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理想の自分と実際の自分の折り合いについて。
誰にでもあると思いますが、私には理想の理想像があります。頭が良くて、可愛くて、性格が良くて、友達に囲まれていて、しっかりしていて、周りからの信用があって… といったような。 可愛くなりたいとか、頭が良くなりたいというのは、それに向って純粋に努力を していけばよい事だと思っています。けれど、性格のというのは、自分ではどうし様もないのでは?と思い、悲しくかんじる事があります。 私は結構、表面でキャーキャー騒いだりしている行動や外見の子供っぽさに対して、結構感情変化の動きが乏しい方だと思います。一つの事に熱くなれる人にあこがれますが、無理にそういう自分を演出してもむなしいです。他にも、友人関係などで、(もし自分の理想としている人物なら、こんな時なんて言うだろう?)と考え、実際自分が思っていないような偽善的な事をいってしまい、これはいい子ぶっているだけなのではないか?と後悔する事もあります。優しい人になりたいと思うのですが、無理に自分を優しくしようと思っても、ただ偽善を繰り返しているだけなのでしょうか。人間性を磨くといいますが、自分の本質的なところは変わらずに、見栄えばかりが「良い人」ぶっているようで嫌になります。けれど本当はありのままの自分で生きたいと思う反面それは自分らしさと言う言葉に甘えているのではないかとも思います。私はとてもわがままで自己中だけど、うわべのいい人を続けていく事で、本当に優しい人になれるのでしょうか。 文章がまとまらなくてすみません。
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- nintai
- ベストアンサー率31% (401/1269)
いわゆる「心から人と向き合ってない」てやつですか? 僕も人からそういわれます。 そういってくれる友達には感謝してます。自分のことをわかってるなと思うし、自分のことある程度本気で相手してくれてるんだなと思いますから。 そしてそういう友達はおうおうにしてやはり信頼できるよき友であると思います。 僕はそういう友達がいることが素直にうれしいです。 これで十分です。 そして、ここから先は考えないようにします。 大好きな友達、自分のことけっこう考えてくれる友達がいればあなたはそれで大丈夫です! あなたのいう「理想の自分」とはたぶん「自分」ではなく「他の誰か」だと思います。 自分では気づかない憧れの誰かだと思います。 あこがれはだれしもあると思いますが、自分ではない何かになる必要はないと思います。
- mayuusa
- ベストアンサー率18% (108/579)
正直、心から、羨ましいなあと、思いますよ。 全然嫌味じゃなく。 私なんて(^^;)どちらかというと、実家の家族が私のことを「優しくない」というキャラに決めている都合上、とりあえず優しくしないことでしか、優しさの表現が出来ません。時々、すごく不便ですし、孤独です。それでも自分では、一番優しいのは自分だと信じていたりします。感受性が強すぎるだけですが。だからと言ってそのプライドが心の慰めにはほとんどなりません。不便な着ぐるみを脱ぎ捨てたいような願いは持っています。。。 ちなみに家族以外の人といる時は、優しいほうのごくごく普通ですが、ついつい癖でクールを演じてしまったり、必要以上に頭の悪い奴を演じてしまう時もあり、人知れず落ち込みます。 …なんのアドバイスでも回答でもないですね。 これではちょっと悪い気がするので、もう少し、主題に沿って考えてみます。 hurabaさんは、どちらの優しいタイプと、暮らし易いですか。 Aタイプ: 態度がいつも優しくて、でも行動は特に何もしない。 