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私にとって「この世界が見える」ための条件は?
「私」にとって「この世界が見える」ための条件は何でしょうか? 単純に考えると、「私の肉体」があればこそ、「私」は「この世界が見える」わけですから、条件は「私の肉体がこの世界に(生きて)存在していること」だと思います。 しかし、「私の肉体」とは、何でしょうか? それは、純粋に物質である原子・分子の構成体ということでしょうか? もし、そう考えられるのなら、「私」が死んだ後、未来の科学が、私の肉体を再生することができたら、その時、「私」は再び「この世界が見える」のでしょうか? もし、そうだとすると、それは、私のクローンを作るのと同じことにならないでしょうか? でも、私のクローンは、「私」とどんなに似ていても、結局、他人に過ぎず、「私」は「この世界を見る」ことはできないのではないでしょうか? クローンとオリジナルはDNAが同じであるだけであり、厳密な意味ではオリジナルと異なるはずだから、他人になるのであって、もし、厳密な意味で同じクローンができたら、「この世界が見える」も再現できるでしょうか? でも、それは、明らかに不合理です。何故なら、「私」は2人の自分のどちらかの肉体からしか「この世界が見える」を体験することができないはずだからです(両方の肉体から見えるとすると、世界が2重に見えることになります)。 一方、「私」にとって「この世界が見える」ための条件として、「私の肉体の完全なるコピー」を必要としていないことは、明らかです。それは、子供のころの自分と大人になってからの自分は、肉体的、精神的、また、記憶の上でも、全く異なる存在です。それにもかかわらず、「私」にとってこの世界が見える」ということは一貫して可能だったわけです。 「私」にとって「この世界が見える」ための条件が、「私の肉体の完全なる再生」ではないとしたら、一体何なんでしょうか?
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ご返事ありがとうございます。 >質問1:「海底火山」は原因と考えれば? ・あくまで「火種」と思います。 海草を浮かび上がらせようとして噴火したわけではない、というニュアンスを伝えたいのです。 >質問2:わだかまりを抱えるのは何故? ・比喩を使うことを許していただきたいのですが、「横目で見る」ぐらいはしているからだと考えます。 >質問3:話の内容は、無意識が用意するのでは? ・そう言われると否定する根拠はありません。確かに無意識が用意すると思います。 ただ、その言葉の内容に関して意識が「わしゃ、全く知らん。ただ、言葉にしているだけだもんね。」と言うとしたら、「そりゃないんじゃないですか。少しは気付いているんでしょ。」と言いたいように思うわけです。 ですから「言い間違えた」のは、「つまらないものしか持ってこないはずだ」と意識している(はっきり認識している)からこそ、無意識が用意した言葉を選択したのだと思います。 >質問4:感情や思いの原因は無意識の中にあるのでは? ・非常にわかりやすくまとめていただきありがとうございます。 (3)が抑止力となって(2)の意識を無意識下に抑圧しているのでしょうね。 ただ、(2)が意識化されていないことはないような気がします。 100回記念にもう少しいいことを言おうと意識していたのですが、無意識の表面に浮んでいるのが「いいことを言おう」という記憶しか無かったようで、価値ありそうなものを選択することはできなかったようです。
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- hakobulu
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#41です。 近頃は雪になったり雨になったり、冬とはいえ底冷えするほどではないのが助かります。 夏は好きですし暑さにも強いのですが・・・。 1.>「意識」の特長についての回答 私の考えでは、意識の変更が意志に依存するか否かは以下のようになります。 a.「読書を中断して、窓の外を見る。」は当然意志の結果。 b.「目の前を美人が通ったとき」→「見たい」という意志によって目をむけた結果美人であることがわかった。元から美人とわかっていたのであれば猶更「美人を見たい」という意志が働いた。 c.「勉強に集中できないときの雑念」→「勉強したくない」という意志が働いた結果として、何でもよいので他の事に意識が動いた、ということであくまで能動性の結果であると解釈します。 d.以上3点はすべて「意志に依存」。 「不意に足に熱湯がかかったとき。」のみが「意志に依存しない」場合です。 この場合の意識は受動的であって、能動的に「意識した」わけではありません。 これは「感覚」と呼んでいいように思います。 結論として、やはり「意識は常に意志する」と考えたい気がします。 2.「感覚」の特長についての回答 (2)はおっしゃるところの「指向性」ですね。こういう状況は良くわかります。 (ただ、少しニュアンスが違うと思いますが説明は後に譲ります。) >【「危険信号としてではない痛いという感覚」の存在を前提にしている】わけではありません。 「痛いという感覚は危険信号としての意味しかない。それ以上でも以下でもない」という意味です。 結果として、(1)(2)共に「危険信号としてのみの痛い」です。 私の解釈では、不意であるか予測できたかということには意味を見出していません。 『危険信号』というのは、チェックしたほうが良いと思われる変化が生体に発生したという「警告」といったような認識です。 3.>感覚は、人間が生きていく上で、本当に必要なことなのか? 「痛い!」と感じるためのプロセスはおっしゃるとおりだと思います。 特に【(3)強制的な意識の振り向け。これも、意識を司る関連脳細胞の興奮によってもたらされると考えられます。】に注目してみました。 「痛覚」と「視覚」を同じ意識として認識したくない理由の一端が整理されているように感じたからです。 端的に言うと、「痛覚」は何らかの刺激によって意識に『認められる対象のひとつ』に過ぎず、一方「視覚」は「何らかの意図」を以って「刺激を取り込もうとする意識」によって制御されているものではないかということです。 必要かどうかについては、やはり必要だと思います。 大怪我をしても、痛覚がないために大量の失血を見過ごしてしまう危険性もあろうかと思うので。 足の裏の感触についても、無意識の領域でしょうが体のバランスを取るのに少なからぬ役割を果たしているように思います。
お礼
そして、私の疑問は、何故「危険信号として役割」が、「痛い」の専売特許と考えるのかがよくわからないということと、また、「痛い」という現象そのものではなく、「痛い」が持つ意味とか役割に注目するのなら、実際には、「危険信号」という狭い意味だけではなく、もっと多くの意味を持つと思います。例えば、ボクシングにおける、さらなる向上心への誘引など。また、「危険信号」という意味では、「痛い」に限らず、躓いたときの体感や、電車のホームに落ちたときの落下感も同様に重要な「危険信号」だと思います。結局、私には、hakobuluさんが、何故、「危険信号」を「痛い」と結びつけて取り上げたのか、その問題意識が見えていないのだと思います。 (4)「痛い」は生きていく上で必要か? >大怪我をしても、痛覚がないために大量の失血を見過ごしてしまう危険性もあろうかと思うので。 これについては、私は以下のように考えています。以下の(1)から(6)は、「大怪我した」から「病院へ行く」までの生理的(神経・脳細胞)働きとそれに伴って発生する感覚や意識の流れです。この一連の流れで、「→」の左側は、生理的(神経・脳細胞)働きを表し、「→」の右側は、感覚や意識の働きを表しています。 (1)「大怪我をした」 (2)「関連神経細胞が興奮」→「痛い(意識)」 (3)「脳細胞が危険察知」→「大変だ(意識)」 (4)「脳細胞が解決策を模索」→「どうしようか考える(意識)」 (5)「脳細胞が解決案を提示」→「取り合えず、包帯を巻いてから、病院へ行こう(意識)」 (6)「脳細胞が筋肉系に指示」→「包帯を巻いて、病院へ行く(行動しているという意識)」 この流れに関して、私が思うのは、「→」の右側、すなわち、意識は、常に、結果系であって、原因にはなりえないということです。原因は常に「→」の左側の「神経細胞や脳細胞」にあるのではないかということです。もし、そうであるのなら、「→」の右側の意識は存在しなくても(「痛い」などの感覚がなくても)、人が生きていく上では、何も問題がないのではないかということです。このことは、自分の肝臓が存在しているという意識や、それを自分が動かしているという意識がなくても、生きていく上で必要な働きがなされていることからも理解できるのではないでしょうか?
