suicyo の回答履歴

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  • なぜ足利氏は天皇の外戚にならなかったのか?

    武士として権力を掌握した人たちは、たいてい皇室に近づこうとしています。 平清盛も、源頼朝も、徳川家康も、娘や孫娘を天皇家に入内させています。 しかし、なぜか足利氏からは一人も入内していません。 足利氏は天皇の外戚になる意思はなかったのでしょうか? 少なくとも三代義満などは、朝廷と非常に接近していて、皇位簒奪説までありますよね。 天皇家の外戚になることは考えなかったのか、非常に気になります。

  • なぜ足利氏は天皇の外戚にならなかったのか?

    武士として権力を掌握した人たちは、たいてい皇室に近づこうとしています。 平清盛も、源頼朝も、徳川家康も、娘や孫娘を天皇家に入内させています。 しかし、なぜか足利氏からは一人も入内していません。 足利氏は天皇の外戚になる意思はなかったのでしょうか? 少なくとも三代義満などは、朝廷と非常に接近していて、皇位簒奪説までありますよね。 天皇家の外戚になることは考えなかったのか、非常に気になります。

  • 現在でも源(みなもと)さんは居ますか?

    天皇から賜わった姓としては「藤原」さんや、「橘」さんが現在でもわりと多いので有名だと思いますが、「源(みなもと)」さんや「平(たいら)」さんは現存しない姓なのでしょうか? 前者はよく聞く名前なのに、後者はほとんど、というか聞いたことないので不思議に思いました。 また、関連した質問として、上記の「藤原さん」たちは鎌足から脈々と続く藤原さんなのでしょうか?それともほとんど関係ないですか? やはり藤原さんの中でも、教科書にでてくるような藤原氏の血筋の子孫は1%未満ですか?

  • 信州の諏訪氏の姓は「神」?

    戦国大名の武田勝頼は、武田信玄と諏訪頼重女(大河ドラマ風林火山では「由布姫」)との間の子で、信玄の嫡男の義信が廃嫡されるまでは、諏訪氏の後継者として遇されていたとされます。現に、塩尻市の小野神社に寄進した梵鐘に「郡主 『神』勝頼」「大檀那 諏訪四郎『神』勝頼」と名を記しているなど、諏訪姓で署名した文書が多く残っているようです。 諏訪氏は「神氏」とされ、諏訪神社の神官が武士化した家柄です。上記の「諏訪四郎 神勝頼」という署名は、「武田太郎 源義信」「織田上総介 平信長」といった署名と同じく、「諏訪氏の姓は『神』である」と称しているもの、ということではと考えます。他の家では見たことがない署名ですが。 諏訪氏の本家は武田信玄に滅ぼされ、諏訪氏を継ぐ筈だった勝頼は結局武田氏を継いで織田信長に滅ぼされてしまいました。ただ、分家が徳川家康に仕えて諏訪氏を再興し、諏訪高島藩主として明治に至っています。 http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/hokuriku/takasima.html 質問なのですが、 1. 勝頼以前の諏訪氏当主、例えば諏訪頼重は、「諏訪刑部大輔 神頼重」と署名していたのでしょうか? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E9%A0%BC%E9%87%8D_%28%E5%88%91%E9%83%A8%E5%A4%A7%E8%BC%94%29 2. 江戸時代の高島藩の歴代当主は、例えば「諏訪因幡守 神頼水」と署名していたのでしょうか?

