bokeyu の回答履歴

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  • イースター休暇明けって何月何日ですか。

    2013年のイースター休暇明けの日って何月何日のことですか。 仕事をしている人は何日から出勤しますか。 株式投資をしている外人は何日から仕事をしますか。

  • ギャンブル依存症です

    主に公営ギャンブルをしています。 負けてばかりで、なんとか取り戻そうと大切な貯金まで使うようになってしまいました。 趣味でも探してギャンブル辞めようとしましたが無理でした。 掛け金は多くないんですが昨年からだけでも90万は負けてます。 ギャンブル辞めるにはどうすれば良いでしょうか?

  • 今はいつですか?

  • 証券会社選び

    新しく口座を作ろうと思うのですが、現時点で口座開設無料・手数料が10万以下なら無料かつ何かしらお得なキャンペーンなどやっている所はどこかありますか?

  • ローソクの形が意図的に変えられることがありますか?

    先日、質問をさせていただいてから、どうしても3765の動きが気になり、時々チェックしています。 (仕手系銘柄で失敗したので、仕手っぽい銘柄で取り返したいという思いがあるのかもしれません^-^;) そこで感じた疑問です。売買される株の単位は非常に少ないです。板にも1桁単位の株数が並んでいて、2桁となるとかなり目立ちます。そうすると少し多く株を持っている特定の人が板やその日の値動きをコントロールできるのでは…と感じました。ローソクの勉強をしていると、日々の値動きは、抵抗線や支持線などが関係し、程度決まった動きをするようで、大体の予測はつくということを学びました。しかしある特定の人によって前日のローソクの形からは予測できない値動きをさせられることができるのではないかと感じました。 となると、ローソクから予測する値動きは、ある程度安定した、仕手系でない銘柄のほうが当たりやすいということになりますでしょうか。 それとも、いくら仕手系銘柄で意図的に値動きをコントロールしようとしても、需要と供給の関係で、コントロールには限界があるということでしょうか。 うまく質問できていないような気がしますが、どうぞよろしくお願いいたします。 ※3765が仕手系と断定しているつもりはありませんが、もし失礼な表現でしたらお許し下さい。

  • デイトレで月平均90%の利回りを達成してます。

    と言っても、元金20万円ですが。 出社前の9時から30分のみ取引してます。 1年半ほど月間負けなしです。 トータルで年間1000%ほど利回りを達成してます。 ちなみに最近まで20万円を超えた分は毎月下ろして生活費の足しにしてましたが、 今月から資金を30万に増やして信用取引に挑戦してます。 やはり資金が多いと利益も大きいので今まで稼いでいた額を稼ぐのも半月で達成しました。 そこで専業でやってる方や株に詳しい方に質問ですが、 もう専業でやっていけるレベルでしょうか? 昨今の不況もあり、一度株で財を築きたいという思いがあります。 ちなみに資金を50万に増額する予定です。 扱ってる銘柄は基本的に値動きの荒い中小型株ばかりです。 損切りは問題ないです。 致命的になる前に、買いが止まっ時点で売りますので。 よろしくお願いします。

  • okwaveで一番役に立たないのが社会カテ

    社会カテゴリーをいつ見ても思うのが、何の役にも立たない回答ばかりですよね(笑) 第一、政治、行政、法律、経済、外交、国際問題などのそれぞれの実務に関わった事のない連中が適当に回答しているだけではないですか?(笑) 事情通のみなさん、本当に社会カテゴリーって役に立ってます

  • 独創について

    芸術における独創とは何だと思いますか。 また、この問題について考えた哲学者を知っていれば教えてください。

  • FXの売買取引について

    FXの取引を始めました。ある記事でこういうのがありました。”ザイFX!の羊飼い指標表をチェックしてSS指標がある日はエントリーしない。”ザイFXのことは知ってます。 ”羊飼い指標表をチェックしてSS指標がある日はエントリーしない。”の意味はどういう意味でしょうか?”エントリーしない”は分かります。 ”羊飼い指標表をチェックしてSS指標がある”の意味が分かりません。教えてください。 よおしくお願いいたします。 ”羊飼い”って何?”SS指標”って何?宜しくお願い致します。