補足
ご回答ありがとうございました。 最近は晴天の日が多くて、気分がさわやかです。朝外へ出て、吸い込む空気の冷たさが鼻を突く独特の感覚が冬の到来を感じさせます。 さて、ご回答いただいた「意志」に関する件ですが、私と随分受け止め方が違うので、もしかすると、hakobuluさんは、何事も意志で行動する「超人」ではないのかと、一時は恐れたものですが、よく考えてみると、「意志とは何か?」の解釈が、hakobuluさんと私で違うのではと思い至りました。それで、(1)では、「意志とは何か?」を取り上げ、(2)では、その定義に基づき、前回の例を再評価しました。また、(3)では、私にとって、「危険信号」が依然として謎なので、その質問をし、最後に(4)で、<生きるためには「痛い!」は必要か?>を再度取り上げました。 (1)意志とは何か? 私が、まず、最初に思い付くことは、「心の自然な流れに抗して」という条件が入ることです。例えば、すごく腹が減っている時に「メシを食う」行為は、「意志した」と言えないように思います。しかし、全く食欲がないとき、食事をしないと体に悪いから、無理に食事をする場合は、「意志した」と言えると思います。同様に、「朝、目が覚めて、会社に行きたくないけど、しょうがないから起きる」場合は、意志ですが、「日曜日の朝、好きな釣りに出かけるために飛び起きる」のは、意志ではないように思います。従って、私の意志の定義は、「自然の心の流れに反して、行為する決意のこと」です。どうでしょうか? この解釈が、hakobuluさんと違っているのではないでしょうか? 恐らく違うと思いますので、できれば、hakobuluさんの定義も教えてください。 (2)上記の定義を前回の例に適応した結果 上記のような意志の定義を前提に、前回までの例を再度検証してみました。 >a.「読書を中断して、窓の外を見る。」は当然意志の結果。 このときの、一連の心の流れを考えると、「読書をかなり長く続けた」→「少し飽きてきた」→「一旦、休憩したい」→「ちょっと、窓の外を見たい」となるので、心の自然な流れであり、必ずしも「意志する」と言う現象ではないように思います。 >b.「目の前を美人が通ったとき」→「見たい」という意志によって目をむけた結果美人であることがわかった。 この場合の心の流れは、「目の前を美人が通った」→「はっとする」→「注目する」なので、全く「意志」が働く余地はないと思います。hakobuluさんが書かれている「目をむけた結果美人である」のは、「目の前を美人が通ったとき」ではなく、「目の前をもしかしたら、美人かも知れない女性が通ったとき」の話だと思います。 >c.「勉強に集中できないときの雑念」→「勉強したくない」という意志が働いた結果として、何でもよいので他の事に意識が動いた、ということであくまで能動性の結果であると解釈します。 hakobuluさんの書かれている<「勉強したくない」という意志>というのは、<「勉強したくない」という気持ち(感情)>の間違いではないでしょうか? 心の流れとしては、「勉強しなければならない」→「にも関わらず、勝手に雑念が沸いてくるなぁ」ということで、意志では、コントロールできない状況にあると思うのですが? >d.「不意に足に熱湯がかかったとき。」のみが「意志に依存しない」場合です。 これは、おっしゃるとおり、意志が働いていないと思います。 (3)危険信号としての「痛い」という感覚 この問題については、hakobuluさんが書かれていることの妥当・非妥当以前に、hakobuluさんの問題意識そのものがよくわからなくなってしまいました。 もともとは、「見える」と「痛い」の違いの話からスタートしたのだと思うのですが、私が意味したのは、「痛い」は「見える」に比べて、より単純な働きだから、高度な精神作用の影響を排除できるということでした。それに対して、hakobuluさんは、「痛い」と「見える」との違いとして、「危険信号としての役割」を取り上げたのだと理解しております。間違っていたら訂正してください。 <文字数制限を越えましたので、続きは「お礼」に書かせていただきます>
- goosuka003
- ベストアンサー率20% (23/110)
ところで 『生物学で「見える」問題が解決できるなら天文学で「不倫」問題も解決できそうです。』 それは貴方、御自分のコトバの曖昧さに責を負わせるべきですよ。 さて 『1.身体交換問題 私は何故、私のこの身体の中から世界を見ているのか?』 これは、すでにNo.13で申し上げたとおり『要するに自我意識と、その出所、なわけですよね結局』で対応されましょう。 『2.祖父母出会い問題 私の祖父母が出会いに失敗するような、もう一つの可能世界があったとしたら私は、この世界を見ることはできなかったのか?それとも誰か別の両親から生まれた身体の中から、この世界を見ることになったのか?』 映画に、そんなのありましたね「バックトゥザフューチャー」とか? No.5でつけた参考URL御覧いただけましたか? ま、ここへきて申し上げられることですが上2つに関しては貴方御自身が提案なさった「周波数」の例を突き詰めていかれたらいかがでしょうか。 『3.感覚復活問題 私は抓られると「痛い」。私が死ぬと抓られても痛くない。「痛い」は一つの現象だ。現象には必ず原因があるはずだ。そうであるなら私の死後その「痛い」の原因を再生できれば私は再び「痛い」と感じるのか? 「痛い」と感じる現象のみを厳格に御考えになったほうが混乱しなくてよろしいのでは? 簡単に言えば固体を存続させるための必要から与えられるものでしょう。もっとも、それが最大に達する前の警告の役割を果たしているうちは、です。 もちろん存続不要または不可能(全身麻酔の例もありますね)になれば痛くなくなるのでしょう。つまり「存続を許可するものの存在」があり得ます。 『4.映像変換問題 PCで映像を再生するには電気信号を映像に変換する「スクリーン端末」が必要である。しかし人間の脳の中には電気信号を処理する部分はあっても「スクリーン端末」に相当するものはない。それにも関わらず見えるのは何故か?』 これは眼科医にでも尋ねていただきたいですが、もちろん早い話が「見える」ことを許可されているからでしょう? そういうふうにできている! 貴方にとってモデリングが重要な関心事であることは了解しましたが当方にとっては、あまり関心がありませんので、ごく大雑把に 『1.物質モデル 全てを物質世界の現象として説明する。』 物質モデルを打ち立てたところで、何故その物質が生じてこなければならなかったのか?という根本は不明のままでしょう? 『2.物質+情報モデル 物質である身体と心である情報の組み合わせとして説明する。』 物質+情報+αのαが問題なのでは? 私は厳密に言って心も物質の分野で考えています。 『3.物質+魂モデル 物質的な身体と非物質的な魂の結合として説明する。』 魂が非物質的であるかどうかも不明では? 『4.物質と心の再構築モデル そもそも物質と心の区別はないのではないかという視点で説明する。』 私は心の反応というものは脳の機能に含まれると考えています。そしてそれは個々の生体の防御―保存本能という動機によって起こっていると考えています。 ただクラゲなどは脳みそがないにかかわらず防御―保存本能は備えているそうですね?むむむ。脳でなくとも代わりはきくということかな? にしても「個々の生体の防御―保存本能」が何のためにあるのかが依然として分からん。 『5.論理的不可能モデル 命題そのものが論理的に定立不能という視点から説明する。』 ??? そんなもん説明してどうするよ?してもいいけど。 結局、宗教になっちまうでしょ? 「魂」というものについての私のイメージは多分に御質問者と近いように思いますが 無味無臭無色、個別性不要の、大いなる何ものかから分かれ来たるものが、ある個体に侵入し(時期までは考えてません)個体を離れたら、また元の場所に戻る―それを繰り返している、と想像していたのですが最近は、各個体を選択して(選択主が誰かは、まだ考えていません)入り込んだものが、用済みになれば個体を離れるということを繰り返しつつ或る目的に向かい最終的には普遍の姿に至って、個々のものは一つとならねばならないのではないかと―想像しています。 実はこれ御回答者の「周波数」という一言に触発されたものです。 これを採用するならば或る個体でなければならないという「自我意識」の固定性に理由が付与できる可能性が出てくる― しかし、そうだとしたところで、それがまた何のためなのかということは、やはり分かりません。 ホラやっぱ宗教になっちまうでしょ? かの御釈迦様でも考えても考えても確かめられないことは「捨てておけ」と仰ったそうな。 私が読んだ或る本にも 『神に、どこから来たかを問うてはならない。神自身にも分からないのだから』 とありました。ショックでした。 私としては、この世界の仕組み、魂とやらの仕組み以上に、それら全てが【何のために】生じ来たったのかという理由のほうが知りたいことです。 そして「こんなもの、いらない」と思いもする。 選んで購入したパソコンに、いそいそと、いろんな機能を付加して使い易く改良しバージョンアップしながら自分にとって快適なパソコンに仕上げていく―そんなヒトの期待や欲求にパソコンが応えようとして応えられない…自分は努力が足りないのでは?と悩んだり、持ち主の意図に振り回される自分って何?と模索したり持ち主の期待に沿えないからと自暴自棄に陥ったり―する日が来るのかな? そして用済みになったら捨てられ破壊されることを恐れるようになるのかな?そしてリサイクルされて、また再生する… 我々は誰かに、自分のもの、と思われているんでしょうかね?
お礼
>私としては、この世界の仕組み、魂とやらの仕組み以上に、それら全てが【何のために】生じ来たったのかという理由のほうが知りたいことです。 そして「こんなもの、いらない」と思いもする。 本当に理由を知りたいのですか? 実は、心の中では、答えなんかあるはずがないと思ってたりしませんか? もし、本当に知りたいなら、答えの形(内容ではなく)をある程度イメージしていないと答えは得られないような気がします。答えの形として、私は以下の3種類しか思い付きません。この他にあったら教えてください。 (1)言語解: 言語(散文)で表現された説明で納得する方法。 (2)記号解: 詩を含む各種記号を通して納得する方法。マンダラ、カバラ、聖書の詩篇など。 (3)直接解: 言語を通さずに直接納得する方法。山に篭って修行するなど。 私は、(2)、(3)は不得意なので、(1)の言語解で、またもや様々なモデルを立ててみたいと思いますが、goosuka003さんは、(2)や(3)はお得意ですか?
