• 締切済み

自ら死を選ぶのはよくないことか?

まず最初に、私は自殺をしようと考えていませんからご安心ください。 一般に自殺は良くないことと考えられていますが、それはどのような理由からでしょうか? 「残された家族が悲しむ」・・「身寄りがなければよい」 「神の意志に逆らう行為」・・「人の意志は聞き入れないのか」 「その時は苦しくてもいつかはよいときが来る」・・「何を証拠にそのような未来が来ると判断できるのか」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 生まれる時は自分の意志を反映できないのだから、死ぬときは自分の意志に従って行動してはなぜいけない?数多の動物がいるが、人間だけが自らの意志を持って命を絶つことができる、言い換えれば人型の動物と異なる点の一つに自殺という概念を持ちうるかどうかがあげられる。病気や希望の喪失などの理由はどうあれ、自殺というきわめて人間的な行動を、否定する理由は何でしょう。 オランダでは安楽死がすでに合法化されています。安楽死は肉体的苦痛からのがれる一つの方法ですが、これを押し進め経済困窮自死、願望達成自死、迷惑回避自死などを否定できるのでしょうか。(正常な精神状態において) 宗教論旨はぬきでお答えください。

noname#4470
noname#4470

みんなの回答

回答No.20

>一般に自殺は良くないことと考えられていますが、それはどのような理由からで>しょうか? >自殺というきわめて人間的な行動を、否定する理由は何でしょう。 自殺と自殺行為よく似てますよね。戦時中は特攻隊の人たちは、神である天皇に対して命を捧げることで、周りから英雄とされてきました。特攻は、戦時中は英雄行為でありましたが、現代では自殺行為以外の何者でもないです。(私の基準です) しかし、自殺行為だとしても結果的に英雄行為が含まれている場合(山手線 酔っ払い事件参照)、英雄化されます。一方、何も英雄行為が含まれず、自己の都合だけで自殺行為が行われ、自殺となった場合、バッシングを受けます。前者と後者との違い、それは奉仕にあると思います。そう考えると、人間は残酷ですね。死に方まで犠牲を求めてますので。 >生まれる時は自分の意志を反映できないのだから、死ぬときは自分の意志に従っ>て行動してはなぜいけない? 「意志」って何なのでしょうね。先天的な意志ってなんでしょう。先天的な意志が存在したとしても、その起因要素が何からも束縛されていない状態でのみしか、完全な先天的意志は存在しないように思えます。後天的な意志に関しては、主体の経済力、母体の思想など様々な要素から構築されていくものだと思います。よって、後天的な意志を考えた場合、それは自分を定義してきた後天的要素が価値観を決定していくものだと思います。だから、「いけない」と思うことはすでに影響下にあるものと思います。 >安楽死は肉体的苦痛からのがれる一つの方法ですが、これを押し進め経済困窮自>死、願望達成自死、迷惑回避自死などを否定できるのでしょうか。(正常な精神>状態において) 否定してもしなくてもいいんじゃないの。価値観の構築こそが、秩序を構築することだから、1つの枠組みでしか考えられなくすること自体、治安?治国?体制を強固なものにするものであると考えることができるのであれば、否定という世論の高まりこそが政府の方針、すなわち世論人間こそが政府の理想とする国民なのではないでしょうか。 私の信念を答えさせて頂きました。なるべく宗教論は入れないようにしたと思います。他の人の回答はあまり見ていませんので、かぶっている所もあると思いますが、ご勘弁を。

noname#4470
質問者

お礼

まず、自殺と自殺行為はまったく別のものとしておかんがえください。 前者は完全に死ぬことが目的ですが、後者は万が一にも生き残る可能性があれば、それに賭けます。したがって、この両者をど同一とみなし、そこから、社会体制と政府まで目的づけるbeginnersanさんのごいけんは、やや方向を離れているかと。 個人レベルでのお考えはわかりました。「意志」の考察は、哲学的になりますね。意志があること自体、経験による後天的なものだから、自意識は先天的にはあり得ない。これは私もよく考えてみます。