  • 科学と合理

    「科学者は合理的な考え方を行う」などのように、科学者に対して「合理的」という言葉が一般に多用されていると感じます。 質問: i) ここで用いられている「合理」とは一体なにを指しているのでしょうか。 ii) この考え方は科学主義(科学万能主義、科学教;批判的意味)を含んでいると考えて居ます。みなさんはどう思いますか。 大陸合理主義やイギリス経験主義といった対比からすれば、科学は帰納的な経験的手法によっています。にも関わらず「合理」といった言葉を用いているのは「科学が全て」であり、そこに普遍的な真理(理性)があると信じられているからではないでしょうか。 懐疑主義に陥るつもりでもありませんが、現代において科学が絶対視されすぎているこの風潮に漠然とした違和感を覚えます。 みなさんの意見をお聞かせ下さい。 ちなみに私は物理学専攻の修士課程に所属している学生であり、ここのところ特に科学に対する無情(無常)さに退屈を感じてしまっています。以前の情熱を取り戻したいという思いもどこかあり。。。

  • 論理学 「どちらでもない」を含む演繹について

    「好き・嫌い」のような程度を表す言葉には、その中間「どちらでもない」、すなわち「好きではないが、嫌いでもない」が存在しますよね。 例えば、 「一郎は花子のことが好きである。」の否定は「一郎は花子のことが嫌いである。」だけではなく、「一郎は花子のことが好きでも嫌いでもない。」も含みます。 つまり、「一郎は花子のことが好きでも嫌いでもない、または嫌いである。」が否定になりますよね。 ここで質問があります。 次のA,Bが成り立っているとする。 A、一郎は花子のことが好きではない。 B、花子のことが嫌いならば、花子にラブレターを出さない。 このとき、次の事柄1が正しく演繹できるか説明せよ。 1、一郎は花子にラブレターを出さない。 私としては、Aの「好きではない」は「好き」の否定であるから、Aは「一郎は花子のことが好きでも嫌いでもない、または嫌いである。」という意味として捉え、これだけは「一郎は花子のことが好きでも嫌いでもない」場合があるから、1は演繹できないと思うのですが、これで正解なのでしょうか。 ご説明よろしくお願いいたします。

  • 類概念と集合概念との違いを教えてください。

    それとも同じことを違う表現で言ったものでしょうか?

  • 自明性に基づいた行動の基礎は観察力

    例えば 看板がマイナスのネジで留めてあり、道具箱にマイナスドライバーがあれば 馬鹿でも可能な行動を決定できる。 これを自明性に基づいた行動と言うとしましょう。 そして、自明性に基づいた行動の基礎は観察力であり 例えで言えば、マイナスのネジとマイナスドライバーの存在に気付く力である。 こう言えば簡単に聞こえるが、普通の人間は観察力のかわりに既にある知識概念を利用して 行動をしているだけである。 例えで言えば、マイナスのネジとマイナスドライバーは関係するという知識である。 これと動画のとまべちチーの見解 4/8 【仏教】釈迦の悟った内容 - 苫米地英人 を重ね合わせると 知識概念と自分を中心とした重要性という物語から離れてはじめて真の観察力は生まれるのである。 そして、真の観察力を発揮すれば自明性に基づいた行動があるのみである。 そこには判断も理論も出る幕はない。 これが悟りの内容の一部であろうと思う。 これを現代西洋風な学問用語で言えば何になろうか?

  • 確かに。

    ・・・絶対的に正しいと証明されてしまった その上での「人間の自由」とは。

  • 自分しか存在しないと考えるのは何論でしょう?

    いつもお世話になっています。 さて、私が小さい頃(小学生頃)、 「ひょっとしてこの世の中は私が感じているだけではないか」 「この世にあることはすべて実態はなく、私の想像でしかないのでは」 なんていう考えをしたことがあります。 流石に思春期にはそんな考えはさっさと捨てて現実的になったのですが。 このような考え方を「唯我論」というと思っていたのですが、調べていくと そうでもないようです。このような観念論(唯心論)の極端な思想はなんと いうのでしょうか。 おひまなときにでもご教示下さい。

