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ブスの処世術もしくは処世訓

true-1の回答

  • true-1
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回答No.49

レスありがとうございます。質問者さんが考えを少し柔軟にし、変化しようとしているのが感じられ、嬉しく思います。 災難の構えの回答の前に、下記に文章を連ねますので、何回な熟読してみて下さい。 【建前と本音】 人は、俗に言う「建前」と「本音」があります。建前とは、頭の中で考える考えであり、本音とは腹底の心での考えであります。つまり、人というのは特殊な例を除き、二つの心を常に持ち合わせているわけなので、一つであるという勘違いをしないように注意したいところです。 さて、建前がやたら多いという人が世の中にいますが、一緒にいてどうでしょうか?何を言いたいのか分からない、何を考えているのか分からない、本心隠してええ格好しようとしている、キレイごとばかりでつまらない、と思われると思います。 逆に、本音がやたら多いという人も世の中にはいますが、一緒にいてどうでしょうか?ジコチューだな、とか、本能でのみしゃべってるな、とか、周りの事などおかまいなしだな、とか思われると思います。 建前の多い人、本音の多い人、両方とも困った人であると言えるのではないでしょうか。結論から言うと、相手や状況、話の流れ具合等をしっかり勘案した上で、「建前」と「本音」を自分で選別して、行動、発言していくことが大事であると考えます。当然、会話では、いちいち考えて選別して、では間に合いませんので、瞬間的な判断が要求されます。何を話すべきか、何を伝えるべきか、今伝えるべきなのか、等々を瞬間的に判断するのです。これは、少なからず、経験も必要です。経験も必要という事は、当然、失敗もある訳ですが、この失敗を怖れず、チャレンジすることが重要になります。本音を言うべきところを、建前を言って失敗すること、建前を言うべきところを、本音を言って失敗すること、これは、ある種、場の空気を読んでいかに適切に判断するかが問われてくるわけで、あとは場数という経験を積み重ねることで、こういった失敗を減らすことは可能になるかと思います。簡単ではありませんが、これを意識して行っていけば、建前と本音の使い分けというものが、淀みなく行えるようになっていけると思います。 建前と本音をうまく使い分ける為には、経験も、必要と述べました。それでは、他に何が要素として必要なのでしょうか。それは、まず、自分を知ること、そして、周囲に興味、関心を持ち観察すること、この2点が挙げられます。 自分をもし知らない人であれば、今自分が何を考え、何を思い、何を伝えたいのか、すら分からないので、仮に言葉として伝えたにしても、それが建前であったのか、本音であったのかさえ、怪しくなってしまい、結果として、うまく表現できなかった、失敗した、という結果に陥る可能性が大となります。また、自分を知らない、という人は、自分に対して自信もないので、周囲への興味、関心というよりは、自分が周囲にどう見られているか、どう評価されているのか、に執着してしまい、結局、場の空気を読めない、という結果になってしまうと想像され、周囲への観察は疎かになります。 自分を知るには、善いことをすること、と、失敗したらしっかり反省すること、が必要になります。 善いこととは、人に席を譲るとか、大きな声で挨拶をするとか、困っている人を助けるとか、であります。そして、どんどんやっていくうちに、あることに気がつくと思います。それは、人に対して善いことをすると必ずと言っていいほど、見返りを求めている自分がいることに気づくということです。何か親切をして、普通に御礼の挨拶を貰えればいいのですが、逆に挨拶なしで立ち去られると、怒りに似た感情が吹き上がり、さらには、相手を罵るまでになってしまう事があります。善いことをしておきながら、腹底の心で悪い感情を造り上げているとは、善をしているのか、悪を造っているのか、分からなくなってきます。人は、善いことをしますが、純粋な善はできない、というのが真実です。真実な善ができない中で、それでも善を続けていく事で、見返りを求めている、悪たらしい心が見え、自分の本性、つまりは自分を知ることができるようになります。この嫌らしいかもしれない本性を積極的に受け入れていく事で、自分を明確に知っていくことができます。 自分を知るには、もう一つ重要な要素として、失敗したらしっかり反省すること、というのがあります。人は、失敗する時に、得てして、利己的で悪たらしい心が作用する場合が多いものです。そういった醜い心で犯してしまったが為に、割と責任を認めたらず、結果としてしっかりした反省に至らないケースが多いのです。ですから、反省に至らない人というのは、自分の醜い心を見逃す場合が多く、自分を知るチャンスを逃すことになるのです。これは、非常に勿体ないことです。ここは、勇気を持って、積極的に失敗の責任を認め、失敗を受け入れることで、反省をし、自分の利己的で悪たらしい心を嫌というほど見つめて貰いたいものです。そうすれば、確実に、自分と向き合え、自分の本心、本性を知ることができるのです。 善いことをすること、反省をすること、は一日、二日程度で良いわけではありません。永遠に努力していく事が大事であるし、し続けなければ全く意味も、成果も得られません。日々、続け、自分の本性を知らされていく中で、当然自信もつき、人と接していても臆することなく渡り合えるようになっていくものと推察されます。そうなれば、あとは経験のみ。建前と本音をどういう雰囲気の時に、どういうタイミングで、どちらを出していくべきか、が感覚的に分かっていき、いつのまにか建前・本音を選別しきる達人になっていることでしょう。 