回答No.19

>それから、質問者はわたしですから、私自身に回答を差し戻すのは 感心しません。  ひまわり組であろうが、3年三組であろうが、私はあなたと話をさせて頂いています。教える人はその対象自身が、解にたどり着くのを手助けするような姿勢をとるものです。 あなたが、解を見出すということが、解を得たといいます。 数多の学校のテスト問題のように、質問用紙、回答用紙、採点があるのではありません。論理形式のもとで、こうだからああだというのでもありません。  何故なら、解はあなたに与えられているからです。あなたがそれを得るのは当然なのです。あなたへの解を、私が受け取る事は出来ません。また、私の解を、あなたが受け取る事も出来ません。   しかし、あなたが、あなたへの解を得たときにわかります。私への解と、あなたへの解と、ともに真のものである事を。 ですから、私は、あなたがあなたの解を得るように、不器用ながら、話をさせていただいています。 過去の無数の行者たちが、くげん一生の修行をかけても得られなかったように、得られないかもしれません。 しかし、聖者の一言で、稲妻のごとく、あるがままを悟った菩薩達のように、忽然と自身に立ち返り、さらにあなたはあなたを超越するかもしれません。   私見ですが、あなたはスマートですし、まだまだお若い。あなたは解からそう遠くはない。    わかりにくいかもしれませんが、純朴なまなざしで、聴いて下さい。    遠くのものは大きく、近くのものは小さく見えます。   解が見えないのは、それがあなたとともにあるので、遠い、近いなどの距離を考えていると、見えません。なぜなら、あなたとともにあるからです。近すぎて、小さすぎて見えないのではなく、 距離を測るという事で、別の次元に行ってしまっています。   解はすでに与えられているということを、知らなければなりません。   解とあなたの距離は、無いのです。あなたにそれはあるからです。   私の力のなさゆえ、あなたを困惑しさせてしまいますが、お許しください。私が、諸々の聖者のように、あなたを悟らす事ができたら、どれほどよいでしょうか、。  わたしは精一杯である事を、ご理解いただきたく、感謝しています。   解は、当然に、あなた、が、得ます。 それは当然のことなのです。

  • Asihana
  • ベストアンサー率9% (8/87)
回答No.18

またのぞいたら、いっぱいありますね。みなさん、熱い。 質問の主旨は「なぜ良くないか?」だから、 「良くない」のを前提に作られた法律でそういう条文があるから、というのは、まったく意味が無いですね。数学でいえば、「定理」を使って「定義」を説明しようとするようなもので・・。 そもそも「自死」を「自殺」と呼ぶこと自体「良くないこと」の前提から始まっています。 みなさん、それぞれ価値観があると思いますが、結局は「人間の仲間から脱落者を出さない」ということからきているんじゃないでしょうか。 あっさりしすぎですか。

  • odd-art
  • ベストアンサー率9% (31/325)
回答No.17

 本当に、「安楽死」になっているのでしょうか!?  「尊厳死」といって、薬物投与等は関心致しません。医学的な立場としては、延命のための精いっぱいの治療は、するのが義務だと思います。  逆に、この人はもう助からないし、苦しむんだったら、ここで死なせてあげようとか、人為的に手を加えて死亡させる、ということは、やってはいけないことだと思います。その人にはまだ命があり、それを勝手に命を縮めていくということは、殺人行為につながり、自分が罪を積みます。  また、度の過ぎた延命治療も考えものです。例えば、口の中に人工呼吸器を入れられたりしますが、話すことは出来なくなりますし、管だらけになります。  人工呼吸器を入れて、本当に、まだ助かる見込みがあるというなら、それはそれでいいと思うんですが、明らかに全身が衰弱してきていて、数刻の間に臨終を迎えるということがハッキリしている場合に、わざわざそこに人工呼吸器を無理やり着けさせられることだけは、お断りしたいものであります。  これが、「自殺」の概念にあてはまるとは思えません。  自殺は、法的に認められていませんし、自殺をするのを知っていて止めなければ、自殺幇助という罪となります。 自殺未遂となれば、病院隔離治療が科せられ、再犯防止処置が取られることでしょう。一種の迷惑罪です。  本人だけで済むと思っていること自体、エゴであり、無責任なのであります。  何故、回答に、一般論を述べてはいけないのでしょうか?  我見は、個人的な意見だけであり、正当化されるべきものでもありません。勝手な思い込みということになるだけじゃないでしょうか?

