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なぜ人間の3大欲の(性)がないがしろにされる?
人間には基本的な欲求があると思うのですが、「食欲」「性欲」「睡眠欲」という風に定義するのは少々疑問ですが、これが無くなったら生物としての人間がなくなってしまうという基本的な欲求で「性欲」があまりにもないがしろにされていませんか。ないがしろという言葉が適切でないとしたら、日陰に追いやられているということです。 これが人間社会に暗い影を落としている気がしてなりません。 「食欲」にかんしては、いやというほどマスコミに取り上げられて、商売道具と化しています。ものすごい日があたっているといってもいい。ところが一方の「性欲」にかんして、絶対なくすことはできないものなのに、くさいものにふたのようにおいやられている。ゆがんだ形では売り物になっていますが、そのベースの陰湿感と言うのは、ものすごく深く根付いてしまっています。 その結果、性を売り物にする地下組織とはいかないまでも、陰湿な商売がはびこります。需要が絶えませんから。 本来堂々としていいものでしょう?日のあたる場にやれば、この分野の社会的な問題も解消していくのではないでしょうか。 なぜ、性をはにかむのか、なぜ余計な文化的な心理操作がいるのか。 原始人には羞恥心があったでしょうか?おそらく、現代人よりよっぽど奔放屈託の無い意識で生活していたと思います。それは、現代でも見直すべき過大なのではと愚考したしだいですが、みなさんのお考えなど伺えたらと思い立ちました。 長文駄文失礼しました。
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人生と本能について: まず、先に、整理したことを述べますと、 現代の日本というのは、ちょうど、本能の復古が顕著に進んでいる時代だということです。 それを、まさにこうした知識データベースでも良いですが、いろいろなメディアで最適な人生のステレオタイプを、本能を否定せずに、人間の本性を認めた上で議論・模索していった先に、 本当の満足感のある人生の方向性がおぼろげながら見えてくるのだと思います。 以下、ポイント。 1.なぜ、(高級っぽい?)知性や感性が重視されてきたか?: 大体、我々の議論で明らかになったことを整理すると、 人生の目標というのは、最も簡単に述べれば、結局は本能を満足させることだと言えるのでしょう。 なんだか、論壇といっては大げさでしょうけど、家族でも、どんなプチ社会でも、発言が元気な人が、なにか似非知性の人なのか、もしくは本当に知的好奇心という本能がかなり強い人だからだか分りませんが、この人たちの発言に社会が支配されてきたせいで、つい最近までは、人間の本性というのは、どこかマズローの「低次欲求」よりも、高次欲求のところにあるべきだ(?)みたいな感覚に社会が支配されてきたでしょう。本格的に、こうした感覚から解き放たれていたのは、唯識思想の一部(例えば、Balsekar さんの著作などに見られるようなインド哲学の一派)くらいでしょう。良い学歴と良い就職と良い結婚の意義などはあまり考えず、それでも、セックス自体が好きだというよりは、良い結婚の方が高級だ(?)というような暗黙のイメージがあったでしょう。 2.本能との付き合い方の歴史の概観: この辺は、おそらく、まさにご質問当初の問題意識、すなわち、原始時代の人間のほうが、本能に素直だったのではないか?という視点が適切だと思います。おそらく、もともとの人間は、比較的本能に素直だったでしょう。もちろん、知性は使います。それは、生存、すなわち、当時の生活において本能を最適に満たすことに関して、知性が道具として役立つからです。しかし、「人生とはなんぞや?」みたいないらぬ問いを発する人はあまりいなかったでしょうね。素直にやるべきことをやって、その結果を楽しめばよかったと思います。 おそらく、複雑な分業化社会の出現と、仕事のウエイトの多様化ゆえでしょうけど、とりあえず、少なくとも多くの基本的な本能に関しては、苦労しなくても満たせるような人たちが現れてきたわけです。こうした人たちは、ある意味可哀想な人たちで、本能を満たすというベーシックな人生のタスクが奪われてしまっているせいで、より高級(?)なタスクを一生懸命探すことになったんですね。で、それが、これまた人間特有ともいえる親和欲求と複雑に絡みあって、エリートカルチャーとして、共同体的圧力となっていく。貴族は、折角現在金持ちなのに、自らものほほんと暮らさずに、一生懸命権力・権威闘争、文化のたしなみに明け暮れるのみならず、子供にさえ、やはり貴族として成功するべく、一定の生き方を押し付ける。 現代大衆社会というのは、少なくとも若い世代に関して言うと、かなりの割合が選択の自由の幅が大きい。とりわけ、これも「現代」の一つの特徴と言われることもあると思いますが、仕事の高度化と少子化などが並行しておこったことにより、社会が子供に「役立つ」役割を与えなくなった。子供は子供として扱われ、遊ぶことのほかは、ひたすらすごく遠い将来に回収可能な人的資本への投資だけ求められる。結局、従来の人類が、一応、本能を満たすための知性ということで、知性の位置づけが自己完結していたのに対して、今日、人生のキャリアパスと、現在の本能との関連性が見えない不幸な大人や子供が多いのです。 この辺は、より詳しい事情は、 http://plus.naver.co.jp/browse/db_detail.php?dir_id=11&docid=28605 に書きましたので、もしよろしかったら、読んでみてください。 3.よく分らない不安としての現状否定の知性: おそらく、貴族と現代の豊かな大衆との決定的な違いは、とりわけ次世代の生き方の自由度だと思います。貴族の場合は、親が子供のあるべきステレオタイプをいろいろこと細かく指定したでしょう。現代の子供というのは、おそらく親が比較的広い範囲、しかしそれは考えられる選択肢全体からすると結構狭い範囲、での子供の生き方のあり方を望むのだと思われます。親の多くは、子供の成績などは気にするかもしれませんが、仕事の内容や大学進学後の研究内容などにはそれほど高い関心はないでしょう。直感的に、あまりにせつな的で(知的欲求以外の)本能ばかり追求するような生き方は否定する、つまり遊んでばかりいると注意したりする。しかし、逆に、多くの親は、子供が人生とは何ぞや?と問いかけると、なんでそんな難しい無意味な哲学的問いを発するのか?と切り捨てるでしょう。結局、知性の重要な役割は、本能の抑制であり、キャリアパスにしても、階級意識的なところが大きく作用し、このレベルの学校、就職先、結婚相手はダメだというような否定から出発するところが大きかったのではないかと思います。で、そのように、否定で逃げてしまえば、「知性の行き先が結局は本能ジャン!」というような突込みからも、回避することができて、いつまでたっても、究極の幸福に到達しないけど、逆に漠然と自分の生き方は知的だ!という逃げ道が作れたようなところがあると思います。団塊の世代がすごく仕事に打ち込んできたのは、このように人生と正面から向き合うことを避けてきたようなところもある程度はあるのではないかと思います。もちろん、住宅ローンや子供の学資もありますけどね!ま、これも間接的には逃げですけど。 4.本能の肯定: 実は、ご質問の中の「食欲の商品化」というのが、すごく象徴的である気がします。実は、つい最近まで、現在ほど食べ物系の番組はなかったでしょう。また、とりわけラーメンなどの B 級グルメがすごく肯定的に扱われるということもなかったと思います。その意味では、今日の日本というのは、おそらく高級フランス料理より、ラーメンのほうが美味しいと普通に言える時代になりつつあるのだと思います。 これと同時に観察される現象が、消費の多様化でしょう。これまでは、三種の神器や住宅のように、なにか画一的な消費で、とりわけ男性は知的資源のかなりの割合を仕事ばかりに割いていたと思います。これからの日本は、消費のほうにも相当の知的資源を配分することになるでしょう。 ヨーロッパは、消費先進国で、かなりこっち方面では日本に先んじているでしょう。所得では追いつき、追い越した感もありますが、ライフスタイルの追求という側面では、まだまだ彼らのほうが先輩であるような感じがします。ただ、彼らは彼らで、ある意味、過剰な消費で疲労しているようなところもないわけでもありません。彼らは長いホリデーをとりますが、そこではなにかすごい旅行をしなければならないというような先入観があったりと。 ま、いろいろ言いましたが、かつては、食欲でさえも、「くさいもの」であり、蓋をしていたのではないかと思うのですよ。これからは、冷静に、日本人や日本社会が自分の本姓と正面から向き合い、「知性(?)」に逃げないで、真の心の豊かさを追求していく時代になっていくのでしょう。 なんだか、もともとのご質問から、相当程度議論が壮大になってしまって、その責任の一端が私にあることをお詫びします。
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- decidrophob
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社会規範と個人: 重要なことを言い忘れてましたが、 個人の後ろめたさと社会の後ろめたさには、 当然関係がありますが、 逆に完全に一致する必然性はどこにもありません。 社会的言説に、個人の価値観もどうしても引きずられてしまう傾向にあるでしょうけど、確固たる自己認識ができていれば、自分独自の価値観を自信を持って貫くことができます。 社会的規範は、あくまでも、他者に迷惑をかけない、限定合理性から子供などを保護してあげる、などなどの「社会的目的」から生成されるわけなので、 個人の後ろめたさの問題と全く独立に議論していく必要があります。 似たような問題は、一般に法制定などにも表れると思います。 詳しい事情は、殺人というテーマに関して、 http://plus.naver.co.jp/browse/db_detail.php?dir_id=11&docid=28231 で説明しました。
