• 締切済み

アプリオリ評価について

アバウトな質問になりますが アプリオリ評価ってそもそも何ですか?

みんなの回答

回答No.2

> 先験的評価と呼ばれる不等式を求めるのが鍵になっています。 #1さん、先験的評価がアプリオリ評価の日本語訳では? アプリオリ評価とは、(非線形)偏微分方程式の解に対する評価の一つで、大雑把に言って、次のようなものを指します : 偏微分方程式の解の弱いノルムの評価によって強いノルムを評価する。 例えば、L^2ノルムでソボレフノルムを評価するとか。 アプリオリ評価をする際には、ある条件を課した上で、偏微分方程式そのものを使って評価をします。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.1

偏微分方程式のアプリオリ評価とは解の存在を仮定して与えられた境界値問題を関数空間の間の連続写像の問題に直す方法です。作用素論が適用できるように先験的評価と呼ばれる不等式を求めるのが鍵になっています。なおアプリオリは英語の発音とはかなり異なると思われます。「エイプライオーライ」(オーにアクセント)のような発音です。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • アプリオリの意味について

    以下の質問への回答(ベストアンサーではない方)で「1+1=2はアプリオリな事実」とありますが、これは”アプリオリ”という言葉の使い方として適切でしょうか? https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1321700773 適切だとすればネットに数多くあるアプリオリの説明の中でもこれ以上ないほどわかりやすいアプリオリの説明だと思いました

  • アプリオリということについて

    アプリオリということについてお尋ねします。カントが使っているような意味を含みますが、一般に人間が生得的に持っている-という意味としてここで取り上げておきます。 アプリオリという言い方がなぜ必要なのかということを考えてみました。それは、主体が世界(事物)を客体として眺めるからだと思います。この時、主体の認識が客観的であることを保証するものを求めようとすると、どうしても無限遡航を生じさせてしまいます。  そうさせまいと思えば、デカルトのように神の保証を頼むか、カントのようにアプリオリな認識機能を想定するしかないように思います。デカルトの行った神の存在証明は間違っているので、結局アプリオリな認識機能を想定するしかないと思います。  また、科学の(実証主義的な)考え方においても、やはり、対象となる世界の事物は客観的なものと想定されているように思われます。そして、ある仮説が妥当であることを示すために実証(確認)作業を繰り返すわけですが、その際に、妥当だと判断する際の拠り所となるのは、最終的には実証者の確信に置かれるのではないかと思います(例えば、計測器具の数値を読み込む際の判断する場合や、実験データを組み合わせて何かを判断する場合など)。  その確信の拠り所となるのは、人間にアプリオリに備わっている認識機能あるいは知覚機能を想定するしかないと思うのです。あるいは、アプリオリに備わっている合理性にその根拠を求めるべきなのかも知れません。この考え方でよろしいでしょうか?  もう一つ、認識の際に前提とされている主観-客観関係を取り払ってしまった時、アプリオリということはどういうふうにとらえるべきなのでしょうか。世界内存在という存在態勢は、根本的な認識態勢でもあるはずです。この時、世界内存在という態勢そのものが人間にアプリオリなものなので、認識能力だけをアプリオリなものとして取り上げることにもはや意味がなくなっているように思うのでしょうが、いかかでしょうか?言い換えると、認識能力だけをアプリオリなものとして成り立たせている(存在させている)ものが世界内存在という態勢なのだと考えてよいのでしょうか?  

  • アプリオリな認識について

    「1+1は2である」はアプリオリな事実ですが、「Aさんは”1+1は2”だと信じている」はアプリオリな事実もしくはアプリオリな認識でしょうか 理由も教えていただきたいです

  • 「1+1は3である」はアプリオリな事実?

    「1+1は2である」はアプリオリな事実ですが、では「1+1は3である」はアプリオリな事実でしょうか? 理由も教えていただきたいです

  • アプリオリ

    アプリオリ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%AA >「私はこのことを知っているが、経験を通じて知ったのではない」 ありえないでしょ。こんな事。 知識の遺伝とかいうこと?