noname#4470
質問者

お礼

法的な問題はあまり気になさらないでください。「法律が禁じているから。」は法律自体が変更される事もありますから。 「なぜ、いけないか」に対しての回答は、エゴであり、無責任だから。ということですね。そこには本人の望みよりも周囲の意見が優先されると。また、周囲は殺人を犯し罪に問われたくないと言うこと。が、これも周囲の人のエゴになりませんか 一般論はわっかているつもりなので、odd-artさんがわざわざ書いてくれなくても良いのです。

回答No.16

>もう一つ、私はこの質問とそれについての回答は反対賛成それぞれしっかりとした理由あっての意見を期待しております。  わかっています。しかし、それでは解決できないのです。私は、あなたの期待以上の回答を、するように思っています。それがわかりにくくても、そっちのほうが解に繋がるからです。 >内とは私自身であるとともに、あなた自身でもある。そうなりますね。 私はあなたじゃないじゃないですか。だから、そうなりません。 私があなたで、あなたが私であるような事は、まだありません。 >内と申されておりますが、ではあなた自身、彼女のこころがなぜ理解できたのか? あなたは彼女ではなく、どれほど近しい中であっても他人ですよね。    他人も他人、あかの他人です。あの話はネットにおちてたものです。何故それが身近であると私が言うのか。心は理解する者ではありませんし、また、基準を設けてはかるような者でもありません。  以下、いよいよあなたの期待する通りにはいきませんが、期待以上であることをおもって言います。 ・他人を自分のことのように愛する事を志向できますか? >いくつか反対のお答えが出ていますが、いずれも自分自身がベッドにチューブでくっつけられて生きる状態を想定した回答がありません。    誤解しておられます。私は、自殺を、反対もしていなければ賛成もしていません。否定もしていなければ肯定もしていません。どうしているかというと、自殺を「自殺」としています。 「真のような基準のないもの」というところの基準がないというのは、多種多様、人によって様々という意味ではありません。人によって様々なら、その人という基準があります。真はそれすらもない事です。 それは、・選択肢が存在しない・ことを、はかるものがない事を、いいます。ですから、限定もされておらず、それが・自・由・であるといいます。 それは「一」ではなく、全性をもちます。 >他人事ではなく、いつ自分に起こってもおかしくない話です。    そう言うのが、他人事だといっているのです。すでに自分に起こっている事と、何故思えないのですか?それは、あなたが自分をよそに、他人事を立て並べているからです。自分をよそに、他人事に遊戯しているからです。だから、何時自分に起こってもおかしくない、というセリフが出てきます。 「自分のことすらも、他人事にしてしまっているという意味」で、すでに自殺しています。 >私は社会を助けようとか他人を助けようとか大それたことは考えておりません。 他人を助ける、社会を助ける事のどこが大それているのかわかりかねます。当然の事じゃないですか?人の苦痛を少しもわからないということは、自分の傷もよく見えないことです。自分の傷を見つめれる者は、他人の傷も見えます。 なぜなら、その人は、「傷」を「傷」として見るからです。それが、・自分の目で見る・ということです。   想定するより、今のあなたという現実を見つめるべきです。       今、あなたはどうですか? どうもこうも、あなたはあなたです。   >「他人の自死をみとめるか」「自分の自死はどうか」 自由なあなたが、その解を見出します。そのとき、以上のような疑問はすでに晴れています。答える必要がないほどにです。あなたにあなたが立ち返ることを、自由といいます。

noname#4470
質問者

お礼

時間をおいて幾度と無く読み返しました。 全く理解できません。 お手数ですが、そう、中学1年生が読んでわかる程度まで、 落としてください。現文は私の読解力を遙かに超えて書かれています。 それから、質問者はわたしですから、私自身に回答を差し戻すのは 感心しません。