補足
ごていねいな回答をいただき、ありがとうございました。 >『要するに自我意識と、その出所、なわけですよね結局』で対応されましょう。 #5のURLを再度、見てみました。全く同じ問題意識ですね。そして、回答のタイプも似通ったものに分類できそうです。代表的な回答のタイプに、クローンは他人という議論と、アイデンティティとか自我の議論があるようです。自我に関連しては、私の結論は「見えるための条件」として、自我の形成は無関係というものです。自我生まれ出る以前の赤ん坊でも外界は見えたと思うからです。それで、そのことを物質的な視点で考えると、恐らく、脳の外側の高度な精神作用を司るところは必要なく、脳幹とか脊椎とかの生物としての原始的感覚だけで十分ではないかと思い始めました。そうすると、他人の吉田和子さんと私の「脳幹+脊椎」を丸まる入れ替えることが出来れば、私は、吉田和子さんの体の中から、この世界が見えるのではないかと思います。しかし、そのとき、私は、「ぎゃー! 私のおっぱいが急に大きくなった!」などと驚くことはなく、「私は、吉田和子」だと思って生きることになるのだと思います。残る問題は、「この世界が見えるためには、何故、私の脳幹+脊椎でなくてはいけないのか? 何故、他人の脳幹+脊椎ではいけないのか?」です。また、「脳幹+脊椎が見えるための条件だとすると、この世界を見ているのは、一体誰か? 物なのか?」です。 >簡単に言えば固体を存続させるための必要から与えられるものでしょう。 何んと、そのこと自体に疑問を抱き始めてしまいました。固体を存続させるために、本当に「痛い!」と感じることが必要なのでしょうか? もしかすると、「痛い!」と感じる原因である関連神経細胞と関連脳細胞が刺激されさえすれば、「痛い!」と感じる必要などないのではないでしょうか? 何故って、「痛い!」は、結果であって、何かの原因ではないからです。例えば、「痛い!」から、手を引っ込めるという場合でも、「痛い!」という感覚があったから引っ込めるのではなく、「痛い!」関連細胞が興奮したから、手を勝手に引っ込めるのだと思います。#44の補足3.にも書きました。 >これは眼科医にでも尋ねていただきたいですが PCの例で言うと、眼科医はビデオ・カメラ医ですね。「見える」ためには「ディスプレー端末医」が必要なのですが、それは、誰でしょう? 精神科医ですか? 不思議だと思いませんか? 人間の場合、ディスプレー端末がないのに見えているんですよ。 >物質モデルを打ち立てたところで、何故その物質が生じてこなければならなかったのか?という根本は不明のままでしょう? 飛行機が飛ぶ理由を説明するモデルができたとしても、何故、飛行機が必要かはわからないということですか? 確かにそうですね。別の疑問ですから。 >物質+情報+αのαが問題なのでは? 恐らく、おしゃる通りでしょね。恐らくと言ったのは、情報と物質の関係が必ずしも明確ではないからです。物質を離れた情報は、概念としては考えられますが、現実には物質と一体化しているので、物質と一体化した情報(例えば、DNAなど)が何か新しい働きをもたらさないとも限らないからです。 >私は厳密に言って心も物質の分野で考えています。 そうですね。私は、そもそも「物質とは何か?」がきちんと定義できているのかさえ疑問に思います。 >魂が非物質的であるかどうかも不明では? 現在、物質として認知されているものでは、なさそうですが、将来、新しい物質が発見されて、それが、心を構成する素材だということはありえますね。 >論理的不可能モデル: そんなもん説明してどうするよ? これは、モデルを立てることにより、たとえ直接の回答が得られなかったとしても、もし、モデルを立てなければ得られなかったであろう新しい知見が副産物として得られることが多いからです。モデルを立てることによって、疑問点が明確になり、例の「言語(意識)」と「非言語(無意識)」の対話が始まり、その結果として、色々新しい知見が得られます。今回のケースでは、副産物として「デカルトはロボットだった」という驚きの知見が得られました(文字数制限のため、説明割愛)。 >結局、宗教になっちまうでしょ? 「宗教にする」から「宗教になる」のですから、「宗教」にしなければ「宗教」にはならないと思います。私は「宗教」しないようにするため、以下の(1)の方法を採用しています。 (1)宗教にしない方法: 事実と合理的思考の範囲内でモデルを考える。 (2)宗教にする方法: 事実や合理的思考の範囲を超えてモデルを考える。 <文字数制限を越えましたので、続きはお礼に書かせていただきます>
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#41です。ご返事ありがとうございます。 <意識の関知しない危険信号としての「痛い」>に対して<「痛い」という意識はないような「痛い」ということになる>という解釈をしていただきましたが、「意識」という言葉の定義の違いかもしれませんね。 私は「意識」と「感覚」を分けて考えてしまっています。 「意識」は「意図する」「意志する」というような能動性を含むのに対し、「感覚」は反射神経的なものと捉えているのだと思います。 『>肉体的には反応しているが、しかし、本人に「痛い」の自覚はないということ』は私もありえるとは思いますが、今回そういったことは想定していませんでした。 <「痛い」には「私という意識(認識)」は不要>と述べたのは、「痛いという感覚」を得るためには「私という意識」が不要という意味です。 ですから「>私という意識のない意識」というのは、私の中では「感覚」という言葉に置き換えることができます。 また<意識の関知しない危険信号としての「痛い」>は、「危険信号としてのみの痛いという感覚」と言い直しても良い性質の文節です。 おっしゃるように『>「あらゆる意味での意識」が不要』という風に解釈していただいて良いと思います。
補足
hakobuluさんに「意識」と「感覚」を分けていただいたので、新しい展開ができそうです。ありがとうございました。 また、hakobuluさんの「危険信号としてのみの痛いという感覚」については、理解できたかどうかわかりませんので、以下の「意識」と「感覚」の話の中で、お聞きしたいと思います。なお、3.は、私の当初の質問を別な角度で捕らえ直した疑問ですので、よろしくお願いします。 1.「意識」の特長 hakobuluさんが、<「意識」は「意図する」「意志する」というような能動性を含む>と書いておられたので、「意識」の特長について、あらためて考えてみました。以下の2点を思い付きました。この結果から考えると、「意識」が「意志する」と考えられるのは、(2)の(B)の場合だと思われます。しかし、(A)のような場合もあるので、常に「意志する」とは限らないという結論になりましたが、いかがでしょうか? (1)「意識」は、ある対象に向けられる(指向性)。(例)読書時の文字。飲食時の味など。 (2)「意識」の対象変更は、意志に依存しない場合(A)と、意志に依存する場合(B)がある。 (例A)目の前を美人が通ったとき。勉強に集中できないときの雑念。不意に足に熱湯がかかったとき。 (例B)読書を中断して、窓の外を見る。 2.「感覚」の特長 「感覚」が生じるためには、以下の2つの条件が必要と思われます。 (1)「感覚」の原因となる感覚神経が閾値を越えて興奮していること(一定レベル以上の電位?)。 (2)「意識」がその「感覚」に向いていること。 例えば、読書に熱中しているときは、外の騒音が聞こえない。これは、騒音による音の感覚神経の興奮が不十分なわけではなく、意識が音の感覚に向いていないために聞こえないと考えます。 さて、ここまで、考えてみて、hakobuluさんの「危険信号としてのみの痛いという感覚」についてですが、これには、暗黙に「危険信号としてではない痛いという感覚」の存在を前提にしているように思えますので、この2つの具体的なケースを考えてみました。以下のような理解で良いでしょうか? (1)「危険信号としてのみの痛い」の例は、不意に殴られた場合や、思わず転んで骨折した場合など、事前に意識が向いていなかった場合。 (2)「危険信号としてではない痛い」の例は、医者に注射を打たれた場合や、ボクシングで相手に殴られた場合など、事前に意識が向いていた場合。 3.感覚は、人間が生きていく上で、本当に必要なことなのか? 例えば、「痛い!」と感じることは、人間が生きていく上で、本当に必要なことなのでしょうか? 奇異な質問と思われるでしょうが、以下のような意味です。 「痛い!」と感じるためには、以下のようなプロセスが働いていると思います。 (1)肉体に対する外的な攻撃。 (2)「痛い!」と感じるに必要な一連の関連神経細胞の興奮(必要な関連脳細胞の興奮も含む)。 (3)強制的な意識の振り向け。これも、意識を司る関連脳細胞の興奮によってもたらされると考えられます。 「痛い!」と感じるためには、上記の(1)、(2)、(3)の条件があれば良いことになります。ところで、(1)、(2)、(3)はいずれも、「痛い!」の原因系であり、かつ、物理現象です。従って、本人が主観的に「痛い!」と感じるか、感じないかの結果系には関係なく発生する事象です。であるならば、主観的に「痛い!」と感じなかったとしても、自分が生きていく上では、何の障害もないのではないかと思うのですが、いかがでしょうか? 例えば、道を歩いているとき、足の裏が地面に接触する感覚は本来あるわけですが、通常、それを「感じ取る」ことなく歩いていても、転倒したりしないことからも裏付けられると思います。
