bokeyu の回答履歴

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  • 信仰があれば宗教は必要ないか

      ある人の信仰 ある人は信仰を愛し、宗教を憎んでいるとゆー。 信仰があれば宗教は必要ないともゆーておる。 ある人は正しいか。  

  • 脳の2次元と3次元の処理は同じらしい?/観測とは?

    と、どこかで見かけました。 本当なのでしょうか? 本当ならば、かなり重要だと思うのですが。。。 (カテゴリ脳どこかわからないので、ここで聞いてみます) 本当ならば、アニメーション・漫画・ゲームで、遊んでいる、体感している、5感で。 そんな時に、「実際の現実世界での体感と同じことを経験している」 ということになりますよね? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あと、もう1つの質問が、「5感で体感する」というか・・・・・・・・・・ 量子論で、「観測することで物体が現れる」という猫理論?wがありますが、シュレディンガーの猫。 それで、「観測する」って、何ですか???・・・・・ 単純に、目で見るとかあるとは思いますが・・・・・・・・・・・・・・脳で想像する?は違うか。 観測というと・・・5感で、見る・聞く・触る・匂いを嗅ぐ・・・あともう1つ忘れた・・・などを全て駆使して、 人は、「観測している」 のでしょうか? 何かこれって、不思議です。私の幻覚体験とも関係ありそうですが・・・。 よろしくお願いします。

  • デカルトの確実な知識を得る方法について

    デカルトは、数学だけが確実な知識を得る方法と考えたそうですが、その理由はなんですか? また他に確実な知識を得る方法はあると思いますか? あるとすればどういうものがありますか? お願いします。

  • 絆の確認には「よそ者」が必要か

    こんにちは。このスレッドを開いてくださってありがとうございます! 今回私が皆様にご質問させて頂きたいのは、私たちは人との絆を確認するときに「よそ者」の存在を前提としている場合があるのではないかという事です。 つまり、自分たちが結束感を感じるために、普段は「よそ者」に対して冷たくしていなければならないのではないか、という事です。 具体的に言うと、私の職場の人は多くが20代前半です。そして私は、そこでの古参の人たち同士の結束が、「よそ者(新参者)に冷たくする事」によって保たれているのではないかと推測しているのです。 それとも20代前半とみんな若いですから、古参の人たちもまだ新参者に気をくばる余裕がない、いい職場の雰囲気づくりをしてゆく技量がないだけなのでしょうか?

  • 帰結主義の対義語

    プロセス、特に人間において~~をしようとする意思!を結果よりも尊重する立場はなんと呼ぶのでしょうか。 調べても出なかったので質問させて頂きます。

  • 《絶対》という概念を使いこなすようにならねばと

     ・・・思います。そのことをめぐって 問います。  おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたが想い描かれますが そうであるかどうかは 発進してみなければ分かりません。  すでに幾度も問うていますが そういう意味でさらにすすめたいと考えました。  たたき台です。  1. ひとは おのれの存在が永遠ではないにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。  1-1.  その意味で 《神》ということばも――そして《無い神》も―― 用います。  2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。  2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。  3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことばそして概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。  3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 経験世界の内側において用いられています。  4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。  4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。  5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。  5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。  5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。  6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。  6-1. 《絶対》の二重構造:   ・ 《非経験の場》そのものとしてのわが心の庭〔なる神〕:無根拠   ・ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:因果       関係などの合理的な根拠を科学的に明らかにする場合に       すら用いられることがある。        たとえとして都合がよいのだと思われる。        6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》と《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実(精神と思考の緑野ないし密林)》との《二重構造》を呈しています。     以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。  ちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。  ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~  近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。  ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・  むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞)    http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html  ~~~~~~~~~~~~~~

  • この世に 悪は 存在しない。

     ( a ) 悪は存在しない。  ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。  ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。  この問いを あらためて問います。    たたき台を あらためてさらにおぎないます。    ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。  ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。  ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。  ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。   

  • 大学進学のことですが

    大学に進むときに 高校の偏差値は関係してくるのでしょうか?それとも、試験で合格、不合格が全て決まるのでしょうか?     もし高校の偏差値が関係してくるのなら 九州大学 や 早稲田大学 に 進学したい時、偏差値53の高校からいけるのでしょうか・・