お礼
たいへん長大なご回答、ありがとうございます。 まだ読んでいないのですが。 読ませていただいてから、また感想を書きたいと思います。 とりあえず、前回のご回答の時から頭に浮かんだことを書いてみます。 結局「人生と性」たいへん並行的に流れているものだと認識したしだいです。人間の本能が満足する形というのが、やはり一般にいう「勉強し、働き、結婚して子を作る」というような月並みな動きでしかないように思われます。人間の社会性が必然的にそういう方面に引っ張っていくのかなと。 最後に結び付けようと思いますが、好きな女性ってどういう人だろうと考えて見ますと、「性的魅力がある、人としての魅力がある」ということのトータルで決まっているんだなと感じます。で、これは私の社会性の本能を象徴しているのかなと。精神的にも肉体的にも親和感がある存在と一緒になりたいという欲求からきているみたいだと、当たり前といえば当たり前のことに思い当たりました。 たとえば、誰かに相談事をされるとして、こういってはなんですが、中年のおばさんからと若くて性的魅力ある女性からされるので、聞き方が違ってきてしまうということです。そこに性交の報酬があるとか期待があることが、あさましくも心の奥のほうに起こっているわけです。これを逆に取れば、なにか情報をいっぱい持っていて、私に気のありそうなしかし私は気のない女性を利用することもできるのだろうなと。 また、同じくらい性的魅力を感じても、人間的にあう女性あわない女性だったら、性交したくなる強さがずいぶん違うだろうということです。 だから、人間肉体的なぬくもりも精神的なぬくもりも、総合的に求めるものだなーと感じまして、つまりこれが人生なのかなと。 とりとめもありませんが
- decidrophob
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人間の本性(?)について: (要約) ご質問の中の当初のアプローチは、人間の本性に立ち返るべきではないか?というものでした。 そして、そのアプローチにそって、私は最初の回答を作成しました。 しかし、今日では、その「人間の本性」が極めて微妙な概念になってきています。 結局は、各個人が、主体的に、「自分の肉体と精神のハードウェアの特徴をふまえた上」で、どうするべきか?を判断していくしかないし、それが望ましく思えます。 +++++++++++++++++ 論理的にあまり流れを成していない文章ですが、了承ください。 西田利貞著「人間性はどこから来たか」 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4876980799/qid=1115601491/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/249-9409959-2820330 にすごくわかりやすく書かれていますが、 ヒトという動物は、かなり、本能を抽出して満たす能力に優れています。 すごく単純な例では、まさしくご質問の中の食欲。最近、食欲が、スローフードなどという形でもかなり注目されているでしょう。 しかし、人間は、なまじ、自分の欲望を満たす能力に優れているため、例えば、食物で言えば、必要栄養価をはるかに上回るメニューを安価に手に入れることができる。 そこで、飢餓の時代にも対応できるように発達した食欲という本能にまかせて食事をしていると、きわめて多くのアメリカ人がそうであるように、肥満への道を一直線ということになるわけです。 このことを一般的な言葉で述べると、以下のようなことになります。どういう順序で書くのが最適か分りませんが。 まず、本能とは、もともとは、それらを満たすように行動すると、生存に有利なように発達します。で、そうした本能が複数あって、しかも、短期と長期を調整する必要性から、知性も生じる。 人間の知性は、その個体レベルでもすごいし、さらに分業化社会で他者を利用できることによる圧倒的能力から、本能を、その本来の機能と分離して、満足させる術を獲得していったのです。食欲の例で言えば、人口甘味料のキシリトールで甘みを欲する欲求を満足させたり、性欲で言えば、マスターベーションが偉大(?)な発明です。 そうすると、皮肉なことに、ますます、整合的な本能の満足化という課題が困難になっていく。人間の大脳新皮質が肥大化した理由は、この後者の問題に対処するところもすごく大きかったのかもしれない。つまりは、自分で作ってしまった複雑な問題に対処するために、知性が発達するという一人相撲。象徴的な例は、上記で言えば成人病です。最近の日本のテレビ番組は、食欲と共に、異常なまでに健康系がクローズアップされている。で、おそらくそこで扱われる病気の大半は、人間が自分で引き起こした成人病でしょう。 結局、前回の回答の4.で述べましたが、本能については、十分にこれを理解し、統御しないと、人間の場合はピンチに陥る危険性すらある。そこで、日本で、食欲と健康がともにブームになっているのは、おそらく意識してのことではないでしょうけど、結果的には相当賢いのでしょう。肥満大国アメリカなどは、健康が意識されるのが、時代的に食欲を満たすことに比べて相当遅れたのが、不幸の原因だったかもしれません。現在のアメリカは、サプリメントなど全盛で、多くの人は逆に健康ノイローゼと言えるくらいかもしれません。反動の感がありますね。 さて、再び、本能の分離とそれを満たす手段の開発というところに視点を戻すと、その究極形ともいえそうなのが、酒、麻薬や、ちょっとジャンルがずれますがバーチャルリアリティーなどでしょう。個人的には、酒については、イスラムなどのように全面禁止というのは極端ですが、もう少し社会的な後ろめたさがあったほうがむしろ自然という感じもします。ストレス発散手段として逃げてきたのでしょう。言ってみれば、副作用の小さなプチ麻薬のような気もします。ただ、これも、少なくとも日本では、不健康なイメージの伴うサラリーマンの飲酒は大分減ってきているのではないかと思います。今日では、しっかりと、次の日に備えて、どころか、その日に家でやるかもしれない残業なども考慮しながら賢く飲んでいる人が多いでしょう。要は、健康で、大局的な人生に影響が大きすぎなければ、どのように欲望が満たされようと、基本的にはオーケーなのかもしれない。 で、行き着くところまで行き着いた人間の欲望満足化能力とどのように付き合っていくべきか? 一つの考え方としては、人間の本性を追求し、欲望の起源を知り、なるべく遺伝子の意図(?)したところに整合的なように生きる生き方です。 今ひとつの生き方は、いびつになった欲望満足化能力や本能のあり方を受け入れ、それを直接生かしていくこと。 私は、どちらかといえば、後者よりですね。「人間性」がすごく強く現れるようなところだと思います。 最も端的な後者の例は、遺伝子を残さない人たち。この人たちは、「人間の本性」アプローチからすると失格です。上に紹介した西田氏の著作には、人間の本能満足化能力が肥大化しすぎた一番の現象は人口爆発だから、これを防ぐ方策こそが一番の「知性」のやるべき仕事だと言っていますが、テクストを読んだだけでは、論理が十全に完結しているとは言いがたい。最低限、一人は子供を残さなければ、全ての方策は無意味。あくまでも、中国ではないけど、各戸一人っ子みたいな調整がなされた場合にのみ分りやすく論理的に閉じる。けれど、現実は、そんなに単純ではなくて、全く子孫を残さない人たちが膨大な数存在するわけです。この人たちに関して言えば、「どうするべきか?」というような議論の根拠を人類の進化・存続などに求めるのはもはやあまり意味がない。進化過程で合理的とみなされる形質の大前提は、自分の遺伝子をできる限り伝播することなのであるから、それを欲しない時点で、その人は遺伝子的には失格なのです。というようなことを考慮してかしないでか、「成熟した大人は結婚して子供を残すものだ」みたいな議論が論壇や社会哲学系統などでも幅を利かせていることもあるでしょうけど、私は組しません。子孫を残さなかった天才論理学者ゲーデルなどは、私にとっては最も尊敬するべき人格の一人ですね。ドーキンスの利己的遺伝子の呪縛から解かれた、絶滅していく遺伝子のキャリアに最も人間性が強く表れる気もするんですよね! 今回のメインの話題である性欲に関して言えば、それに大きなウエイトをおいて、人生の重要な位置を占めて、これを充実させることが人生の一部だというような価値観があれば、そういう方向で考えるのも良いと思います。そういう前提の下では、確かに、チャッチャと済ませるオナニーは殺伐感があるかもしれない。しかし、場合によっては、本当にどうでも良い欲求と思える人がいても良いと思う。肥満に直結する食欲のように、忌み嫌うべき欲求であり、自分の一番の人生の目的と矛盾するようなものであると。いささか古典的にも思えるかもしれないが、これはこれで一つの価値観と思う。おそらく、まだそれほど「性欲抑制」商品というのは、聞いたことはないが(バイアグラのような性欲増進系は結構聞くけど)、これからはそういう類の商品が出てきてもおかしくないと思う。筋トレオタクが食欲に反してプロテインばかりを飲んでいる行為と同様。両方とも、肯定して良いと思う。 そういう流れからすると、最近の日本のメディアは個人の人生のサポートという側面からすると、実にセンスの良い方向に行っているのかもしれない。つまり、健康系番組や心理系番組(こっちは超怪しいけど)などがとりわけそうですが、自分の身体や心のことを十分に知った上で、主体的に選択すると、充実した選択ができそうです。知識不足では、独りよがりの低質の選択しかできないでしょう。自分のことを自分が一番良く知っているとは全く限らないのです。
