suicyo の回答履歴

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  • 中国・韓国などの反日運動を見てどう思いますか?

    今更、という感じですが… 以前まではほぼ毎日のように、中国・韓国の反日運動が テレビで放送されていました。 皆さんはあの様子をテレビで見て、どのように感じましたか? 参考にしたいと思うので、宜しければ教えて下さい。

  • 子孫であることを証明したい

    どのカテゴリか悩んだのですが、歴史関係なのでこちらにしました。 私の家の母方の家系は武田信玄とその子勝頼に従えた武将(とはいってもかなり下っ端)なのですが、 武田家滅亡後は没落、更に昭和の始め頃に東京に移り住んだせいなのか、地元の郷士館から出されている本(郷士帳とかいうのかな?)では子孫不明と記述されていて、その本を手に入れた祖父(80過ぎ)がちょっと気にしています。 一族のお墓は現在も地元にあり墓地には永禄時代に作られた石塔(風化で読み辛いがなにやらいろいろ書かれている)、家系図なども現存していて、檀家になっているお寺にも記録が残っているようです。 これらを証拠として書籍の子孫不明という記述を次の版から変更させ、子孫の欄に祖父の名前を表記させることは可能でしょうか?

  • 足利尊氏の性格

    足利尊氏は優柔不断な性格だったのでしょうか? それともただ信心深いだけだったのでしょうか(天竜寺の建立)? それとも頼朝のように辛抱強く待てる性格だったのでしょうか?

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    • ganache
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  • 追儺式を行なっている神社

    追儺という儀式があります。 神社のおつきの神人が、鬼に扮装して町を練り歩くようです。 神人は神社の荘園の税の徴収にも携わったようで、日ごろは神社のお札をかざされて徴税されれば、土地の農民も逆らえませんが、一年に一度、この儀式のときは、鬼の扮装の神人に石を投げても良かったようです。 一種の憂さ晴らしのようなものでしょうか。 神人としても、この役目は名誉なことで、神人の中で、この役目になれることは憧れであったようです。 非常に名誉なことであり、尊いことであり、この役職は尊く、誇り高い役職なのだそうです。 この人々は時代を経て、神社の御祭りのときに夜店を出す、テキヤ組織に発展した人たちもいたようです。 今でも追儺式を原型に近い形で行なっている神社はありますか? 追儺式を大々的に行なっているので有名な神社などはあれば、是非、教えて下さい。

  • 追儺式を行なっている神社

    追儺という儀式があります。 神社のおつきの神人が、鬼に扮装して町を練り歩くようです。 神人は神社の荘園の税の徴収にも携わったようで、日ごろは神社のお札をかざされて徴税されれば、土地の農民も逆らえませんが、一年に一度、この儀式のときは、鬼の扮装の神人に石を投げても良かったようです。 一種の憂さ晴らしのようなものでしょうか。 神人としても、この役目は名誉なことで、神人の中で、この役目になれることは憧れであったようです。 非常に名誉なことであり、尊いことであり、この役職は尊く、誇り高い役職なのだそうです。 この人々は時代を経て、神社の御祭りのときに夜店を出す、テキヤ組織に発展した人たちもいたようです。 今でも追儺式を原型に近い形で行なっている神社はありますか? 追儺式を大々的に行なっているので有名な神社などはあれば、是非、教えて下さい。

  • 歌舞伎の源流は出雲の阿国???後北条氏???

    一般的に現代の歌舞伎は「出雲の阿国」が原型が作ったと言われています。 しかし、それは間違いだ!と否定する説を市川家の縁人から聞きました。 「安土桃山時代、豊臣の世に反抗した傾き、演劇風刺のようなものが歌舞伎に発展したのです。 特に、豊臣に攻め滅ぼされた北条ゆかりの者たちが、江戸や浪速などで積極的にこの演劇をやっており、そこに徳川が目をつけ、北条ゆかりの者の演劇は、寛容に対応した方針を出したとされます。 徳川は思想的動向には厳しく、出雲の阿国などの女歌舞伎の系統は、様々な規正をかけられて衰退していきました。 反豊臣に傾く北条のゆかりのものだけが現代に残ったのです。」 実際の歴史では豊臣家に攻められた北条氏はことごとく討たれました。 女子供は滝山城に逃れましたが、追い詰められ、八王子城に逃げた人々はすべて命を落としました。 しかし、小田原城に篭った人々のうち、一部は生き延びたようです。 後に徳川家康のもてなしをうけ、大阪の狭山に移り住んだようです。 北条家とともに、一族も移り住んだようです。 現代の歌舞伎の源流は「出雲阿国」と「後北条氏」どちらが正しいのでしょうか?