  • hide120
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.15

ずっと以前から考えてた私見を述べます。ちなみに宗教はやってません。末期的な病気であれば私は安楽死を選びたいです。出来る事ならば冷静に沈着に笑顔すら見せて逝きたいです。あくまでもそうでありたいという姿勢です。 一部例外を除いて皆が死を恐れています。私も本能であるのか?それとも感化されたのか?その両方であるとも思われますが大変恐ろしいです。 しかし先人達が死をことさら恐れおののくのではなく、やがて必ず訪れる真理に対して前向きに捉えてくれれば私は今よりは死を恐れずに受け入れるでしょう。(死と恐怖は表裏一体という常識を覆してくれてたら)その時が来ないとわかりませんが・・・ 私は起きてしまった事、これから絶対起きる事を肯定していく事が人間の建設的な知恵だと思います。死をもです。残される者もそれを悲観するだけではなく崇高なものという価値観があってもいいと思います。 ですから生きるのも死ぬも等価でいいと思います。ただし、最後のカードですからどこで出すか天命を待つか慎重に見極めなければなりません。自殺は許されます。 以上は末期の病気のみです。体が死を欲しているのには逆らえません。しかし経済困窮自死、願望達成自死などは精神が死のうとしてます。精神のあり方はおおいに変わる可能性がある以上カードを出すにはまだ早い。等価であるはずの生を軽んじています。自殺は許しません。

noname#4470
質問者

お礼

よくわかりました。肉体的苦痛からのがれる最終的な選択肢としては、これを認めるが、精神は環境や自分の意志で変化する可能性は常にあるのだから、最終的手段を用いることはできないと。

回答No.14

>例えばあなたが、強い苦痛を伴い・・・・苦しむ愛する人の姿を、みたいですか?  何を他人事のように、事を言っているのですか? 他人事ではなく、その人自身においてあるということです。その存在自体にあるということです。お金の話や、苦労話では、自殺は見えません。 いいですか、私の見た自殺をあなたが見ることは出来ません。なぜなら、あなたはあなたの目で見、あなたの耳でしか聞けないからです。多くの皆は、自分の目で見、自分の耳で聞くということを出来ていません。無知とはそういうことです。霧がかかるとはそういうことです。 他人事を立て並べていてはいけない。外に求めず内に求めなさい。内とはあなた自身のことです。   >・・・前向きな明るく果敢に困難に立ち向かう、・・・・ 彼女の姿勢のどこが前向きで明るいものなのかわかりかねます。生に執着するということの、どこが前向きなのか?生に望みする事の、ドコが前向きなのか?死に恐怖する事の、ドコが前向きなのか?老いの恐怖が解らない?それは、人の気持ちも知れないかわいそうな人のことです。     他人事はもういいんです。 傲慢とはどういう姿勢ですか?と、いうのは、自分をよそに、他人事を並べる事です。  自分を助けれない者が、他人や家族、社会を助けれると思うのですか?自分の足で立てない人間が、どの様にして他のものが立つのを支えるのでしょう? まず、自分の足で立ちなさい。自分の目で見、自分の耳で聞きなさい。 あと、私は、理想や、天国論を言っているのではなく、真を言っています。誤解のないようにというのは無理でしょうが、。善いか悪いかを言うのは場違いですね? 宗教や、理想や、天国論や、善悪諸々の観念はゴミ箱行きです。 そういう意味で、ジョンレノンの話を出したのです。他人事はゴミ箱に、。  

noname#4470
質問者

お礼

内とは私自身であるとともに、あなた自身でもある。そうなりますね。 では、あなたが自身が、(強い苦痛を伴い・・・・苦しむ)状態になったとき あなた自身はどうなのですか? 私の内なる心は(オランダ国籍があれば楽なのに・・)です。 内と申されておりますが、ではあなた自身、彼女のこころがなぜ理解できたのか? あなたは彼女ではなく、どれほど近しい中であっても他人ですよね。 女性のはなしですが、お書きになられた文章からは私が感じた事しか伝わってきません。おそらく私の読解力のなさのせいでしょう。 それから、私は社会を助けようとか他人を助けようとか大それたことは考えておりません。自分のできる範囲、自分の力の範疇は限界がありますから。  ベッドにチューブでくっつけられた状態で、果たしてどれだけの人間が、他人を助けられるか、その反対のことが多いのではないですか?  真というような基準のない表現よりも、誤解があっても良い悪いでお答えいただいたほうが、分かり易いです。場違いではありません。 いくつか反対のお答えが出ていますが、いずれも自分自身がベッドにチューブでくっつけられて生きる状態を想定した回答がありません。他人事ではなく、いつ自分に起こってもおかしくない話です。   今回の質問は「他人の自死をみとめるか」「自分の自死はどうか」と二つに区切って質問すれば良かったのしょう。私の頭の中では「他人の行為を認めないばあいは、自分の行為も認められない」という黄金律があるので、両者を一つとしていました。 もう一つ、私はこの質問とそれについての回答は反対賛成それぞれしっかりとした理由あっての意見を期待しております。説教を受けることは想定しておりません。

