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芸術ってなに?

reisの回答

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  • reis
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回答No.10

stomachmanサマのおっしゃることは、残念ながら私には まるで理解できないことのようです。 ……と言っても、ケンカを売っているわけではないので そう取らないでいただけるとありがたいのですが。 「すごいものを創りたい」というのは欲求であり、その ための「方法」は手段であり、「出来たもの」を伝える のは「誇りと満足感」だと思います。 「芸術と呼ばれるべきもの自体」は、欲求でも手段でも 誇りでも満足感でもありません。 たとえるなら、真っ暗闇のなかで突然、しかも一瞬だけ 手にした「なにか」のようなものだと私は思います。 それが芸術だとされるジャンルによって、微妙に違いが あるとは思いますが。 たとえば、スポーツでは。 体調と精神のバランスが取れ、技に優れ、最高の結果が 生まれたとき……そういう状態を他人は「芸術的でさえ ある」と言うのではないでしょうか? でも、そういう時の本人は確かに最初は「やってやる」と 思いその場に立つのでしょうが、実際その瞬間は無我の 境地である……と。そういう話はよく聞くことです。 それが音楽なら。 自分が美しいと感じる旋律や、音や、歌であれば歌詞に 込められたメッセージや…。そういったものを伝えたいと ステージに立つけれど、ひとたび演奏を始めてしまえば そういう考えは忘れる。ただ、自分は音と同化する。 自分自身が音になる。……それが「芸術的」な演奏と 言われると思います。 「それを切り取ってみせる写真は芸術の範疇」という 御意見をいただきましたが、「切り取ってみせる」行為は 「手段」です。もちろん、「写真芸術」という言葉は ありますが、「切り取った写真」がすべて「芸術」なの ではなく、たまたま写し出された風景が、芸術に値する ものであった時に、はじめて「芸術」になるのではないで しょうか? きっと、そういう時、カメラを持つ者の感動が風景の美と 同調し芸術になるのでは…と思います。 「意図して創りあげるものではない」と書きましたが、 「意図を引きずったままでは、とうてい至ることの出来 ない」境地と言い直しましょう。 「まぐれを狙え!」とは、なかなか本質をついた御言葉と 思いますよ。 「まぐれでさえいいから」つかみたい…と思ったものを つかみ得た時、それが芸術を生むのだ、と思いますから。 「手間とコストを掛けてわざわざカタチにするのか」と いう御言葉には、自分の心が、抗いがたい欲求で「それ (芸術)」を求めるからだ…としかお答えできません。 「手間とコストを掛けてカタチにする」行為は確かに 芸術を生むけれど、その行為自体が芸術なのではない。 その行為によって「求められる」ものが芸術なのです。 ちなみに、芸術…特に音楽や美術を志す人々が、いちばん 恐れていることは「評論家」になることです。 あまりに大きな芸術への渇望が、一歩間違えると自分を 「評論家」にしてしまうのです。 「芸術とはこうなのだ!」と語ることは出来ても、けして 自分自身は「芸術」をつかむことが出来なくなってしまう のですね。 まあ、私などもそうやってつかみ損ねてるクチですので、 自分で言っていて苦々しいものがありますが。

stomachman
質問者

お礼

reisさんの本格的反論のおかげで、だんだん、構造が見えてきたように思います。 実践者の主観においては 学術:何か未知の真理があると信じ、それを垣間見ようとする活動 芸術:何か未知の「美」があると信じ、それを垣間見ようとする活動 という平行性がある。 その方法においては 学術の発見には、(必ずしも未知の真理の存在を予定しない)観察による偶然の発見と、洞察あるいは創出による発見(発明)がある。 芸術の作品には、(必ずしも未知の「美」の存在を予定しない)試行による偶然の作品と、・・・・による作品(創作物)がある。 という平行性がある。(「・・・・」は、まだ分からない) ここまでがオリジナリティの泉源であって、ここで完結している。 これを発表するという活動は、その真理/「美」をヒトに伝えようとする欲求によるもの。これを「文化」と呼ぶべきかな。なぜなら、発表なくしては、学術/芸術が知られることなく消滅する。  皆さんのお考えは、いかがでしょうか?

stomachman
質問者

補足

つまらない質問に何度もおつきあい戴き、感謝しております。 > 残念ながら私には まるで理解できないことのようです。  いいえ、どう見ても完全に理解していらっしゃる。けれども、同意できない、ということかと存じます。そう来なくっちゃ!  「芸術とは?」という問いに対するテーゼは、ほとんどの場合「芸術家」か「評論家」の立場から「かくあるべし」「かくなかるべし」という形、いわば既に存在する芸術活動に対する注文としてしか提示されません。Stomachmanの質問は、そもそもその範疇が一体何処までなの?ということに過ぎません。芸術を実践していらっしゃる方々から見れば、実にくだらない疑問であることは重々承知しております。しかし「少しばかり楽器が上手だから」というだけで芸術家を志望したり、「書くことがあるから」小説を書こう、という手合いに向ける問いとしては、結構効き目があったりします。さて、 > 「すごいものを創りたい」というのは欲求  このモチベーションが先ずある。そして、実際に創り出すことが本質的に重要である。そう仰ってるんですね。実際に出来るかどうか(届かないと分かっていても)、創ってみたい(どこまで行くか検証したい)、創らなくちゃ(実際に形にしてみる過程に於いてしか見えない細部、見えない全体がある。それを見極めたい)、という強烈な欲求。  これは分かります。(でもこれは研究活動においても全く同じです。だから分かるのかな?) >「出来たもの」を伝えるのは「誇りと満足感」だ  人に感動を与えようと作品を発表するのは副次的であり、燃えかすであり、自己顕示欲のなせる業に過ぎない。と読んで良いでしょうか。(研究成果の発表においても、建前は実利ですが、本音は「誇りと満足感」ですね。)  ところで、フランツ・カフカは自分の全ての原稿を燃やすよう遺言し、しかし実行されずに作品は後世に残りました。一方、本当に作品を誰にも見せずに処分したひとも(誰にも分からないけれど)沢山いる筈。このとき、作家自身の中で芸術が(成功にせよ失敗にせよ)完結したと見るべきか、あるいは、発表されない作品は芸術になりえないと見るべきか。  さらに、「純粋に、感動を分かち合いたい、伝えたい、という欲求。」これは芸術とはまた別のものであり、芸術ってそんな甘いもんと違いまっせ、と仰っているんでしょうか。しかしstomachmanには、ここにこそ最も原始的な芸術があるようにも思えるんです。 > (感動を与えてやろうなどという)「意図を引きずったままでは、とうてい至ることの出来ない」境地 > たまたま写し出された風景が、芸術に値するものであった時に、はじめて「芸術」になる > その行為自体が芸術なのではない。その行為によって「求められる」ものが芸術 凄みのあるご意見です。  芸術とは到達不可能なイデアである。「芸術に値するものであった時に、はじめて「芸術」になる」という同義反復でしかいい表せない。そういう意味でしょうか。たしかに価値ある作品が生まれるには、無我の境地が必要条件なのかも知れません。ただ、「芸術に値する」かどうかを判断する、その価値観あってのイデアじゃないでしょうか?だとすれば、イデアは芸術家ごとに違う。では、その違う物に通底する本質的属性は何でしょうか。やっぱり「とにかく(自分にとって)凄いもの」という事に行き着くんでしょうか?  (研究活動でも事情はよく似ています。研究って芸術だったのかな?それとも芸術が研究なのかな?いや、どちらも創造活動なんでしょうね。)

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