  • 歌舞伎の源流は出雲の阿国???後北条氏???

    一般的に現代の歌舞伎は「出雲の阿国」が原型が作ったと言われています。 しかし、それは間違いだ!と否定する説を市川家の縁人から聞きました。 「安土桃山時代、豊臣の世に反抗した傾き、演劇風刺のようなものが歌舞伎に発展したのです。 特に、豊臣に攻め滅ぼされた北条ゆかりの者たちが、江戸や浪速などで積極的にこの演劇をやっており、そこに徳川が目をつけ、北条ゆかりの者の演劇は、寛容に対応した方針を出したとされます。 徳川は思想的動向には厳しく、出雲の阿国などの女歌舞伎の系統は、様々な規正をかけられて衰退していきました。 反豊臣に傾く北条のゆかりのものだけが現代に残ったのです。」 実際の歴史では豊臣家に攻められた北条氏はことごとく討たれました。 女子供は滝山城に逃れましたが、追い詰められ、八王子城に逃げた人々はすべて命を落としました。 しかし、小田原城に篭った人々のうち、一部は生き延びたようです。 後に徳川家康のもてなしをうけ、大阪の狭山に移り住んだようです。 北条家とともに、一族も移り住んだようです。 現代の歌舞伎の源流は「出雲阿国」と「後北条氏」どちらが正しいのでしょうか?

  • 和歌について

    「おふくろさん」の著作者人格権が話題になっていますが、平安時代や江戸時代に著名人による和歌や俳句、小説などの盗作が問題になったりしたことはなかったのでしょうか? 本歌取りではなくて、純粋に盗作じゃないかと思われる作品はありますでしょうか。

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    • noname#30350
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  • 江戸時代の天皇・朝廷の役割

    旧東海道が日本橋から京都三条までなので、幕府と朝廷は密接な関係にあったと思います。 当時政治の実権は幕府が握っていたし、今のように天皇は象徴でもありませんでした。 では、天皇家はそのころ何をしていたのですか?教科書には江戸時代の天皇のことはなにも書いてないですよね。

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    • ibadora
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  • 江戸時代の天皇・朝廷の役割

    旧東海道が日本橋から京都三条までなので、幕府と朝廷は密接な関係にあったと思います。 当時政治の実権は幕府が握っていたし、今のように天皇は象徴でもありませんでした。 では、天皇家はそのころ何をしていたのですか?教科書には江戸時代の天皇のことはなにも書いてないですよね。

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    • ibadora
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  • 「広幡」の意味

    こんにちは。 「扶桑略記」には欽明帝の時代に八幡神が「誉田天皇広幡八幡麻呂」であると名乗って出現したと書かれているそうですが、この「広幡」というのはどういう意味なのでしょうか。八幡神の称号のようなものでしょうか。 調べてみると「広幡神社」などというお宮もあったりするようなのでとても気になりました。 そういえば公家にも「広幡家」というのがあったと思うのですが、八幡神と何か関係がある家名なのでしょうか。 何かご存知の方、お教え頂ければ幸いです。

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    • mapato
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  • 「広幡」の意味

    こんにちは。 「扶桑略記」には欽明帝の時代に八幡神が「誉田天皇広幡八幡麻呂」であると名乗って出現したと書かれているそうですが、この「広幡」というのはどういう意味なのでしょうか。八幡神の称号のようなものでしょうか。 調べてみると「広幡神社」などというお宮もあったりするようなのでとても気になりました。 そういえば公家にも「広幡家」というのがあったと思うのですが、八幡神と何か関係がある家名なのでしょうか。 何かご存知の方、お教え頂ければ幸いです。