- goosuka003
- ベストアンサー率20% (23/110)
やれやれ荷の重い御質問を引き受けてしまいました。 当方も俗世の雑事にまみれる生活へと戻らねばならないときが近づいていますので、これを以って、できる限り御要望にお応えできればいいのですが。 え~まず虚子の一句についてから。もちろん高浜先生に真意を尋ねたわけではありませんので自分なりの解釈ですが… 或る時間を境に、つい昨日を去年と呼び、きょうを今年と呼ぶ。 5歳の私と30歳の私。 時の流れを人は区切りたがるけれど、昨日はきょうに、5歳の坊やは30歳の男性に突然なるようで繋がっている。プツンプツンと切れているのではない。たとえ記憶喪失であろうとも。そうではありませんか?果てしなく続く道を人は区切りたがる。でも道は、ただ黙々と伸び続いているのです。 その意味で、未来だけを見ろ過去は関係ない!と勇ましく掛け声を掛ける人に私は首を傾げてしまうのです。 なお御質問者とは反対にライトセーバーとかいうほうが私には分かりません。まあ何となく想像はつきますが、この手の映画あまり見ませんので。 え~それから 生後半年私の記憶。 或る状況ですが漠然としたイメージでなくて、まざまざと蘇る実感です。それには肉の痛みを伴っています。もちろん、この年齢ですから普通にコトバを発するということは、まだなかったと思います。私は障害のためコトバを発するのが平均よりも、かなり遅れました。しかし、そのときの私は間違いなく「思惟」ということをしていたと憶えております。それによって次にとる己の行動を選択したのです。 それですので私は思惟ということをするのに必ずしもコトバは必要不可欠でないのだと実感しております。とは言え周囲の者が発するコトバは相当程度理解していたようです。そして自分があり母がいる…母が求めることは自分の要望とは違うという、自他の区別もついておりました。したがって、その区別に則った行動を選択したということです。 ですから私は赤ちゃんや幼児が何も分からないとは断じて思いません。記憶が続くか細部が正確かどうかの問題なのでしょう。 No.40様の御子様へのインタビュー、微笑ましく拝見しました。 自分は、以前このカテにて、さる人物から「幼児」と罵倒されたものですが、まさに幼児の頃の私にインタビュー可能であったら、こう答えたことでしょう。 6ヵ月児の私:『ばぶ。』 御質問者:『有難うございました。』 … No.36様の文中『お耳から入った』という御子様の発言がございますが私は或る意味「なるほどな!」と思えてニヤリと致しました。 まあ「穴」に違いはないのだし人相学の分野では女性生殖器の判断には耳を観るそうです。 「魂は音波だった?波動?」というのは相当イイ線行ってるのではないかと自分も思います。「気」というものも「波動」に置き換えられるそうで。その意味からも御質問者が挙げられた『放送電波―周波数―ラジオ』の喩えはウマイと思いました。 およそ電気なるものほど不可思議なものはない。何故、電気的なるものが闖入することで自ら動くようになるのかという根本が分からない。我々その作用を利用しているだけですから。 私は大変な難産の末、重度の仮死状態で生まれ落ちました。No.36様の情報が確かなら、もし仮死状態で生まれなかったら私にも胎内記憶が残っていたかもしれません。 ただ私の場合、出産予定日から、ひと月ほど遅れたそうで、その頃には胎盤が殆んど剥がれ落ちていて胎児の私は、いわば「兵糧攻め」状態に置かれていたようです。遅れた一月分だけ子宮のなかも窮屈だったことでしょう、そのせいかどうか、いまでも私は狭苦しい所に入るとイライラして叫び出したくなるのです。これも胎内記憶の残存でしょうか? ついでに 生後一週間ほどで生理になりました。(一応♀に生まれましたので)もっとも、それはその時限りで3日程度で収まったそうですが。ハイハイもなしに歩き始めたのは6ヵ月ですが、モンローより凄いでしょ? 無意識なるものもまた重層的なものである、と自分は思います。 魂なるものが何度も、この世の生物体に寄生し直せる性能を持つものなら、こんにちまで、どれほど夥しい入れ替わりを繰り返してきたことでしょうか。 親子であっても親は親の人生、子は子の人生、何故なら魂の修行カリキュラムは個別であるから。 その考えで行くと単に自分の血を引く子どもというのはDNAの受け渡しつまり肉のレベルの現象であって医学分野の専門家が「自分の血を引く子であるか否かは大した問題でない」と喝破したのも或る意味もっともなことと思います。 「一人ひとりの内なる神との対話」ということを、しきりに仰るかたもいました。 「対話して」そしてどうするのか?ということが抜け落ちていらっしゃるのが、まことに残念でしたが。 つまり「神は自分に似せてヒトを御つくりになった」→「神に、より似なくては」→「神に合体しなくては」→「神にならなければならない」ということなんでしょうか。何のためかは、よく分かりませんけど。 「一木一草に神宿る」⇔「神はただひとつ」 私はミクロでみるかマクロでみるかの違いだけだと思っていますが厳密にはミクロはマクロに収斂されていかねばならないということなのだろうと想像します。 つまり、その過程が「魂修行」ということ。 No.35様の 『「私」の能動性の源がどこから湧き出るものであるにせよ、結果として「私という自意識」を確認し続けることでしか「私」が「この世界」に存在できないこともまた確かなことなのかもしれません』 実に意味深な御言葉と思います。 なお 『日本語の「主語(主格)なし文」というのは実は的確に心の真実を表現しているのではないかと思われてきます。「きれいな景色だ」「良い天気だ」「ねむいなぁ」「ご飯が食べたい」「随分、寒くなってきた」などは、いづれも心に感じたことを素直に表現した結果のように思います。これらの文に主語(「私」)が省略されていると考え、それを補おうとするのは野暮ではないでしょうか? 感じる心に「私」は介入しないと思うのですが、いかがでしょうか?これって、もしかすると無我の境地かも。』 他のかたへ向けての御返事を当方が引き取ってしまっては失礼ですが 「日本人のコトバに対する姿勢の甘さ」が指摘される所以でもあるでしょう。もっと突っ込んで言えば御叱りの向きもあるでしょうが「自閉的」「幼児的」とも言える部分があると思います。平たく言えば「分かってくれよ」「くれるに違いない」→「くれて当たり前」が含まれてるということです。当然、発言する当人にとっては「誰が」ということを、わざわざ言わされるのは「野暮」なことでしょう。 また 『「自他の区別がない」赤ん坊の世界から成長に伴い「自他の区別のある」世界に変わります。そして人によっては修行を積んで「無我の境地」に至る人もいますが、その場合でも「自他の区別」がなくなるわけではないですね。要するに「無我」と「自他の区別がない」とは別物ということです。』 これも厳密に、そして分かり易く言えば「自他の区別がつけられない」のと「自他の区別をつけない」のとは違うということでしょう。 ふう…疲れた。ちょっと休憩。喉が渇いたので一旦送信します。
補足
ご回答ありがとうございます。 >プツンプツンと切れているのではない。たとえ記憶喪失であろうとも。そうではありませんか? おっしゃるとおりだと思いますが、私の質問との関係がよくわかりませんでした。恐らく「三つ子の魂」との関係で言っておられるのかと思いましたので、少し補足させていただきます。「三つ子の魂」の話は、「見える」ということの中に、「三つ子の魂」が影響してくるのではないかという話でした。私も、それはそうだろう思います。しかし、影響するためには、前提として「見える」という事実が、一貫して存在しないと成り立たない話です。そして、私の質問は、その前提としての「見える」という現象が、どのような条件で可能かということです。 >そのときの私は間違いなく「思惟」ということをしていたと憶えております。 驚異的な観察力と記憶力ですね。尊敬します! >思惟ということをするのに必ずしもコトバは必要不可欠でないのだと実感しております。 大変おもしろいですね。私は、「考える」とは、「非言語の思惟活動」を「言語化」するプロセスだと思います。 >およそ電気なるものほど不可思議なものはない。 私には、電気も含めて物理現象が単純な数学モデルで説明できるという事実(一定のルールがあるという事実)が不可思議です。何故、混沌ではなかったのか? 混沌こそ、もっともあり得そうなことではなかったのか? >ハイハイもなしに歩き始めたのは6ヵ月ですが、モンローより凄いでしょ? そんなに早く立ち上がって、疲れませんでしたか? ところで、モンローは、何歳から歩き始めたのかなぁ? >魂の修行カリキュラム こういう発想には、何らかの根拠があるものなのでしょうか? 私の場合は、この世界を観察しても、自分の心の中を観察しても、逆立ちしてみても、「修行カリキュラム」に関するいかなる痕跡も、発見できないのです。修行の対象外の落第生なのかなぁー。 >「一人ひとりの内なる神との対話」ということを、しきりに仰るかたもいました。「対話して」そしてどうするのか? 「考える」とは対話すること、「非言語の無意識」と「言語の意識」の間で対話することだと思います。「オレは、こうやっていつまでも安逸な眠りの中にいて良いものか?」と言語が尋ねます。「いや、お前は、今こそ目覚めるべきなのだ!」と非言語が「無言」で答えます。ここに対話があります。もし、言語がこの問いを発しなければ(対話をしなければ)、ズルズルと日常の煩雑の中に埋没することでしょう。