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自由を優先すべきでしょうか
「自由」は、端的に言うと「束縛」ではない状態、または「束縛」が非常に小さい場合を指す言葉です。「束縛」はこの社会が良い例で、進歩を続けるのに必要な要素です。卑近な例で言うと、勉強なんかがそうです。強制されることで、飛躍的に能力を高める、つまり進歩するんです。「組織化された」とも言えるでしょう。しかし度を越えた束縛はストレスやトラブルの原因となります。そして残念なことには、人間にその限度を見極めることはできないんです。そういう場合は本能的に「何かがおかしい」と気付き、改めようとするのですが、不完全な理性に押し流されてしまうものです。例えば、環境破壊とかが挙げられます。それでお尋ねしたいんですが、今、自由を選択すべきか束縛(組織化)を選択すべきか非常に悩んでいます。学生にとっての本分は「将来楽しむ」勉強であり、クラブ活動においては「今を楽しむ」ことを選択すべきであろうと思うんですが、人間とは複雑なもので、ある程度の束縛を達成感として喜び受け入れることができるんです。そこで、クラブ活動で、たくさんの労力、犠牲を払ってまで結果の見えない「自由」を貫き通すべきか、ラクして楽しんで、一線を越えないよう気を付けながら結果が目に見える「束縛」を受け入れるべきか、どうするべきか、何かアドバイスをもらえませんか。それと、「束縛」によって得られるものは、労力という犠牲の割に多すぎて、多大な犠牲を払って得る「自由」によって得られるものは、曖昧でよく分からないんです。何か「自由」を取り違えているんでしょうか。どなたかご指導もらえませんか。
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質問者が選んだベストアンサー
再びNo.4です。 ざっと、以下の欄を再読したところ、これは、哲学的質問ではなくて、人生相談であると、お見受けしました。今後は、このような質問は人生相談に投稿することをお勧めします。 質問者様は、理科系の学部の学生で科学クラブでも活動しているようですね。 であれば、質問者様が選択した道である勉強(束縛)とクラブ活動(自由)の二者択一ではなくて、両方ともがんばってください。睡眠時間を削ってでも。さらに、常に人生とはなんぞやということを考え、もっと読書してもっと教養を身に着けてください。 No.4の内容は、多分ご理解できなかったと思います。 今後、人生の岐路に立ったとき御再読いただければ幸いです。
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hdkyktさんは旅が好きですか?私は気ままな一人旅が好きですよ。初めはツアーを利用していたんですけど。自殺願望の勢いでやっちゃってから楽しくて、今ではツアーでは行きたくなくなりました。「生きた実感」って自分で背負う荷物が重くて、それでも文句言わず歩いてくれた我足を自分で労わったり、邪魔と言わず歓迎してくれた人の存在に強く感謝します。本当に一人は弱いって感じます。だから強がって又歩き続けます。 企画旅行は安全でリスクも少ないけれど、思い出になるものが少ないんです。個人で自由旅行なんてリスクは大きいけれど、順調な旅よりも思い出の数は数十倍かそれ以上、予見出来ない分楽しいし学ぶことが実に多いです。 自由は保証のない世界。でも自己決定権は最大限行使できます。そして喜怒哀楽、自己責任、世界の限界を幾つも超えられます。そしたら自分が幾らか好きになれました。 その後の「子育て」←これも狭かった自分の世界の限界を超えさせられました。 それをやってみたいかどうか? 結局他者と切り離して責めず、無謀な賭けに投資して楽しむ自由か、束縛(組織化?)された保険に投資するかでしょうか? 私、学校には自分の世界の限界を知りたいと期待しなかったし、誰にもされていませんでしたが(苦笑)そんな束縛ってあるのですね。 学生の本分は向上心で学ぶことでしょう。でも教育の本分は「良い経験思い出を持たせ人生を楽しむ」ということらしいです(どっかの校長先生の言葉から)。 悩みの解決にはならないけれど、自由はこんな感じですよって伝えたくて。
- goma_2000