お礼
本当に人間は本能を技術で商売にするものだと思います。 今回長大なご回答をいただき、まだ私自身消化し切れていない面もあり、またたいへんいいスレになっている?とおもいます。もう少し締め切りはまとうかと思います。
- decidrophob
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社会規範と本能について。 imana さんのご回答についてコメントします。 本質的には、私の回答とかなりかぶっていて、 回答の中にある戦略というのが、「相手の愛情を推し量る・示す」ということに関係しています。 とりわけ人間の場合は、社会も複雑だし、しかも、おそらく他の動物に比べると、性病、妊娠その他の問題とセックスとの因果関係を賢く認識しています。 これが、男女関係も実に複雑化させ、本能に基づく分析をきわめて高度、かつ慎重に行わなければならない状況にあります。 京大のチンパンジー研究においては、行動進化論的アプローチがメジャーだと理解していますが、 人間の場合は、進化形質それ自体に構造を導入する必要があり、分析が極めて困難になります。 最先端のゲーム理論関係の分野の議論においては、 imana さんのおっしゃるような損得を計算する男女が集まってコミュニティーを作り、そして、無意味な争いや無駄を避けるべく、文化を形成していく(ミクロな損得の調整としてのマクロな規範形成)。 そして、そうして形成された規範が、個人の損得計算の基礎となる(マクロな規範に基づくミクロの効用最大化)。 というような、社会学で言うところのミクロ・マクロ連関が成り立っています。 こうしたダイナミクスを完全に把握しないことには、 いかんせん、高度な人間の効用最大化、心理を語りつくすことはできません。 つまり、imana さんへのお礼で質問者さんが述べられていた 「現代の男女同権的な社会常識をそのまま性の羞恥心と結び付けるには、その奥のほうにある原始的な情動というのを軽視していないか」 というのは、結構注意して考える必要があると思うんですよ。 もし、欲望があまり複合的でなくて、分析的に分解可能ならばおっしゃるとおりのご指摘がかなり有効かもしれませんが、 人間の場合は欲望が複合的なので、 現代のゲームルールも十分に加味しながら、欲望のほうも分析しないといけないと思うんです。 なお、男女が同権であることと、 女性に選択権(都合)があるかないかは別問題です。 例えば、日本社会なんて、伝統的に男性中心社会だったでしょうけど、 まさにそれゆえに、女性には一定の性質、例えば処女性が求められるわけで、 女性は独身時代に身体を許すわけには行かないのです。 また、美しい女性を金持ち男性が好むことを知っていれば、 女性は美しく化粧をし、肌の健康も保つようにするなどの戦略をとることになります。
- decidrophob
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男女の愛情について。 確かに、多くの未開社会をテレビなどで見る限り、 結構男女の役割分担が進んでいて、昼間は、男性は狩り、女性はその他の仕事などを村の同性のメンバーと共同して行うので、言葉による親和欲求はこっちのほうで役に立ち、 あまり夫婦で会話を必要とするような場面もそれほどないように思えますね。 しかし、もし、この方向性をつきつめると、 ライオンの群れなどのように、メスが主体となって社会を形成し、オスは用心棒兼遺伝子という風に、ボス一人くらい確保すれば良い感じもしなくもありません。 チンパンジーは、オスはやはり治安維持が基本的な役割でしょう。 結局、鳥のように、つがいだけで単独でむしろ縄張りを確保して暮らす動物でなく、集団で暮らす人間の場合は、一夫一妻制の起源はかなり謎です。 より詳しい夫婦のダイナミズムは、 http://plus.naver.co.jp/browse/db_detail.php?dir_id=11&docid=29784 あたりを参考にしてください。 もしくは、よりちゃんとした文献とかあるかもしれませんが、現時点での私の仮説です。 しかし、それでさえ、別に、夫婦に必ずしも愛情やセックスは必要もなさそうなんですよね! 繁殖の目的だけに、発情したときにだけセックスすれば十分である気もします。 最近、日本の結構の割合のセックスレス夫婦(3割とさえ言われる)は、こうしたパターンでしょうけど。 こうして、思考を進めて思ったのですが、 やはり、あまり腰を動かして、時間をつぶし、体力を消耗し、かつ脳みそも疲労させる行為がそれほど他の生存目的で役に立つとも思えないし、 繁殖目的だったら、よく愛情のない日本男性にありがちのように、結婚したとたんにセックスしたくなくなるとかがあってもよさそうですよね。でも、近年の日本などを除くと、基本的には、むしろ夫のほうがセックスが好きなくらいですよね。 人間で、ピグミーチンパンジーと異なり、夫婦間にセックスが限定されていること、特に対立を解消する目的だけでなく、恒常的にもセックスが行われていることを考慮すると、 男性にとって謎なのかもしれません。なんで、妻とセックスしたいのか。 で、今、思いついた仮説は、 鳥同様に、オスのやきもちが、夫婦間セックスの起源かもしれないということです。 これを仮説に採用すると、 哺乳類の中で、唯一ヒトの父親のみが子供をかわいがることとも整合的になってきます(他の哺乳類は、ライオンやチンパンジーのボスが交代したときのように、他のオスの子殺しはするのですが、自分の子供をあまりかわいがることはありません)。 一夫一妻制の鳥の多くは、メスが浮気するのですが、それでも、一応夫は「たくさん」セックスする権利があります。 人間の夫も、妻とたくさんセックスして、その他の社会的な浮気タブー規範と絡めて、自分の遺伝子を残す確率を高めようとしたのかもしれません。 女性については、さらに謎ですよね。オーガズムなんていうすごい快感を感じる動物なんて、人間の女性くらいでしょう(男性だって、失神するほど気持ちが良いなんていうことはない)。 別に子育てなら、夫より、おばあさんや、村のほかの女性の協力の方がはるかに役立ちそうだし。 つまり、村における男性のいがみ合いを防ぐ意味で、婚姻制度が発達したとしても、積極的に女性が夫を愛する必要もない感じがしてしまいます。すごく悪く言えば売春のように夫を満足させるためセックスだから、求められれば、まあやってもいいかくらいでもおかしくないという気もします。でも、女性のほうもセックスをしたくなるということは、なにか結局、夫が労働力だかなんだかの目的で家庭でも役に立つと女性が判断したことの証拠なんでしょうね。これは、リサーチしなければ分りませんが、もしかしたら、女性の性欲は未開社会より、共同体社会から個別家庭での所有権がより重視されるようになった時代の到来、つまり個人としての男性の仕事・所得の役割が大きくなるにつれて発達していったのかもしれません。ある種の究極の進化系は、一時の日本、「夫元気で留守が良い。」かもしれない。つまり、夫が労働力として健全で、浮気などの心配がなければ、妻の性欲は必ずしも必然性はないかもしれない。おそらく、妻の(夫に対する)性欲と家庭の円満には強い相関があり、夫が妻を愛することによって、家庭内での人間関係が円滑になる場合には、セックスも大事になるという感じでしょう。よくある妻からのセックスレスのパターンは、子育てへの集中です。そこでは、おそらく父親が所得以外に、家庭内で積極的な役割を果たせていない場合が多いでしょう。 また、比較的最近まで、少なくともセックスに関しては、世界の文化にあまりよらず、一般的に受身の性であったこと、つまり女性のほうから誘うという感じがないことも、行動の動機付けとしての欲求の機能の意義が感じられません。でも、こっちのほうは、間接的にでもアピールする動機付けを与えることはあるか…。結婚すると、浮気性でない夫は、自分の性、つまり外見などの「男性的」魅力については、強い執着はなくなるのが一般的だと思いますが、他方で妻の方は、個人差はありますが、結婚後もメイクやファッションなど、自分の性を大事にする人が多いでしょう。キャリアウーマンを除くと、これは基本的には夫に対するシグナルが第一義的目的だと考えるのが素直ですね。直接、セックスを誘うのではなくて、間接的に誘うのです。で、その動機付けの一部が、もしかしたらセックスの快感なのかもしれません。恋をしている女性はきれいな理由の一つでしょうね。 こうして考えると、女性の性欲が「開発」されるのが自然なのも、きわめて納得がいきます。性欲とパートナーとの履歴が極めて高度に連関しているんだと思います。 というわけなので、紛れも無く、少なくとも、女性にとっては、言葉をも交わすような夫婦関係は重要でしょう。論理関係としては、セックス以外のところで二十分に愛を感じて、その上で最高のセックスをするというのが最良のパターンでしょう。最近の日本では、普通の生活では夫の愛を感じるのに、夫が原因でセックスレスというケースがあるようです。おそらく、夫側の原因としては環境ホルモンや仕事のプレッシャーなどがもっとも自然に考えられますが、こうしたケースでつらい妻は多いのではないかと思います。むしろ、愛がさめてしまった夫婦の方が、セックスレスで妻が全然大丈夫のパターンが多いのではないかと思います。 