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江戸時代、京風は贅沢、豪奢だったのか?

昨年、テレビドラマでは『大奥』がやっていましたね。 その中に登場するお万の方ですが、後に大奥総取締になったということは描かれていましたが、 ネットで検索していたら、春日局死後に大奥を京風(華やかに)してとてもお金を使ったという評価もあるようです。 ここでちょっと疑問が。当時、はたして京風は華やかなもの、あるいは豪奢なものだったのでしょうか? 大奥の贅沢が加速したのは、京からたくさんの女官が入ってきた綱吉以降などともいわれていますが、 まず経済力でいえば幕府の方が強大で、東福門院和子の入内に数百億かけたという逸話も残っていますよね。 片や朝廷側というと、近衛家や鷹司家でも旗本程度の資産しか持っていなかったといわれています。『天璋院篤姫』にも、確か和宮はかなり貧乏だったような記述がありました。 また、豪奢で絢爛豪華な安土桃山風の衣装や建築は武家のものです。 だとしたら、当時は贅沢なのはむしろ武家風だったのでは?と思ったんです。それとも、公家は限られたお金で精一杯贅沢をしていたのでしょうか。 贅沢=経済力というのは単純かもしれませんが、色々な小説に書かれているように京風が当時華やかだった、というのは何かおかしいな…と感じます。 当時の武家、公家の生活がどのようなものだったか興味があります。

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回答No.2

トレンド・メーカー東福門院  先ず<お金を沢山もっている>と<お金を沢山つかっている>とは同じでない事に注目。次に<京風>と<京都の人の生活レベル>は違う事にも注目。  戦うことを職業とした武士は贅沢な生活を知らなかった。公家・朝廷は贅沢な生活に慣れていて、生活費を切りつめても贅沢な生活をしようとしていた。大奥は、公家・朝廷よりも金が有ることに気づき京風の贅沢な生活様式を真似ようとした。  こういう事なんだと思います。  ところで、東福門院和子のことを「衣装狂い」と表現する人もいますが、東福門院は優しく、賢い女性だったと思います。東福門院の持参金である年1万石は寛永文化発展のために有効に使われたと思います。東福門院は当時の「トレンド・メーカー」だったのです。  「トレンド・メーカー東福門院 」をキーワードに検索してみて下さい。参考になるサイトがあると思います。

maddy-kz23
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 > 先ず<お金を沢山もっている>と<お金を沢山つかっている>とは同じでない事に注目 確かに。#1の方が仰っていたように、特に江戸時代初期はまだ戦国の雰囲気も残っていたでしょうし、あまり贅沢をする気分にはなれなかったかもしれません。 教えてくださったキーワードで検索してみたところ、東福門院に関して興味深いサイトがありました。 http://www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/top.html 東福門院に関しては和宮同様悲劇的な女性というイメージしかなかったのですが、それ以外の側面もたくさんあるとわかってうれしかったですね。

その他の回答 (1)

回答No.1

江戸時代の武家(特に幕府)が贅沢だったということについては甚だ疑問です。頂点にたつ将軍の普段の生活が、実際は質素でつましいものだったことは周知の事実のはずですが。大奥の贅沢は特例なような気がします。 江戸時代前期は、戦国時代の余韻もさめやらぬ新興「軍事都市」江戸を中核とする軍政がスタートした時代でもあり、文化的なものは「京都からのお下がり」が中心であったと思われます。元禄期ぐらいまでは京都が文化の中心であり、江戸独自の文化が発達したのは文化・文政の江戸中期以降ではなかったでしょうか。(それすら町人が文化の主体で、武士が引っ張られる形) たしかに徳川幕府が公家に対して経済的な締め付けを行っていて公家が困窮していたのは確かですが、京風文化は公家だけで成り立っていた訳でもありますまい。

maddy-kz23
質問者

お礼

回答有り難うございます。 >頂点にたつ将軍の普段の生活が、実際は質素でつましいものだったことは周知の事実のはずですが。 そうだったんですか。私はどちらかというと大奥の女性達に囲まれて贅沢な生活をしていると思っていました。 しかし、それもよく考えたら綱吉以降の貴族化した将軍の時代かもしれませんね。確かに家康、秀忠あたりは質素だったと言われてますね。 >京風文化は公家だけで成り立っていた訳でもありますまい。 なるほど。確かにそれを支える商人の台頭などもあったわけですよね。京風=公家と考えるのは視野が狭かったのかもしれません。

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