- ベストアンサー
私小説 ししょうせつとわたくししょうせつ
近代文学研究者の中には、私小説を「ししょうせつ」と「わたくししょうせつ」の読みで区別している人もいると聞きました。 どう区別しているのですか? そもそもは「私(わたくし)は小説」からきているので、わたくし小説が正しい、と聞いたことはあるのですが、人称だけでなく、小説の内容でわけたりもしているのでしょうか。
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
私小説を「ししょうせつ」と読むとき、それはイッヒ・ロマンのことを指します。 小説の主人公がIchイッヒ=私は、で語り始め、語り終わる形式全般のことを言います。 主人公はふつう人間ですが、猫であってもいい。 そう、夏目漱石の「吾輩は猫である」はイッヒ・ロマンであると言えると思います。 ゲーテの「若きウェルテルの悩み」やコンスタンの「アドルフ」も代表的イッヒ・ロマンでしょう。 大事なことは、主人公=作者ではないということです。 一方「わたくししょうせつ」と呼ぶとき、それは田山花袋の「蒲団」を淵源とする、 日本自然主義小説の一変種として現れた手法で、 たとえ主人公が「彼は」となっていても、主人公=作者のことであって、 作者の身辺に実際に起こったことを題材として、 しばしば人生観照的に描き出した一群の小説のことだと、とりあえず説明しておきます。 島崎藤村の「新生」、徳田秋声の「黴」などはこの好個の例で、 その趣意が十分深まったところで心境小説が生まれた、とは久米正雄の言です。 これは直接には志賀直哉の一群の短編が念頭にあると思われます。 もしもう少し詳しくお知りになりたければ、 いま引用しました久米正雄の『「私」小説と「心境」小説』という評論、 あるいは、この日本独特の私小説に大批判を加えた中村光夫の『風俗小説論』という長編評論に 実地に当たってお読みください。 けれども私が強くお奨めしたいのは小林秀雄の『私小説論』で、 これは今読んでも英知と洞察にあふれた優れた評論と思います。 日本の近代化において避けて通れなかった「個」の問題だということがお分かりになるかと思います。 現代の作家たちの多くは、この日本的なほうの「わたくししょうせつ」も、 我が国の長い文化の伝統の上にあるという認識ではないでしょうか。
その他の回答 (1)
- kankasouro
- ベストアンサー率54% (269/492)
登場人物が「私は」で語っているナラティブの小説だけを「わたくし小説」とし、それ以外を「し小説」という人がいるようですが、少数派です。私小説には案外「私は」という作品はすくなく、主人公が三人称(架空の名前)で描かれていることのほうが多いので、こういう区分をする人もいるのでしょう。 基本的に私小説は人称ではなく小説の内容についての用語です。「佐藤が」と書いてあっても、いわゆる私小説的な要素(話に山がない、さしたるエピソードがない、問題が解決しない、心境告白が中心である、むやみと暗い)があればふつうに私小説に区分されますし、「私は」と書いてあっても私小説的な要素のない作品は私小説には区分しません。
お礼
どうもありがとうございます。 参考にさせていただきます。
お礼
ありがとうございます。 なるほど、仕組みがよくわかりました。 参考になりました。