近年では、強いキャリアウーマンの一部などが代表的だと思いますが、性に関して奔放で男性的な女性たちも増えてきているでしょう。この人たちは、まさしく、生活スタイル、モチベーションが男性なので、セックスライフも男性的なのでしょう。欲望が整合的なパターンはまだ良いですが、それこそ渋谷などで誰とでも寝てしまう若い女性などは、ちょっと病気です。その(本来は感じるべき)後ろめたさは、男性のオナニーの比ではないかもしれません。この人たちは、愛情の欠落がいびつな形で表出しているというパターンが一般的なようです。 ちなみに、確か、女性の性欲自体については、TIME http://www.time.com/time/magazine/0,9263,7601040119,00.html で読んだ記憶がありますが、進化論的基盤まで書いてあったかどうかは定かではありません。 なお、夫婦関係においては、たかがセックス、されどセックスということもあるようです。ご指摘のように、セックスを夫婦の関係性の核にすえることもありえるようです。つらいことが多くても、愛情のあるセックスがあると、明日もがんばろうと思ってくる。愛のあるセックスには結構思いやりとテクニックも必要なようですね。 最近日本で増えているお友達夫婦というのは、おそらく大半が、家庭生活も円満、お互いにあまりストレスも抱えていない、一緒にいるのは人間として楽しい というパターンで、これは必ずしも不自然でもないと思います。欧米のように、セックスが半ば夫婦の義務・権利みたいになっているよりも、なにか進化を感じさせます。 ネットサーフして見つけたのが、 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0465031269/qid=1115471805/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/249-9409959-2820330 という本です。 かなり、ドンピシャでしょうね。 コンテンツを見たら、セックスを隠れてする理由もかいてあるようです。どうせ、他のオスを刺激しないように程度の理由くらいでしょうけど。 ともかく、私も読んでみようと思います。 また、セックス自体について、大変勉強になったのは、 http://hw001.gate01.com/funwaka/index.htm です。
お礼
友達関係夫婦って言うのは、たいへん現代的で、わたしの周りにもいます。いつまでも恋人感覚みたいです。何で結婚したんだろうとまで思います。
補足
「異性と親密になりたい」という、社会的本能欲求が、もっとも象徴的に「性交」という物理的状態を欲するというのは、それが一番確実ではあるけれども、なにか浅はかで安易な解決法だという印象もあります。所詮生物の人間の本性は、こんなもんだという結論に導かれるものなのか否か、よくわかりませんけど。
- imana
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なぜみんな自分の性欲、性への関心を隠したがるのか。わたしからすれば「性欲をかくす」ことで男性も女性も得をするからだと思います。 私は女です。女性から見た意見です。 性への、異性への、性交へのあからさまな関心を見せる男性は間違いなく女性に敬遠されますよね。 それは文化や教育だけではないと思います。 そこから連想されるのは次の二点です。 1 この男性は充分に満足しうるほどの性生活を女性といとなむ能力のない男だ 2 この男は手段をえらばずに「性交」をしようとする危険性がある 3 この男は多情である。 1はセックスの能力のあるなしだけではなく、女性を発情させる(この人の子供を生みたいと思わせる)経済力や優しさや思いやりにかけた、「生殖する」に値しない男性だという発想です。ようは「もてないんだな、この男は」ということです。 2はすべての女性に共通する恐怖だと思います。 それは人間の女性の出産があまりにも重労働だからです。私ももし、発情期は一年に一ヶ月だけ、そのあと一ヶ月の妊娠期間後8人の子供を一度に出産、3ヶ月の子育ての後子供は成人して後は別々、次の年は別の男と生殖というような動物のような体をもっていたら今よりずっと簡単にセックスするでしょう。 10ヶ月の妊娠、長い長い子育て期間。それを「レイプ」「体目当て」の男に簡単に許すわけには行かないんです。 3はまあ、簡単です。「浮気」の心配ですね。男のかせぎや体力、愛情が他へ流れ出る心配です。 1~3をまとめると僕は性的に精神的に飢えた男ではないので、君をレイプしない、体目当てではない、しかも他の女には絶対にうつつをぬかさない、という男性を女性は要求しているのです。大切なのは「こんなにすばらしい男性が発情するのは私だけ」っちゅうことですな。 では逆に女性はなぜ性欲を、性への関心を隠すと得をするのか。 1 男性の関心をひくため、評価を高めるため 性交への関心がないという様子、羞恥心の表れはダイレクトに「処女性」「貞淑さ」を男性に伝えるのにやくにたちます。性的なことで女性が一番恐れる事態はレイプだと思いますが男性はたぶん「託卵」です。飯をやり、外敵から延々守り続けていた子供が実は、自分の子供ではなかった。こんなに恐ろしいことがあるでしょうか。マスターベーションやセックスの体位について男とあけすけにかたりあう女。 そんなのとってもじゃあないけど信用なりませんよ。 2 レイプの回避 発情している様子、性への関心がある様子を無防備に男性のまえで表現するのは危険です。ずばり性交しているところを他人にみせるのは余計な男性のややこしい関心をかうだけです。男性もそういう事態は避けたいでしょう。 3 男性を選別する 発情していないふりをしつづけることで 男性が何を自分に求めているのか、また自分を手に入れるため(発情させるため)にどのくらい男性が犠牲を払う能力があるのかを見極めるんです。それがプレゼントだったり、気の利いた冗談だったり、車のお迎えだったりするんです。「ヤリ逃げ」の危険の回避です。 これらのことから、男女とも「性」にかんすることは伏せておきたい、と思うのではないかな、と思います。 それは全て、動物としては人間が一生のうちに持つことができる子供の数が異常に少ないこと、そして発情期が延々とながく続くことに由来していると思います。 bossambaさんに娘がいたと考えてください。 娘さんが道端で立ちションしている男をうしろから覗き込んで 「大人のチンチンっておっきいね。ねーーーボッキしてるとこみたいな~~」 と言っているところを想像してみてください。 バカーーーーー!!!!と言って連れ戻したくなりませんか? また両親が「性的」なことについてあけっぴろげに関心をもっているところを想像してください。 逃げたくなりませんか? 子供にとっては「親」というのは生殖をおえたものであり、新たに「発情」して欲しくないんです。親の発情、というのは「子捨て」「子殺し」につながります。(子連れ再婚でときどきそんな事件がありますね) そんな気持が性に対しての関心を伏せる社会をつくりだしているんです。 現代社会(特に一夫一妻制の社会)では私はあなただけにしか発情しない、ということとあなたとの生殖、子育てをしたからには新たに発情したりしない、ということが異性に対して厳しく要求されるんです。 子供を生む数が今よりずっと増え、一生同じ相手と添い遂げる決まりがない世の中になればbossambaさんのいうような性にオープンな社会が現実となるでしょう。さきにも言いましたが女性の妊娠も出産も子育ても今よりずっと負担がすくなく、次の年には違う人の子供をうめるなら男女とも1~3のようなややこしいことを考えなくていいんです。人間の子供が生まれてから半年後に成人として自立できたら、オトンとオカンはペアを解消し、新しく別の相手に発情するんです。
お礼
新たな認識にいたれる気がします。 ご指摘いただいた「性」を伏せたい理由というのはすごく納得できるものです。そういう打算を無意識的にも慣習としてしまうというのが、信じられないくらいですが、そういうこともあるかもしれません。私にはまだよくわかりません。 後半の具体例ですが、そのような開けっぴろげができないというところに問題を感じているわけで、逃げたくなるでしょうが本心は「こういうことを恥ずかしく感じたくない」ということ、そこから「なぜこれが恥ずかしいと思わなければいけないんだ」という疑問から、今回ご質問したわけです。性をめぐる自身と親近者の意識行動がおおきなプレッシャーとなること自体が問題なわけです。ですので、そこに葛藤がある。これを解消したい。メカニズムを知りたい。整理されてきた気がしますけど。 人間の生物学的出産形態がご指摘のように変われば、だいぶ変わるかと思われます。
補足
