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応仁の乱の原因
kougakubuの回答
はじめまして。(kougakubu)工学部です。 応仁の乱;室町幕府の3代将軍足利義満の死後、しだいに幕府の権力は 守護大名に移っていく。中でも大きな勢力を持つ細川氏と山名氏は、幕 府の実権を争っていた。 8代将軍義政のとき、将軍と管領(かんれい)の跡継ぎをめぐり、細川 勝元と山名持豊(宗全)が対立し、1467(応仁元)年、【応仁の乱】が始ま った。全国の武士が細川の東軍と、山名の西軍に分かれ、京都をおもな 戦場として、11年間も戦いが続いた。その結果、京都は荒れ果て、大半 が焼け野原になってしまった。 ・・・です^^ 参考文献;「新しい歴史教科書」2001.6.10 初版 著作者 西尾幹二ほか13名より。
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お礼
いろいろと詳しく教えてくれてありがとございます。 え~っとこれは、宿題でした。(笑) 凄い助かりました。これで明日はあてられてもOKっす。