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宗教家の方と無神論者の方へ

noribou11の回答

  • noribou11
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回答No.21

再度の登場です。あとで読み返して長くなりすぎたかなっと思いましたが おつき合いいただけると幸いです。 >そこに犯罪じゃなければいいという甘えが生まれる これは意味が違います。あくまでも「そこに甘えがあれば」という仮定文であって 無信仰や自己責任が甘えを生むという断定文ではありませんので再考を。 ただ、「個人による」という考えはあまり好きではありません。 我々は集団形成を生活環に取り入れています。群れで生活する以上、個は抑制をうけます。 私は個人を強調する前に他人に対する影響を考えなければいけないと思います。 もちろん何事も我慢しろということではありません。私も研究者のはしくれです。 自分の意見は強調します。しかし、人格否定や排除に議論が向いてはいけません。 失礼かと思いますが、その点ではkoutatoreikunさんも誉められるものではありません。 そして、この意見には対して「これが俺の考え方なんだからいいじゃんか」と思えば 自己の研鑽にはつながらないと思います。 >何で「自分」と答えてむなしくなってしまうのですか?  そんなに 自分は空虚な存在なのですか? 繰り返しますが我々は複雑な社会を形成している生物です。したがって、 常に他人を理解し、他人に理解される精神を必要としています。そこで重要なのが 「常識」というものですね。英語の表現が的確で「Common sencs」といいます。 直訳すると「共通の感性」ですね。「自分」という表現はあくまでも己にのみ理解 できる感性です。差別主義者であろうが博愛主義者であろうが、その人の考えが 「自分」となります。長年の知り合いならまだしもそこそこの関係では「自分」は 共通の感性になりえません。一神教であれ多くの信仰家には宗教的道徳観を 持っていることが宗派に関係なく相手を理解できる材料になるんです。 >私は若輩者であるがゆえ、宗教上の方々と比べると、明らかに人間ができていません。  いや、誰と比べても未熟でしょう。しかし、完成されてはいませんが、  逆に変化の可能性を秘めています。私はその変化の可能性が完成された何かを  上回る可能性を秘めていることだと思っています。「宗教」ははっきりと形のあるものですが、  別にこれから作っていくでもいいと思いますね。普遍的な根本にすがる気はありませんから。 koutatoreikunさんの抱く宗教イメージというのがどうも妄信家を中心とする 自己を投げ出して信心するもののように感じます。すがるというみみっちい根性では 何の進歩も期待できないでしょう。本来、宗教とは自己を研鑽するものなのです。 そして過去の偉人の知見をも自分のものとして新たな一歩を形作るものです。 研究にしても同じです。我々は専門書という教典で知識を養い、実験器具という偶像を駆使して 更に上のものを追求しているのです。教科書に書いてあることを覚えることが 生物の全てを知ることなどと考えていては進歩はありえません。逆に言えば 実験器具が揃っていない時代の成果で教科書的なものも新しい知見によって 消え去るものもあります。 宗教とははっきりと形あるものではありませんし制限されるものでもありません。 禅宗とて「仏の真理に近付く」ことを目標にしていますが、そもそも、仏の定義が 想像の及ばない存在であるため永遠に答えなどでないものなんですよ。 じゃあ、何を求めるのか?それも自己の研鑽なのです。 そういう意味で前回は一休禅師の言葉を引用しました。 neil 2112さんの意見からもわかるように宗教とはただ単に崇拝するものでは ありません。過去の多くの偉人による哲学書であり、道徳書であります。 「仏法の中身は別に知りたくないので、長々と説明するのは不要です」 これでは勉強嫌いの小中学生と同じ発想です。 私が子供のころ父親の帰りが遅いと神棚へ手を合わせ無事を願う母親の姿がありました。 多くの人にとって神は心のよりどころになっているのです。そういう意味で無神論者は 信用できません。物理的の神がいるのか云々ではなく精神的基盤がどこにあるのかが 不明だからです。私はkawakawaさんのおっしゃる 「正月には初詣に行き,彼岸には墓参りに行き,クリスマスにはケーキを食べ,神前で結婚式をし, 神社でお宮参りをし,お守りを持ち‥ 私自身は,おそらく大多数の日本人がそうであると思われる, 特定宗教は信じていないが,さりとて完全に無神論者という訳でもないという位置付けであると 言えるでしょう」でもよいと思います。そういう人が落ち着いて見えます。 >odd-artさん。 私は臨済宗妙心寺派の仏徒ですので「法華経」は理解できます。しかしながら、 教義の問題ではなくあなたの折伏には感心できません。知人がどうしたやら Wさんが信心を無視したから頭がおかしくなったなど例え現実であろうとも そういう引用に人に恐怖を与えるものばかりの発言はインチキ宗教の典型的な手法です。 あなたの教義はまともであると思います。しかし、あなたが発言すると 全てがうさんくさく感じられます。 「仏法の中身は別に知りたくないので、長々と説明するのは不要です」 これがあなたの折伏に対する普通の人の回答です。ここで「地獄におちろ」と いってはいけません。それでもその人の幸せを祈ることが慈悲なのです。 そういう意味でキツネであろうと石人形であろと信仰の対象はなんでもよいのです。 何かを媒体にして己の中に存在する精神(神仏)と交流をおこなうことこそ重要なのです。 曼陀羅を表した紙きれでなくてはいけないなど小手先の問題であって真理ではありません。 宗教は学問です。私の専門の生物学で例えてみましょう。中学校レベルの動物細胞は 細胞膜と細胞膜と核しかありません。正確に言えばこれはウソを教えていることになります。 もう少し詳しく見れば細胞膜というものは脂質二重層になっていてその構造はニ本の 脂肪酸とグリセロールとリン酸とコリンで形成されています。一方の脂肪酸には シス型二重結合があり、この膜上に糖脂質があります。糖脂質は脂質二重層の細胞質に 接しない外側の単分子膜にのみ存在し、水素結合によって結合している小さな集合体を 形成し糖は細胞表面に露出しています。これはゴルジ体内腔で脂質分子に糖が付加されるためで、 さらに膜には膜タンパクが存在します。特に膜貫通型タンパクは・・・って理解できます? こんなの中学生に教えたらほとんどの生徒は理科嫌いになるでしょう。 宗教もこれと同じなのです。もちろん、この段階から理解できるものもいるでしょう。 しかしながら多くのものには理解できません。それ故の単純なモデルが必要なのです。 法華経とて登場してくる八大竜王やら羅刹やら夜叉は土着の神様です。そういうものも 一同に会して釈迦の説法を聞こうと集まるのが始りですよね。最終的な真理にたどり つくことが大切なのです。仏像を拝もうがお守りを持とうが最初はいままで 感じることができなかった内なる精神と交流をはかることが大切なのです。 そういうものを排除しないと交流ができないなんて信心が足りないと言えるでしょう。 長くなりました。

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