【自信が持てないのはなぜか?】 自信とは、「自分を信じること」だと思いますが、人はなかなか自分に対して自信が持てないものです。その原因の一つとして考えられるのは、周りの人間が立派に映ってしまう、そう見えてしまう、あるいはそう見てしまう、という人間特有の妄念(迷いの心)があるからだ、と言えます。こう見てしまうと、自分自身は情けなく、心許なく、小さい存在だ、と卑下してしまうので、当然自信なんてものは持てなく、自信がない、になってしまうわけです。これは、妄念自体に誤りがあるので、それを是正すれば、自分を卑下しないようになり、少なからず自信を持てるようになります。 自信が持てないもう一つの原因を考えていきたいのですが、それは何なのでしょうか? それは、自分の本当の心、本心(本音)を知らないからです。具体的に言えば、自分が何を思い、何を伝えたく、何をしたいのか、を明確に知らなく、ぼんやりしているからでしょう。今まで自分を知る努力をしないで、知る時間をとらないで、やり過ごして生きてきたので、今の自分が何者であるのか、が分からなく、地に足が着いた状態でない事から、自信すらも持てないわけです。 人は、自分が思っているほど自分の本心を知らないものです。いやいやそんな事はないですよ、と言ってみても、いざ何か意見を求められた時に、言葉にすらできない場合があるものです。それは、普段からしっかり見つめていないので、自分の思いが言葉にならなかったり、思いが言葉としていくつか浮かんでるものの、どれが本当の思いかが分からないので選べなかったり、という事です。 人間の本心とはどういったものなのでしょうか?キレイなものなのでしょうか?実は、人間の本心というものは、決してキレイなものではなく、汚いものなのです。人を憎む心、陥れる心、謗る心、妬む心、自分だけ得をしようとする心、欲まみれの心、自己中心的な心、いじめる心、等々、到底受け入れたくない心が、まさに人間の本心なのです。この本心を真摯に見つめ、しっかり受け止め、受け入れられるか、が必要不可欠なのですが、人間は自分に対して、キレイである、という妄念を持ちたがるので、なかなか受け止められません。どちらかと言うと、自分のおぞましい本心から逃げ、見ないように回避したがり、実際そうしてしまうものです。 あの人なんてフラレればいいのよ、あの人なんて降格すればいいのに、あの人なんて傷つけばいいのよ、あの人なんてバナナの皮の上に乗って転べばいいのよ、というような事を、腹底の心で平気で考えているのが、人間です。建前は素敵な微笑みを浮かべ、人の良さそうな顔して話している人でも、腹底訪ねていけば、おぞましく怖ろしいことを考えていたりします。人間の本性、真実の自己とは、そういうものなのです。 人間の本心は、悪たらしいものですが、どうすれば知ることができるのでしょうか?それは、周りの人に対して、親切や善いこと、を実行することです。当然、親切や善いことは、周りを一生懸命観察しないと、適切な行為には繋がりませんので、関心・興味をしっかり持つように日々努力することです。その親切や善いことをする中で、腹底の心で何を感じたか、何を思ったか、をしっかり振り返って下さい。この繰り返しで、自分の本心が少しずつ見えてくるはずです。様々な悪い心が見えてきますが、逃げずに受け止めて頂きたいと思います。 例えば、電車で年寄りに席を譲ったとします。その年寄りが御礼の挨拶もせず、むすっと席に座った場合、心の中でどう思うでしょうか?私なら、「せっかく、わざわざ譲ったのに、御礼の一つも言えないのか、このくそばばぁ!」と、腹底の心で思い、不快になるでしょう。これが、本心です。つまり、善いことをしているのに、腹底の心では、それ以上に悪い事を平気で思っている、怖ろしい存在、これが人間というものです。善いことをしても、ついつい「見返り」を求めてしまうのが、悲しいかな、人間なのです。ただ、こういった悪たらしい腹底の心をしっかり見つめ、汚い心だけど、これが自分の心なのだ、と受け入れるのが非常に大事です。所詮、人間の心はキレイなところはありませんから。 どんどん善いことをしていくと、見返りを常に求めている自分に気づけるようになります。もしかしたら、純粋な善などできないかもしれない、と思えるようになります。それぐらい、善をすれば、自分の本心はだいぶ見えてきている状態にあると思います。 ここで、注意がまた必要です。悪々しい自分の心ですが、これを開き直って、悪いことをしていい、という勘違いをしないで頂きたい、と思います。悪い心があることを認めつつ、悪いことをしないように行動をする事が大切なのです。自分が悪い要素を持っていると知れば、悪い縁を絶ちきり、悪い行動にならないようにします。例えば、アルコール依存症の傾向があると知った人は、飲み会を避けたり、冷蔵庫にアルコール類を置かないように配慮したりして、アルコールの縁を絶ちきります。これで、アルコール依存症になることを回避しようと努力します。 人は、自分の本心が分からないから不安を抱え、自分に自信が持てません。しかし、決してキレイではないかもしれない本心、を知れば、人は自分に対して自信を持てるようになっていきます。自分を知って自信のある人生にするのか、自分を知らずして自信のない、不安な人生にするのか、それは偏に自分の選択一つにかかっているので、怖いかもしれませんが自分を知ることを選択して欲しいと思います。 【他人の評価は気になるものか】 自分は、周りにどう見られているのだろう? 人は、人と接する中で生活を送っています。ですから、人からどう見られているだろう、とか、どう評価されているだろう、とかが気になったります。時には、それが気になり過ぎて、人前でカチコチになったり、だんまりを決め込んだり、人が怖くなったりもします。こうなってしまうと、人間関係がどうだ、という問題以前に、自分をどうにかしなくては、になってしまいます。 