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    • mapato
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  • 「天皇家は百済系の血が濃い」という俗説・「高野新笠」が皇后として認められなかった理由

    1、天皇家は百済系の血が濃いという話を聞いたことがあります。 具体的にどう濃いのかを調べてみたら、全然濃くなかったのです。逆に薄いくらいでした。 天皇家に入っている百済系の血は、たった一人だけです。 桓武天皇の母親が百済王族の末裔の帰化人(国籍は日本人)の「高野新笠」だけです。 具体的に人物を調べてみると、天皇家に血を分けた百済系帰化人は「高野新笠」一人だけでした。 それなのに、どうして世間では「天皇家は百済系の血が濃い」と言う俗説を言う人がいるのでしょうか? 2、百済王族の末裔の帰化人の「高野新笠」は生きている間は皇后として認められていませんでした。(死後、皇后となる。) 生きている間に皇后と認められなかったのは異例です。 これは、当時の帰化人の扱いの低さを物語っています。(実際、大和朝廷内での帰化人の扱いは低かった。) 当時の人々が「百済系帰化人の末裔などは国籍は日本人でも、皇后として認められない」という行動をとった証拠でしょう。 「高野新笠」の夫と息子は天皇です。 「高野新笠」が皇后と認められない理由は他に何かありますか? 3、桓武天皇の父であり、「高野新笠」の夫である、白壁“王”(のちの光仁天皇)は、天皇を継ぐ立場ではありませんでした。 当時、天皇を継ぐ可能性がある者は“親王”を名乗ります。 “王”は一応、皇族ですが、天皇を継ぐ可能性は低いです。 白壁“王”はまさか天皇になるとは、夢にも思っておらず、また周囲も白壁“王”が天皇になるとは思っていなかったので、百済系帰化人の「高野新笠」との結婚を認めたのではないでしょうか? そして、天武系皇族が度重なる粛清で途絶えたために、天智系の白壁王が62歳という高齢で天皇になった。 仕方なく、(血の問題で)天智系の白壁王を天皇になったとしても、百済系帰化人の「高野新笠」を皇后として認めるわけにはいかない。 当時の人々はそう考えて、「高野新笠」を皇后として認めなかったのではないでしょうか? 4、「百済が滅亡した時に、大和朝廷は多数の百済系王族を帰化人として受け入れたから、天皇家は百済系の血が濃いのだ」と言う人がいます。 果たしてそうでしょうか? 百済系帰化人は最初は一応、それなりの地位(貴族など)を与えられましたが、百済系帰化人はすぐに人民に降下しました。 大和朝廷が百済系帰化人に関東に土地を与えて移民させた話などが残っています。 当時の大和朝廷には、資金的な余裕もなく、例え貴族でも天皇から血が離れていけば臣籍降下します。 具体的には、在原業平などがそうです。 在原業平の父は平城天皇第一皇子の阿保親王。母の伊都内親王は桓武天皇の皇女です。 在原業平は平城・桓武天皇の孫にあたります。 祖父が天皇でも臣籍降下するのに、百済系帰化人がいつまでも貴族でいたというのは間違いです。 従って、「百済が滅亡した時に、大和朝廷は多数の百済系王族を帰化人として受け入れたから、天皇家は百済系の血が濃いのだ」というのは間違いでしょう。 具体的に天皇家に血を分けたのは「高野新笠」一人だけですので。 いかがでしょうか? 5、天皇家がどこから来たのかは諸説あり謎です。 元々、大和に住んでいた者なのか?九州から来たのか?中国から来たのか?朝鮮半島から来たのか? (私は九州から来たと思っています。) 中国歴史書に書いてあるのは、「百済は支配層と民衆の言語が違う」、「百済の住民の多くが漢人や倭人」、「倭人が頗る多い」 (百済王族は最初は扶余姓を名乗り、しばらくしてから“余”と1文字に略した。余豊璋など。) 例えば、朝鮮半島の百済の王族(扶余族=騎馬民族)が日本を支配したとしたら、それは騎馬民族征服説になります。 (扶余族は、中国三国時代に満州に住んでいた民族で、万里の長城より北、南は高句麗に、東は挹婁に、西は鮮卑接する範囲に住んでいた。) 私は騎馬民族征服説などと言うトンデモ説は信じていません。 ここで天皇家は朝鮮半島から来た=騎馬民族征服説を論ずるのはやめておきましょう。 ※「騎馬民族征服説は正しいから天皇家は百済系の血が濃いのだ」という理由なら、申し訳ないですが回答はご遠慮して下さい。

