- ベストアンサー
院政時の財政基盤について
rczdの回答
- rczd
- ベストアンサー率29% (33/113)
「新修角川日本史辞典」から引用します。 ◇「成功」(じょうごう) 売官の一つ。朝廷の行事や造営事業、寺社の修造等の際、費用を進納したり造営を請け負う者に対して希望の官職や位階をあたえる制度。(中略)官職のなかでは特に国司を希望する者が多く、また一官職に複数名の希望者がある場合、成功はその官職への任官優先権獲得の手段にもなった。平安後期に最も盛行し、南北朝期まで続いた。 ◇「院宮分国制」(いんぐうぶんこくせい) 院・女院・皇后・中宮などが特定の国の国守(受領)を推挙し、その献納物を受け取る制度。908(延喜8)宇多上皇の信濃国を初見とし、平安後期に急増、鎌倉前期には知行国制と同質化した。 ◇「受領」(ずりょう) 遥任<ようにん>国守に対し、任国に赴いた国司の最高責任者である守(親王任国では介<すけ>)をいう。平安中期、中央官職を藤原氏に独占された中小貴族は競って受領の地位をもとめ、その徴税権により巨富を蓄え、経済力を背景にやがて院の権力基盤となった。(後略) ◇「知行国」(ちぎょうこく) 国の知行権(吏努<りむ>という)を特定の公卿・寺社などにあたえ、その国の正税・官物などの収益を得させる制度。これを得た者を知行国主といい、国守の任命権を得た。平安中期の院宮分国制に始まり、平安後期に急増。院政や平氏政権の財政基盤となった。(後略)
関連するQ&A
- 上皇が熊野御幸を行い、天皇が行わなかったのはなぜ
907年に宇多法皇が熊野御幸を行って以来、歴代の上皇が熊野御幸を行うようになったそうですね。 白河上皇は9回、鳥羽上皇は21回、後鳥羽上皇は28回、後白河上皇の34回もされたそうです。 ですが天皇の行幸は行われていないと聞きました。 なぜ上皇は熊野御幸を行い、天皇は行わなかったのでしょうか。 自説も大歓迎です。 ただし、自説の場合は自説だと明記してくださるとわかりやすくて嬉しいです。
- ベストアンサー
- 歴史
- いかにして、摂関政治から院政へと権力が移行したか?
Wikipedia 『院政』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A2%E6%94%BF 平安時代、藤原北家の摂関政治により日本の政治が支配されていました。 その後、上皇の院政により藤原氏から実権を奪ったとされています。 こうなった経緯は、一般的には以下のように説明されています。 ・白河天皇の父である後三条天皇は、藤原氏を外戚としていなく、 藤原氏にとらわれることのない自由な政治を行なえた。 ・上皇は武士の力を巧みに利用する事により、藤原氏より優位に立てた。 ここで疑問があります。 武士の力を利用するのは上皇だけでなく、藤原氏も出来た事だと思います。 また、平安時代は天皇の指名権は実質上は藤原氏に握られていたので、 藤原氏を外戚をしない後三条を天皇に即位させなければ、摂関政治を 維持できたと思います。 かつて栄華を誇った藤原氏が手をこまねいて易々と実権を奪われたとは 考えにくいです。 歴史教科書に書かれている以外の何か理由があるような気がします。 いかにして、上皇は藤原氏から実権を奪い取ることに成功したのでしょうか? ご見解をお聞かせ願います。
- ベストアンサー
- 歴史