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質問の内容とあなたの回答を読んでいると、自由を履き違えている気がしてなりません。あなたは自分の自由に振舞う権利があるかも知れませんが、それは他人を強制する(束縛する)自由ではありません。 世の中生きていくうえで自分の自由にならないこともあるということを覚えた方がよいでしょう。 科学クラブに関して言わせて貰うと、少人数の方が動きやすいという主張も、あなたにとって言うことを聞かせやすい人(自由に出来る人)のみを残して後はやめさせる方便と取れます。まるで独裁者ですね。それでイエスマンばかりをはべらるのですか? クラブに一体感がないのはあなた自身に原因があるのではないでしょうか。少し考えてみてください。ピエロにならないように。 といっても、あなたのような人は自分を批判する人の意見には耳を貸さないかもしれませんけど。。。
補足
できればアドバイスされたgome_2000さんに読んでいただきたい。残念ながら、あなたの説は当たりです。でもはずれでもあります。僕の書き方が悪かったのでしょうが、まだ僕が入部してから1年しか経っていないこと、昔の奔放状態から今まで発展させたのは、行動は部員全員だがアイデアは全部僕が出したこと、僕以外の人が基本的に不和雷同型であること、そのために僕自身に独走しないよう常に言い聞かせ、それを他の者にも話しているがなかなか上手くいかないこと、これは決してクラブの方針を尋ねているだけであって、行動まではご批評願ってはいないこと、それと、「一体感が無くなる」とは書いたが「無くなっている」とは書いていないこと。一番大きなことは、僕は自分の利益のためだけで動いているのではないこと。あなたの様に、多分余り考えもせずに僕のことをとやかく言う人間はたくさんいます。でもあえて頼みます。ちょっとだけでも考えてみてください。仮に僕がしないとすると、誰がするんですか。この表現は「独裁者は誰か」ですよね。では変えましょう。この答えは2択に迫られています。「先生がする」か、「みんなでクラブの方針を根本から話し合う」か。残念ですが、前者は期待するだけ損です。部員だってきっと苦い顔をするでしょうし、本人は今でさえ僕らに愚痴をこぼしています。では後者ですか。それはもうしています。でもアイデアを出すのは絶対に誰か一人でしょう。違いますか。アイデアを出す人が僕で、そのアイデアを皆さんにこうして尋ねているわけです。勿論、行動に移すときはみんなと十分話し合う予定です。ちょっと具体的な話が入りすぎました。そこに、あなたの言う「聞かないやつはやめさせる」という表現を入れてしまったのは、いくら誇張といえども、もうウソの範疇です。実際のところ、ここで言いたいのは、言うことを聞かないやつばかりになっても、僕は一向に構わず、少人数のほうが組織化されにくいからそれを目指すのだ、ということです。でも勿論、あなたの反発は当然のことで、それに対する弁明というのは何らありません。それにあなたも、束縛と自由を理解してはいないように思えます。これだけ書いただけで、あなたから猛烈な批判を喰らいそうなので、これでやめておきます。でも、僕が独裁者で地球のカス・クズ・ゴミだと連呼されるのは構いませんが(本当のところ聞き捨てなりませんが)、そんなことを平気で言えるあなたも僕と同じ程度の人間であるということを分かっていただきたい。(すみません、ついカッとなりまして。)
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
本質的な「束縛」とは、「生きる為の方法を強制される」ということではないでしょうか。 何を以って「生きる」とするか、という問題には敢えて触れません。 ともかく「自由」とは、とりあえず「選択する(あるいは選択しない)権利が確保されている事」と言っていいでしょう。 大事なのは、それ以上でもそれ以下でもない、という事です。 人は生きている以上、朝どちらの足から先に一歩を踏み出すか、から始まって、何かを選択し続けざるを得ないわけです。 (くどいようですが何も選択しないという意味も含みます。) そして「生きるために必要だ」と思った時に、それを阻止されなければ「とりあえず自由」と言っていいように思います。 無論、そう思えるようになるには一定の時間が必要でしょうし、個人差もあるでしょう。 