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石原莞爾が戦犯にならなかたのは?証拠がなかったから?

何年か前に「その時歴史が動いた」で初めて石原莞爾を知りました。 番組の最後で、昭和23年のものというインタビュウー映像が流されました。 彼は、丹前を着て布団の上に座ってインタビュウーを受けており、その少し後に亡くなったとナレーターが言っていたようにも記憶しています。 「あれ、この人って戦犯ではなかったんだ。」番組の内容から考えるととても違和感があったのを覚えています。 その後、戦犯にならなかったのは、証拠がなかったからで、昭和30年代に彼の部下だった人の証言で初めて石原莞爾が立案者?だったことが判明したと読みました。(どのサイトだったか今は探せません。) これは、本当でしょうか? あんな大それたことが何の記録もなく行われる事は可能でしょうか?

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回答No.2

 石原は満洲事変の張本人でしたが、その後、対中戦争をめぐって東条英機と意見があわず、予備役に繰りこまれてしまいます。壮大な世界観・歴史観をもとに大局的な計画を描き、戦争を実行しようとする石原と、場当たり的な官僚主義・権威主義の東条はもともとそりが合わず、東条内閣の成立時も石原が手ひどく政策を批判しています。  東京裁判では、戦争の国家的な遂行にかかわった容疑者(A級戦犯)として太平洋戦争に踏み切った東条内閣の関係者を特に重視していました。このため東条に対する批判者は「非戦犯」とする図式的な解釈があったのだと思います。  東条は陸軍出身、統制派の嫡流、天皇制ファッショ的な傾向がつよく、国際協調路線を無視、特に英米に対する敵対意識がつよい政治家でした。ですから裁判でも、東条を最大の悪とする以上、非東条的な人物――文官出身者、海軍の開明派、陸軍皇道派、自由主義的思想の持主、国際協調派、英米融和派――については点が甘い部分があったといえます。  石原は検事側証人として法廷に登場していますから、お目こぼしどころか、連合軍側は「非東条的=自由主義者」と考えていた節があるようです。東京裁判が中国戦線についてはごくお座なりで、太平洋戦争についてのみ重視されているというのはむかしから指摘のある部分ですが、石原の扱いにはそれが端的にあらわれていると思います。  満洲事変の計画立案については、戦争直後から石原の思想や計画に基づくものであることは暗黙の事実として知られていました。決して証拠不足ではなかったと思います。ただ、石原がどこまで実行計画にかかわっていたかどうかは不明な部分が多く、たとえばA級戦犯としてその思想が戦争遂行に影響を与えたとして起訴された人物が大川周明ひとりであったこと(裁判中に発狂し審議中止)を見ても、裁判にかけたところでどこまで罪を問えたかどうか疑問な点はあります。  連合国が重視しなかった初期の満洲問題で影響力を行使したこと、はやい時期に予備役となって現役を退いていたこと、東条と仲が悪かったこと、の三点が、石原の場合には有利に働いたといえるのではないでしょうか。

noname#13484
質問者

補足

詳しく教えていただきありがとうございました。 もう少し教えていただけますか? 私は、昭和47年の時点で満州事変は広東軍の陰謀だったと教科書にあったと思うのですが、(先生は何も教えてくれませんでした。)石原の部下が証言する前の教科書では、どんなふうに教えていたのでしょうか? それから大川周明とは、どんな人物ですか?

その他の回答 (3)

noname#32243
noname#32243
回答No.4

石原完爾は自ら「戦争犯罪人」だと公言していたと本で読みました。何故なら満州国建設は彼にとって「民族協和」を理想としていたのに、次第に日本が満州を独占して、他民族を圧迫したという結果に終わってしまい「俺は在満中国人に対する約束を裏切った。この意味において立派な戦争犯罪人だ」と述べていたということです。また実際、私の知人が石原氏を知っているという方(故人)を知っていて、その方は「戦時中、初年兵であった私は上の兵隊から顔が腫れ上がるほどよく殴られていた。ある日、以前面識のあった石原将軍が私のいる軍隊に視察に来られたことがあった。沢山の兵隊が整列していたところ、私の姿を見、つかつかと歩み寄られ『なんだ、君はここにいたのか』と声をかけて下さった。それからだよ、私は上の兵隊から殴られることはなくなった。僕の顔が腫れていたのが何故か判っていたからなんだろうね」と仰っていたと伺ったことがあります。そしてある本には、兵隊達にとって短い入浴とまずい食事の改善を徹底したとありました。浴場を視察し「敬礼はせんでもいい。湯加減はどうだ」と言葉をかけ、兵達が喜んでいるのを嬉しそうにながめていたということです。戦後「悪役」ばかりの石原氏ですが、上の人間に媚びることをせず、下の人間を思いやりをもって、とても大切に扱っていたという話しは沢山あるようですよ。

noname#14405
noname#14405
回答No.3

東京裁判での陸軍関係の戦犯指定は、自らの戦歴を一切不問とすることで連合軍の側に立ってかつての仲間を売りまくった田中隆吉との距離関係で決まった、との風聞もありました。 田中と犬猿の仲だった武藤章は絞首刑になって、田中に賄賂を贈った某高官は異例の刑の軽さ、はたまた同じ理由で某学者は精神障害を理由に免責などなど。 あくまで噂ですが、陸軍内部の事情に疎い連合軍は田中を頼りにした部分が大なので、田中隆吉の陸軍内での立場や戦歴、人となりを知れば、何でこの人が絞首刑でこの人は起訴もされていないのか、などわかるかと思います。 ひとつの参考までに。

  • dollar
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回答No.1

原因を一言で言うと、米国側が戦犯指名する際の調査が十分とはいえなかったことでしょう。実際、最初はA級戦犯として東条内閣の大臣全員を逮捕しています。(その後関係ない人は無罪釈放されましたが) (1)満州事変後、帰国してからは石原は第一線で活躍しなかった。つまり太平洋戦争にはほとんど関わっていない。 (2)満州事変の責任者としては、板垣征四郎が既に指名されていた。 (3)石原は郷里の山形に帰っており、また重病ということで指名は見送られた(じゃあ松岡洋右はなぜ指名されたのかという謎は残るが)。 などの理由を聞いたことがあります。 石原だけでなく、戦犯指名についてはいろいろ疑問が残るところです。陸軍皇道派の大物・真崎甚三郎も告訴されませんでしたし。 なお石原は東京裁判の証人として出廷(東京まで行かずに山形で出廷)したとき、「なぜ自分が戦犯指名されないのか、おかしい」と自分で言ったそうです。

noname#13484
質問者

お礼

いろいろ教えていただきありがとうございます。 実は、彼の墓所の近くに住んでおり、買い物の折々に「墓所」看板を見るので忘れることができません。 地元の方は、英雄視しているのかなと思い公平な意見を聞いてみたいと思っていました。

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