弘徽殿の馬道とは?

このQ&Aのポイント
  • 弘徽殿の馬道について詳しく知りたいです。
  • 馬道をはさんで北母屋は塗籠らしく漆喰だと思いますが、南母屋と馬道の境は何だったのでしょうか。
  • 大内裏図考証に書き込まれた文字が判読できず、閉じられた馬道が真っ暗だったのか疑問です。
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弘徽殿の馬道のことで

 桐壺更衣が閉じ込められたと言われる「弘徽殿の馬道」のことです。 大内裏図考証を見ますと、馬道をはさんで北母屋は塗籠らしく漆喰だと思うのですが、南母屋と馬道の境は何だったのか、襖障子なのか、まさか漆喰とか御簾ではないでしょうし。大内裏図考証に書き込んである文字が私には判読出来ないのです。「平記如(一字不明)此隅」と書いてあるのでしょうか。そうだとしても意味は分からないのですけれど。  国文学などの素養がありませんので、分かる方、どうか教えて下さい。疑問の本体は「閉じられた馬道は真っ暗だったのか」ということなのです。更には、北母屋の位置には「源氏物語」「くるる戸」「清涼殿夜御殿」などと断片的には分かるのですが、全体はどう書いてあるのでしょうか。すみません。質問の趣旨が分からなければ、再度、考えて質問します。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • gunsin
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回答No.1

質問の主旨からは外れていると、思いつつの回答です。 御存じの事とは思いますが、紫式部日記で道長の祝宴で藤原公任 に「あなかしこ。このあたりに、わかむらさきやさぶらふ」と 絡まれた時の、つぶやきで、私の想像なのだから、居ないの ですよと、記されています。 源氏物語は人物の表記はこまやかですが、建物に関しての描写は 少ないのです、複数有る写本で若干、描写が違うので、お望みの 建物の微細な事までは、解らないと思いますよ。 質問者様と同じ想いの鎌倉時代人が、「源氏物語絵巻」で描写 してます、絵巻を参考に探索するしか、ないと思います。

yukizuisen
質問者

補足

裏松固禅の大内裏図考証弘徽殿図の馬道に手書き文字を読むしか方法がないようです。どなたかおわかりの方があれば。