  • カントールの対角線論法についておしえてください。

      《無限集合にはその大きさの大小があるということ》  というカントールの定理をめぐる次の証明の仕方はマチガイではないでしょうか?  なるべく数式を使わずにおしえてくださるとありがたいです。 ▲ (哲学するサラリーマン:平行線が交わる点) ~~~~   http://blogs.dion.ne.jp/le_fou/archives/10216164.html  2.神の証明  (その後半部分)  ( a ) 次に、2つめの定理〔*--《無限集合にはその大きさの大小があるということ》--〕を見てみましょう。  ( b ) これもわかりやすい例を挙げて説明します。無理数全部の集合と自然数全部の集合とはどちらが大きいでしょうか。  ( c ) ここに(0と1の間の)すべての無理数がただ1つの列にリストアップされていると仮定します。例えば、   0.17643567……   0.23482435……   0.62346286……  ( d ) 次に、この無限列の各行に対応する各々の無理数と、1から始まる自然数とが次のような1対1対応を作ると仮定します。   1⇔0.17643567……   2⇔0.23482435……   3⇔0.62346286……  ( e ) ここで自然数1に対応する無理数から小数点以下1番目の位を取ります。次に自然数2に対応する無理数から2番目の位を取ります。これを続けていけば0.133……という無理数が得られます。  ( f ) この無理数の小数点以下の数字を各々勝手に変えます。このような操作によって例えば0.245……という無理数ができます。  ( g ) この数は、自然数1に対応する無理数とは小数以下1番目の位で違い、自然数2に対応する無理数とは2番目の位で違い……となり、自然数と1対1対応させたどの無理数とも異なっていることが明らかです。  ( h ) すなわち、無理数全部の集合は自然数全部の集合よりも濃度において大であることが示される訳です。  ~~~~~~~~  【Q‐1】 ( c )の《(0と1の間の)すべての無理数》というとき そのすべてがリストアップされうるのでしょうか? それは 無限――つまりこの場合 可能無限――であると見てよいか?  【Q‐2】 もし前項の無理数の集合が 無限であるならば ( d )の 1,2,3,・・・とやはり対応させられる自然数の数も無限になる。と捉えてよいか?  【Q‐3】 もしよければ ( f )に言うあらたに勝手に作った無理数(例えば0.245……)は もともとその無理数の集合の中にふくまれているものではないか?  【Q‐4】 言いかえると その無理数((例えば0.245……)も とうぜん自然数の無限の列挙と初めに対応していたはずではないか? なぜ( g )のような結論にみちびかれるのか?

  • カントの「要請」に関して

    (1)カントにおける「要請」と「信仰」の関係についての質問です。 「私は、信仰に対して場所を得ておくために知識を取り除かねばならなかった」(Ich muss also das Wissen aufheben, um zu Glauben Platz zu bekommen.)と言ったそうですが、その「信仰」とは、実践理性による「神の存在」と「魂の不死」と「自由」の3つを「要請」することを意味するのですか? (2)カントにおける「要請」と「公準」の関係についての質問です。 「神の存在」と「魂の不死」と「自由」の3つを道徳の実践のために「要請」するという場合、そこには「公準」の意味は無いと聞きましたが、これは本当ですか? たしかに、この場合の「要請」が「信仰」を意味するなら、それが同時に「公準」でもあるというのはへんですよね。「信仰」は幾何でいう「公準」などとは全くカテ違いでしょうから・・・。 一般に、カントの「要請」は「公準」の意味もあるといわれますが、仮に、この(2)の答が「Yes=本当」だとすれば、では、どういう「要請」の場合に、「要請=公準」の意味になるのですか? (3)「要請(する)」と訳されている原語(ドイツ語)について質問です。 カントは3批判書、特に「実践理性批判」の書で、日本語で「要請(する)」と訳される原語としては、名詞のPostulatと動詞のpostulierenと、どちらの方を用いているのですか?どちらも使っているなら、おもに使用している方を教えて下さい。 (4)日本語の訳語と原語との対応関係についての質問です。 使用しているのが名詞のPostulatだけなら、日本語の訳語は「要請」と「公準」の2つで済むでしょうが、動詞も使っていてなおかつ、日本語で言うところの「公準」の意味を含むなら、「要請する」という訳だけでは不十分ということになりますよね。 だって、日本語では「要請(する)」と「公準」とはまったく関係ない言葉だからです。意味が直結しません。 「前提(する)」と「公準」ならわかりますが・・・。 つまり名詞のPostulatも動詞のpostulierenも日本語に訳せば「要請(する)」と「公準」の両方を意味するというのが不可解です。 (A) ドイツ人・・・というかカントの頭の中では、日本語で言う「要請(する)」と「公準」とが意味的につながっていたのでしょうか? (B)postulierenという動詞は、日本語で「公準(と)する」と訳し得るような意味があるのでしょうか? 日本人の常識では「要請(する)」と訳される言葉が「公準」という意味もあるということ自体、ピンとこないのが普通だと思います。一方は動名詞で一方は名詞だし・・・。それが元のドイツ語では不自然ではないとすれば、日本語で言う「要請(する)」と「公準」とがあちらでは意味的に近いのでしょうかね? (C)日本語で「要請」と「公準」の2つをつなげるとしたら、<「公準」を「要請する」>といった動詞と目的語の関係しかないと思います・・・少なくとも「要請=公準」とはならならと思うのですがいかが?