さて、ここで問題にしたいのは、他人の評価をそれほどまでに気にする必要があるのか、他人の評価が当てになるものなのか、という点です。ある部下が、出世街道まっしぐらの上司に対して、「私は、あなたについていきます。」と賞賛したとします。ところが、その上司がある失態を犯し、降格させられました。その部下は、翌日から手のひらを返したように、その上司に対して冷たい態度をとるようになりました。これは、その上司が出世街道にある時は、部下にとって都合が良かったので賞賛、つまり良い評価をしていた訳です。しかし、その上司が降格となり出世街道から外されたと分かるや否や、冷遇、つまりは悪い評価を下した訳です。この部下の評価基準は、自分に利益があるか否かの「ご都合主義」で行われているわけで、彼の評価は全くと言ってよいほど、当てにはなりません。 お酒を飲んでいる時は褒めちぎるのに、普段は何かとけなす人もいます。人の評価というものは、気分一つ、状況一つでも変わるものなのです。逆に、自分が他人を評価する場合はどうでしょうか?自分の利益になるかどうか、損得勘定でどうか、自分がその人を好ましいと思っているか、というように、自分の都合で決めている場合が大半だと思います。欲目を入れないで、絶対的な評価をすることなど、人間にはできないのにもかかわらず、人は、他人の評価に戦々恐々となり、気にしてしまうものなのです。 他人の評価は当てにならない、という事をしっかり認識していないと、その評価に一喜一憂してしまい、振り回される結果に陥ります。これは、正直、愚かしい事です。当てにならないものを、当てにして、勝手に落ち込んでいるわけですから、まさに一人上手です。所詮、人の評価にしか過ぎない、当てにならないものだ、と分かっていれば、いちいちくだらない他人の評価など気にならず、堂々と自分の人生が歩めるはずなのです。(他人の評価は聞かなくてよい、という意味ではありません。人間関係を壊せ、という意味でもありません。他人の評価は当てにならないので、振り回されるのは馬鹿らしい、という真実、を知って欲しい、という意味です) ここで、最後に注意したいのは、他人の評価の中に、良い指摘が入っている場合もあるので、そういった内容にはしっかり耳を傾けなければならない、という事です。他人の評価も、一参考意見としては、自分の為にはなるので、無下にするわけにはいかなく、自分の成長の為には、大切にするべきです。 ここで述べたかったことは、偏に、他人の評価に振り回され過ぎて、自分を見失い、相手に合わせる事でしか、自分の存在を認められない、という状況に陥るのは、愚かしい事ですよ、という事です。 【反省できない人間】 「反省」とは、どういう意味であろうか。 『自分のした言動を省みて、悪い点を認め、改めようと考えること』 概ね、上記のような意味であろうと思います。ところが、人間というものはなかなか反省できないものであります。表面上、とか、口先だけでは、「反省してます」と、殊勝な態度はとるものの、内実は裏腹である場合が多いものです。 日常において、反省しなければならない機会は数多(あまた)存在します。例えば、人と会話していて、ついつい失言をしたり、お酒が入って暴言を吐いたりすることなどです。明らかに、自分が悪く、相手に謝らなければならない、のにもかかわらず、自分の責任として相手に謝るのが嫌な為だけに、その事実を無かった事にしたり、無視したり、あるいは、相手が悪かったんだ、とねじ曲げたりして、反省をしない場合があります。これは、単に自分が悪かったんだ、という自分の責任(罪)を認めたくない、受け入れたくない、という自己中心的な考えに基づくものと考えられます。 自分の責任と認められない人は、苦しみの人生が待っているので、この苦しみから脱却するには、まずは、自分の責任と認めることが肝要です。次に、自分の責任であると認められると、その事象について振り返り(回想)をします。振り返りをしていると、「あの時、あ~いう事を言ってしまったのは良くなかったなぁ。相手を傷つける言葉だったかもしれないなぁ。」と、自分の言動の悪い点が見えてきます。悪い点が見えてくると、これからは、そういった軽率な言動は慎まねば、との考えに至ります。この一連の行動を、「反省する」と言えると思います。 人というものは、縁が来れば、悪い行動をしたり、悪い発言をしたりする所があります。反省して、自分の悪い部分をしっかり知っていく事は、その悪い部分を認識しながら、その悪い部分が発動しないように注意しながら、生活することができるようになる、という事です。自分が悪さをする人間であるという事を知っている人が、極力悪さをしないように注意するのは、実は、こういった人は、反省がしっかりできるタイプだからです。逆に、反省ができないタイプは、自分の悪さ加減を知らないので、何度も悪い言動をしたりして、失敗を繰り返す、愚か者であったりします。 表面上の反省は、何も意味を持ちません。次回に繋がる反省だけが反省と言えます。ここで、注意しておきたいのが、自分の中だけで完結させる反省です。心の中で、十分反省したのだからいいのではないか、というものです。これでは、反省したことにはなり得ません。では、何が欠けているのでしょうか?それは、相手への謝り(謝罪)です。相手の前に行き、声を出して謝る、これが必要不可欠です。この行為をした事ではじめて反省が完了したと言えるでしょう。謝った時点で、自分の責任である事を自分に知らしめた訳ですから、謝る行為を外すことはできません。 反省し謝罪する、という行為は、現代において、非常に軽視されていて、どちらかと言うと嫌われていると思います。しかし、この行為の素晴らしい所は、それをする事を積み重ねていく事で、自信がついていくことです。もし、自信がないという方は、謙虚に反省することから始められるといいと思います。