  • カントのアプリオリの具体例について

    「Aさんは女である」という客観的な事実は経験に基づかないという意味でアプリオリな事実でしょうか? もしその場合、BさんがAさんに対して持っている「Aさんは女である」という認識はアプリオリな認識でしょうか? もしアプリオリな認識だとすると、女とか男といった性別という概念を理解するには経験を要するのでアプリオリではなくアポステリオリな認識ということになりませんか?

  • ア・プリオリの反対語

    哲学用語の「ア・プリオリ」,これの反対語を教えてほしいです. よろしくお願いします.

  • ア・プリオリとア・ポステリオリ

    1)「ア・プリオリ」と「ア・ポステリオリ」 2)「遺伝的」と「生得的」 3)「変えられないもの」と「変えられるもの」 上記の三つの対比、又は区別は、本質的に同じ事になるでしょうか? 色々な角度から、ご教唆頂けませんでしょうか。 「賞味期限」89168時間と77秒

  • 純粋理性批判冒頭における、ア・プリオリの範疇説明について

    純粋理性批判冒頭における、ア・プリオリの範疇説明について 現在、宇都宮版、高峯版、中山版にて、純粋理性批判を読んでいるのですが、いずれの版を見ても判然としない所がありまして、質問させていただければと思います。 純粋認識と経験的認識の区別について、同時にア・プリオリ性の範疇について、緒言(序論)1節に説明がなされているのですが、この節の後半で例に出されている、「家の土台を掘り下げた人」がその失敗を回避すべく持っていた必要のあった知識「物体は重さをもつこと」「物体は支えが除かれると落下すること」、この認識が、カントにおいて、ア・ポステリオリと扱われているのか、ア・プリオリの中のひとつと想定されているのか、を教えていただけると嬉しいです。 中山元さんの文庫での解説をみると、3つのアプリオリ性(相対的・絶対だが純粋ではない・純粋)ある中の、上記は相対的アプリオリ性である事が示唆されているのですが、本論ではこの例の直後に、「これから先はアプリオリという場合、個別の経験ではなく端的に一切の経験に依存せず生じる認識についていう。」と流れるため、上述の相対的アプリオリ性が切り捨てられたように感じられ、以後の論述でアプリオリという単語が使われ続けるときに、相対的アプリオリ性を含むのか否かが判然としないのです。 もしくは、この相対的アプリオリ性は、カントにおいては、ア・ポステリオリなもの、の範疇に含まれて論議されているのでしょうか。 もし、この相対的アプリオリ性(家の土台を掘り下げた人が持っていたべき過去の記憶?)が、ア・ポステリオリなものでもないとすれば、この領域がアプリオリとアポステリオリの間で浮遊したままに感じてしまうのですが・・・ なぜかというと「これから先はアプリオリという場合、個別の経験ではなく端的に一切の経験に依存せず生じる認識についていう。」のあとに「これに対立するのは、経験的認識。つまり経験によってのみ可能となる認識である」と対立項が立てられ、しかしながら例に挙げられた(家の土台)相対的アプリオリ性が、どちらに属するのかの説明が入っていないからなのです。 ひょっとしたら深く考えすぎていて、すごく単純なことなのかもしれませんが、3種の版と中山解説を読んでもストンと落ちる場所がなかったので、質問させてください。 よろしくおねがいいたします。

  • 純粋理性批判のアプリオリについて

    「物が高いところから低いところに落ちる」という認識がアポステリオリな認識なんですよね? 上記がアポステリオリである理由は「落下という現象は経験しなければ認識できないはずだから」ですよね なのにどうして「すべての変化には原因がある」はアプリオリな認識なのでしょうか ”変化”もまた経験しなければ経験できないはずです この点以前の質問で以下のような貴重な回答をいただきましたが、 https://okwave.jp/qa/q10184750.html 改めて考えてみて「”変化”は経験ではない」「”愛情”は経験ではない」というのであればどうして「”落下”は経験である」といえるんでしょうか 区別する基準がわかりません カントはアプリオリについて直観的に容易に判断できるポイントを説明しているのでしょうか?