楽観的で、話も聞いているようで実は聞き流している。 Bタイプ: 態度は冷たいが、甘やかす程に犠牲的行動をしてくれる。悲壮感・義務感・正義感の固まり。 私は現在の所、どちらかと言えば将来もっとAタイプにならなければいけないかなー?と思いつつ、何故そう思うのか、まだ研究中です(笑)。研究中という意味では同じような所にいるよね。 毎回毎回、理想を演じていて、良いのではないでしょうか。もしくはそういう場を持ち続けるとか。 そして、これが本当に今日の私の理想か?これ以上の言葉は見つからなかったか?と追求して行くうちに、 演じ切った!と思った理想像そのものが、実はたいしたものじゃなかった、と気付いたり、自分の浅さが見えて来たり、新たな目標を置いてみることが出来たり、その目標が間違っていると気付いたり、深まったりすると思います。 「偽善かどうか?」、悩む時間を、「もっと高い理想はどうだったはずか?」を研究する時間に充てるほうが、色々なものが見えてくるのではないか、と思います。 もし「優しくなりたい」というのが、願いであったら、そういう今述べたようなやり方も、あると思います。 ただ、人間の思いやりは、すれ違うものだから。 気付くたびに、辛いかも知れませんね。
ちょっと前まで同じことで繰り返し悩んでいました。 理想とする自分があり、現実の自分とのギャップに悩み、誰にどのように励まされても落ち込んでいました。 自分を偽善的だとも思ったし、本当の自分と作った自分がいるようで、自分がどんな人間なのか見失っていました。 徹底的に悩み、自分なんかいなくなってしまえばいい、とまで考えた末、 ふと辿り着いた結論が、「自分を好きになれないと人にも優しくなれない」でした。 自分のことが好きになれないと、自分を大切にしてくれる人に気付くほど、「迷惑をかけてしまっている」とか思ってしまうんです。 本当は、大切にしてくれる人たちは、「明るく楽しく毎日をすごしてくれるだけでいい」と思っているのに。 まず自分を好きになることが大切だと思います。そして、毎日を楽しくすごせるように意識してみましょう。 自分を好きになることで、周りにも優しくできるようになっている自分に気が付くと思います。元気出してのんびりいきましょう。
私も自分自身を「ダメだな…」と思って悩む人間なので、 自信は無いですが、経験者で書かせていただきます。 質問中の疑問形になっている部分を拾って、回答しますね。 >性格のというのは、自分ではどうし様もないのでは? 半分当たっていると思います。何故なら、 人間って、自分以外の人の影響で、簡単に変化しますから…。 「このままの自分で良い」と思っていたとしても、 変化することもあったりします。「自分を変えたい」と思っても、 周囲が許さない状況…なんて事も有り得ます。 それと、自分を自分自身で変えていくことは、可能です。 本質は変わらないかも知れませんが、物の考え方、見方が 変えられると思います。 >もし自分の理想としている人物なら、こんな時なんて言うだろう? >と考え、実際自分が思っていないような偽善的な事をいってしまい、 >これはいい子ぶっているだけなのではないか?と >後悔する事もあります。 理想の人をまねるのは、良い事だと思いますよ。 「学ぶは真似る」って言葉、聞いた事ありませんか? 理想の形を真似して自分の身につけられたら良いと、私は思います。 >優しい人になりたいと思うのですが、無理に自分を優しくしようと >思っても、ただ偽善を繰り返しているだけなのでしょうか。 自分の行いを「偽善」と感じるのは、多分、 己の心に嘘を付いているからだと思います。 hurubaさんも、質問中に >自分の本質的なところは変わらずに、 >見栄えばかりが「良い人」ぶっているようで嫌になります。 と、明確に書かれていらっしゃいますね。 >本当に優しい人になれるのでしょうか。 ここで1つ、考えてみて下さい。 「優しい人」に御自身が欲してなりたいのか、 周囲の期待に答える為になりたいのか、 はたまた両方なのか…を。(多分、両方…ではないですか?) hurubaさんは己に嘘をついてでも「優しい人」でいようと、 なさっています。そしてそれを「偽善」と感じていらっしゃる。 が、しかし、「優しい人」に価値を感じ、「そうなりたい」と 思うhurubaさんの心の中にある欲求に対し、 正直に行動しての結果で、偽善ではない…とも取れます。 また…自分の気持ちを犠牲にしてでも、他の人に優しく出来る hurubaさんって、優しい所あるな…と、私は思いました。 こんな事「本当の自己中」だったら、出来ないような気がしますよ。 さて、最後にアドバイスを。 あなたの側に「優しい人」がいたら、 「どうして優しく出来るの?」と尋ねる事を、お勧めします。 そこから学べる事が、いっぱいある筈です。 例えば、あなたの眼から見ると優しい人なのに、本人に聞いたら、 「私は優しくない。むしろ冷たい」と返事されるかもしれませんよ。 >文章がまとまらなくてすみません。 いえいえ、全く心配ないですよ。普通に読めました。むしろ、 こちらの方が…まとまりの無いアドバイスかと、少し心配です(汗) 何かありましたら遠慮なく、補足要求してください。
haribaさんは、きっとかなり若い方だと思いました。 これからですよ。 私は、何事も経験に裏づけされたものだと思っています。 生まれ持った性格はやっぱり多少はあると思いますが、 優しくなりたいとか一つの事に熱くなりたいとか、それは性格じゃないのでは? 人の痛みがわかるような経験がまだそれほどない、熱くなれるものに出会えてない というだけなんじゃないかな? 理想的な人を演じたり装ったりしても、自分にそれほどストレスがかからないなら 悪いとは思いませんが、(形から入るのは、案外効果的ってこともあります) それよりも、色んなことに目を向けて、与えられた事だけでなく何にでも挑戦してみるとか、 そういう前向きな生き方をしていたら、熱くなれるものも見つけやすいと思うし、 いろんな場面に出会う事によって、相手の気持ちがわかるようになったり、 本当の優しさを知る事ができるんじゃないかな。 あと、人間って完璧じゃないので、あんまり自分を追い詰めないで欲しいです。 神様じゃないんだから、いつでも他人優先なんてことはできる訳ありません。 まず、自分があって相手です。あんまり、自分に理想とか完璧を求め過ぎると、 そうではない人の、間違いや失敗も許せなくなってしまう・・ これでは本末転倒ですね。
- buran
- ベストアンサー率33% (259/782)
えーと、回答自体に矛盾が生じるのですが、 「ここで回答している自分を偽善者的に感じるときがある」 のです。 一生懸命質問された方のために答えようとしている自分のありようが、何か本当の自分と解離していて無理しているように感じるときがあるんですね。 それはきっと自分が優しい人を自分の器以上に成り切ろうと背伸びしすぎているんじゃないかと思うわけです。 話がとっちらかってますが、「本当に優しい人になれるのでしょうか。」と問うている人は、十分優しいと思います。 自分の理想像と、それに近づくための行動やその基盤となる思想や思考形態の持ち方にずれが生じるのは、社会において他人との関係性の中で動く以上(自分の思い通りに全て状況が動くわけではない以上)仕方ないですよね。 「目的」=理想像と、「手段」=「行動・思想・思考形態」と置き換えたときに、目的を見失って手段のありようにこだわり過ぎると、自分の中の矛盾も広がるんじゃないでしょうか。 まとまらなくて申し訳ないですけど、優しい人間性を持っておられるのではないですか?