そう思えないうちの「~をしたい」が阻止されたとしても、それは単なる「わがまま」で片付けられるでしょうし、実際そうでしょう。 さて、今あなたはクラブ活動の変革を行なおうとしているようですが、それをどの程度あなたが望んでいるのか、という信念が最も重要だと私は思います。 その必要性に自信があれば邁進すべきでしょう。 「自由」とは先ほども述べましたが、「選択する権利」でした。 選択するものが一人ひとり違うのは当然です。 そこで、「あなたの選択した道」が他者の自由を阻害するどころか、最終的には目的に近付く最も適切な方法であることを納得させる必要があります。 一朝一夕にはいかないでしょう。 そこで信念が必要になってきます。 あなたは今、当初持っていたであろう信念を忘れかけているように見受けられます。 もう一度確認してみてはいかがでしょうか。 あなたの信念が、他者の自由な発想を阻害する性質のものか、あるいは他者の発想をより可能性の高いものへ導くための土台として機能するものか。 単純すぎて申し訳ないが、スポーツの世界でもより可能性を伸ばすためには厳しい鍛錬が必要とされるでしょう。 自ら選んだその道で、可能性を伸ばすための鍛錬を「束縛」と感じるか「必要なステップ」と考えるかは、その鍛錬の方法が間違っていない限り、全く個人の思惑に依拠する問題であるように思われます。
補足
親切なご回答有難うございます。僕の信念ですが、「その時に自分が最良だと思った方法をとる」。すぐに気付かれたと思いますが、ものすっごいあいまいなんですよね。で、よく考えてみると、「信念」とは「自分が最良だと思った心持ち」ですよね。なんか似てませんか。つまり、僕の信念は「その時々で信念に基づいて変わった心構え」とも言えるんです。一語でで言うと、僕は「無限に限りなく近づける」のを信じているんです。言い換えると、有限を信じないんです。どういうことかというと、僕は無限の理性に限りなく近づくか、逆の無限、つまり全くの0に限りなく近づくことが、偏見や先入観を持った不完全な人間にできる最大の「完全」だと思っているからです。それが万人に対する、人として生きる最大の責任であると信じているからです。まあ、口では格好いい事を言っていても感情ではそれをいまだに消化し切れていないんですが。はっきり言って、これが土台となりうるものかどうかは自分でも分かりません。ですが、何かを変えるのに伴う責任に対する覚悟はあります。それに、何かを変えようという心構えはいまだに失われていません。
- chironero
- ベストアンサー率11% (23/200)
あり得ない事ですが、自由の中で『真の自由』を感じるでしょうか。不自由(束縛)の中でこそはじめて自由の良さが判るものです。 現代では、多くの選択肢があり、恰も自由の様に感じられますが、実は、この選択肢こそ束縛の元凶でしょう。あなたも、物事をあまり難しく考えないで、もっと『自由』な発想をしてみては如何ですか。
お礼
そうです。その通りです。人間にとって、今と違ったことをすることは大きな憧れです。でも、人生経験少ない僕にとっては、まだ「自由」に反する憧れ、つまり自分自身が「自由」になったことが無いんです。そりゃ「自由なとき」もありましたよ。でもそれは所詮「束縛」の中の「自由」であり、「自由」自体を経験したわけではないんです。そして、それは人間として、大変な苦労をせずに生きてゆくには、死ぬまで「束縛」の下に生きなければならないんです。そこで僕は、趣味とか遊びとかいう言葉でごまかせるクラブ活動の中で、その夢を実現させたいと思ったんです。勿論これはいわゆる「あまのじゃく」という奴だと思うんですが、でも何となくですが、「自由」な中でやってる方が上手くいくような気がするんです。
他人を束縛する事もまたその人(人々)の自由ではありませんか
お礼
そうです。でもあえてそれをしようと決めたんです。本物の「自由」という夢を実現させるために。彼らは束縛の下で生きています。彼らにとっての自由とは、所詮束縛下での自由です。目的が違います。対象はクラブ自体です。人間ではありません。彼らが少しの犠牲を負うことで、クラブ活動が(有限ですが)自由になるのであれば、その犠牲は無駄なものではないと思います。勿論彼らには協力してくれるように頼みますが。
- ji-ji2001
- ベストアンサー率36% (39/106)