あまり関係ないのかもしれませんが、現生人類がなぜ繁栄しているのかに関して「おばあさん仮説」というものがあるようです。閉経後の女性の役割は、子育てと産婦の補助みたいなことで、これがあるとないとで出産数、生まれた子供が無事に成長できるかが決まってきます。つまり、女性が出産すると2、3年は子育てで大変なので、その時期に妊娠すると子供の世話が十分にできなくなる。ところが「おばあさん」がいると子育てしてくれる人がいるので、すぐ妊娠可能になるわけです。だから、一生涯に出産した数はネアンデルタール人(「おばあさん」がいません。閉経すると女性は寿命を迎えます)よりずっと多いのでしょう。それから、自身の出産経験によって助産婦的な役割もできるわけです。というわけで現生人類の人口増加というのが可能になった歴史があるようです。これが何か物語るところがあるのかないのか。要は、先史時代的には男は次々に種付けを行っていて、そして実が死なないで増えていった。ネアンデルタール人は同じことをやっていたのでしょうが、人口増加はできなかった。今は現生人類しか生きていません。子育てしているから3年待ってから性交して出産しようという計画性は無かったという証拠ではないかと思われます。 つまり、原始的には女性の都合などまったく蚊帳の外だったのではないでしょうか。男の選別も何もない世界だったのではないかと想像します。 これが現代的な問題に当てはまるか否か、定かでありませんが、人類の根源的な行動がどこかに残っているのではないかと考えてもいいように思います。つまり、見境無く増えるのが自然というような。もちろん現代でも、女性の都合を考慮して男が性行動することは無く、相手が妊娠しても「生物学的に」無意味な性行為を行います。出産コントロールは避妊の発展で「おばあさん」不在気味の現代には欠かせないのでしょう。 そういう原始性というのは、いまも生き残っていると思われます。 で、何が言いたいのかというと、ご回答がすごく現代的な視点だなという印象を受けたもので、そういう今の感覚だけで論じていい問題なのかという感じがまず起こりました。つまり、現代の男女同権的な社会常識をそのまま性の羞恥心と結び付けるには、その奥のほうにある原始的な情動というのを軽視していないかと、ふと思ったしだいです。
- decidrophob
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プラトニックラブの起源は、基本的には、前々回の回答の3)でほとんど説明がついています。 しかし、いかんせん、人間は複雑なので、個人個人の個別事情を加味して考える必要があります。 以下では、あくまでも、代表的と私が考える解釈を述べます。 もし、セックスを意識しないで、精神的なつながりだけで二十分に満足ならば、そもそもプラトニックラブなんていう概念すらあまり意識されないはずです。 事実、昔の初心な若い男女などは十分にセックスの知識も無く、それと意識することも無くプラトニックラブを楽しんでいたでしょう。そんなエリートぶることもないのです。 プラトニックラブなんていうたいそうな言葉は、「武士に二言はない!」と二言を言いたい武士が意地を張ってがんばっていっているのに似ています。 通常の健康な性欲のある成熟した男女の場合は、精神的つながりとセックスの両方を楽しむのが自然だと思います。愛のあるセックスはすごく気持ちが良いのですから、これをしない理由もないでしょう。ただ、あえて言えば、後述しますが、それも厳密には選択問題です。 なお、環境ホルモンなどの影響かなにか分りませんが、とりわけ日本などでは、性欲も恋愛欲求も両方ない人は山ほどいますよね。また、中には性欲のない人で、かつ恋愛欲求はある人もいるようですね。ま、こういう珍しい人に関しては、精神的つながりを重視した恋愛(?)もありえないこともないと思います。もっとも、もしくは十代などで知識不足やリスク回避から欲望があるけど我慢しているというような場合を除くと、個人的にはセックスが伴わない関係をなぜ「恋愛」と分類する必要があるのか、謎の部分もあります。 なお、男性には珍しいでしょうけど、女性には結構今でもセックスが怖いなどのタイプがいないわけではないようですね。テレビなどで結構見たことあります。どの程度の実数が存在するかは知りませんが。ただ、とりわけ女性の場合は、セックスの基本的な機能はオスに自分とのつながりを深めさせることだと考えられるので、愛情で充足されれば、セックスはなくても大丈夫の人も多いでしょう。また、セックスが少なくて不満・不安な女性の多くは、パートナーから受けている愛情が十分なのか?浮気は大丈夫だろうか?もしくは、パートナーの仕事が忙しすぎる場合は体が心配などと、基本的には、愛情が絡んで不安になる場合が多く、確かにセックス自体が大事というわけでもないかもしれません。また、現在潔癖タイプの多くは、恋愛に失敗した経験のある女性でしょう。この人たちは、過去のセックス相手が自分のことをまったく愛していなかったということがトラウマになっています。この事情は後述します。 男性にとっては、プラトニックラブは、あまり自然とは思えません。もちろん、ラブの導入段階では、下手にアプローチして、現在の良好な関係を壊すのが怖いというのは、有力な理由として考えられます。もし、告白などもして、一応合意の下で「つきあっている」状態ならば、上述の性欲減退(なのに恋愛欲求は健在?)か、女性を崇め奉っているか、恋愛関係が本格化しすぎるリスクを考えているというあたりが、考えられる理由でしょう。実は、私やその友人が異常なだけかもしれませんが、崇拝という感覚は確かに感じられます。しかし、これは、私の勝手な解釈かもしれませんが、もはや崇拝が強くなりすぎると、これは恋愛というよりは、信仰などに近い感覚があるので、プラトニックラブというのも変でしょう。 セックスと愛の関係をもう少し説明しましょう。 中立性をできるだけ期すために、言っておくべきでしたが、男性に関しては、他のほとんどの動物同様に、通常は、とりわけ多数の女性といくらでもセックスをしたいものです。買春や AV が後ろめたいのは、まったくこれらが繁殖に結びつかないと知っているためでしょう。ナンパがうまい男性は、あまり後ろめたいことなく、フリーセックスライフを楽しんでいると思います。でも、男性にも愛情があるのは間違いないのです。でなければ、特定のパートナーとの恒常的なセックスはあまり進化論的に意味がないはずです。 女性が発情期以外にセックスをするのは、まず原則は愛が前提です。よって、論理学の授業みたいですが、セックスは恋愛の十分条件ではありません(セックスが良くても、まずい恋愛はあるでしょう)が、多くの女性にとって恋愛関係はセックスを許すことの必要条件ですね。数多くの女性においては、セックスの快感と愛にはきわめて強い相関があります。で、その愛の種類というのは、「愛される」ことが重要です。よく言われますが、男性はセックスのために大きな投資をする。女性はセックスを武器に男性の資源を手に入れます。例外は、いわゆる、ツバメとの浮気ですか。女性も、繁殖に関しては、若くて美しい男性の精子の方が進化論的には有利です。ですから、愛するパートナー(もしくは、愛していなくても、パトロン)と別に、遺伝子だけゲットするという戦略はありえるのです。鳥のメスなどにも良く見られる戦略です。 で、恋愛でだまされた女性というのは、性欲ばかりが先行している男性がいることがトラウマのようになっているので、また裏切られないか心配になってしまうのです。セックスすること自体のコストはどんどん下がってきていますけど、「愛されてなかった」ことで傷つくコストは、時代を経てもそれほど変わらないでしょう。かつてならば、「貞操を奪われた」ことに女性は憤りを感じたウエイトも大きいでしょうけど、今日では精神的な裏切りに憤りや悲しみを感じることになるわけです。
お礼
親和欲求について考えると、必ずしも「性」を介さない「お話したい」組的な商売があってもいいように思いますが、形として難しいのでしょう。私はそういう系の世界をほとんど知りません。 大衆の動きが最大公約数的にあるサンプルの個人の行動を大体の確率で代表していると考えるのは、そう無理のないことのように思います。そうすると、たとえば「キャバクラ」とか「お芸者さん」とか適当な例を思いつきませんが、何か背後に「性交渉」を切り札にしている、あるいはメインとして控えさせている。これは「プラトニック」だけと割り切るのには、不自然な力が働いていると考えてもいいような気がします。 しかし、もっと細かい男女の個人的な関係においては、セックスレスのほうがより満足できるケースも想定されます。これは成り行きというもので、でもやはり、多くの人間にとってはどこか不満が残る形態に思われます。 男女の「プラトニック」に対する差異も、ご指摘のような実情があるように思われます。いずれも素直さから出ているものではないです。男女の恋愛感と性交感もご指摘の傾向があると思います。男女の「セックスと愛情」の必要十分条件的図式は、逆になっています。それはしかし、前回前々回からの論旨によれば、といいますか、私が重要と考える「性は人生」という点に関して言えば、まさに男女の形態的な差に相当する程度の差異のように思われ、人間という生物種としてみれば、9割以上は同じ生物機能を働かして生きているという感覚かと思います。 結論的には 最重要課題である「愛」「親和欲求」それに付随するあるいは共存する「性行為」を、その獲得過程を得ずに得ようとすることに対する後ろめたさを、大脳皮質の「人生」本能がうしろめたく感じている、本来の姿からの差に抵抗している、そのために性の商品化が、全人類的といってもいいほど「影」の扱いを受けるという傾向がある、ということであると思います。
補足
で、前回から私なりに思ったのですが、もし人間というものが過去の慣習遺産を引き継ぐものだとしたら、まぁあるいはそれと無関係なのかもしれないですが、性欲が親和欲求と結びついているということならば、その親和欲求というのは言葉を介すようなものではないのではないか。原始人が狩の後で、プラトニックに同居?女性と狩や人生について議論してもあまり意味ないと思うのです。ただ、「親和的に」交わりたい。それが、今も変わらないのではないかと感じました。 この「親和欲求」と「社会的本能」がうまく結び付けられればもっとすっきりする話だと思いますが、それはもう未知の領域なのかもしれません。
- decidrophob