従って、<「対話して」そしてどうするのか?>に対する答えは、そもそも、どうにかしたいから対話するのであって、人生ご満悦であれば、対話はいらなのだと思います。 >「神にならなければならない」ということなんでしょうか。何のためかは、よく分かりませんけど。 「神」を持ち出すまでもなく、事実の問題として以下3つのことがあると思います。この3つの事実の原因を説明するため、「言語」が「人間を超えた何か大いなるもの」を想定することは、文法的に自然な流れと思います。この「人間を超えた何か大いなるもの」に、様々な希望、願い、空想、情念を絡めたものが「神」ではないかと思います。従って、「神」には、様々な怪しげなものがまとわり付いていますが、原初の「何か大いなるもの」は、厳然として存在していると思います。話がそれましたが、「私」が原因系でない以上、「神」にはなれないと思います。 (1)「私」は、この世界の原因系ではない。 (2)「私」は、「私」自身の原因系でもない。 (3)「この世界の構造」や「私という構造」は秩序と調和を維持している。 >つまり、その過程が「魂修行」ということ。 なぜ、そんなに「修行」をしないといけないんでしょうか? 只でさえ「何かと労苦多き人生」、せめて、可能な限り味わったらバチが当たるのでしょうか? あー、やはり、私は、前世でエリート・コースから外れてしまった落第生なのかも。 >平たく言えば「分かってくれよ」「くれるに違いない」→「くれて当たり前」が含まれてるということです。 日本人の一般的心情は、集団主義に向いていて、個人主義には向いていないのではないかと思います。「人は一人で生まれ、一人で死んでいく」という厳然たる事実をあまり真正面から見たくないのではないかと思います。欧米人なら、それこそ、「神」と対話ができるので、周りの人々と一線を引いた生き方が可能ですが、日本人は、集団から外れた裸の個人が怖いのではないでしょうか? 不思議なのは、中国人です。神がいないのに、何故、個人主義が可能か? これは、研究に値すると思います。
- bofd
- ベストアンサー率25% (8/32)
世は諸行無常、故に厳密にはこの世に同じものは一つもないと思っています。昨日の私と今日の私も違います。 人が「同じ」というものは、言葉(言葉的なもの)によってある程度の幅をもたせてカテゴライズした時に、同一のカテゴリーに収まることを言うのだと思います。確かに、日々からだの細胞は入れ替わり、心も移り変わるのに、それでも同じ自分が世界を見ていると多くの人は感じます。この「同じ」は何が同じなのかというと、極端に言えば「自他の関係」が同じなのです。また、この「自他の関係」というのは物質的な関係というよりも、機能(互いにもたらす流動的な働き)としての関係の方が重要です。 私も、私の母も、日々細胞は入れ替わります。しかし、互いの関係には変わらないものがあります。私は母から生まれ、育てられ、温かい生活を与えられました。子にとって母は与えてくれた人であり、今もそれは続いていることです。また、母に限らず、部屋にある木のテーブルも日々朽ちているはずですが、昨日と同じようにそこに在り、落ち着いてコーヒーを飲むのに一役かってくれます。また、すぐに変わってしまうものにも変わらぬ関係を見出すこともあります。花は生けても次第に色褪せ数日で枯れてしまいますが、その儚い姿が狡猾に生きながらえる人間の図太さを教えてくれます。生物として、花は変わらぬ儚さをもち、人は変わらぬ強さをもちます。 生物は自らの命を維持しようとしますが、この維持するという行為が、人に一定の在りようを与え、緩やかな意味で定点となる、そして他の点を知ることで自分がどこにいるのか、どの様なものなのかを知ります。そして、過去の記憶と現在の状況を照らし合わせて、変わらぬ関係を保持するものや、変わってしまうとしてもその変わり様が同様なものから、物語をつくり、自分という像を映し出すのだと思います。 この考えに基づいて、私にとって「この世界が見える」ための条件を挙げます。 現状を知る能力(感覚器官、言語能力など)、記憶、物語を構成する能力、他者の存在(人、生物、もの)とそれらとの関係。これらは必須だと思います。ただ、他にもあるかもしれません。物質を超越した心や魂というものが存在するなら、それも不可欠でしょう。あいにく、私はまだそれを失ったことがないので、まだ比較することができないのでわかりません。
お礼
ご回答ありがとうございました。 正に、おっしゃる通りだと思います。この世界は刻々変わるけれど、その裏には決して変わらぬものがある。「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。」と詠えるためには、川や水は存在し続けることが前提となるように。 先日、「私の頭の中の消しゴム」という映画を見ました。アルツハイマー病の若い女性が、徐々に記憶を失っていき、結局、自分が誰かもわからず、家族や恋人も記憶から消えてしまいます。両親との繋がり、恋人との繋がりが失われてしまいます。でも、「私にとってこの世界は見える」は依然として残り続けます。とても不思議でした。 「私にとってこの世界が見える」ための条件として、記憶、物語、他者の存在、知識、言語能力などは、必要ないのではないかと思いました。 bofdさんの回答を拝見させていただいて、「見える」という言葉にも随分幅があるんだなぁーと実感しました。私にとって「見える」は、上述の通り、非常に低次の「見える」機能だったのですが、bofdさんにとっての「見える」は、もっと高次の「見える」だったんですね。bofdさんの「見える」は私の言葉に置き換えると、「見識を持つ」とか、「観る」に近いかも知れません。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#39です。ご返事ありがとうございます。 ◆ 「排除され過ぎる」と言うときの「過ぎている」部分について :【原初的「見える」】と【痛い】が与える「細胞の記憶」というつもりでした。 例え概念や文法を習得していない赤ん坊がリンゴを見たとしても、その「艶やかな赤」は「言語」ではなく「感覚」として記憶されるでしょう。 その時虐待されている最中であれば、将来的に「リンゴの赤」に理由不明の嫌悪感あるいは恐怖感を抱くようになる可能性はあるはずです。 つまり「リンゴの赤」をどのように見たか(感覚したか)ということは人それぞれで異なるということです。 それが、後に「見る」は「認識を喚起する感覚」と述べた所以でもあります。 一方「痛い」は「猿」と同じレベルの「本能的感覚」と言っていいように思います。 <「私」の「意識」がその「痛み」に向かっていること>というよりは、<「痛み」は「私という意識」の有無に拘わらず、「異変」という「感覚」のみをその生体に与える>ということだと思います。 それは、赤ん坊でも同じことで、意識が肉体より派生しているものである以上、意識の前段階の肉体の危機に対しては意識の関知しない危険信号としての「痛い」という感覚が必要とされているということになるのではないかと考えたわけです。 ◆ 猿が「私」という意識を確立しているかどうかはわかりません。 一部のオランウータンなどではありそうな、というかあったら面白いがという程度の認識です。 このあたりは人類学者の見解に期待しておきます。 ◆ >「無我」というより、「自他の区別がない」 :ということですね。わかりました。本旨である【日本語の「主語(主格)なし文」というのは、実は、的確に心の真実を表現しているのではないか】というお考えには元より同意しております。 ◆ 「痛い」に関する私の認識はkobareroさんの解釈なさったとおりです。 対向車を避けるために「見えすぎて」困ることはありません。 しかし「痛すぎる」は生体の危機を知らせる感覚です。 ◆ <「私という意識」を持たない命>というのは、赤ん坊のことですか? :回りくどい言い回しでしたが、そのつもりでした。 「私という意識」を持たない命に対して【も】、ということで「赤ん坊のような人」も含めています。 確かに「見える」が生命の危機を関知する場合も往々にしてあるでしょうが、それは見た結果を「危機だ」と判断する別回路に連動しているからで「痛い=危機だ」というのとは少し違うように思います。 ややこしいので更に付け加えさせていただくと、「見た」は必ずしも「危機だ」ということにはなりませんが、「痛い」は必ず生体の「危機だ」という意味に限定されているという考えです。 このあたりも「排除されすぎる」とした因の一部かもしれません。 少し戻りますが、「痛い」には「私という意識(認識)」は不要でしょう。 ◆ <「私」は既に「世界を見るもの」ではなく、ついに「世界を形作るもの」になっているのかもしれません。> :おっしゃるように「期待を込めた表現」と判断していただいて差し支えありません。 【世界に巻き込まれてしまったもの】というのは、なかなか詩的な表現で気に入りました。 しかし、昔の誰かが言っていたように(正確な意図は知りませんが、一般的に理解されているところの)『我思うゆえに我あり』は私にとって納得のいく思想です。 しかし「(時々)思う」だけで「あり」の実感がなかなか獲得できないでいます。 「手応え」と言ってもいいかもしれません。 確かに我々は「巻き込まれてしまったもの」に違いないようですが、それにしても「巻き込まれた」のは他の何ものでもない「私である」という認識が持てるのであれば、そこをスタートラインにすべきでしょうし、するしかありません。 本来のスタートラインではないかもしれませんが、そんなものはそもそも存在しているのかというのは疑わしい。 その場に立てるのが「神」だと仮定できたとしても、さらなる上流?にまた新たなスタートラインが出現するはずです。 「どこから来たのか?」を思考することは無意味とは思いません。 しかし最終的には「どこへ行くのか?」を手探りする事によってしか変革は得られないでしょうし、その作業こそが、「私たりえたもの」が存在することになった要因に対する自然な帰結になるような【気がします】。