  • ゴータマ・ブッダは 世界一の詐欺師なり。

     1. 《空》を 神と見立てればよいものを あくまで人間の境地だと言い張った。  2. すなわち 《目覚めた(ブッダ)》状態としてであり 言ってみれば《神として》ではなく 《神の場に行き来できる存在》として にんげんなる《われ》にその境地があるのだと言い張った。  3. ブッダ状態としての《さとり》とは ここで あくまで《確率》として存在するというものである。言いかえると その存在についてもその状態についても ついぞ人が確定して認識しえず言葉によって表現しえない場なのだと。  4. 言いかえると ブッダよ あんたのさとりを 示せという疑いや要求に対しては あくまでシラを切る。《表現しえず》と。  さとったのなら 人びとに分かるように説明せよと言われても 沈黙をまもる。  人びとが それはこれこれの状態を言うのではないか? と尋ねた場合には いやいや さとりとは そんな生ぬるい境地などではないと答える。  では どうなのか? という問い返しには だんまりを決め込む。  5. したがって ブッダのさとりは 表現の問題におさまるかとさえ考えられる。  人びとに分かるように説明しえないならば そのさとりは インチキではないか? という問いに対しては いやいや われははるか昔からはるかこの先までブッダである。と言って聞かない。  説明が出来ていないではないか? という問いに対して いやいや われは その現場を取り押さえられても姦淫はしていないとどこまでも言い張るごとく ブッダなりと答える。ブッダはブッダなんだよおーんと。  ――このような《表現およびやり取りの問題》にすべてをおさめようというおそろしく決意の固い宗教家なのではないか?  6. 一方で 人びとの求道の心を引き出し ただし他方では さとりの証明にかんしては 量子を特定して示すことは出来ないというような論理で どこまでも逃げ しかもブッダ論をぶちつづける。      *  この質問は 下記の質問でのやり取りを承けています。   【Q:ブディズムの再生はあるか。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7563932.html  その趣旨説明から 次のくだりをふたたびかかげます。上の    1. 《空》を 神と見立てればよいものを・・・  について説明している箇所ですから。  ☆☆ (信仰の類型) ~~~~~  ( d ) 有神論および無神論それぞれとしての信仰を 類型的にまとめてみます。互いに同等であると見るというものです。  |非経験の場|経験世界の分身|信仰の形(非思考の庭)|  ○ 神道  |かみ|かみがみ|もののあはれを知る;きよらかなおそれ|  ○ ヒンドゥーイズム  |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|  ○ ブディズム  |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|  |マハーワイローチャナ|マンダラ|秘密なるわざ|  |アミターユス|無し|絶対他力;自然法爾|  ○ 聖書  |ヤフヱフ|無し|名を受け容れる|  |キリスト|無し|名を受け容れる|  |アッラーフ|無し|クルアーンに拠る|    ○ 西欧古典古代  |宇宙霊魂;世界霊魂|神々|《わたし》|  ~~~~~~~~~~  7. 有神論(たとえば 梵我一如)をしりぞけ それでも無神論〔という信仰〕の立ち場をも採らないならば その存在論・その人間の境地論は 《非思考の庭》としての信仰と 思考としての経験思想とのあいだで どっちつかずのままに終わる。というおそれが 大きいと思われる。  果たして どうか?

  • 自由意思なんてないのですかね?

    自由意思なんてないのですかね? あなたはこれからの行動を変える可能性はありましたか? ただしこの質問を見るまでで考えてください。 なぜから、この質問があなたに影響を与えた結果で、行動が変わるのなら、質問ありきの行動でしょうから。 あなたは、遺伝がボールの形、回りの環境と言う地面に方向を変えられ、進んでいく方向を自由意思と勘違いして、他のポールに時にはぶつかり、方向を変えるだけの存在じゃないですかね?

  • 《わたし》は みづからにとって固有名詞ではないか?

     質問1:  《わたし》は みづからという存在の固有の名称であるのではないでしょうか?   趣旨説明:  (1) みづからの存在を指し示すとき それを 日本語で 《わたし》に代表させるとします。  (2) 現行の文法には こだわらず 実質的に見た場合です。  (3) したがって 何の某といういわゆる固有名詞は この実質的な固有名詞である《わたし》の 代名詞ではないでしょうか?  (4) 繰り返せば 《わたし》という固有の名称を代理する名称として《何の某》という名前が それぞれ つけられている。つまり差異を持った違う名前を互いに用いているそれは 代名詞である。  質問2:  もしこのようだとしたら いったい《自我》という名称は どういう中身をもってどこに位置づけられましょうか?  (5) 《自己・自分・おのれ》という名称は 分かる。なぜなら《わたし自身》を指して言っているから。《自我》とは そうではなかろう。では 何ぞいや?  (6) いったい《自我》などとよぶものは あり得ましょうか? ただの幻想なのではないか? 死語ではないでしょうか?  (7) 《自我》とは 《わたし》とどう違うのでしょう?