noname#21649
noname#21649
回答No.13

>切腹を例題とされたほうがわ 切腹なんてショーですよ、大体の人間は腹に刀を当てておくだけ.介添えが殺してくれるのを松のです。 本来は.みずから腹の中身を手で外に出し.自己の正当性を主張しつづけるのですが.このような人々の内容が伝わってきません。講談の内容等は.適当に面白おかしく演出されているので.自殺の心理状況についての話題には問題があるでしょう。又.戦争当事者の内容についても原則として勝者に都合の良い内容に書き換わっているので内容の信憑性については疑問があります。従って除外しました。

noname#4470
質問者

お礼

扇腹のことは知っております。 腹の切開方法が問題ではありません。

回答No.12

去った者に代わって私が、皆の耳に届くように、大声で言います。 現代社会において、のうのうと、霧に包まれたようにぼんやりと暮らしている、より多くの人たちには、その苦しみはわかりません。非情な話だと思います。人の気持ちもわからないんです。そのような人たちのなんてかわいそうな事ですか?自分の実の傷の痛みも知らないからです。 何故死ぬ事を悪いとするのでしょうね。何故、生きることは正しく、死ぬ事は避けるべきものと考えるのでしょう。死ぬも生きるも、命なんだと皆わかっているのに、。 善いか悪いかを論ずるのは問題外です。「自殺する」。この行為があると言うこと、自殺という行為をそのまま見つめなければ、自殺は見えません。 わたしはそう思います。 私は、ジョンレノンのように、イエスなんて信じない、仏陀なんて信じない、ジンマーマンも信じない、ビートルズなんて、信じない。信じるのは、僕とヨーコだけ。 という姿勢に、涙します。 又、彼はいいます。頭の上には円碧な空があるだけ。天国などないんだ。   当たり前です。頭の上には空があり、空を越えると、深く輝く宇宙空間があります。天国は、指で指し示すようにあるのではありません。それぞれの、人の、中にあるんです。天国がないわけがない。イエスを信じなくても、仏陀を信じなくても、ヨーコと僕を信じなくても、天国は、実に、その存在の中にあります。上(天国)から来たという、上とは、中のことです。光とは、中のことです。影の中の、光を知るべきです。その光が、「隙間無く輝る光」といわれたことの・意・味・を、知るべきです。 ジョンは天国を知りませんでしたが、天国にいました。 天国にいない者は天国を求めるべきで、すでにいる者は、それを知るべきです。 それを知る事で、天国への門が広くなるからです。それを慈悲といいます。 自殺者とは、霧に包まれて生きる現代人60億人のことです。 つまり、より多くの皆は、すでに自殺しています。二度と死なないように気をつけるべきです。   イエスの行為は自殺行為ですか。日蓮の行為も自殺行為ですか。 それは、生きるための死です。命は命でのみ生きる。彼らの自殺が、かほど生きることなのか、。尊い行為とはこういう行為です。 ーーーーーーーー以上回答ーーーーーーーーーー以下余分ーーーーー 身近な話をします。 しかし、彼女は何かおかしいと感じ、ある日お姉さんの日記を見てしまいました。そこで初めて自分が白血病にかかっていることを知るのです。  彼女は悩んだ末にこの深夜番組に相談してきたのであります。それから何回かこの番組に電話で出演しておりましたが、残念な事に、彼女は発病から一年後の十八歳の時に亡くなりました。  その話の中で自分ので死期が近いことを知った彼女は、「もし自分が死んだら、このテープを番組に送って欲しい」と、死ぬ三日前に自分でテープにメッセージを録音して、親に託したそうです。彼女は、放送では滅多に苦しいとか悲しいとか言わず、いつも明るく振る舞っていました。  しかし、テープの中で彼女は「死にたくない」と初めて自分の本心を切に訴えておりました。また 「今、自分の勝手で自殺する人がいます。その命を私にください。御願いします。」 それを聴いたとき、私は涙が止まらなく、やるせなさと、今まで自分が深く考えた事のなかった命とは、こんなに大切なものなのかと考え込んでしまいました。  また、彼女の親から送られてきた、彼女の日記にはこのように書かれております。       「私は老いていきたい。老いるという人生を歩んで行きたい。」   傲慢とはどういう姿勢でしょうか。