補足
ご回答ありがとうございました。 >後に「見る」は「認識を喚起する感覚」と述べた所以でもあります。 私の勘違いかも知れませんが、hakobuluさんは、「見る」という言葉に「深み」を付け加えようとしているし、私は、「見る」という言葉から「深み」を剥奪しようとしているように感じました。 >意識の前段階の肉体の危機に対しては意識の関知しない危険信号としての「痛い」という感覚が必要とされている....... この表現は、文字通り捕らえると、私と同じ考えのように思えるのですが、hakobuluさんの後述の文を読むと、これとは別のことを言っているようにも読み取れます。上記の文で私が注目したのは、<意識の関知しない危険信号としての「痛い」>という部分です。これは、素直に読めば、「痛い」という意識はないような「痛い」ということになると思います。すなわち、細胞あるいは、神経細胞レベルでは、閾値を超えた興奮レベル(すなわち、危機レベル)に達していて、肉体的には反応しているが、しかし、本人に「痛い」の自覚はないということだと思うのですが、hakobuluさんの考えは、このようなことでしょうか? 私は、そういう状況は存在し得ると思っているのですが......。 >「痛い」には「私という意識(認識)」は不要でしょう。 この文と上述の文では、解釈次第で、別な結論が出てくると思いますので、確認させてください。この文では、「私という意識は不要」と書かれているのですが、それでは、「私という意識のない意識」は依然として必要であるという意味でしょうか? これに対し、上述の<意識の関知しない危険信号としての「痛い」> では、「私という」の修飾が付いていないので、あらゆる意味での「意識」が必要ないという風に受け止められます。そのように解釈していいですか? それとも、上述の文もやはり、「私としての意識」の意味だったのでしょうか? 私は、「あらゆる意味での意識」が不要と考えたのですが。
早速子供に伺いしましたところ「え~そんなん知らん」でした。やっぱり!?(笑)ですが、私も魂は「無限空間存在」を採用したいと思います(どう採用なのか?、笑) >魂の性質について >(1)と(2)について思いっきり妄想考察しました。私見のでまかせ仮説ですよ。全面信用しないで聞いてくださいね。 死物はジッとしていて時間が変化させているように、それが時間の経過(だと感じる)なのですが、時間軸を光速で進んでいるのは光ではなく、実は物質が時間軸上を光速で移動していて、脳が外界に働きかける過程で、外の世界に矛盾しない世界を脳内に作り上げる柔軟な能力を持っているから自分が移動していることは感じなくなってしまっている?(意味不明・解説不可) 魂が私の肉体と時間軸から振り飛ばされて離れる時、それが3.5次元世界の「死」なのかも。 【魂は爆発】【芸術も爆発】と思います(笑)。【永遠に爆発している存在】です。恒星のようなものなのでしょうか? 爆発と爆発音(実体ではないが、現象が及ぼした影響が伝わる)の違い?炎自体は静かに燃えているのかもしれない。 0次元魂が実体現象として生を受けて死に向かって高次元に移動している?そして次元を下って魂の果てに行く。 「宇宙は有限で果てがない」という定義があるそうですが、宇宙の果てはビッグバンで、無からインフラ期の始まりが永遠に続いている。 「局所的に在る」ということは受動的に比較しうる境界あるということ。魂は自らの全体性と個性を保ったままで超能動的なので、支配を受けることもない意志があるのだ?。 (以下これも胎内記憶のコピペ) ◆欲から仕事に没頭する人は、はた目には活動的でいかにも「能動的」と感じられるが、実際にその内面は不安や欲に支配され、極めて「受動的」だ。 ◆愛は能動的な活動だ。見返りや儲け、快楽を理由とする受動的な感情ではない。「堕ちる」ものではなく、「踏み込む」もの。「与えられること」ではなく、「与えること」なのだ。宇宙と魂と(勝手に愛も付け加える)は能動的で在り続けるのである。 ◆胎児が子宮内にいるときの状態はアイソレーション・タンク(体温の温水の中で五感とストレスを遮断し、脳にほとんど刺激が伝わらなくする装置)の中とほとんど同じだ。 その状態になると実際には感じていないはずの様々な体験をし始める。聞こえるはずのない声が聞こえたり、見えないはずの映像が見えたり。脳が外界を知らなくても自律的に働いた結果である。もし胎児が意識を持っているとしたら、その意識は変性意識状態に近いものにならざるを得ないだろう。 ◆一方、瞑想している人は外見的には何もしていないので「受動的」に思われるが、内面的には極めて能動的なのである。瞑想は内面的な自由と独立がなければ成り立たてないのである。 文脈の乱れ、意味不明・解説の少なさ、そもそも根拠も実証の無さ、コピペの多さ、だからどうよ?、何が言いたいのか?等、お気に為さらぬよう…ピュー(逃)
補足
ご回答ありがとうございました。 >「え~そんなん知らん」でした。 生まれたての時に伺えばよかったんですね。次回のチャンスがあったらよろしくお願いします。 >死物はジッとしていて時間が変化させているように、それが................... うーん。うーん。うーん。うーん。うーん。うーん。わからん。どうやら脳が光速で空間をすっ飛んでいるようにも思えるが、脳は何をすき好んで、そんなアクロバティックな仕事を請け負わなければならないのか? 疲れるのではないか? うーん。やっぱり、わからん。 >魂が私の肉体と時間軸から振り飛ばされて離れる時、それが3.5次元世界の「死」なのかも。 質問: 何故、4次元でなく、3.5次元なのでしょう? また、後で出てくる「0次元魂」の「0次元」とは何を意味しているのでしょうか? ひらめき型発想のmiko-desiさんに、この質問は、あるいは酷な質問かとも思いましたが、苦し紛れに(?)、何か新しい展開を生み出していただけるかも知れない期待を込めて、あえて質問させていただきました。 >【魂は爆発】【芸術も爆発】と思います(笑)。【永遠に爆発している存在】です。恒星のようなものなのでしょうか? 芸術は爆発できるとしても、魂は爆発できるのでしょうか? 爆発の条件は何でしょう? 単純に考えると、相反する力の存在だと思います。外に向かって広がろうとする力とそれを内側に向かって押さえ込もうとする反対の力がぶつかり合って初めて爆発が成り立つのだと思います。広がる力だけなら、煙突からでる煙のように、のどかに拡散するだけで爆発はありませんし、押さえ込む力だけなら、朝青龍に踏み潰された蟻のように消えてなくなるだけです。芸術は、外に向かって広がろうとする非言語・無意識の欲望と、内に向かって押さえ込もうとする言語・意識・社会通念の相反する戦いがあるので、爆発が可能ですが、魂については、そのような相反する2つの力を私は想像することができません。 >魂は自らの全体性と個性を保ったままで超能動的なので、支配を受けることもない意志があるのだ?。 これは、悩みです。というのは、私は「魂」には、個性も意志もないと考えざるを得ないからです。というのは、自分自身を省みると、自分の個性というのは全て自分の肉体にその源泉を持っていること。また、意志は、結局、肉体起因の欲望と欲望のぶつかり合いの調整に過ぎないからです。本当は、「魂」に個性や意志があると考えたいのですが、論理的に考えると、どうもうまく行かないのです。 >聞こえるはずのない声が聞こえたり、見えないはずの映像が見えたり アイソレーション・タンクに入っていなくても、実は、無意識世界では、馬鹿げたイメージとあほらしい文章を常時作り出しては、遊び続けているのではないかと薄々感じています。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
