものですよね。 作品(短歌)として発表したものには、自註自解や作者がそれを創作するに至った背景などは付いてはきません。 あくまでも作品そのものでの勝負だと私は考えています。 その意味で今回、質問者のお詠みになった短歌についての感想のみを、質問者の要望されたとおりに述べさせていただいたということです。

  • 05fuku
  • ベストアンサー率15% (6/38)
回答No.1

私は短歌については新聞の歌壇などを読むのが好きという程度の者です。詩歌にかぎらず文学全般に興味は抱いています。 また「象の背中」は読んでいません。 >私の短歌をどう感じるか、率直な感想を書いてもらえますか? 短歌についてドシロウトの率直な感想を書きますね。 まず一度読んでみたとき、「自分の心を率直に素朴に言葉にすること」というあなたのお気持ちとは裏腹に、ごたごたしていて歌を作った意図や感情がうまく表れていないのでは・・・と思いました。 すこし言葉を整理された方がいいと思います。 「死が襲う日」は即「終わりの日」ですから重複しています。 また「死」と言う強いことばを和らげるため「死の陰り」を使ったのでしょうが、陰りでは漠然としすぎているように思えます。「死の影」の方がふさわしくはありませんか? たいへんおこがましいですが、あなたの短歌を元歌にして生まれて初めて一首書く気持ちになりました。あなたのチャレンジ精神に触発されたおかげです。お気持ちから逸れてしまった歌かもしれませんが・・・失礼をお許しください。   「戯れて過ごす中年死の影は意外に近くあるとも知らず」

gyosui
質問者

お礼

あーそうかな、そんな風に読まれるのか、と参考になりました。近頃、霊園だとか、墓石だとか、葬式だとか、コウヤマキだとか、散骨だとか、戒名だとか、骨壷だとか、そんな死にまつわる文化・民族・風習、歴史に興味が募り、まるで自分が死を対象に戯れているようで、自分に向かって自分が面白いです。 何度かオペを体験して、死の瀬戸際まで行って戻ってきた人間としては、数ヵ月後の余命を宣告されたときの気持ちが良く分るのです。が、魂は不滅だ・・・と死と戯れ始めると、何が生命の終わりの日だか、疑わしく可笑しくなってくるものです。 人間が『死』を発見して以来、死の恐怖を逃れるために、文化の中にいろいろな装置を作ってきました。死と戯れる、死を対象化して死を言語化することもまた新しい「死」の恐怖回避の文化装置かと思っています。

関連するQ&A