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魏志倭人伝の頃の方角の計り方
カテを間違えたので再投稿です。 魏志倭人伝に関してなんですが、 現在比定されている末盧国から不弥国までの道を辿ると、倭人伝では「東南か東」方向ですが、実際には「ほぼ北東か東」方面に進んでいるように見えます。 そこで、どうやって方角を計っていたんだろうかと疑問に思いました。 「太陽の昇る位置は、真東よりも45度北よりだった」 「中国では古くから磁石が南北を指すことがわかっていた」 というのは聞いたことがあります。 海を渡って来たのなら羅針盤、夜なら北極星の位置なんかもあったのかな、と思うのですが、どうなんでしょうか? この時代の中国は何によって方角を計っていたのか、教えてください。
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魏志倭人伝は有名な邪馬台国論争の原因ともなってる書物ですね。末盧国から不弥国にいたる方向に限らず、方角は、おおよそで書かれています。そもそも邪馬台国の位置に関する記述は、当時日本(倭)遠征を考えていた中国皇帝(もちろん魏志が書かれた時ですから、晋朝)に、遠征をやめさせようとして帯方郡の役人が誇張して書いた記述なので、不正確であると言えます。なので、方角の多少のずれは問題ではないと思います。また羅針盤は、実用化されてきたのが宋の頃からです。
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- tokioyasubay
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そもそも、世界の中心にいる人たちが、東夷(あずまえびす)つまり野蛮人のことを、いろいろな関係者からの聞き伝えで書き留めたものであることを認識する必要があります。 当時も星で正確に方位を計測する技術をもっていましたが、正確な地図もなく、また、海を渡って旅行に行くためのガイドブックでもないわけですから、記載してある方角は、まあ、こんなところというような不正確なものであると考えたほうがよいわけです。
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回答ありがとうございます。 伝聞形式なら、多少の食い違いがでてくるのも頷けます。 当時、使節以外にも倭を訪れた人がいたってことでしょうか。
- at9_am
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この当時の、方角の記述、および距離の記述はあまり当てにならないということを知っておくべきでしょう。 というのも、その出身地から真っ直ぐな方角を知ることはできませんし、距離に関しても三角測量法などありませんので「大体この辺り」という推測から距離と方角を求めています。 したがって、本文の「東南か東」という記述も、その方面から来たという程度で納めれば良いかと思います。 この時代の中国は天文や羅針盤を用いて方角を知っていたかも知れませんが、例え知っていたとしても、他国の位置を正確に計る必要がなかったので用いられなかった、という理解で良いのではないのでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。 大体の距離・方向感覚で記したのなら、邪馬台国を訪れたわけではない、という可能性もあるんですね。 実際に赴くならそれなりに正確な方角を……と思ってしまうのは、私が現代に生きているからかもしれませんが。
お礼
回答ありがとうございます。 羅針盤は宋の頃からなんですか~。 かなり後にならないと実用されないんですね。