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朝鮮の歴史

starfloraの回答

  • starflora
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回答No.3

    他の方が、参考URLをあげておられますので、詳しい意味は、そこに載っていると思います。以下では、簡単ですが、どういうことなのか、述べてみます。     魏志倭人伝とか後漢書東夷伝などを見ますと、日本の地域的国名が色々書かれていて、これはどこの地域かというのが今でも問題になっています(もっと有名なには、邪馬台国はどこにあったかということでしょう)。中国の史書には、朝鮮半島の地域国家などについても、色々記されていて、また日本の記録でも、朝鮮半島の地域国家の名前が記されています。     朝鮮半島は、「任那日本府」などをめぐり、倭(日本)が朝鮮状況に大きな関心を持ち、また干渉していたというか、よそ事でなかった、紀元6世紀7世紀には、多数の地域名が知られており、また、この頃は、すでに、北の高句麗、南の新羅、百済、そして準独立地域としての加羅などに纏まっていました。しかし、なお古い地域名として、多数の5世紀4世紀の朝鮮半島にまとまった国家がなかった時代の地域国家の名称が地名として、また準地域国家名称として出てくるということです。     夫余種族というのは、朝鮮半島に、5世紀頃に北方からやって来た、遊牧民族だとされ、一つの説では、分裂状態にあった朝鮮半島を、扶余が制服するというか、地域ごとに国家統一して、高句麗、新羅、百済を建国したとされます。扶余は、加羅のあった、朝鮮半島南端の地域にも訪れたのですが、ここで国家統一をせず、そのまま、対馬海峡を渡って、北九州に国家建設し、更に、東進して、倭の西部を国家統一し、「大王家=天皇家」として、倭の豪族の上に立ったというのが、「騎馬民族征服説」のおおまかなアウトラインです。実際はどうであったのか色々説がありますが、かなり、この説で歴史に合うようです。     この場合、加羅の当たりは、百済でも新羅でもなく、独立領域として残された訳で、加羅が本国で、そこから日本列島に植民地というか、部分領土として確保したというのが、加羅に残った扶余族からの見え方かも知れませんが、加羅よりも広大な領土を占めた倭の扶余からすれば、加羅は本拠地であったが、いまは、倭が自分たちの国だということにもなります。「任那日本府」などというものはなかったのですが、しかし、この位置が丁度、加羅で、加羅は任那とも呼ばれ、倭の領土だったという言い方もできます。     新羅が半島の覇権を奪おうと、唐と手を組んで、まず百済を征服しようとした時、倭は、百済と深い関係にあり、同盟国でもあったので、百済を守り、加羅を領土として確保するため、朝鮮半島に当然干渉します。干渉というのは、日本と朝鮮半島を別の国だと思うとそういう表現になるのですが、当時、倭もまた朝鮮半島に領土を持っていたということからすれば、干渉ではなくなります。倭も巻き込まれた、新羅、そして唐の征服戦争に対する対応であったのです。     結果として百済は滅び、倭=日本は朝鮮半島から手を引き、唐が更に倭を攻めるのではないかと危惧し、天智は、大津に遷都し、琵琶湖を伝って、いつでも日本海に逃げられるようにする他方、西日本に唐の侵攻を考え、石城を多数造ります。唐は、使者を日本に派遣し、日本の状態を確認した後、日本征服の軍は起こさなかったと一般に言われていますが、唐の武将が日本に攻め入り、その武将が、天智を倒し、天武天皇になったという説もあります。     結局、朝鮮半島は、新羅も高句麗も唐に滅ぼされ、その後、かなりの時間が経って、高麗という朝鮮人の統一国家ができ、中国の王朝が、これを冊封します(冊封とは、中国から「冊(書状)」を送り、そこで、汝を「朝鮮国王」として封じる[中国の臣下として認め、皇帝に帰属する臣下の王として、封土を与える]と宣言することです。豊臣秀吉が、朝鮮半島に軍を送り、困った明は、秀吉に、汝を「朝鮮国王」として、冊封するという書を送りましたが、秀吉は、予は、明の臣下ではないと怒って、これを拒否したことがあります)。     大体、こういうことです。  

ekubo
質問者

補足

 ありがとうございます。 >夫余種族というのは、朝鮮半島に5世紀頃に北方からやって来た遊牧民族  とすると、それ以前に半島に住んでいた人は何種族というのでしょうか。またその人たちは、南方から半島に移住した人なのか、中国大陸から移住した人なのか、どのように考えられているのでしょうか。  高句麗、新羅、百済は夫余種族の国なのですね。その人たちがたくさん日本にもやって来た。もしかしたら、日本も夫余種族の国なのかしら。  高句麗、新羅、百済、加羅、そして先住の人たち、それぞれの仲は良かったのでしょうか、悪かったのでしょうか。何だか悪そう・・・。

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