◆ >、「見える」を「感じる」と言い換えることで、問題のありかをより単純化できるのではないかということです。 :いい考えのような気がします。 >見える」の代わりに「感じる」の最もシンプルな形である「痛み」を考えると、様々な複雑な影響が排除できそうです。 :異議あり。排除され過ぎると思います。 例えば「クローンが殴られたら私は痛いと感じるだろうか?」という考察にも及びかねない設定になってしまい、ちょっと論点が移動してしまうような気がします。 よって、以下はkobareroさんおっしゃるところの「痛い!」を、「(見えるという)感覚」という純朴な(同時に深遠な)言葉に勝手に戻して解釈してみたいと思います。 ◆ >主語(「私」)が、省略されていると考え、それを補おうとするのは野暮ではないでしょうか? :いかにも、と同意します。 >これって、もしかすると、無我の境地かも。 :「無我」すなわち「我無し」「私が無い」ということですが、言及可能な「私」があるからこそ「私が無い」ということが言えるようにも思われます。 そういう意味では主語を補うのは野暮ではあるが主語であることに違いはない、と考えるのが妥当なのかもしれません。 ◆ (1)~(7)の「私分類」。 私の頭の中ではまだよく整理されきっていませんが、個別の考察については興味深く拝見しました。 (2)と(3)の関係について言えば、上で述べた事にも関連しますが「見える」と違って、「痛い」の感覚はMAXに達した場合生命に危険が及ぶという点でしょう。 すなわち「認識を喚起する感覚」と「本能的感覚」の違いという気がします。 ◆ 「無意識の定義」には特に異論はないようです。(ようです、というのは私もまだ深く考えていないからですが) 無意識によっても言動は左右されるわけだから、無意識がそれを判断した、と言える。 その判断を「無意識の意志」と呼ぶことがあながち言語学的な矛盾を生じるとは言えないだろう、という趣旨のご意見でしたが、おっしゃるとおりで言葉不足の箇所を補足していただきありがとうございます。 ◆ また、「細胞の記憶」が「>「無意識」が持つ特性に寄与しているのではないか」というのは、そのとおりだと思います。 であればこそ、未だ「私という意識」を持たない命に対してもあたかも「私」が存在するかのように接することが肝心なのだと思います。 自我を確立しきれていない人に対しても同様です。 その為に、我々はもっと想像力を働かせなくてならないでしょう。 そして自らの(意識の)変革をも恐れてはならないでしょう。 誤解を恐れずに言えば、それが真の「与えうる愛」でしょう。 それらの無言の記憶が意識化された時、そしてその蓄積によって、初めて世界は変わる可能性があると言えるように思います。 その場合、「私」は既に「世界を見るもの」ではなく、ついに「世界を形作るもの」になっているのかもしれません。 安物の酒をつい飲みすぎて後半は饒舌しきり、お恥ずかしいが、消すのも勿体無いのでそのまま投稿させていただきます。
お礼
>未だ「私という意識」を持たない命に対してもあたかも「私」が存在するかのように接することが肝心なのだと思います。自我を確立しきれていない人に対しても同様です。 また、質問になってしまいました。 質問:<「私という意識」を持たない命>というのは、赤ん坊のことですか? 質問:<「私」が存在するかのように接することが肝心> その理由は、早く他者との関係を確立し、社会意識を持つべきだという意味でしょうか? >その場合、「私」は既に「世界を見るもの」ではなく、ついに「世界を形作るもの」になっているのかもしれません。 こう言われると、つい、余計なことを言いたくなってしまいます。済みません。 これは、hakobuluさんの期待を込めた表現でしょうか? でも、本当のところどうなんでしょうか? 私は、以下のように感じています。 私(私だけでなく誰でも.....と私は思っているのですが)は、物心付いたころから、否応なく「世界を形作るもの」に強制的にさせられてしまって、そこからは、死ぬまで脱出できない。決して「世界をみるもの」ではなく、「(意に反して?)世界に巻き込まれてしまったもの」と感じています。
補足
ご回答ありがとうございました。 >痛み---> 排除され過ぎると思います。---> 「クローンが殴られたら私は痛いと感じるだろうか?」という考察にも及びかねない この一連の繋がりがフォローできませんでした。クローンは自分に良く似た他人に過ぎないと考えているので、クローンの痛みが何故、私に伝わるという話になるのかよくわかりません。また 私が「痛み」を取り上げた理由は、「感じる」ために必要最低限の条件以外のものを可能な限り排除することによって、逆に「感じる」ために必要な最低限の条件が何であるかを浮き彫りにするためです。従って、もし、「排除され過ぎる」と言うことがあるとすれば、それは「痛い」と感じることすらなくなることになり、考慮の対象外になってしまいます。そこで、私の質問は、hakobuluさんが「排除され過ぎる」と言うときの「過ぎている」部分は、具体的には何を指しているのでしょうか? 「痛み」に関する私の問題意識を以下に補足させていただきます。 ■「見える」と「痛む」の違い 例えば、「私にとって、机の上にリンゴが見える」ということが成り立つためには、「私」「机」「上」「リンゴ」などの概念と言語と文法を習得していることが前提になります。もし、これらの概念ができる前の赤ん坊が「机の上のリンゴ」を見たら、どう感じるかというと、それは、のっぺりした色模様があるだけのイメージを受け取るだけではないかと想像します。それでも「見える」には違いないので、その「見える」(原初的「見える」と呼ぶことにします)について取り上げてもいいのですが、そうした場合、今度は、その原初的「見える」が成り立つ条件として、眼球があること、左右の眼球から入力された画像情報を三次元イメージになるように脳の視覚制御部で処理されることなどを考える必要がでてきます。要するに、様々な複雑な条件を考慮せざるを得なくなり、議論の焦点が拡大してしまいます。一方、「痛む」については、概念、言語は必要ないのではないかと思うのです。具体的には、「私」が誰かとか、「私」の記憶、人格、経験、真善美の意識などの諸々の条件には関係せず、基本的には、「猿」と同じレベルで考えることができそうな気がするのです。 ■「猿」と「人間」の違い 「痛む」という原初的現象に関しては、「猿」と「人間」の差異はないのではないかと思う一方で、それを疑う気持ちもあります。それは、「痛む」を感じるためには、もしかすると<「私」の「意識」がその「痛み」に向かっていること>が条件かも知れないという疑いです。そして、<「私」の「意識」>が確立するためには、「猿」の知能では無理かもしれないという疑いです。何かお考えがありますか? >「無我」すなわち「我無し」「私が無い」ということですが、言及可能な「私」があるからこそ「私が無い」ということが言えるようにも思われます。 「無我」については私の譬えが悪かったようです。「無我」というより、「自他の区別がない」と言うべきでした。「自他の区別がない」赤ん坊の世界から、成長に伴い「自他の区別のある」世界に変わります。そして、人によっては、修行を積んで「無我の境地」に至る人もいますが、その場合でも「自他の区別」がなくなるわけではないですね。要するに、「無我」と「自他の区別がない」とは別物ということです。 >「痛い」の感覚はMAXに達した場合生命に危険が及ぶという点でしょう。すなわち「認識を喚起する感覚」と「本能的感覚」の違いという気がします。 うーん。どうも「痛い」に関する認識がhakobuluさんと私では、大分ズレているように感じました。ただ、どこがどうズレているのかがよくわかりません。その「ズレ」が何なのか、大変興味のあるところです。それで、また、ちょっと質問させてください。hakobuluさんの表現を文字通り受け取ると(私の勘違いなら、申し訳ありません)、「痛い」には、生命に危機を感知する働きがあるが、「見える」には、それがないと受け取れるのですが、そうなんでしょうか? でも、現実には、高速道路で対向車が急に自分の走行路に侵入して来たときハンドル切って危機を回避する例を考えると、「痛い」ではなく「見える」が生命の危機を感知する場合もあると思うのですが。 <文字数制限を越えたので、続きはお礼に書かせていただきます>
- goosuka003
- ベストアンサー率20% (23/110)
…多分、貴方が再三お使いになっている 『私にとって』というコトバに曖昧さがある故にズレてしまったり答えにくかったりするのではないかと思います。 『私にとって』というのは貴方というヒトが生じたその時から、こんにちまでの個体の歴史全てを含んだ『私』のことを言っておられるんですか、それとも、「これ私」という【感じ】のみを切り取って言っておられるんですか。 本当に「三つ子の魂」の仕組みが貴方の知りたいことですか? 呆れながらも気になっていたのが下記のコトバです。 『真善美の不変な部分』 『「この世界が見えている実体」は、実は「私」ではないのではないかということです。』 これは貴方のコトバですが 貴方は本当は、これを考えたいのではないのですか? それとも私が理解するのが遅かったですかね。 No.36の御回答文中 『こうした想像が荒唐無稽に思われるかも知れないが、やがてコンピュータの“気持ち”をヒトが推し量る日が~』 この部分は貴方にとって、たいへん有意義なものではないのでしょうか。 …いや、私のほうがブッ飛んでしまってるのかもしれませんね。 私が疑問に思うのは。パソコンは、とても使い易い例ですが 全く同種同デザインの同じパソコンが二つ並んでいてもヒトは「どちらが・自分の・パソコンか」を気にするということです。「パソコンが気にして」いるわけではない。 むしろ「クローン」というのは我々自身のことなのかもしれませんね。気がついていないだけで。 ひょっとしてまたスカもいいとこだったでしょうが私にとって今回の御質問は「コトバを通して他人の頭を覗き込むことの困難さ」を改めて思い知る機会になりました。 文章表現の不的確さ読解力のなさ…コトバって哀しいですね。
お礼