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この回答では、「本能」の議論を掘り下げます。 まず、大変、好意的な感想をありがとうございました。 で、感想の中にある「社会性も本能の一つ」という指摘から、根本的に考えさせられることがありました。 おっしゃる方向から深く考えると、実は、性の後ろめたさというのは、根本的に人生全体の問題と絡んでいるように思えます。 良い人生とはなんでしょうか? それは、結局は、数ある本能をうまくバランスさせて、長期的に維持可能な形で(国連のキーワードみたい!)最適に満足させることでしょう。この最適化問題がとんでもなく難しいことに関係して、人間の場合は大脳新皮質がものすごく発達しています。 で、心からの満足というのは、諸欲求間のバランスがうまくとれて、人生の長期目標とも整合的だとの自信があるときに感じられるでしょう。大脳新皮質が肥大化した人間の場合は、とりわけ、この長期計画との整合性による満足感が感情に占める割合がすごく大きいのです。ある意味、他の欲求による快感の上位に大脳新皮質の知的満足が位置づけられる。 ビジネスエリートで、セックスを自分の生物学的欲求、肉体の維持の重要な要素であると考えているおじさんたちにとっては、完全にそう割り切っているせいで、後ろめたさもないと思います。 結局、人工的な性の消費や供給に後ろめたさを感じるのは、それが長期の人生に必ずしもプラスでないと思う場合でしょう。 例えば、AV 女優出身の飯島愛とか及川奈緒(正確な漢字は分りませんが)がテレビなどで活躍しているようですが、 とりわけ後者は、どうも自分のキャリアパスの中で AV 女優であったことが整合的に位置づけられているようなので、かなり明るく過去のことも語るようです。他方で、AV 女優で得た所得をなにか長期的な目標に投資したりしていない人の多くは、どこか不安とか後ろめたさとかあるでしょう。 アメリカなどでも、高額所得を理由に気軽に売春などを行っている大学生なども多いようです。こうした人種と、情報不完備性から、男性元締めなどのもとで、陰湿な売春を行っている教育も十分に受けていない女性との間には大きな乖離があるようです。 どんな仕事でも、自分の一部を切り売りするようなところがあるわけですから、仕事自体が人生の目標の一部となれるような一部の人たちを除けば、AV 女優も立派なバイトになりえるかもしれません。しかし、バイトはあくまでもバイトですから、そういう風に位置づけて、自分の将来まで大事に考えているかどうか?というところがポイントになるでしょう。 つまりです、似たような例で言うと、渋谷で遊んでいる若者たち。この人たちは、本当にそれで人生が良いのでしょうか?本来ならば、後ろめたさを感じながら、ほどほどに遊ぶべきなのに、キリギリスのようにはじけすぎなのかもしれません。 要するに、渋谷の若者を全面的に肯定できるならば、性の消費や供給もほとんど無条件に肯定することができる気がします。 間違いなく、昔の共同体社会の若者であれば、あんなふうに無邪気にただただずっと遊んでいるなんてことが社会的に許されることは無かったと思います。ある意味、そういう風に彼らを労働資源として利用してくれる社会がなくなっていることが、彼らに遊びの後ろめたさのたがをなくして、羽を伸ばさせていることでしょう。可哀想な気もします。 ただ、もし、この人たちが、中年になっても、ニートにもならずに、しっかりと人生が設計できたり、かりに中年になってうらぶれた人生を送っても、そのことも納得済みで、若いときに確信犯で楽しんでいるというならば、それはそれで一つの価値観。 いろいろしゃべりましたが、まとめると、 自分には何が大事で、 どのように長期と短期をバランスさせ生きていくのか?というところがちゃんと整理できていれば、後ろめたさはなくなるでしょう。 「後ろめたさ」という感情は、こうしたことが十分に整理できていないことを、大脳新皮質の合理的思考(これも、一つの重要な「本能」です!!)が警告してくれているんだと思います。 セックスについては、社会が急激に変化しているので、どのように次世代のセックスを考えるのが最適か?みんなで模索中であると言えるでしょう。この模索が段々と落ち着いていくと、それにともなって後ろめたさも減っていくと思います。 AV なども、一昔前は、本当に恥ずかしい感じだったと思いますが、今や日本男性の間では当たり前の文化でしょう。バーチャルセックスも人間性の一部でかまわないと、社会が半ば納得した結果だと思います。
お礼
いつもご丁寧なご回答、ありがとうございます。 大脳皮質が人生のトータルを認知している! うしろめたいのは、どこかでその本能的な認知が 警告している。 そう考えるとそういう感情感覚に素直になればよいという裏づけが取れます。まさに、「知性をつかさどる」というより「人生をつかさどる」皮質というほうがふさわしいかと思います。どうも「知性」のみのように宣伝されてますので、「人生」に感じている感情など「知性」で処理できるものという気風がどこかにあったのですが、多分違う。言語化し説明するのが大変困難な分野、それを改めて認識しなおす心地がします。 性の商品を供給的にも受容的にも利用するとき、それを必要悪とわりきればわりきれる。私にとってはそれは「強い」あるいは「冷徹」とも感じられます。渋谷若者系ののりにはなれんですね。 人生の駆動エンジンの燃料である性商品。しかし、「後ろめたさ」はなくなってもどこかに「殺伐」感がのこります。もやもやするからビデオリラクゼーション行って(発展系では風俗に行って)抜いてからスーツでお仕事。まぁその殺伐感が世間一般にあふれているから、それは同化していることになるでしょうが。 本当にこれしかないのか、もっといい手があるのではないかと、心のすみで思いつつも、結局それが妥当な思いつく限りの選択肢であるという、今の時勢でしょう。
- decidrophob
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かなり、重複するところがあるかもしれませんが、整理の意味で。 ご質問には、様々な先入観が伴っていると思いますが、それを修正しながらの回答になると思います。 1)そもそも「性欲」は、ほとんどピグミーチンパンジーと人間の独占のコミュニケーション円滑化の欲求といえます: 他の動物は繁殖のためにしか、セックスをしません。つまりは、言いたいのは、もともと、性欲は社会的欲求であり、食欲、睡眠欲などに比べると、基本欲求といわれるのは、おそらく誰かさんの勝手な分類で、あまり必然性がないでしょう。仮に、基本欲求の一つに数えるとしても、親和欲求ときわめて関連が深い。とりわけ女性の場合はそうでしょう。 人間の場合、マスターベーションやメディアの発達で、性欲が様々に生じ、かつ、それを発散するのも、食欲などと同様にできるようになってきたせいで、なにか単独で満たすことが可能、通常の商品同様に市場で調達可能な財というイメージができつつあるかもしれませんが、もともと社会関係に付随する欲求なので、「羞恥心」が伴うことが自然かどうかはともかくとして、社会的に調整しながら満たしていくべき欲求なのです。 霊長類は一般にコミュニケーションが発達した社会的動物で、コミュニケーション手段の一つとして、毛づくろいなどのスキンシップも発達しています。それでも、セックスをコミュニケーション手段として用いるのは、ほとんど人間とピグミーチンパンジーのみです。 ま、という背景があるわけですから、私が聞いたことがある感じで言えば、女性の性欲が「触れられることによって強くなる」というようなのが分りやすい。メディアにのっている映像を見たり、小説を読んで興奮したり、機械的に買春で「性欲のみ」を処理したりするのが、もともとの性欲の機能ではないでしょう。あくまでも、お互いの関係を良好にする手段として、もともと性欲が発達したと考えられるのです。 というわけなので、確かに性はタブー視されることが多いでしょうけど、夫婦や恋人同士のセックスライフをより充実させるための市場での商品ならともかく、あくまでも「もともとは」性自体が商品化されるというのはなじまない類のものだと思います。 で、まさに、より充実したセックスライフの目的に限定された商品ならば、これから、どんどん充実させていくのが望ましいでしょうし、実際に充実していくでしょう。日本は、性の分野に限らず、市場経済がまだまだ発展途上、どんどん従来ならば市場にのっていない分野の商品が増えていっています。アメリカやヨーロッパは、こっちの分野ではかなり先行しているでしょう。また、アジアも、古くから、カーマスートラや春画などなど、結構オープンなセックス系の商品がありますが、マスターベーションよりは、より充実したセックスライフを目的としたものであったというのは、言いすぎでしょうか? 2)セックスと繁殖 → 結婚とセックスのプライベート化: 何を持ってタブーとするかが問題だと思いますが、 例えば、チンパンジー社会や、多くの一夫多妻制社会においては、メスとのセックスの権利を争っているわけですから、 権利のないオスがセックスをすることは、超タブーです。 ピグミーチンパンジーは、かなり上手に、かつオープンにセックスを利用しているようですね。とりわけ同性同士で。ホモです。 メス同士が陰部をこすり合わせたり、オス同士では有名なマウンティングがあるでしょう。 ただし、チンパンジー同様に、繁殖期のメスのセックスには秩序があるはずです。 基本的に、オープンセックスの動物は、最初にやったもの勝ちみたいなところがあるでしょう。 社会的に、男女が同居し(家族というだけでなく、群れなどの集団で)、 かつ、メスの取り合いが強い社会においては、自然にセックスがタブーになっていくでしょう。 ですから、原始人がセックスをオープンにしていたなんていうことは、まずないでしょう。 今日でも、人類学の研究対象になるような未開社会は多数ありますが、例外なくセックスは夫婦同士で、かつ基本的には夜に屋内で行うでしょう。 