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ら抜き言葉の始まり
私は山口県の田舎に住んでいます。 数年前に亡くした島根出身の祖母は「ら抜き言葉」を使っていました。 例えば「そないしちょったら奥の方<<見れん>>じゃろーて」や、 「先生が<<来れん>>言うちょっちゃったが、どねぇしよう」などと言っていました。 その祖母を筆頭に私の周りにはかなり高齢でら抜き言葉を使う人が何人もいます。 そこで質問なのですが、ら抜き言葉はいつ頃から使われるようになったのでしょうか。 それによって、ら抜き言葉の印象というものも変わってくると思います。 もう本人には聞くこともできませんが気になります、教えてください。 ちなみに祖母は40年前まで5年間、東京に住んでいたそうです。
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>「来れん」のことなのですが、 >抜け落ちるとしたら可能の「られる」の「ら」ではないかとおもわれますが、 「来れん」が「来られん」の「ら抜き」であるとしたら、「来られん」が本来あるべき姿ですが、 「来れん」が可能動詞(来れる)として正しければ、「ら」を付けることは尊敬の助動詞をつけることになる、ということを言いたかったわけです。 この場所に付いたり付かなかったする「ら」は、尊敬の助動詞であって、「ら抜き」ではないのでは、という意見です。ちょっとくどくなってますが。^^;) >それが早くから始まった地域がある 方言が、その地域で始まったかは、詳しく調べてもわからないことがありますね。たとえば、古い日本語が、比較的、都から遠方で保存されるという例もあります。 どこかで始まった変化が、どこかで言葉に定着して、どこかで残った、としかいえないですね。
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- Sasabuki
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「ら抜き言葉」は、 可能を表す場合にだけ現れるという特徴があります。 (これは重要) 結論からいうと、「ら抜き言葉」と言われながら、 「られる」という助動詞の「ら」が省略された形ではないのです。 もし、「られる」から「ら」が省かれるような変化がおきるのなら、「義父にあられもない姿を『見られる』」など のように、受身とか尊敬の意味のときの「られる」にも同じルールが働いて、『ら』が抜けていく変化が起こるはずなのに、そういうことは起こりません。 「ら抜き」が起きるのは、一段活用動詞や、カ変(来る)のときに限ります。五段動詞にはなぜ「ら抜き」がないのか。 五段活用動詞には、「可能動詞」という別の変化が起こっているからです。 「歩く」⇒「歩ける」「読む」⇒「読める」 このように下一段活用動詞になることで 可能動詞といわれる動詞になります。 この「可能動詞」は、室町時代ころに生まれたと言われ 現在では完全に定着しています。 この「可能動詞」の流れを五段動詞だけでなくて、一段動詞にも持ち込んだのが、「ら抜き言葉」の発生原因なのです。 「歩く」⇒「歩ける」、「読む」⇒「読める」の語形からの 類推から「見る」⇒「見れる」、「来る」⇒「来れる」 が生まれたわけです。 「み」+「れる」ではなく、「みれる」という可能動詞だと考えることもできるでしょう。 「可能動詞」も「ら抜き言葉」も、長い間日本語を使っているうちに機能的に求められて生まれた変化で、日本語が崩れているわけではないと思います。 「れる・られる」だけで「尊敬・受身・自発・可能」などを表していたのでは、意思伝達に支障が出ることがあり、「可能」ぐらいは、はっきりさせたいという動機から生まれた歴史的変化なのです。 一応、「ら抜き言葉」は現代になっておこったものとして取り扱われるようですが、もともと、日本語自体のうちに潜在的にもっている変化なのだと思います。ですから、自然とこういう語形に落ち着いていったために、各地で、「ら抜き言葉」が古くから使われていたという現象が生じるのではないかと思います。 質問の内容と合っているかわかりませんが、 これもまた、「ら抜き言葉」の印象を変える情報ではないあかなぁと思います^^
お礼
ありがとうございます。 可能動詞ができたのは室町の昔だったのですね。驚きました。 これで、さっきまでのら抜き言葉が「ら」抜きか可能動詞化か の疑問が解けました。
- kaitaradou
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文法用語に可能動詞という言葉があったと思いますが、何かご質問と関係はないでしょうか。「走られる」ではなくて「走れる」という言葉は可能動詞ではなかったかと思います。これはいわゆるら抜きのものではないと思うのですが・・・。
お礼
ありがとうございます。 確かに、 「見れる」が「見られる」の「ら」を抜いた結果なのか、 「見える」、「聞こえる」、の同族なのかと言う2通りの 考え方ができますね。
- hakobulu
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根拠はありませんが、いわゆる「ら抜き」言葉は「[ら]が抜かれた」のではなく、「[れ]に同化された」のではないかと思います。 発音の便宜上です。 「え音」は、舌の構造上、もっとも発音しやすくなっているような気がします。 そのため、他の音に「つい」とって替わってしまうのではないでしょうか。 ・見(ら)れん→見(れ)れん→見れん ・来(ら)れん→来(れ)れん→来れん 他では、 ・見(させ)て→見(せ)て ・い(たい)→い(てえ) ・う(まい)→う(めえ) ・こ(わい)→こ(ええ)など。 つまり、全く当て推量ですが、「楽な発音を求めた結果」だと思うので、昔からあったし、この先も無くならないような気がします。
お礼
確かに、早口にすると「見られる」とか「来られる」は舌がついて行かなくなります。 「見れる」「来れる」の方が断然言いやすく感じます。 なるほどな回答ありがとうございました。
- cubics
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No.1 さんのおっしゃるように、これは方言ですから、「ら抜きでない日本語があって、ある時点でら抜きが始まった証拠」ではないですね。 方言の共通化というよりも、ら抜きは言葉のゆれの結果で、それが方言の中には古くから定着したものもあり、現代では、共通語の中でも、かなり生じているわけですね。 「来れん」は、一般のら抜きではなくて、尊敬などの助動詞が抜けているだけのようにも見えますね。「来る-来れる」という可能動詞化は、「来る-来られる」だけではないと思います。
お礼
ありがとうございます。 「ら抜き」は必然的な変化のようなもので、 それが早くから始まった地域がある、と言うことでしょうか。 「来れん」のことなのですが、 「言うちょっちゃった」は「言っておられた」の意味で 尊敬の助動詞が抜けているとしたら二重尊敬になってしまいます。 抜け落ちるとしたら可能の「られる」の「ら」ではないかとおもわれますが、 そうなると本当に可能動詞化でなく「ら」が抜けていることになります。 地域によってら抜き言葉のでき方も違うと言うことなのでしょうか。
- anzunomamasan
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ら抜き言葉ですが、私は、方言の共通語化ではないかと思っています。 私の友人は、富山県の出身で、ら抜き言葉を指摘された時、「田舎では、皆こうしゃべっていたよ」と言っておりました。 本来、共通語(標準語)は、明治時代に、東京の、山の手の武家言葉を基にして作られた物だと言う事ですので、方言としての、ら抜き言葉のほうが先にあったのではないでしょうか。
お礼
回答していただいてありがとうございます。 ずっと前からら抜き言葉は方言として存在していたということなのですね。 それが最近になって共通語圏で使われるようになったと。
お礼
今回質問をさせていただいて、 言葉の変化というものはただ時系列的なものだけでなく、様々な地域で色々な変化が起こっている、と言うことを学ぶことができました。 ただいつ頃からかな、と気になって質問をしたのですが、そう安易に体型づけられるようなものではないのですね。奥の深さを思い知らされました。 回答者の皆様には様々なお答えをいただきました。 ありがとうございました。