(3)私が想定している答えの枠組み 私が質問して、皆様からご回答いただいた結果として何を期待しているのかというと、それは、(2)で書きましたように、複数の可能なモデルを作ること、また、その各モデルの問題点、矛盾点、疑問点を明らかにすることです。今回も皆様からのご回答を読ませていただき、自分なりに複数の可能なモデルを考えることができましたので、大変有意義で、感謝しております。具体的には、以下のようなモデルが考えられるようになりました。 1.物質モデル 全てを物質世界の現象として説明する。 2.物質+情報モデル 物質である身体と心である情報の組み合わせとして説明する。 3.物質+魂モデル 物質的な身体と非物質的な魂の結合として説明する。 4.物質と心の再構築モデル そもそも物質と心の区別はないのではないかという視点で説明する。 5.論理的不可能モデル 命題そのものが論理的に定立不能という視点から説明する。 以上ですが、私としては、今後、上記のモデル以外のモデルの可能性か、あるいは、上記のモデルについての、もう少し具体的な可能性や、疑問、矛盾点、問題点などを教えていただければ、大変嬉しく思います。 よろしくお願いいたします。
補足
アドバイスいただき、ありがとうございました。コミュニーケーションを円滑にするため、以下の3つのことを明らかにしたいと思います。 (1)私の疑問の背景にある「驚きと不思議」 (2)私の思考プロセス (3)私が想定している答えの枠組み (1)については、私の質問は当初の通りですが、質問の背景には、私が日頃、驚きと共に不思議に感じていることがあります。もし、この質問の背景にある「驚きと不思議」の感覚を共有できなければ、恐らくその後の議論は噛み合わないでしょう。例えば、誰かが私に「リンゴを持っている手を離したら、リンゴが勝手に落ちたよ。不思議だなぁ。何故だろう?」などと尋ねて来たら、私は「馬鹿だな。リンゴは重いから落ちるに決まってるだろう。」と思い、議論する気にもなりません。それと同様に、私の「驚きと不思議」が、回答者の方にとって馬鹿げたものであるのなら、それ以上、議論を進めることは、あまり意味がないと思うのです。それを確認していただくためにも、私の「驚きと不思議」の説明をさせていただきたいと思います。(2)については、goosuka003さんが「何故こうもコロコロと疑問点を移動させていくのか」と訝しく思っておられたので、それに対する回答です。(3)は、(2)に関連しますが、質問と回答の結果、私が何を期待しているのかの説明です。以下は、この3つの説明です。ただ、ここで、現実的な問題があります。それは、gooの文字数制限です。補足2000文字+お礼1000文字に収める必要があります。このため、説明が舌足らずにならざるを得ないことを予めご了承ください。 (1)私の疑問の背景にある「驚きと不思議」 主なものは、以下の4つです。以下の「驚きと不思議」が、全く馬鹿げたものとお感じでしたら、先を読まない方が良いかと思います。 1.身体交換問題 私は、何故、私のこの身体の中から世界を見ているのか? 私は、河村徳兵(そんな人がいるかどうか知りませんが)の身体の中からこの世界を見る可能性もあったのか? 2.祖父母出会い問題 私の祖父母が出会いに失敗するような、もう一つの可能世界があったとしたら、私は、この世界を見ることはできなかったのか? それとも、誰か別の両親から生まれた身体の中から、この世界を見ることになったのか? 3.感覚復活問題 私は、抓られると「痛い」。私が死ぬと、抓られても痛くない。「痛い」は一つの現象だ。現象には、必ず原因があるはずだ。そうであるなら、私の死後、その「痛い」の原因を再生できれば、私は、再び「痛い」と感じるのか? 4.映像変換問題 PCで映像を再生するには、電気信号を映像に変換する「スクリーン端末」が必要である。しかし、人間の脳の中には、電気信号を処理する部分はあっても、「スクリーン端末」に相当するものはない。それにも関わらず見えるのは何故か? (2)私の思考プロセス 私は頭が悪いので、疑問が出たとき、その答えに向かって一直線に進むことが出来ません。「あー」でもない「こー」でもないと考え、さらに、さっきと違う「あー」と、さっきと違う「こー」を考えます。この何とも効率の悪い思考プロセスを理解できない頭の良い方には、私の思考プロセスは馬鹿げたものに見えると思います。そして、私の非効率な方法は、次に、これらの「あー1」、「こー1」、「あー2」、「こー2」をモデル1、モデル2、モデル3、モデル4にまとめようとします。何故なら、私は、この世界には唯一の真理などないと考えるからです。あるのは、その時点で最も妥当と思われる仮説だけです。仮説という言葉を使っても良いのですが、仮説と検証を繰り返す科学の思考プロセスと混同するので、私は「モデル」という言葉を使いたいです。唯一の真理はないと考えるので、私にとって、答えは複数のモデルからなるのが自然です。goosuka003さんがおっしゃっている「コロコロと疑問点を移動」は、複数のモデルの並立が原因と思います。 <文字数制限を越えましたので、続きは、お礼に書かせていただきます>
- goosuka003
- ベストアンサー率20% (23/110)
一つのスレッドのなかで、何故こうもコロコロと疑問点を移動させていくのかと半ば呆れて見ておりましたが結局『三つ子の魂』これの仕組みが知りたいと。そういうことですか。そんなら生物のカテゴリへ行かれたほうが話が早かったのではとも思いますが… 年末の時期ともなりましたしズバリ一発回答をさし上げられなかったお詫びを込めて、生後半年の記憶が残る私から貴方へ、このコトバを送ります。 「去年今年貫く棒の如きもの」
補足
アドバイスありがとうございました。 生物学で「見える」問題が解決できるなら、天文学で「不倫」問題も解決できそうです。確かに、占星術もありますから、おっしゃる通りかも知れません。 『三つ子の魂』問題を解決するため、私は2歳に戻ることにしました。ところが2歳の私は、知恵遅れで、「私」という概念がありませんでした。それで、<私にとって「この世界が見える」ための条件は?>は、<「この世界が見える」ための条件は?>に変わりました。ところが、考えてみると、私は、2歳のとき、「見える」とか「世界」とかの言葉も知らなかったことに気づきました。それで、結局、質問は「ぁう○ぇぅおXぅぅぐぅぅ?」になってしまいました。哀れな2歳の私のために、何卒、意を汲み取っていただければ幸いです。 「生後半年の記憶が残る」というのは、驚異ですね。記憶はイメージでしょうか、それとも、言語でしょうか? もし、言語だったら尊敬します! 「去年今年貫く棒の如きもの」ですが、私の頭はイメージが貧弱で、「スターウォーズ」のライト・セーバーと、「エイリアン」に対抗するための火付き棒のイメージしか思い付きませんでした。解説をお願いします。
補足
ご回答ありがとうございました。 月もだいぶ丸みを帯びて来て、夜見ると、まぶし過ぎて、月の模様がよく見えません。ところが、今日の大発見で、午後4時頃だと、月の模様がよく見えるのです。周りは、まだ十分明るく、空も青さがむしろ濃いくらいで、月は、白から、ほんのわずかに黄色くなるところでした。まだ、まぶしくないので、模様がくっきり見えるのです。hakobuluさんが、兎の餅つきの話をしていたことを思い出し、よく見てみました。すると、兎の耳らしきいものは二本はっきり見えました。しかし、どう見ても、餅つきには見えません。二本の耳も、どちらかというと、ムシキングのクワガタか、じゃんけんのチョキに似てると思いました。 質問1:単純な事実関係についての考えを教えてください。 「火種」という新しい譬えを使っても、事実関係に変化はないと思うのですが。すなわち、単純な事実関係としては、以下の(1)、(2)が言えると思うのですが、OKですか? (1)「海底火山が原因で、結果として海藻が浮かんだ。」 (2)「意識が原因で、結果として、意識に思いが浮かんだ。」 なお、「海草を浮かび上がらせようとして噴火したわけではない」については、前回(#99補足、質問1)、既に、hakobuluさんの意図に沿うように表現を変更しました。 質問2:意識が「横目で見る」とき、意識はどのように感じているのですか? 意識が「横目で見る」ときの、具体的な心理描写はどうなりますか? 以下の(2)は、私の想像ですが、これでOKですか? また、OKだとすると、譬え”ぼんやり”であっても、既に意識に上ってしまったわけですから、今更、意識がその内容をチェックして拒否することはできないと思いますが、いかがでしょうか? (1)朝目覚めて、「出勤しなくては」と思って、眠かったが起きた。 (2)朝目覚めて、「出勤しなくては」とぼんやり思ったが、ひどく眠かったので、そのまま眠った。 質問3:話の内容は、無意識が用意するのでは? >「そりゃないんじゃないですか。少しは気付いているんでしょ。」と言いたいように思うわけです。 意識は、話された内容については、100%気付いていると思います。ただ、その内容を用意したのは、無意識だと思いますが、いかがでしょうか? 質問4:感情や思いの原因は無意識の中にあるのでは? >ただ、(2)が意識化されていないことはないような気がします。 これは、hakobuluさんが、#99質問3の2で以下のように言われている内容の意味次第です。私には、「これを意識したとは思いたくないので」という表現が微妙すぎて判断できません。ただ、いずれにしても、「感情や思いの原因は無意識の中にある」ということに変わりはないのではないでしょうか? >「こんな父親は早く引退すればいい」という意識が芽生えた。 >しかし、これを意識したとは思いたくないので、 早くも100回になったんですね! 私の勝手な妄想に、毎回、丁寧な回答を考えていただき、本当にありがとうございます。お陰さまで、日々、良い刺激を受け、色々考えたり、何冊かの本にも目を通したり、大変良い勉強になっています。ただ、ほとんど一方的に私のほうから質問ばかりさせていただいておりますので、申し訳けなく思っております。