人間で、なんで同性同士などの無害なセックスが、ピグミーチンパンジーと異なり発達しなかったのかは、謎かもしれません。しかし、結婚制度と絡めて、セックスをタブー化して、逆に夫婦の絆を深める手段として、つい最近までは、セックスをしたいほうの権利がどちらかといえば優先されたのは、自然なことなのです。 私の限定された知識の範囲で言えば、原始社会では、比較的欲求不満も少なく、日々の生活のルーティンに追われて、レイプのような陰湿な類の性欲がそもそもそれほどないでしょう。そして、比較的若い段階で結婚するので、自然に本来の性欲処理がなされて、かつご質問のように社会的に性をどうこうというような問題もそれほど深刻化しなかったものと考えられます。 で、それは、実は、今思いつきましたが、やはり一夫一妻制と関連が深いでしょう。人間の大多数は(かりに制度としては一夫多妻を許したとしても実質は)一夫一妻です。なので、性欲不満を抱えたオスがそれほどいなかった。もし、チンパンジーなどのように一夫多妻制で、社会がそのまま発達したら、ご質問のような問題を抱えた、緊張感に満ちた原始社会になったことと想像します。 なお、現在では、恋人同士のセックスが当たり前ですが、これはあくまでも避妊技術の発達の故です。セックスの「コスト」が小さくなった。つい最近までは、結構タブーでしたが、今ではちゃんとセックスできることは良い恋愛のほとんど必要条件でしょう。まさに、ちゃんと、条件が整えば、タブーじゃなくなって「日の当たる」場所に来るのです。 3)社会の発達と欲求不満による性欲の顕在化: 社会の発達に伴い、 結婚へいたる男女の戦略の高度化、 教育期間の延長によって、そもそも本能に反する教育を受けることの欲求不満と結婚による安定したセックスができないことによる若年層の性欲蓄積、 階級社会などによる、セックスに限定されない様々なジレンマ などが顕著になっていきます。 むしろ、性欲が一つの欲求として顕在化していったのは、こうした社会の発達によるところが大きいと思います。それまでは、あまりに自然なこと。 私は、かつて、タンザニアに住んでいましたが、かの地では、夫婦は毎日セックスをするのが基本ですね。 で、逆に、街にはセックス関連商品なんてほとんど見たこともない。 セックスが大好きなことと、性欲として顕在化させて、社会的にどうこう言ったり、商品にしたりすることとは別のことなのです。 ちなみに、タンザニアから離れて長いのでなんともいえませんが、アフリカのセックスは淡白だと聞いたことがあります。 そこで、1)のところで述べたように、もっと女性の権利が顕在化して、より良いセックスライフを追求するようになったら、相応の市場も発達するかもしれません。 そうして、直接にセックスを表現するのではなくて、 なんとか相手をゲットしようというような 詩、音楽などの芸術表現など、 様々に形式的な文化が発達していきます。 ま、言ってみれば、男女の内面的な能力を、こうした擬似ゲームで推し量ろうとしていったのでしょう。 4)性欲不満の男性と売春: 結局、この職業も、基本的には都市化と切り離せないのではないでしょうか? とりわけ英語で数多くの良書があると思いますが(勉強不足で、読むのも面倒なので、勝手に書きます)、 結局は、結婚生活がうまく行っていないか、もしくは欲求不満の独身男性諸君がたくさんいるところで成立する職業ですよね。ですから、もともと、そんなに「日の当たる」ようなものでないと思います。もともと親和欲求と関連が深い性欲を、ただそれのみのために処理しようということも、羞恥心に拍車をかけます。 他方、いわゆる側室系統は、かなり女性の身分も保証されて、買う側の男性も堂々としている、最近まではまっとうに扱われてきた文化でしょう。 5)メディアの発達と性の多様な商品化: 本当に現代社会も行き着くところまで来たのでしょう。 それほど、人間の欲求は変わらないのに、部分的には「現代」が入り込むために、妙な市場が肥大化していくのです。 核家族化が進み、かつ社会保障の充実から、子供が結婚することのプレッシャーを受けなくなった。それのみならず、職業や学問も高度化して、多くの人がそっち方面に集中すると、もはやパートナーとの人間関係が面倒。とりわけ、職種によっては、あまり人間関係そのものが上手でなくても食べていけるところも増えています。 ということで、親和欲求系統で発達したが、そのまま親和欲求と分離して残った盲腸みたいな性欲が肥大化して、かつ低コストでこれを満たすべく、 AV とか、アダルトサイトとか(私にとっては十分に高くて手が出ませんけどね!)が発達していくのです。 で、当然、これらは、自然と程遠く、そういう風に性欲を処理していること自体後ろめたい感覚がありますから、当然あまり日が当たるものでもないでしょう。 どう考えても、愛するパートナーと市場を介さずに楽しむのが、正しいセックスであり、その限りでは、社会的にどうこういうものでもないのです。 というわけなので、 1)でも述べましたけど、 もし、完全に、 セックスライフの充実化の商品と セックスそれ自体の商品 が完全に分離されたら、 前者のほうは、明るく日の当たるところで商売がなされるでしょうね。 6)セックス商品と厚生経済学の基本定理 上では、ずいぶんとバイアスのかかった「感じ」の意見を述べましたが、 どちらかといえば、私は経済学関連の専門家なので、こうした鬱屈した欲求も否定するつもりはありません。それは、もし、ちゃんとした大人の欲求ならば、一つの欲求であり、どうということもないでしょう。一見すると。 そこで、経済学の立場から、このことをほんの少し掘り下げましょう。 これにも、文献があるので、ご自身でお探しになっても良いし、decidrophobにメールを下さっても紹介します。 まず、売春はいろいろな国で非合法です。その理由は、いくつかあるでしょうけど、 とりわけ日本の場合は、明らかにパターナリズムです。つまり、初期の法律制定当時、あほな男性諸君が家庭を壊すことがあまりに多く、その最たる原因が、 「飲む、打つ、買う」であったわけですから、 特に後者二つはあらかじめ国が規制して、シートベルト同様に、他人に迷惑が及ばなくても、本人の選択肢を外してあげるのです。悪く言えばおせっかい、よく言えば親切心です。 そのほかの、より無害な AV みたいな商品でも、明らかに男性諸君の多くには、まっとうな恋愛を面倒に思わせる副作用があるでしょう。とても、例えば国策でGDP の将来の構成要素として推進するような文化としてふさわしいとも思えません。確かに、欲求を従来の経済学のように区別しないならば、こうした領域も立派な分野なのですが、金子守さんとか、社会学などでの「中毒」の議論のように、効用にもう少し構造を持たせて考える学派にとっては、本人が納得していない欲求は、必ずしも日の目を見る必要もないでしょう。金銭的コストだけでなくて、心理的コストも感じながらオナニーするくらいがちょうど良いと思います。もし、一人でバーチャルに処理する性欲処理を自然なものであると思う人が増えたら、こうした領域の市場も日の目を見ることになるでしょう。 18禁については、よく分りません。私も質問しているところです。結局、思い浮かぶ暫定的な答えは、上記のように、「性自体」に関する商品がタブーで、大人ならば、自分の責任の範囲で「本人にとって」悪いこともやってよいけど、子供は保護してあげようという親心でしょう。本当は、家族とか、まわりは、大人ですら、AV とか、援助交際とかはあまり買って欲しくはないと思います。 他方で、性教育は盛んになる一方なのですから、まさに1)で述べたような方向で、性を推進しようとしているのでしょう。日本社会は。
お礼
非常に考えさせられ、かつ大変目のさめる思いがします。その大きな要因は、「人間が本能的に社会的動物である」というような大きな前提です。 去年やっていたNHKの「地球大進化」で、似たような趣旨の人類変をやっていたので、それに感化されていたのかもしれません。が、本当には納得しかねていたところがあり、性欲までも社会的欲求に取り込めるのか?という疑問を残していたようです。ご指摘のとおり、私もそこまで包括的に考え及ばなかったものですから、性欲は漠然と原始本能だろうなと考えていたわけです。そこに安易な思考があります。 ただ私自身、個人的な問題になりますが、この話を耳にしたくなかったという事情があります。まさに、現代のコミュニケーション欠落症気味な傾向があり、社会性と性行動を自分自身の中でほとんど作り上げておりません。何で物足りない気分になるか、なんで後ろめたい気分になるか、社会融和性がベースにあるとすれば、まったく納得するしかありません。重い課題を自分自身に背負った気がいたします。「社会性の本能」強力です。
補足
しかし、疑問もありまして、良い性交が恋愛の必要条件ではなく、十分条件ではないか、つまり、親和性の問題と付随しているなら、なぜ精神的欲求がいつも肉体的欲求とセットになるのか、自動的に付加されるのか多少疑問です。中には、精神性が優位であり肉体的にあまり求めなくなる親和欲求もあるのではないか。セックスレスでは言葉が悪いですが、「プラトニック」というのが存在しないのかというような通俗的な議論を検証する必要が出てくるようにも思われます。あるいはこれも、現代の極度に発展したメディア社会が根底にあるのでしょうか。 これは、逆よりは後ろめたさは無いものです。その後ろめたさの理由は、ご回答により十分納得いたしました。
- kigurumi