  • 「天皇家は百済系の血が濃い」という俗説・「高野新笠」が皇后として認められなかった理由

    1、天皇家は百済系の血が濃いという話を聞いたことがあります。 具体的にどう濃いのかを調べてみたら、全然濃くなかったのです。逆に薄いくらいでした。 天皇家に入っている百済系の血は、たった一人だけです。 桓武天皇の母親が百済王族の末裔の帰化人(国籍は日本人)の「高野新笠」だけです。 具体的に人物を調べてみると、天皇家に血を分けた百済系帰化人は「高野新笠」一人だけでした。 それなのに、どうして世間では「天皇家は百済系の血が濃い」と言う俗説を言う人がいるのでしょうか? 2、百済王族の末裔の帰化人の「高野新笠」は生きている間は皇后として認められていませんでした。(死後、皇后となる。) 生きている間に皇后と認められなかったのは異例です。 これは、当時の帰化人の扱いの低さを物語っています。(実際、大和朝廷内での帰化人の扱いは低かった。) 当時の人々が「百済系帰化人の末裔などは国籍は日本人でも、皇后として認められない」という行動をとった証拠でしょう。 「高野新笠」の夫と息子は天皇です。 「高野新笠」が皇后と認められない理由は他に何かありますか? 3、桓武天皇の父であり、「高野新笠」の夫である、白壁“王”(のちの光仁天皇)は、天皇を継ぐ立場ではありませんでした。 当時、天皇を継ぐ可能性がある者は“親王”を名乗ります。 “王”は一応、皇族ですが、天皇を継ぐ可能性は低いです。 白壁“王”はまさか天皇になるとは、夢にも思っておらず、また周囲も白壁“王”が天皇になるとは思っていなかったので、百済系帰化人の「高野新笠」との結婚を認めたのではないでしょうか? そして、天武系皇族が度重なる粛清で途絶えたために、天智系の白壁王が62歳という高齢で天皇になった。 仕方なく、(血の問題で)天智系の白壁王を天皇になったとしても、百済系帰化人の「高野新笠」を皇后として認めるわけにはいかない。 当時の人々はそう考えて、「高野新笠」を皇后として認めなかったのではないでしょうか? 4、「百済が滅亡した時に、大和朝廷は多数の百済系王族を帰化人として受け入れたから、天皇家は百済系の血が濃いのだ」と言う人がいます。 果たしてそうでしょうか? 百済系帰化人は最初は一応、それなりの地位(貴族など)を与えられましたが、百済系帰化人はすぐに人民に降下しました。 大和朝廷が百済系帰化人に関東に土地を与えて移民させた話などが残っています。 当時の大和朝廷には、資金的な余裕もなく、例え貴族でも天皇から血が離れていけば臣籍降下します。 具体的には、在原業平などがそうです。 在原業平の父は平城天皇第一皇子の阿保親王。母の伊都内親王は桓武天皇の皇女です。 在原業平は平城・桓武天皇の孫にあたります。 祖父が天皇でも臣籍降下するのに、百済系帰化人がいつまでも貴族でいたというのは間違いです。 従って、「百済が滅亡した時に、大和朝廷は多数の百済系王族を帰化人として受け入れたから、天皇家は百済系の血が濃いのだ」というのは間違いでしょう。 具体的に天皇家に血を分けたのは「高野新笠」一人だけですので。 いかがでしょうか? 5、天皇家がどこから来たのかは諸説あり謎です。 元々、大和に住んでいた者なのか?九州から来たのか?中国から来たのか?朝鮮半島から来たのか? (私は九州から来たと思っています。) 中国歴史書に書いてあるのは、「百済は支配層と民衆の言語が違う」、「百済の住民の多くが漢人や倭人」、「倭人が頗る多い」 (百済王族は最初は扶余姓を名乗り、しばらくしてから“余”と1文字に略した。余豊璋など。) 例えば、朝鮮半島の百済の王族(扶余族=騎馬民族)が日本を支配したとしたら、それは騎馬民族征服説になります。 (扶余族は、中国三国時代に満州に住んでいた民族で、万里の長城より北、南は高句麗に、東は挹婁に、西は鮮卑接する範囲に住んでいた。) 私は騎馬民族征服説などと言うトンデモ説は信じていません。 ここで天皇家は朝鮮半島から来た=騎馬民族征服説を論ずるのはやめておきましょう。 ※「騎馬民族征服説は正しいから天皇家は百済系の血が濃いのだ」という理由なら、申し訳ないですが回答はご遠慮して下さい。