  • 株売買について(お得な損切り方法)

    恥ずかしい質問ですみません. ある企業の株を,値下がりを見込んで1471円で10株信用売りした後, 予想に反して上昇が続いたため,1527円で新たに10株信用売りし, 初めに売った損分を緩和しようと試みました. ところが,それでもまだまだ上がりそうだったので, 1548円の時点で現物を20株買ってしまいました(-_-;) 現状,値は上がり続けていて,現在1633円です. この先,どうしたら損害を出来るだけ低く抑えられるでしょうか? ややこしくて訳が分からなくなってきてしまいました; 信用売りの返済もあと3カ月くらいと迫りつつあります… ご教授よろしくお願いいたします.

  • カントについて

    初めまして、現在カントの文献を読んでいるのですが、その中で関心なき快という用語が出てきたのですが、よく意味が分からず困っております。 この用語はどのような事を言いあらわしているのでしょうか? 分かり易く解説して頂けたら嬉しいです。

  • 主観における言語に基づいたある命題は議論可能ですか

    他の質問で自由意志の有無について質問しているのですが、自由意志というのは基本的に自分しか知覚できないですよね。客観的な証拠は何もありません。 自分で選択している”気がする”ということを、私達の共通の性質も鑑みて同じように感じてあろうことを自由意志という言葉を作った人は見て取りました。 そこから他のものから束縛されていない自発的な思考、とすれば少なくとも理性にも心情にも反しないしあってそうだしいいんじゃないと考え、言葉として定義された気がするのです。 つまり自由意志という言葉の定義は「自然、つまりこの世の原理に束縛されているが、主体から見れば選択しているように見える、人の間に沸き起こる情念を処理する能力」 といった類のものでも間違っているとは言えないと思うのです。 それで質問に戻りますが、このようなステップを経て作られた概念について議論するとき”自由意志”という言葉を使いながら議論するのは不適切だと思うのです。このような概念について議論するときどのように行うのが適切だと思いますか。 また、もし議論できる形式があるとすればどういったものですか。

  • 自由意志の有無について

    あらゆる思索や思考は結局のところ原因まで遡って行くと「そういう衝動が沸き起こってきたから(そう感じたから)」となります。 それを考える上でおいて1+1=?の時これが数学の問題だと過去と照合しますが「それはなぜですか?」と聞かれれば「そう感じたから」でしょう そして計算する際もなぜ計算したかと聞かれれば「そう感じたから」でしょう。 実際の計算のプロセスは機械と変わりありません。 こうやって並べてみると人間の精神とは「そう感じたから」と「計算」と「ミス」の組み合わせ以外の何物でもないと思ってしまいます。(ミクロの世界の影響もあるならば+「ランダム」ですかね) 自由意志とはどの部分なんでしょう。私に選択する余地はあるのでしょうか。

  • FXトレーダーの方に質問です。

    どうゆう環境を揃えていますか? なぜその環境なのか理由も教えて頂けたらうれしいです。 ちなみに私はPC1台(ごく普通のノートパソコン)で始めようとしています。実際の所これではやりずらいでしょうか?

  • 無我のdefault値はnullなのでしょうか?

    タイトル通りの内容を伺います。 自己を客体視する設定の主体は,其の客体の外部に佇んでいますので、 其の主体を再起的に客体視する為には、 更に別の主体を外部へ置かねばならなくなるのでしょうけれども、 それ等の主体の初期値が必要になるだろう, と私には思われますから、教えて下さいませ。

  • 無我のdefault値はnullなのでしょうか?

    タイトル通りの内容を伺います。 自己を客体視する設定の主体は,其の客体の外部に佇んでいますので、 其の主体を再起的に客体視する為には、 更に別の主体を外部へ置かねばならなくなるのでしょうけれども、 それ等の主体の初期値が必要になるだろう, と私には思われますから、教えて下さいませ。

  • 「語用論」と「意味論」と「構文論」の違いは?

    何となく論理学という学問に興味を持って、書籍を購入して みたのですが、早速、入口で躓いてしまいました。 具体的には、語用論、意味論、構文論といった用語の 違いが解りませんでした。 厳密な定義よりは、むしろイメージとして、どのような 感じなのかを教えていただけるとありがたいです。 よろしくお願いします。

  • 述語論理について

    タフではないボクサーがいる。 「P:ボクサーである、Q:タフである」 ∃x(¬Qx∨Px) すべての学生は、数学と英語の2科目ができる。 「P:学生である、Q:数学ができる、R:英語ができる」 ∀x(Px∨(Qx∨Rx)) 答えがないので答え合わせをお願いします。