本当の自由とは、殺すも自由、盗むも自由、犯すも自由。逆に殺されても文句が言えない世界を言います。 でもお互いが殺さないっていう契約をするから、法律などがあるし、それを守らなければ罰せられる。 まあ上の例は極端ですが、そもそも束縛=規制があるということには意味があります。ちなみに勉強するしないは、束縛のない自由な選択肢ですよ。あなたが勉強しないことで困る人はいないですもの。契約が成立しません。もし困る人がいるとすれば、親くらいでしょうか? 勉強することは、勘違いしているかもしれませんが、将来自由を得るためではありません。特権を得るためです。特権とは、誰もが自由にできないことを、自分だけ自由にする権利です。 地位、結婚相手、お金、時間など・・・誰もが自由にできないものが多数存在します。それを自分だけ自由にするために、人は勉強し、立身出世をはかるのです。 逆に、特権がないものは、相手に不自由を強いられることを覚えていなくてはいけませんね。地位のあるものにこき使われる。時間を制限される。それでも貰えるお金はちょっとだけ・・・。 本来の勉強の意味は、そういうもんだっていうことを覚えていて下さい。 クラブ活動=今を楽しむものではなくて、本来は息抜きとか、趣味のはずなんですが・・・。労力・犠牲ということは、勉強以上に頑張っているわけですね。 それでは、もう一つだけ。将来特権を得るためには、能力が必要です。それは勉強でなくてもかまいません。「頭がいい」ことが重要であって、数学とか物理とかができるってこととは関係ありません。社会に出たら必要ない情報かもしれないですしね。 クラブ活動でしかできない勉強というものもたくさんあります。それは集団というものだったり、リーダーシップであったり、独創性であったり、マネジメントだったり・・・。そういうことができる方が、社会では有利だと自分は思います。 選択するのはあなた自身の自由です。頑張って下さい。
- corpus
- ベストアンサー率12% (25/200)
自由を選択すべきか束縛を選択すべきかということはある意味でその判断については「自由」ですよね。だから、すでにあなたはある意味で「自由」なのです。だから、本来このような問いは発生しないはずです。 しかし、自由は必ず何かからの自由であり、束縛は必ず何かからの束縛であるはずです。何ものからでもない完全な自由は、また完全な束縛は、考えるのが難しいです。自由というものに束縛されているということになりませんかね。自由を選ぶ自由、さらにそれを選ぶ自由…。どこまでも続いていきます。
- kneissl
- ベストアンサー率30% (97/320)
質問者さんの質問がわかりづらかったんですが、要は今クラブが楽しくてそれに没頭したいが、将来のために勉強をするべきで、そのためにどちらを選択するべきかどうかということですよね?そして、あなたがここで言っている「自由」と「束縛」は、「現在、クラブを満喫すること」と「将来のために、多少の不本意も受け入れながら勉強をすること」とに、それぞれ表象される、と。そういう解釈で間違っていないでしょうか? 私は、これまでの世界というのは、字義どおりワールドでありますが、「束縛」の世界であったと思います。そして現在もまだまだ「束縛」の社会です。「自由」など、まだまだ存在していないと思うのが実感です。 確かに封建社会や前近代的な「束縛」というのは免れました。資本主義社会となって、民主主義となり、表向きは非常に「自由」な社会です。そして、ある意味では相対的にはやはり「自由」ではあるのです。しかし、真なる「自由」というものを考えた場合、個人と集団というのは対立しますから、必ずしも個人に「自由」が行き渡るということはありません。ですから、真なる「自由」を求めることは事実上は不可能で、我々は真なる「自由」の最高点の近似値を求める以外にはないのです。だからと言って、現代はその近似値にはおよそ及ばないぐらいまだまだ「不自由」な世界だと思います。私は、もっともっと「自由」になれるのではないか、もっと「自由」を志向してもよいのではないか、とりわけ、思想の「自由」、我々が抱いている既成概念の解体がまず個人の「自由」の追求には最重要課題であって、そこからはじめる必要性を感じます。ただ、リスクもすごくあるのはわかっていただけると思います。アメリカなどが好例だと思います。 