  • 「広幡」の意味

    こんにちは。 「扶桑略記」には欽明帝の時代に八幡神が「誉田天皇広幡八幡麻呂」であると名乗って出現したと書かれているそうですが、この「広幡」というのはどういう意味なのでしょうか。八幡神の称号のようなものでしょうか。 調べてみると「広幡神社」などというお宮もあったりするようなのでとても気になりました。 そういえば公家にも「広幡家」というのがあったと思うのですが、八幡神と何か関係がある家名なのでしょうか。 何かご存知の方、お教え頂ければ幸いです。

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    • mapato
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  • 強い女をもっと教えてください

    過去の質問が人気に挙がっていると知り、締め切りをはやまったとおもいましたので、再度質問させていただきます。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2759139.html こちらに挙がっている以外の「強い女」を教えてください。 「腕っぷしが強い」ということで、よろしくお願いいたします。

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    • noname#25898
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  • 昔の「講」にたいする人々の意識

    民間信仰であるさまざまな「講」がありますが、現在では人々の意識は、儀式的なものという認識が多数だと思います。しかし、たとえば江戸時代などはどうだったのでしょうか。本気で神頼みをしていたとか、利益を信じていたとかだったのでしょうか。あるいはどれくらいまで上れば、一般人は純粋な信仰としての認識で行われていたのでしょうか。

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    • noname#41852
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  • 三社とはなんでしょうか

    浅草の三社大権現や伊豆三社大権現等がありますが、この三社とはどういう意味があるのでしょうか。ご存じの方教えてください。

  • 家光親裁と毛利秀元

    山本博文東京大教授の「江戸城の宮廷政治」の図(家光親裁のときの大広間座配)によると、大広間中段の井伊直孝・土井利勝や御三家、仙台・加賀・薩摩の各中納言につづいて、大広間下段の右側の列は越前宰相忠昌、毛利長門秀就、毛利宰相秀元、細川越中忠利、鍋島信濃勝茂・・・の順になっています。  毛利秀元はわずか五万石の小名ながら細川や鍋島の上座となっています。秀元は家光の御咄衆でしたし、長府藩主は血筋の途切れる5代目までは官位も従四位下(侍従)と国持ち大名に順ずる扱いを受けていたようですが、官位以外の点でも国持ち諸侯と対等に処遇されていたのでしょうか?

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    • noname#30350
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  • 高貴なお家の女性は人前で丸裸でも平気だった?

     昔の高貴な御家の女性は、人前で丸裸のスッポンポンになっても平気だったと、何かで読んだことがあります。  一方、作家の有馬頼義は「自分の母(宮家の出)は、そうでなかった。」と否定していたのを何かで読みました。  有馬さんはご自分の母君だけについて、否定されているわけであって、この俗説全部を否定されているのではないと思います。  さて、実際のところはどうだったんでしょうか、教えてください。

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    • noname#24488
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