shikome
質問者

お礼

おっしゃる通り、日にちをかけて何度も読み返してみました。申し訳ないですが、高尚すぎてやはりあまり理解できません(苦笑)。前にも申し上げたと思いますが、私は別に自分を善人だと思ってはいません。同じように周囲の人間も純然たる善人だと思ったことはありません。 何か親切をすれば感謝されたいと思いますし、その親切が通じなければ腹も立ちます。見返りを期待せずに善行を行なうことなどないでしょう。「善いことを行なった」という爽快感を得る、これもまた自己満足という見返りですから。 他人からどう評価されているか…ということばかりを気にして振り回されているということはありません。どうせたいていの他人は私を見下しますし、私に対して嫌悪の感情を抱くでしょう。別にそれはかまわないのです(嬉しいことではありませんけどね)。どう「思うか」などということに干渉できませんから。私が困っているのは被っている「実害」のことです。嫌いだから罵倒していいなどという下らない行為に巻き込まれないようにすべく自衛したいだけなのです。 反省という行為についてですが、礼儀知らずの人間に謙虚に振舞ってもいっそうなめられるだけなので、このやり方が全て有効だとは思えません。もちろん道理をわきまえた方には私もきちっとしますが、こちらの気持ちなど理解する気がない人間に対して謙虚な態度に出ても「こいつは俺にぺこぺこするんだな」といっそう見下されるだけです。 無礼者には無礼でいないとますます攻撃されるのです。きっとおわかりにはならないでしょうね。

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