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【日本史】新選組と彰義隊と白虎隊は全て第15代将軍
【日本史】新選組と彰義隊と白虎隊は全て第15代将軍の徳川慶喜の親衛隊で同じ時代の話ですか? なぜ徳川慶喜を守る親衛隊が京都と江戸の場所が違うところにいたのですか? 白虎隊はどこにいて何をしていたのでしょう? 新選組と彰義隊はどちらの方が先に壊滅させられたのでしょうか?新選組と彰義隊の時代差は何年くらい開いている話なのですか?
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3組とも「徳川慶喜の親衛隊」ではないですね。 新撰組は、「京都守護職」松平容保指揮下の浪人部隊です。容保からカネをもらい、京都守護職の権威は利用しましたが、召し抱えられたわけではないので身分は浪人で、勝手に京都の治安を「任された」として尊皇派を弾圧したわけです。 新撰組の隊士には慶喜を守る気など、さらさらナシ。 彰義隊は、旧幕臣が結成した反政府集団です。集団化するためには旗印がいるので、徳川幕府を守るんだ、と言っていただけで、慶喜の意志に反して(慶喜は迷惑がって解散させたがっていたらしい)集団化し、慶喜の意志に反して行動していたようです。慶喜を守る行動はしていないので、とても慶喜の親衛隊とは言えないでしょう。 彰義隊の隊士にも慶喜を守る気など、さらにナシ。新政府に対する反逆心のみ。 有名な「白虎隊」は、会津藩の少年兵隊です。会津藩は江戸幕府を絶対に守るんだ、という幕府大事の藩ですから、幕府とまったく関係ナイとは言えませんが、慶喜とは無関係です。 会津藩は官軍と戦うに際し、青竜、白虎、朱雀、玄武の4部隊を作りましたが、その1つ白虎隊のさらに少年たちで編成された部隊が、いわゆる「白虎隊」です。 あくまでも官軍と戦って会津を守る兵団だったので、慶喜の行動・安否とは関係ありません。会津若松城が燃えたのを見て(実は会津の飯盛山と城の間の家々が燃えただけだが落城したと勘違いし)、飯盛山で集団自決しました。 白虎隊の隊士にも、慶喜様が生きているんだから我々も生き続けようなんて気、爪の先ほどもナシ。会津がすべて。 新撰組は1868年1月27日の鳥羽伏見の戦いで敗れ、隊は事実上解散・自然消滅。 彰義隊が結成されたのは江戸城が明け渡された後の1868年2月、負けて敗走したのが5月の上野戦争だそうですから、時代差は(新撰組解散から彰義隊解散までは)6・7ヶ月となりますか。
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