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人間と他の動物の大きな違いがそこだと思います。 ネコにしろ犬にしろ鳥にしろ猿にしろ、他者の目、場所を気にせず交尾をしますが、人間界では普通は他者の目があるところでは交尾しません。 恐らく脳が他の生命体より異常に発達した結果かもしれません。 あまりいい例ではないかもしれませんが、知的に障害も持つ人、精神的に障害を持つ人は、公も場でもその本能に従順です。 では、脳が発達した人間は他の動物同様どうして本能に常に従順ではないのか。 聖書を読むと昔の人の価値観がわかります。 それを読むと、人間界では男が人間で、女は物的な見方をされており、それは常識であったというのがわかります。 昔は貨幣というものがありませんでした。 物々交換です。 「魚10匹 ヤギ10頭 それに娘いっぴきをつけるから、その土地をください。」 こうやって他者と交渉をしてきました。 イエスキリストの時代ですら、人数をカウントする時、女はその数の中に含まれていませんでした。 現代でも使われている聖書にも数の中には女は含まれていないようです。 男半分 女半分のこの世界で、数を数えるとき、女が含まれていない。 いるににいないものとされている。 そうですよね、 宗教においては性欲を感じさせる女は誘惑者サタンだとされていますから。 サタンは人間じゃない なるほど。。。って思います。 だから数を数えるとき女は数に入れないのだってわかります。 何億年のもの人間の歴史において、女性が男性と同様になりつつあるのは、ここ数十年です。 まだ同等ではありません。 なぜなら商品として扱われている社会がまだあり、それは現代の日本においてもまだそうだからです。 未だに多くの社会では女は人間ではなく物です。 選挙の時だけ、人間として扱っているだけです。 それを考えると、どうして人間界ではやりたい時に性交をしないのかの基本的な理由の一つがわかるように思えます。 娘を強姦されたら男は怒ります。 「俺の所有物を勝手に使うな」と。 いや そうじゃない。愛する娘が暴行を受けたから怒ったんだ? そうでしょうか。 女は共感脳、男はシステム脳 って本を今読んでいますが、女が娘を強姦されたら自分の事のように痛みを感じます。 男はそのような感覚を覚えずらいです。 脳がそういう能力が女に比べて低いので。 従って「俺の所有物に手を出したから怒った」というのが、本人には自覚の無い本当の怒りの理由ではないでしょうか。 食欲に関するカルチャーが進んだのに、性欲に関するカルチャーはなにかしら密閉されたように思える? それは男の方にどうしておおらかにしないのかって聞いた方がいいと思います。 密林や砂漠の民族によっては、とても性にはおおらかで、旅行者をもてなすため自分の妻を提供するところもあるようです。 これがおおらか? とても私にはおおらかな性の文化だとは思えません。 そこにはやはり女は ブツとしてしか存在しないからです。 結局性を開放しても、女がブツとして利用されるしかなく、性を開放することを希望する人は、沢山の自分の遺伝子をおおっぴらに植え付けたいからではないのでしょうか? って疑惑が出てしまいます・・・・・。
お礼
長文のご回答、ありがとうございます。 本能の一節、非常に納得いきます。大脳皮質のなんとかですよね。性を「知的」なものとして捕らえるという、進化なのか何なのかわからないことが起こっているようです。 聖書にそれほど女性蔑視があるとは知りませんでした。恐ろしいですね。ちょっとさかのぼると、男女同権などという常識がまったく通用しない時代にすぐ突入するという、人類史の闇がありますね。で、その後ろめたさのためかなと、ちょっと思ったのです。男の所有欲から性を閉ざしたというご回答には、大変考えさせられます。視野が広がります。ただ、今はちょっと私が考えていた範疇外なので、まだピンときませんが、もう少し考え(られれば)考えたいなと思います。
- KINGBIRD
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そもそも、何をもってなぜ人間の「三大欲求」などと決めつけなくてはならないのか、なぜ仮に三つが基本として性欲をそこにいれるのか、bossambaさん同様、非常に疑問に思います。 「なぜ、人は性にまつわることについて隠すのか?」「なぜ、人は性にまつわることに羞恥心を感じるのか?」は興味深いテーマです。でも、質問に書いてらっしゃる残りの部分には賛成できません。ミスリードではないかと思います。 そもそも人間は、生殖に関して非常におおっぴらだったからこそ、現在地球上で60億というありえない過密人口を誇っているのではないのですか?その性欲のために無尽蔵に数を増やし、自滅しかかっているように見えますが・・・。 さらに女性が閉経後もセックスを行うというのが、他の動物には見られない興味深い文化です。通常、動物の雌は生殖行為を行うようなホルモンが充分でない場合、がんとして雄を拒むものです。ところが人間の女性は、文化によってその後もセックスを行う。 他の動物と違い、生殖に結びつかない性欲が、特に男性の場合は組織的な商業施設まであって推奨すらされているのに、何をもって「性欲がないがしろにされている」と思われるのでしょうか。むしろ非常に性に関して奔放な生き物です。そのことが羞恥心云々と関係しているのかもしれません。 人間が性に関して羞恥心があるのは確かですが、「風俗店やポルノビデオをレンタルしたりすることに恥ずかしい思いがある」のは、本来の性の姿と違う形で性に関わることが恥ずかしいのでは? あるいは、そもそも羞恥心のある行為を、周囲に喧伝してしまう形になるのが恥ずかしいとか、そういうことなのではないでしょうか。ラブホテルにはいるのは人目につき、「今から私達セックスします」「今やってでてきました」と触れ回ることになるから恥ずかしいのであって、誰にも触れ回る行為にならなければ、それは恥ずかしくないのでは? つまり、性欲をないがしろにしているのではなく、羞恥心から隠したくなるだけなのではないでしょうか。 自由奔放にセックス可能になれば、人間社会から暗い陰がなくなるかも・・・とおっしゃっているように解釈しましたが、暗い陰があるのはむしろ、経済的な不均衡など他のことが原因ではないかと思います。 人間も他の動物と同様、男女両性あります。片方が子どもを産むからには、両性の繁殖適応戦略は微妙に違うものになります。また一夫一婦制に近い形で落ち着いたことが、人間の繁栄に一役買ったと思います。 従って性に関してもっとオープンで正々堂々とした社会になっても、同じく性を売り物にする産業は生き延びると思います。 個人的な推論になりますが、原始人には羞恥心があったと思いますね。原始人とはいつの時代のどの人類を指すのかちょっと曖昧ですが、現世人類につながる初期の人類の段階から、確実にあったと思われます。 なぜなら本能では行えない生殖行為を、この文化でコントロールしていたはずだからです。(なぜ本能とはなりえなかったかというと、本能の定義もさまざまですが、環境の変化に広く順応するためにはあまり厳密に決めず、大人社会が子どもを教育する方がより適応していたからではないでしょうか。)
お礼
長文のご回答、ありがとうございます。 ご共感、また、ご批判もありがとうございます。 閉経後にもセックスを行うという点、ホモ・サピエンスだけが「おばあさん」が存在するそうです。ですので、他の原人新人は、したくてもできなかったということらしいです。で、それがいま人類が栄えている要因なのですが(テーマからそれますので省略します)ですので、現生人類が繁栄しているのは、必ずしも生殖欲が高いということでなく、よりうまく育てることができる死亡率が低いということのようです。 ないがしろにされているというのは、やはりラブホテルや性関係の商売が表には出ていないと思われるからです。CMでもやらず、「性欲」特集番組も無い。奨励されているというか、裏の文化として息づいているという意味です。本当の羞恥ならいいのですが、後ろめたさというほうが近い気がします。性関係の界隈店舗にいる人たちの暗い表情が存在します。ですので、商売としての闇でなく、まず後ろめたさを逆手に取っていることから闇が発生しているのではないか、と感じています。 そして確かに一夫一婦制の社会コントロールが繁栄と結びついてもいるのでしょう。それが自然状態を抑圧して成立していると私には思えます。 最後の文なのですが、ちょっとわかりにくい感じでしたすみません。
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お礼
この回答!すばらしく疑問が解けてまいりました!という気がすごく起きています。 かっこつけ文化ですよね。それは近世の貴族社会から始まったのか定かでないですが、とにかくポーズをつける風習がこっから発してる気がします。そして、後に続く御論旨のとおり、団塊の世代まで続く、外から決められた価値観に縛られていた伝統というのが、実はもっとも疑問を解く鍵にふさわしいような気がいたします。 性がなぜ後ろめたいのか。ともかく本能をさらけ出すことの嫌悪感をあおるような風潮がここ何十年か続いていて、それが定着しているというのが一番の要因ではないでしょうか。もちろん複合的な要因からなのでしょうが。 いま、そういう価値観が変化しつつある時期かもしれないですね。もうすぐ、ビデオリラクゼーションぐらいはパチンコ屋に入る感覚ぐらいに普通になりそうな気がします。 親和欲求である性が、あまりに人工的に売られている「売春」まがいまで行くと、さすがに抵抗感が急に強くなって、最後までなくならないでしょうが。結局のところ、なぜ売られた性が後ろめたいかというと、本来あるべき「社会性の獲得」と「配偶者の確保」「性生活」いう、人生の成功例から外れているという後ろめたさが根源的に沸き起こっている感情なのだろうと感じています。たいへん勉強になりました。 decidrophob様の今回の大変にご丁寧で長大なご回答、感謝いたします。