さて、このたびの質問ですが、「束縛」に甘んじてその中で上手にやっていくというのは、もちろん現代の我々にも求められていることですけれども、ずーっと有史以来人間がやってきたことだと思われます。与えられた環境でどうやって上手にやっていくのか、それがこれまでと現代の我々に課された役務であって、そして暫くの間はこのことが個人の幸福感をどれだけ満足させるかに繋がっていくのだと思います。しかし、私が先ほど述べた通り、もっと「自由」を志向してもよいと思います。あるいは、もうこれからは目指すべきはそこ以外にはないのではないかと思います。「自由」によって得られるものは曖昧でよくわからないとおっしゃっておりますが、「自由」そのものが得るべきものです。「自由」からなにかを得るんではありません。「自由」自体が個々人の幸福において、価値あるべきものだと思います。今回の質問においては、「自由」「束縛」のレベルで話すのは、あまりにも次元が低いように感じました。「クラブ」か「勉強」はあなたの嗜好で選択するべきことであって、それこそあなたがやりたい方をやればいいだけであって、「自由」「束縛」のレベルではありません。「クラブ」をして将来不安定になったり、後悔したり、「勉強」をして後々遊んどけばよかったと思うのはリスクの話ですから、どちらにしてもリスクは伴うと思います。どっちがしたいか、後悔しないかだけ考えて、選択すればいい、それだけの話です。
補足
親切なご指導有難うございます。この質問を書いてる自分でさえも解釈に困るような文章でした。お詫びと補足をします。具体的な話なんですが、今、クラブ活動(科学クラブです)で大きな動きがありまして、今までの「適当にやってりゃいいよ、それこそシャーペン投げとか消しゴム当てとか」という方針から、「もっと気合い入れろ!科学クラブなんだったら、自分のオリジナルの実験研究をしたりとか、文化祭ではこう、お客に楽しんでもらえるように参加型のものをしたりとか(まあ、すでにここで束縛が起こっているわけですが)」という方向に変わってきているんです。で、何よりもその動かせた張本人というのが僕なんです。顧問とか周辺の人は喜んでいるんですけど、それは勉強と同じように「進歩した」から喜んでいるわけで、さらにそこに、多数の新入生が入ってきて(ちなみに、クラブでは根底からのオリジナルを目指しているので、大人数では問題も起こりやすく、またある程度の束縛をしなければ必ず崩壊すると思われます。)、少人数だからこその動きやすさ、楽しさ、一体感の様なものが失われかけている今、組織化を選ぶか、あえて部員を分離か削減して自由を取り戻すか、自由を選びたい僕にとっては非常にキツイ選択をせまられているんです。もちろんそれは、離される人にとっては束縛以外の何物でもありませんが。自由の犠牲とか、労力というのはこういうことを言っているんです。そのうち放ってりゃ組織化が起こって、また元のように自由奔放なクラブに戻るんですが、それを自然の流れでなく人為的に止めたいんです。言ってみれば僕自身がこのクラブの自由を守りたいが為に、活動の効率や他の部員を犠牲にしてしまう羽目になるんです。でもこれをしないと、必ず組織化されてしまって、それこそ独創性の「ど」の字も無くなってしまいかねません。くどくどと述べてすみませんが、何かアドバイスをもらえませんか。
- lightgrid
- ベストアンサー率26% (11/42)
「自由」と「束縛」の関係については、質問者様の定義でよいと思いますが、何を「束縛」とし何を「自由」とするかは、個々人によって、またそれらの言葉を用いる文脈によって、違うのではないでしょうか。 質問者様は、「束縛」により進歩が得られるとお書きになっています。では、その場合の「自由」により何が得られるとお考えでしょうか? 進歩と対比させると、停滞」または「後退」でしょうか? そうだとすると、進歩」が良いに違いありません。 なぜなら、霊長類である人間は、本来的に霊的・精神的・文化的な進化を得るために生きているのですから。 しかし、勉強が「束縛」であり進歩を生じるものと考え、クラブ活動が「自由」であり停滞を生じるという考え方は、間違っていると思います。クラブ活動によって知識見識が広がり新しい将来への道が開けることもありますし、本人に向かない(適正のない)勉強によって、また下手な勉強のしかたによって、結果的に何も得られないこともあります(どのような場合に努力しても何も得られないかという教訓は残るでしょうが・・・)。