お礼
>自分の理想像と、それに近づくための行動やその基盤となる思想や思考形態の持ち方にずれが生じるのは、社会において他人との関係性の中で動く以上(自分の思い通りに全て状況が動くわけではない以上)仕方ないですよね。 その通りです!しかも自分も理想像には遠く及ばないほど器が小さいのですから。 目的を見失ったり、又は、理想ばかりに目がいって、現実の行動が出来なくなるような事は絶対に避けたいです。 buranさんの回答は、わたしの暴走をセーブする教訓です(^^) どうもありがとうございました。
- mimosa2001
- ベストアンサー率22% (121/539)
こんにちは。 優しい人になる、ということの意味によって、やるべき行動は違って くると思います。 「優しい人と言われる」ことが目的なら、自分の気持ちが冷たくても、 表面に現れる行動をやさしくすればいい。 「自分で自分を優しい人と思う」ことが目的なら、あなたの心が 無理をしないでいられる範囲で、できるだけの優しい行動をとっていればいい。 優しいことはいいことでしょうか。他人から見たら、都合がよくて ありがたい、いいことです。 自分からみたら、べつにどっちでもいいのだと私は思います。 大切な自分のことを、どういう性格かによって、自分で裁くことは 必要ないと思います。 わがまま、自己中でも平気平気。そういう自分が、世の中と どう関わっていくか、トラブルを避けて周囲ともうまくやっていくには どうするといいかを知っていれば、どんな性格でもいいと思います。 あなたの今いる環境が、あなたに対して「よい子」を要求しているのなら、 必要に応じて「よい子」をやるのもいいでしょう。 それは誰かのためなんかじゃなくて、大切な自分を幸せにするための テクニックと考えれば、つらい考え方に陥らなくてすむんじゃないかと思います。
お礼
環境が自分に「良い子」を求めている訳では無いです。自分が自分自身に良い 子を求めているのだと思います。 宿題やってこなかったり、未成年だけどこっそりお酒飲んだり(汗)、実際のわたしは「良い子」でも何でもありません。また、社会的な優等生になりたいと望んでいる訳でもないと思います。(憧れはありますけど^^:) けれど、人間性の面から見て、他人への優しさを求めているのだと思います。 そして、それは自分への優しさなのではないかなぁと思います。 とすると、自分のしていることは、自分のためにやっている事で、自分を大切にしているという事ならそれでよい事なのかな・・? だめだ~ 頭がパニックです。 回答から離れたお礼になってしまい、すみません。けれど、mimosa2001さんの回答のおかげで色々考えることが出来ました。どうもありがとうございました。
- saririan
- ベストアンサー率21% (8/38)
性格というものは変えられないものではありません。性格は一種の固定観念のようなもので、変えようと本気で思えば変えられるものです。 ただ、hurubaさんのいわれる「優しさ」というものは、性格ではありません。 優しい性格、冷たい性格というようによくという言われますが、生まれつき備わったものではないのです。実際はその人の経験などにより、他人や弱いものに対して共感でき、思いやれるようになって自然におこる感情なのです。ですからつらい過去を乗り越えたことのある人は優しいのです。 その感情に自然にしたがって行動する優しさが本物であるのならば、「人によく見られたい」と考えて行動するのは偽善といえます。 「偽善でも冷たいよりやさしいのがよい」という考え方もありますが、hurubaさんは、「本当に優しい人」になりたいわけですよね。 たくさんの感情を人間は経験から学びます。ですから、いろんなことに挑戦してたくさんの感情を勉強し、本物の優しさをみつけることが理想への道だと考えます。 ただ、「理想の自分になりたい」と考えるだけで、何の挑戦もせず毎日を惰性で繰り返していれば、何も変わりません。 理想の自分のように「振舞う」ようにしても近づけません。できるだけたくさんのことに挑戦し、経験をつんでこそ自然に熱い心をもてるのであり、優しい心にもなれます。
お礼
おっしゃってる事もっともだなぁと思いました。 経験ってとてもとても大切なものだと思います。辛い経験がたくさん重なって、心がひねてしまう人もいるけれど、その暗さに負けなかった人は、その経験すらをバネにして、自分の心を育てていくんだなぁと思いました。 いろんな事に挑戦…してみます。出来たら、一人でする経験ではなくて、人と触れ合う経験をたくさんやってみたい。 辛い過去なんて、今までなくて平和にここまで生きてきたし、それはとても恵まれている事だと思うけれど、もしこれから逆境にあたる事があったとしても余裕を持って自分の糧にしていきたいです。
- fukunokami
- ベストアンサー率30% (243/786)
