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哲学を学んで、、、
哲学を学んだことで、どの哲学でどのような成果をあげて来たというようなエピソードがある方がいらっしゃいましたら、具体的に詳しく教えていただきたいです。 よろしくおねがいします。
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- Nakay702
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>哲学を学んだことで、どの哲学でどのような成果をあげて来たというようなエピソードがある方がいらっしゃいましたら、具体的に詳しく教えていただきたいです。 ⇒私の場合、哲学を学んだことで、「哲学する」(智を愛する)ことの重要性を教わり、認識の巾と奥行きを与えてもらったような気がします。その「成果」として、「哲学から得たこと2021/11/21 22:15」に書いた「人類の未来を考える」もその一つと言えるかも知れませんが、例えば、共生問題についても自前の意見を収斂することもできました。 「神がなくなれば、全てのことは許される」(ドストエフスキー)という。全てのことが許された世界とは何か。それは、例えば無法者の跋扈する地帯、奸計・略奪・殺人などの横行する世界だろう。神が消えるなら、その神もろとも、当該行為を裁定すべき方法、すなわち規範も消滅するからである。残念ながら、現代はまさにそれである。「究極的存在者がいて始めて世界は秩序を得られる」。共存と規範の共有とは切り離し難くついて回るもののようで、共存する者の遵守すべきことの一つは「共通の規範に服すること」なのである。 「神が人間を通して事物を見る・人間は神の視覚器官である」とオルテガが言う時、その「神」は祀る神や拝む神ではない。それは絶対的真理の統覚者とでもいうべき「哲学神」である。つまり、ここで言う神とは「人知の及ばぬことを司る者」を表象する語で、主体はあくまでも人間である。フォイエルバッハが繰り返し語るように、「神は人間自身の本質である」。そして、「歴史の転期は、人間の崇めている神が、結局は人間自身の姿に他ならぬことを自覚する時に始まる」とも言っている。「神が人間自身である」ということは、つまり、神はいかなる問題にも対処し得る能力と機能を有する人間の自己写像である、ということでもあろう。ゆえにその神的機能は、信奉する宗教や神の如何にかかわらず、人間という共通項に基づいてあらゆる人間同士で契約することができるはずであり、その契約可能な中身は、「共存のための倫理的規範」というべきものである。現段階では、科学的方法によって立証したり推進したりすることはほぼ不可能で、科学の範疇を越える命題とも言えようが、かといって放置しておくわけにもいかないので、「暫定的に合意する」ことを模索すべき性質の事柄である。 ここでいう規範とは、あくまでも個を基本として、しかも普遍的な人類共通の知恵を結集し、共有する作業とも言える。国家・民族・宗教などを単位として交渉がなされる限り、相互理解に限界があることは明白である。共通規範を模索する作業の中で、人類共存のためには民族や宗教を越えた「個の普遍化」を基軸に据えた相互理解が必要になる。そもそも、理想的な規範などは最初から存在するものではなく、求め続け、状況に応じて協定するほかないものだろう。それは、「地球という共同体の成員が共有すべき共生パラダイム」の探求であり、求め続けるという過程にこそ意味があると言える。不可知論者のように、実証性の切れたところで「不可知の雲」(神に象徴されるような人知を越えたものと、観想者との間に介在して直接的な認識を妨げるもの)の向こうの探求を放棄する時、人間は、例えば異民族・異教徒というだけで互いに反目し合って殴り合い、結局は自らを「文明社会における文化的野蛮人」でしかないことを露呈することになる。そして、その行く末は、全人類の自滅へ向って疾走せしめること必定である。 かつて「絶対性」を仮託していた神を人間が殺したのだから、絶対的な倫理的要請を出せる存在に代わって、人間一般に普遍的に妥当する倫理的規範を考案し、それについての合意形成を人為的に図ることがぜひとも必要である。啓示の主を殺し、人間が事実上の神になってしまった現代にあっては、もはや誰も指針を与えてくれない。地球の運命が自分の手中にあることに対する責任の自覚あるのみで、巨視的・鳥瞰的な判断や行動が求められる。仮に絶対性に関する合意形成が不可能でも、少なくともそこへ志向するための研究は必要である。このような目的の遂行において、民族や宗教や権力、さらには経済的利害のみに拘泥することが、いかほどに無意味かつ有害であるかはあまりに明白である。考えるに、人間は「契約」を覚えたからこそ、辛うじてこれまで存続し得たのである。そして、この現代においては、約束し遵守することの重要性は旧倍している。この精神を忘れるなら、今後の地球は、拳骨でなく原子力などを駆使した「最後の理性」(=超暴力)の支配する星になってしまうことだろう。今や抜けがけは、地球規模の自爆テロと同値になってしまった。互いに一触即発状態の中に住む(しかも必然的に他を巻き込む)人類にとって、もはや共通規範の探求を抜きにして、楽園はおろか、単なる生存の継続さえ語れなくなったのである。 以上から、地球市民としての人間関係のあり方を集約すれば、「異分子を排除するのでなくその存在を相互に承認し合い、互いの論理を受容し、相互関係を考慮して合意形成を図り、個の普遍性という基盤上に共存の姿勢を恒常的に求める」ということになるだろう。「他者を自己の中に住まわせる姿勢」・「遠近法主義(異なる視点から見たものを接合することによって「神の視点」に近づけるとする主張)の立場に立つ態度」と言い換えることもできる。「真の」科学発展を促す一方で、かけがえのない人間存在の価値を互いが自覚し、互恵互助の理念によって支えられるような包摂型地球社会の実現に向けての努力が今求められている。今ほど、健全で永続的な地球市民の共存を願わずにいられない時はない。
- kurinal2
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こんにちは。 私は、趣味の哲学(実益には直結しない)なのですが、主に、ここのサイトで、スゴイ人たちと出会うことが出来たと思って居ります。 また、自分のスタンスが(自覚的に)より明確になったことも、メリットと思います。