noname#4470
質問者

お礼

上半分は抽象的で意味がつかめませんでした。 下半分は、代表的な前向きな明るく果敢に困難に立ち向かう、理想の人物のように見えます。アンネ・フランクを彷彿とさせますね。 みかたをかえるならば、すべての難病患者が彼女のように明るく前向きであれば、 このような話は普通にあることでクローズアップされることはないでしょう。  つまりは難病であってさえ、彼女のように強く生きられる人間は数少ないということです。彼女の18という若さもこの話をイメージ強くします。 彼女の人生経験では老いの恐怖は理解できないでしょう あるいは、若さ故の死の恐怖が生へ望みを強くした。生への恐怖が理解できなかったとも考えられます。 summer lunchさんの回答には、自殺を容認されない確固たる理由が出ていません。理想論や天国論は不必要です。 例えばあなたが、強い苦痛を伴い、全身を動かすこともできぬ難病にかかったとします。パイプやチューブで酸素と栄養剤を送られる日々がこれから何年も何年も、老衰で死ぬまで続く。難病認定で医療負担は少なくなるものの、月に数十万円医療費として必要だ。風呂場を改造するのに100万ほどかかった。家族は介護に疲れているのが痛いほどわかる。夜は数時間ごとに体位返還をしなくてはならない。 痰が絡むので吸引を頻繁にする必要がある。あなたに必ず誰か付き添う必要があるので、家族でローテーションを組み、必要であれば誰かが会社を辞めることになるかも知れない。最近、家族のあなたを見る目がちがってきたように思う・・・ オランダであれば尊厳死を認められるが、この国ではまだ認定されない。あなたは他人によって強制的にひたすら生かされるしか選択がない。このような条件でも生を望みますか?  あるいは、これがあなたの愛する人であればどうでしょう?生のために生かす事が、その人の為なのでしょうか?苦痛にのたうち、失禁脱糞、血反吐を吐いてもがき苦しむ愛する人の姿を、みたいですか?   世の中、家族が助け合って暮らすのは理想ですが、離婚率を見ればそのような家族はきわめて少ないのが現状です。

  • neil_2112
  • ベストアンサー率73% (196/268)
回答No.11

こんにちは。 養老孟司氏がかつて自殺のことを「脳が身体に死ねと命じる行為」と表現していたことがあります。脳化社会、つまり脳で考える「意識」「思考」が人格の全てとされて、身体感覚が忘れ去られてしまった近代ゆえの行為だ、という意味です。 近代はなんでも理性のもとにコントロールしようとしますよね。しかし、人間はコントロールできない自然としての生身の体を持っています。両者のバランスをいかにうまくとるか、というところが昔から人間形成の要諦でした。 年間3万人という自殺にもいろいろな事情があると思いますが、「自分の体は自分の所有物なのだからどうしようと自分の勝手」という論理で自殺が肯定されるのはあまり賛成できません。それはあくまで近代以降の論理であって、身体性を忘れた「脳の暴走」であることは否定できないからです。 starfloraさんへ。 自殺肯定の例証に「自殺的行為」を含めるのは明らかな混同ではないでしょうか。もうひとつ、仏陀が弟子の自殺を許したというのは史実というより、かなり眉唾な話とされています(私は一応専門家ですのでご容赦下さいね)。

noname#4470
質問者

お礼

私も養老氏の本は読みました。自分の勝手で自死を選ぶ事は確かによくはないでしょう。私は電車への飛び込み現場を見たことがあります。その瞬間では無く、1分ほど時間が経過していましたが、血はほとんど出ておらず、線路の枕木の間に「脳」がごろんところがっていました。暖かい日差しの中、その脳が実に気持ち良さそうに日なたっぼこをしているような感じっだたのです。その時「この脳はこうなりたっかたのかな?」と実に奇妙な印象をうけました。人間を支配する脳と、それから切り離された脳。普段我々が人としてつきあっているのは、体という入れ物か、しわくちゃな固まりか、「脳の暴走」から思い出したことです。