ちょっと、見当外れかもしれませんが、性格を変えると言うのを目指していましたので、ご参考に。 「余裕」の有無だと思うのです。優しさって。 余裕がなくなると相手に厳しく成ります。だって自己保存が生物の第一の目的ですから。"(^_^;)" 国でも同じで、米国なんて本当に分りやすく、自分が調子が良い時と悪いときの余裕・対応がまるっきり違いますね。"(^_^;)" 以下は私の様な一般的な人に適応できると思います(つまり聖人君子と言うか、精神力が凄く強い人には関係ないことです) で、私は自分の熱くなると言うのか、感情的になるのが自分自身でも嫌でした。 まず肉体的には体が柔らかくなると、それだけ体が楽に成るので、感情面でも余裕が出てきました。 あとは、各面(体力、精神力、経済力、知識などなど)全ての面を少しでも向上・強化・増強しますと、其の面で余裕が出てきて、優しさらしくなってきます。 自分で気がつかなければ、もっともっと他の人から見て悪くなるでしょうから、自分で気がついて努力すれば、少しずつでも良くなっていくと思います・・・・・多分。 \(^O^)/
お礼
そうですね。余裕があれば、その余裕の分、人に対しても余裕とゆとりが持てると思います。私は、結構いつも余裕が無い人間なんで。いつも誰かに、色々やってもらっている気がする。もっと余裕をもてる人になりたいです。特に精神的に。例え自分がどんなに辛くても、人のことを考える余裕を持てるように。少しずつがんばっていこうと思う。
- freeman108
- ベストアンサー率11% (18/153)
僕は、どちらかというと熱くなっても感情を出さない方がかっこいいと思っているので、あまり熱くならないようにしています。理想の自分の反応をしているので空しくはなりません。 自分の考えを伝えるときは、「世間ではこうだよね。でも僕はこう考えてるよ。」という風に一般常識と自分の考えを合わせて相手に伝えます。相手に対し、偽善的な意見を言うということは、相手を傷つけたくないとか、相手のためになることとかを伝えてるわけですから、それはそれでいいのではないでしょうか? 「うわべのいい人を続けていく事で、本当に優しい人になれるのでしょうか。」 ということですが、うわべでもいい人を演じていられるのなら、hurubaさんはきっといい人なんですよ。偽善と言われても(思われても)何もしない人よりは、何かする人間の方がいいんじゃないですか? どこかで、「コンビニの店員が足りないおつりを募金箱からとって出した」という話を聞きました。僕も募金箱に入ったお金がすべて困ってる人のとこに行くと信じていません。財布の小銭が増えすぎるのが嫌だったり、数円のおつりのために財布をあけるのが面倒だったりしたときに募金箱に入れます。偽善以下の行為かもしれませんが、何もしない人間よりはマシだと思ってます。 何言ってるかまとまりがありませんが、他人から見られる自分が、自分の理想像でありたいなら、演じることも必要だと思います。
お礼
募金箱の話し、なるほどなぁと思いました。確かに、どのような考えからした行動にしても、その募金されたお金は、どこかで誰かの役にたっているのですから… 私が偽善的な自分に嫌悪感をかんじるのは、自分の優しさは、周りの評価や評判を気にしているからのものではないかという事。結局自分の為にやっているのではないだろうかと思う時です。例えそれが、誰かの役に立ったとしても、自分の心の仲にむなしさが残ります。…難しいな。 回答ありがとうございました。
お礼
人の痛みが分かるような経験…というか、人の痛みが分かってあげられなくてもどかしい思いをした経験なら、結構あります。 とてもありがたいことだと思うのですが、私は、今まで17年間家庭環境にも人間関係にも恵まれていたことが多くて、例え何かつらい事があっても、自分の中に自分を客観的に観察している本当の自分がいるような感じで、どうしようもなく落ち込むほどの事が無かったように感じます。 だから、誰かが苦しんでいる時どうすればいいのか分からなくて、自身を持て余してしまいます。そして、そういう時にもし自分の理想像ならどう考えるかを想像して、その行動をとったりしてしまいます。けれどそれは自分ではなくて、本やドラマをお手本にした偽善的な模範解答に過ぎないことが多いんです。 自分の中にものすごく客観的な傍観者が一人いて、だから自分の優しさが偽善だと分かるのだと思います。この傍観者は経験から消せるものなんでしょうか? !!ごめんなさい。気づけばお礼とはかけ離れたものになってしまっています… 書き直そうかとも思ったのですが、kuruminさんの回答を読んで、そのまま思ったことを書いた物なので読書感想文とでも思ってください。ごめんなさい。そして回答どうもありがとうございました。 それから、最後の段落のメッセージ肝に銘じておきます。