  • カントの「要請」に関して

    (1)カントにおける「要請」と「信仰」の関係についての質問です。 「私は、信仰に対して場所を得ておくために知識を取り除かねばならなかった」(Ich muss also das Wissen aufheben, um zu Glauben Platz zu bekommen.)と言ったそうですが、その「信仰」とは、実践理性による「神の存在」と「魂の不死」と「自由」の3つを「要請」することを意味するのですか? (2)カントにおける「要請」と「公準」の関係についての質問です。 「神の存在」と「魂の不死」と「自由」の3つを道徳の実践のために「要請」するという場合、そこには「公準」の意味は無いと聞きましたが、これは本当ですか? たしかに、この場合の「要請」が「信仰」を意味するなら、それが同時に「公準」でもあるというのはへんですよね。「信仰」は幾何でいう「公準」などとは全くカテ違いでしょうから・・・。 一般に、カントの「要請」は「公準」の意味もあるといわれますが、仮に、この(2)の答が「Yes=本当」だとすれば、では、どういう「要請」の場合に、「要請=公準」の意味になるのですか? (3)「要請(する)」と訳されている原語(ドイツ語)について質問です。 カントは3批判書、特に「実践理性批判」の書で、日本語で「要請(する)」と訳される原語としては、名詞のPostulatと動詞のpostulierenと、どちらの方を用いているのですか?どちらも使っているなら、おもに使用している方を教えて下さい。 (4)日本語の訳語と原語との対応関係についての質問です。 使用しているのが名詞のPostulatだけなら、日本語の訳語は「要請」と「公準」の2つで済むでしょうが、動詞も使っていてなおかつ、日本語で言うところの「公準」の意味を含むなら、「要請する」という訳だけでは不十分ということになりますよね。 だって、日本語では「要請(する)」と「公準」とはまったく関係ない言葉だからです。意味が直結しません。 「前提(する)」と「公準」ならわかりますが・・・。 つまり名詞のPostulatも動詞のpostulierenも日本語に訳せば「要請(する)」と「公準」の両方を意味するというのが不可解です。 (A) ドイツ人・・・というかカントの頭の中では、日本語で言う「要請(する)」と「公準」とが意味的につながっていたのでしょうか? (B)postulierenという動詞は、日本語で「公準(と)する」と訳し得るような意味があるのでしょうか? 日本人の常識では「要請(する)」と訳される言葉が「公準」という意味もあるということ自体、ピンとこないのが普通だと思います。一方は動名詞で一方は名詞だし・・・。それが元のドイツ語では不自然ではないとすれば、日本語で言う「要請(する)」と「公準」とがあちらでは意味的に近いのでしょうかね? (C)日本語で「要請」と「公準」の2つをつなげるとしたら、<「公準」を「要請する」>といった動詞と目的語の関係しかないと思います・・・少なくとも「要請=公準」とはならならと思うのですがいかが?

  • 全知全能な神は存在しないことにより神は存在しない?

    全知全能な神は存在しないことにより 神は存在しない? 人の生きがいとは 自己の欲望を満たすことであり他人からの賞賛である。人は全ての欲望が満たされていない時 自己の欲望を満たすために活動することが楽しいのである。 人は 自分以外に誰(生き物全て)もこの世界に存在しないならば生きている意味を見つけることは難しい。人は満たされない欲望を満たすために生きている。 もし 人の全ての欲望が満たされたとするならば 人は何か満たされない刺激を求め始める。全てが満たされた世界に於いて 他人が同じように全ての欲望が満たされていたとしても 人は他人は自分より不幸であるとみなしてしまう。 神が人間を創造したとするならば 神は不完全な人間しか創造できない。何故ならば 人間は不完全である故に完全さを求め続けることにより 幸せを感じることができるからである。 不完全な人間しか創造できない神は 全知全能な存在とは言えない。また 神も不完全な存在である。神が不完全なら 神とは呼べない。よって 神は存在しない。どうでしょうか?

  • 神はいるのか?

    昔は教会に通っており私の名前もキリスト教の聖書から貰いました。信心深いからというよりも"神"という存在に畏れを抱いていたから日曜学校にも飽きずに欠かさず通っていたのだと思います。謂わば監視している相手に対し私は"ちゃんと"してますよと誇示するように… ただ高校生の時に異端審問などを調べている途中で宗教というものが本気で気持ち悪くなり今では寄り付かなくなりました。あんなに酷いことを教会の者がしているのに何故お救いにならないのかと。 畏れる対象がいなくなったことで不安よりも束縛感が消えて昔よりも自由な気がします。 私にとって今の段階では"神"は不必要な存在となってしまいましたが、そこに至るまでの過程は重要だったのでしょうか?また神は何処かにおられるのでしょうか? まとまりのない文章で非常に申し訳ないのですが回答でなくても構いませんのでご意見いただけると嬉しいです。