  • 長府藩主家(毛利秀元の家)の幕府からの厚遇

    毛利秀元は、もともと毛利輝元の嗣子でした。輝元に実子の秀就が生まれたために身を引いて別家を立てた人で、官位は正三位参議と高く、関ヶ原の役以前は山口20万石を分知され「毛利家一門筆頭」であったようです。輝元の陣代を度々任され、優れた武将として多くのエピソードを持っています。 関ヶ原の役の後、防長2国に押し込められた毛利家の中で、長府5万石を分知されて「一門筆頭、正規の大名」の立場になったわけですが、秀元本人はともかく、2代目の光広、3代目の綱元はいずれも四品に上り、将軍の偏緯を与えられています。綱元は侍従にも任じられています。この「四品、侍従、将軍の偏緯」と言う待遇は、国持大名である毛利本家の当主と同じです。5万石の大名としては、他に例がない厚遇と思われます。 http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/chugoku/chofu.html 4代目・5代目は四品には上っても将軍偏緯は与えられず、秀元の直系が途絶えた6代目以降は「普通の5万石の大名」扱いになっていますが。 秀元は江戸時代に「戦国の最後の生き残り」的な尊敬を受けた人だったようですが、1651年に生まれた3代目の綱元(秀元の孫)にまでその余慶が及んだということでしょうか?4代目に至り、将軍の偏緯を受けなくなったのも何か理由がありそうです。

  • 長府藩主家(毛利秀元の家)の幕府からの厚遇

    毛利秀元は、もともと毛利輝元の嗣子でした。輝元に実子の秀就が生まれたために身を引いて別家を立てた人で、官位は正三位参議と高く、関ヶ原の役以前は山口20万石を分知され「毛利家一門筆頭」であったようです。輝元の陣代を度々任され、優れた武将として多くのエピソードを持っています。 関ヶ原の役の後、防長2国に押し込められた毛利家の中で、長府5万石を分知されて「一門筆頭、正規の大名」の立場になったわけですが、秀元本人はともかく、2代目の光広、3代目の綱元はいずれも四品に上り、将軍の偏緯を与えられています。綱元は侍従にも任じられています。この「四品、侍従、将軍の偏緯」と言う待遇は、国持大名である毛利本家の当主と同じです。5万石の大名としては、他に例がない厚遇と思われます。 http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/chugoku/chofu.html 4代目・5代目は四品には上っても将軍偏緯は与えられず、秀元の直系が途絶えた6代目以降は「普通の5万石の大名」扱いになっていますが。 秀元は江戸時代に「戦国の最後の生き残り」的な尊敬を受けた人だったようですが、1651年に生まれた3代目の綱元(秀元の孫)にまでその余慶が及んだということでしょうか?4代目に至り、将軍の偏緯を受けなくなったのも何か理由がありそうです。

  • 烏帽子親と烏帽子子について

    烏帽子親について、辞書で元服親、後見人、といったニュアンスの説明を見たのですが、 実父が健在でも成人後別に烏帽子親を持つのは普通だったのでしょうか? (どのような場合烏帽子親をもつのでしょうか?) また、烏帽子親と烏帽子子との関係はどういったものなんでしょうか? (元服後も関わりがあるのでしょうか?) など、いろいろと気になり質問させてもらいました。 もしかしたらその時代時代で変わってしまうかもしれませんが、 所謂、戦国時代あたりで烏帽子親と烏帽子子について教えてください。 よろしくお願いします。

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    • akir224
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  • 加藤清正公のお墓について

    加藤清正公のお墓は熊本市の本妙寺にありますが、山形県鶴岡市の天澤寺で、昭和24年に清正公の御骨が発見されたという事を知りました。ということは、本妙寺のお墓には御骨はないのでしょうか?教えてください。

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    • yumi8
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  • 「ころび芸者」と「山師運上」(田沼意次批判の狂歌)

    田沼意次の治世時に歌われた狂歌、 「世にあふは 道楽者に おごりもの ころび芸者に 山師運上」 このなかの、「ころび芸者」と「山師運上」の意味がわかりません。

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    • noname#45312
    • 歴史
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  • 「ころび芸者」と「山師運上」(田沼意次批判の狂歌)

    田沼意次の治世時に歌われた狂歌、 「世にあふは 道楽者に おごりもの ころび芸者に 山師運上」 このなかの、「ころび芸者」と「山師運上」の意味がわかりません。

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    • noname#45312
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  • 昭憲皇太后

    本来ならば昭憲皇后であるのに昭憲皇太后となった経緯を教えてください。

  • 東武天皇について教えてください

    明治天皇に対立して即位したといわれる徳川幕府側の『東武天皇』(後の北白川能久親王)の天皇としての即位の正当性及び歴史上の天皇としての位置づけについて教えてください。

  • 戦時中、大臣の息子達は戦地へ行って戦った?