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    質問はタイトルの通りですが、昔から今まで日本では自死がとても多いようです。年間3万人です。 先進国とはなんなのかと思うくらいに自死は多い気がします。 年間の死者が120万人ほどとされるのに、自殺者は3万人というのはあまりに多いと思います。 そして、自死は良くないという風潮が世間の常識となっています。 人間がそんなにたやすく自死を選ぶなんて事はほぼないだろうにも関わらずこれだけの死者がいるなんて本当に異常な国だと思います。 自死にもいろいろあると思います。 本当に考えて、頑張ってもどうにもならなくなって死ぬしかなかった人も沢山いるでしょう。 ヒトイ人間にヒドイ事をされた人も沢山いるでしょう。 幸せに見えても他人に理由も知られずに死ぬ人もいます。 どうしようもない人間に育ち、自分で首を絞めたような愚かな人もいるかもしれません。 そして、人間ですから極度に追い詰められて冷静を失って決定的な理由でなくても死んでしまう人もいるかもしれません。 最近のニュースの電通の新人社員の件ももしかすると決定的ではなかったのかも分かりません。 理由は沢山あれど、自殺した人というのは今の世の中の犠牲者であるというパターンが多いような気がします。 こんなでは成熟した社会だなんて嘘です。 自暴自棄になり大量殺人に走る人間だっていますし、自殺するほど追い込まれながら、そして人を恨んだりしながらも極力迷惑をかけまいと死を選ぶ人は本当に偉いと私は思います。 みなさんはどう思いますか?

  • 自殺 尊厳死 と 臓器移植について

    私は精神疾患です。最近は特に心身共に調子が悪く、不快感を与えるこのような質問をするご無礼をお許し下さい。 自殺も尊厳死も当人は良いですよね。本人は死にたいのですから。希望通り死ねるのですから。『自分なんか生きていても、家族のお荷物だから』とか『自分はいない方が家族のためだ』と、自殺志願者、尊厳死希望者は言います。そうですね。私もそう思って自殺を図ったことがあるものの、生きています。 だけど残された家族、人の気持ちはどうなるのですか?『自殺に追い込んだ』『尊厳死を選ばせた』と、一生悔いて生きていくのでは、ありませんか? 先日。脳死状態の特集を観ました。 死んで脳死と判定されたけど、本人が生前に脳死状態に陥った場面、臓器提供をする意志表示をしてなかった場面が多いと、有りました。 ふと思いました。故意に脳死となる方法はないのかと。自殺をすることで家族が嘆くことには、変わりはない。だがこの世には生きたくても、臓器移植をする他に助かる方法がない人がいて、臓器提供者を待っている状態の人もいる。 自分の家族に自殺を選ばせたけど家族の誰かが自殺しても、それが脳死状態での自殺だったら、、、他の人を生かせる自殺だった。 大切な人に死を選ばせたことは悔やまれるけど、他人を生かすことが出来る自殺だったと、家族は思えないのでしょうか。 自殺をする場合は必ず脳死状態になれるように行い、臓器は必ず移植すると意志表示をして、自殺をすれば、助かる人が増えて良いんじゃない? と、ここまで考えて、そもそも故意に脳死状態になることは出来るのだろうか?と、思いました。また、突然家族の誰かを失う悲しみは、同じなのではないか? 尊厳死も確か日本の法律で、まだ認められていないのではないか? 例え認められていたとしても、その人に臓器提供の意志があっても、、、と思うと、思考が迷宮入りしてしまいました。 そもそも故意に脳死状態を、引き起こすことが出来るのだろうか? 今の私は自殺志願者ではないけど、人間いつかは死を迎えます。私は最後くらいは他の人の役になる死に方をしたいと、思っています。 目茶苦茶で憤慨する内容の質問を、最後まで拝読してくれて、有り難うございます。

  • 人間に進化は作り出せるのか?