また、達成感とは、本人が立てた目標が達成されたときに得られるものであって、クラブ活動においても目標を持って活動していれば当然得られるでしょう。また、自分にクラブ活動を課すことによって、また、クラブ活動において何らかの目標を立てることによって、それが「束縛」と感じたり「自由」と感じたりすることもあるでしょう。要は、何でもやりかたしだいです。 それでは、根本的な問題として、人間にとっての「自由」と「束縛」とは何でしょうか? 人間にとって「束縛」と感じるのは、「こうしたい」とか「こうありたい」といった「願望」や「目標」が実現できないまたは達成できない状態であると思います。従って、最も大きな「束縛」は、その「願望」や「目標」を妨げるところの、本人も気付かない潜在意識(心理学でいうところのコンプレックス、または仏教で言うところの悪い「因縁」または悪いカルマ)です。 「自由」とは「束縛」のない状態で、「願望」が直ぐにまたはいずれ実現できる状態です。ですから、自由であるかどうかは、質問者様が人生においてどのような実現可能な、善き「願望」や「目標」をお持ちかによる、のではないでしょうか。その「願望」や「目標」が実現できない状態やその実現・達成を妨げるものこそが「束縛」であり潜在意識(または個人の悪い「因縁」や「運」)なのです。例えば、クラブ活動で享楽的に生きたいとする欲望や誘惑が、人生の「願望」や「目標」を達成するための行動の妨げになるとしたら、それこそが質問者様の本当の「束縛」なのではいでしょうか。その妨げとなる欲望や誘惑を振り払って、人生の「願望」や「目標」に向かって邁進できることこそが本当の「自由」なのではないでしょうか。現在における善き目標への努力は、過去の意味付けも未来も変えることができ、即ち、現在だけでなく過去、未来の自己をも自由にします。 人間の運命学的観点からすると、人の運命を左右するものとして、人には、人間社会において「自分が選ぶ自由」と「他人に選ばれる自由」しかありません。個々人には、与えられた能力、適正、環境、宿命がありますので、自分に最も適したもの(例えば、職業、結婚相手、同僚、生きがい)を選ぶ能力を身に付けることが、「真の自由」への鍵です。従って、そのための努力を続けることが必要です。最初に選んだものが間違っていた場合は、後で修正すればよいだけです。真剣に選んで努力した結果が間違っていたとしても、それは後で絶対に役に立ちます(失敗は成功のもとです)。また、自分が選んでも、相手に選ばれなければ、自分が選んだものを実現することはできません。そのためには、相手に選ばれる資質を身につけることが、「自由」への鍵です。従って、善行をなし、人間を磨き、人格を高めなければ、相手に選んでもらえません。 もちろん、願望や目標の実現、また人格形成には、娯楽も必要でしょうが、その場合でも、悪い欲望や、感情や、因縁(物欲、食欲、支配欲、性欲、嫉妬心、怒り、怠惰)に支配されて(即ち、これらの悪い束縛を受けて)はいけません。 あらゆる体験の中から「良い束縛や自由」を得るか、「悪い束縛や自由」を得るかは質問者様しだいです。 より善き未来を実現するための自由を、よく吟味して選び取って下さい。
補足
まず一つ目ですが、「束縛がもたらす進歩は喜んで受け入れるべきである、自由がその正反対であるなら、それは推奨されるべきではない。」 これに対する答えですが、何かの動作によってでも、何かの信念によってでも、得られるものがあるとするならば、反対のものはそれと同じだけ何かを得ています。目に見えて得るものが仮に自分にとって困るものでも、精神やその他目に見えない部分で何かを得られます。この場合、束縛は進歩をもたらします。しかし、自由が逆に目に見えて何ももたらさなくても、どこかで何かを得ています。僕はそれを知りません。だからこそ「自由」を経験してみたいんです。自分の頭で分からなかったものを、実際に感じてみたいんです。人生を賭すのは大きすぎます。でも趣味や遊びとしてやっているクラブ活動はどうでしょうか。僕やクラブの友人はあと3年以内にやめるでしょう。ですがクラブは学校がある限り存在し続けます。自己中心限りなし、と思われるかもしれませんが、まあ確かにそうでしょう。でも協力し、犠牲を払うことで彼らも何かを得られます。