    戦時中、当時の政治家にも息子がいたと思いますが、その子供達は激戦の戦地へ行ったり もしくは特攻隊に入隊したりしたのでしょうか。 特攻隊や人間魚雷も、当時きちんと(?)法律を制定した上での作戦と聞いたので 家族を持ちながらなんてひどい法律を作るんだ?!と思ったもので…。 もし、そのような法律を作っておいて、自分の身内は行かせなかったなら最低。 でももし自ら行かせたのであれば、これはもう人間ではない。

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    • alfax2
    • 歴史
    • 回答数3
  • 太平洋戦争時の日本って

    私は子供の頃はよく親に反戦教育と称した 太平洋戦争の本を読まされましたが、治安維持法や 特高警察というものを知って怖がっていたように 記憶しています。このように現在やそれ以前の 日本からは考えられないような野蛮な法律や組織 の存在がまかり通っていたのはなぜですか? シビリアンコントロールをしないとある日、突然 北朝鮮みたいになってしまうということですか? それとも、パラダイムがそっちに行ってたと言うか 戦争の熱病にかかった当時の人々はいわゆる非国民を 厳しく取り締まるのを支持していたのですか?

  • 服忌令のなかに出てくる「血荒れ」の意味

    服忌令のなかに出てくる「血荒れ」の意味がわかりません。 この法令は綱吉の治世のものです。忌むべき対象として。

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    • Bors
    • 歴史
    • 回答数3
  • 家系の初代の定義?

    大名、武将などの家系の初代について質問します。 この人物が初代であると決める基準(?)はあるのでしょうか? 一例ですが、細川家は初代が藤孝(幽斎)ではなく忠興だそうです(間違っていたらすみません)。 分家で初代○○というのは良くあるのですが。 他にもこんな例があるのでしょうか?

  • 武塔の神

     ご高名な先生のご著書に“武塔の神”ということばが、衆知にして周知のことのように出てきまして、直接お尋ねするのもはばかり、字書などを索引しまさた。在りませんでした。Webでは『備後国風土記』に、“蘇民将来”のことが紹介されていました。ここでは不明でしたが、素戔鳴尊のことかなとも思えたのでが、この“武塔の神”についてそして“武塔”ということについてどうかご教示下さい。

  • 大和国における守護

    中世、大和国(奈良県)は興福寺が治めていますが、それについていろいろ疑問があります。 1・いつから武士支配の守護職ではなく興福寺が支配するようになり、なぜ興福寺なのでしょうか? 2・寺領との違いはあったのでしょうか?大和は寺院が多数ありましたが興福寺は特別だったのでしょうか? 3・筒井氏について。国人領主の筆頭というだけで守護職ではないようです。興福寺に対して服従していたのでしょうか?もし服従していないとしたら興福寺は大和全土を支配していなかったと言えるのでは? 4・筒井氏、松永氏や豊臣秀長の時代以降も守護職は置かずに興福寺支配だったのでしょうか? 以上よろしくお願いします。

  • 大和国における守護

    中世、大和国(奈良県)は興福寺が治めていますが、それについていろいろ疑問があります。 1・いつから武士支配の守護職ではなく興福寺が支配するようになり、なぜ興福寺なのでしょうか? 2・寺領との違いはあったのでしょうか?大和は寺院が多数ありましたが興福寺は特別だったのでしょうか? 3・筒井氏について。国人領主の筆頭というだけで守護職ではないようです。興福寺に対して服従していたのでしょうか?もし服従していないとしたら興福寺は大和全土を支配していなかったと言えるのでは? 4・筒井氏、松永氏や豊臣秀長の時代以降も守護職は置かずに興福寺支配だったのでしょうか? 以上よろしくお願いします。

  • 万葉集のよみ人

    万葉集の時代に歌を詠める人は相当な高学歴者であったと思うのですが 実際あの時代に庶民が読み書きできるほど教育が普及していたのでしょうか? 識字率も多分数%であり一般庶民の感情を反映しているものではないとおもうのですが。よみびとしらずは単なる貴族の創作ではとおもいますがどう思いますか?