    変な質問ですみません。 庭の害虫にオルトランという殺虫農薬を撒けば、耐性のある遺伝子が生き残りオルトランに強い生物が新たに生まれる。また、遺伝子操作もある意味で言えば進化を人間が作り出していると言えなくもないのかもしれません。ただ私がお聞きしたいのはこのようなことではないのです。 「動物は自殺(自死)するのか?」関連の質問をつい最近したのですが、それに少し関連することを以前考えたことがあります。 私はひょっとすると「ローランド・ゴリラのココちゃんなら自殺(自死)するかもしれないなあ。」と思ったんです。 ココは人の手で育てられ1000を超える手話を覚えます。抽象的な死の概念も把握していたといいます。 http://www.qetic.jp/blog/pbr/archives/4279 私は「ココちゃんならイジメまくれば自殺(自死)するかもしれない。」と思うのです。 結局は「自分自身の心を認識しているかどうか。」ではないかと?「苦しくて仕方ない自分自身の心を体ごと消し去る行為が自殺(自死)ではないか。」と?だから自殺の可能性はココちゃんにもあると思います。 私はココちゃんは人との関わりにより(言葉の獲得により)人でもない代わりに、ゴリラでもない「何かになった。」のではないかと思っています。 もしココちゃんのようなお互いに手話で会話できる夫婦のゴリラがいたとしたら、生まれた子供も手話を覚える可能性はある。親から学ぶからです。だとすれば進化を人間が作り出せる可能性はあるのではないか?と思ったのです。長い時間をかけて、抽象思考の領域が脳内で大きくなれば、新たな種の誕生もあり得ませんか?いかがでしょう?

  • うさぎの死について

    何年か前のNHKの番組だったと思うのですが、たぶんオーストラリアでうさぎが一斉にフェンスに激突死しているシーンを見ました。「私は動物は自殺はしない。」と思っています。 私の考える理由は単純なもので、死に向かう遺伝子を持つ生物がいたところで、子供を残せないので淘汰されるだろうというものです。もうひとつ体ごと自分の心を消し去ろうとする行為が自殺ではないか?つまり心の認識なしには成り立たないのではないか?というものです。 番組に関しては途中からちらっと見ただけで説明的なものは一切聞けませんでした。ネットで調べてみたのですが、それらしき記事は見つかりませんでした。 私の知っていることは天敵のいないオーストラリアに持ち込まれたうさぎが異常繁殖したこと。フェンスでうさぎの生息域を制限したことぐらいです。 確かにフェンスに激突し死ぬうさぎを見た記憶はあるのですが、あれは何だったのだろうと白昼夢でも見たような不思議な気分です。もしご存じの方がいらっしゃるなら教えていただけませんか?

  • 希死念慮って辛くない場合もあるのでしょうか

    閲覧ありがとうございます。 私はつい最近希死念慮という言葉を知り、自分に当てはまっていることに気がつきました。 というのも、私は小さい頃から自殺に憧れて。きっと私は自殺をして死ぬんだろう、という考えが現在までずっと続いています。 ずっと不思議に思っていたのですがようやく原因らしきものが見えて喜んでました。 しかし調べてみると皆さんこの希死念慮を辛がっていらっしゃったので、もしかすると私はまた違うのかな?と思いました。 私はこの症状が辛いとか苦しいとかはありません、ただ自殺をして若くして死ぬという未来のビジョンがあるだけであって、それをどうにかしたいとか怖いとかはありません。 死に恐怖を抱いたのは多分幼稚園の年少さんの時が最後だと思います。あの頃は母親がいつかは死ぬという恐怖に夜寝付けなくなるほどでした。(思えばこの時から自分の死にはさして興味が無いみたいですね) 今私は特に死にたいとは思っていませんが、生きていたい訳でもありません、いつも死ぬ理由がないから生きてるだけ、な状態です。 こういうことを言うと随分病んだ人間に思われるのですが、私は普通に友達もいますし、好きなことや打ち込めることもあります。 両親にも愛されて兄弟仲もいいです。 でも自殺をして死ぬということが私の人生の最大のテーマであり美しいとすら感じてしまっています。 プランや場所なども大体決めてます。 今すぐする訳ではないです、来るべき時が来たらする、それだけなのですが、できることなら老衰で死にたいです。 病院に行くべきですか?これは希死念慮なのか鬱なのか、そもそも私はこの考えで生きてきたのでこれが間違ってるとも思ってないのですがそれもまたおかしなことですか?? 私を老衰で殺すために何か良いアイデアはありませんでしょうか?

  • マリファナ合法化について

    個人的には、日本もマリファナを合法化した方がいいと思います。 理由はイカの3つです。 (1)自殺者数・自殺率の異常な高さ  自殺するぐらいならマリファナでも吸ってリラックスした方がいいと思います。 (2)タバコと比べて有害性・中毒性が低い (3)合法化されているオランダで大した問題は起こっていない。 以上の理由から日本でも大麻を解禁すべきだと思うのですが みなさんはどうお考えになりますか?