何かを得て、その恩恵に喜ぶと、それと同じだけ何かを犠牲にしています。何も得るものが無いと思っているものでも、それに時間を費やし労力を費やせば、絶対に何かを得ています。日常生活で、勉強とか、将来とか、そういうものを目指しているものにとって、その「何か」を得ることは、僕は大切なことだと思います(と言っても、それが何かは分からないんですが)。勿論、彼らにも協力してくれるように頼んでみます。 二つ目に、霊長類の話。 人類は子孫繁栄を目的として栄えましたが、今はその概念は省いたほうが良いかと思います。なぜなら、思い上がりかもしれませんが、人類はもうその段階を殆ど通り過ぎ、意思や感情、理性で、人間関係の向上に向けて努力しているのではないでしょうか。 三つ目に、願望・目的の話。 、願望や目的は大切ですが、でもある意味それは「束縛」下での「自由」ではないでしょうか。つまり、色々な知識を得ることで考えることができるもの、程度は抜きにして「束縛」から得られるものです。そうではなくて、(ホント嫌になるんですが)僕は自由によって得られる物が分かりませんが、「束縛」の正反対であるなら、知識やその他目に見える(と言うより頭で分かる)ものなどではなく、もっと、現代の人々に忘れ去された何か精神的なものが、生きていくにはある程度必要ではないかと思うんです。願望や目的を得るには、むしろ範囲の限られたこのようなクラブ以外にもたくさんあるし、勉強や本を読んで得るほうが、その方が「効率は」良いのではないでしょうか。こんな小さすぎるものを直させる(?)ことは重要ではないと思います。 四つ目に、最後の一節ですが、 「良い」「悪い」は見方の問題でどうとも変わるものです。それは、単に「束縛」の問題で、それを理解することこそがだと思います。なぜなら、「能力を得る、犠牲にそれが大きければ大きいほどストレスがかかる」ものと、「精神的な支えを得られる、犠牲に能力が得られない」というものとの均衡を保つ、限度を超えないように保つことが、いってみればこの社会です。「束縛」そのものです。大事なのは、その切り替えです。いつ、その「能力」「精神」のスイッチを入れ替えるか、それだと思います。 だらだらと長く(しかも結構反抗的に)書いてしまいました。すみません。反省してます。でも、こんなに長い返答を頂いて、とても感謝しています。有難うございました。
自由を優先すべきと私は思います。 自分の好きなこと、自信を持っていることをするのが「自由」だと思います。 それは才能とも能力とも言えて、誰しも何かしらハマるものってあると思います。「特にないが将来楽をしたいから勉強する」というのは結局自由から逃走していることになります。 才能が見つかれば、自然に目的も備わってしまうものですから、才能が高まれば高まるほど目標も高くなるし、才能を発揮するほど、自分の才能の至らなさを深遠に研究していけるものだと思います。 自信のある人ほど謙虚にならざるを得ないものだと思います。自信がないほど虚勢を張る、の反対ですね。 自信は後から着いて来ることも多いですが、好きなことなら犠牲になっても結果で不自由だとか苦痛とか思わないですよ。 「自由とは能力の渇き」 「自由とは目的からの逃走」 「自由とは執着そのものである」 そして「自由とは無料(Free)である」 自由の報酬は自由以外にないのが難ですが;。
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補足
もしかしたら分かっておられるかもしれませんが、(そうだとすれば失礼ですが、)僕の言う「束縛」は、単純に縛られるという悪い意味で言っているのではなくて、能力を得るために必要な過程(状況)であるという意味で使っています。ですから、勉強を束縛と感じる云々は(、僕の話の上では余り関係ありませんが)それによって得ることができる能力、または精神的な支え(経験?)を目的として行っているからであると思います。僕の話は確かに人生相談のようなものかもしれませんが、本人は一応、具体的な内容を混ぜての哲学質問としてみているつもりです。ですから、僕は「理性」で書いています。「感情」はたぶんどこにも書いていません。でもやっぱりあれですね、哲学的なことって、自分の言いたい言葉と相手の解釈する言葉って違うんですね。書くのに結構苦労しました。2度の返答有難うございます。