• ベストアンサー

30年前沖縄の高校の先生で豊臣先生と

oska2の回答

  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2183/4836)
回答No.2

>高校の先生で豊臣先生と言う方がいましたが、かの豊臣家とは関係ないですよね? こればかりは、誰にも分からない。 >豊臣家は徳川に徹底的に潰されてるはずですよね? 徳川家の歴史では、豊臣家は大坂の陣で滅亡していますよね。 が、全国各地には豊臣家の伝承が多く残っています。 青森県から宮崎・鹿児島県まで・・・。 有力な伝承は、秀頼と幸村は鹿児島に落ち延びた。 ※秀頼の影武者として幸村の息子が、大坂城と運命を共にした。 鹿児島で数日過ごすと、宮崎の日出藩(秀吉の正室・高台院の実兄の息子が初代藩主)に支援を求める。 日出藩としては、秀頼を「藩主の息子」として育てています。 ※大阪の陣までは、藩主(木下家)の息子は3人でしたが突然息子が4人になった。 まぁ、徳川家としても既に権力を掌握しているので見て見ぬふりだったのでしようね。 実際、藩主の位牌には「木下と同時に豊臣姓」が書かれています。 明治維新時の爵位授与時には「豊臣家」として認められ、霞会館の正会員となっていますよ。 ※足利室町幕府将軍家は、爵位を認められなかった。 つまり、江戸時代でも堂々と豊臣家は(木下家として)生きていた訳です。 当時は、二重の姓でも不思議ではありません。 松平久松家。松平蜂須賀家など、色々あった時代です。^^;

関連するQ&A

  • 江戸初期の豊臣家

    1600年以降、大坂の陣で豊臣氏が滅亡するまでの間、諸大名、特に豊臣恩顧や毛利・島津氏は豊臣家とはどんな関わりを持っていたのでしょうか? 徳川に遠慮して関わりを持たなかったのでしょうか。

  • 関ヶ原後の豊臣の衰退

    関ヶ原の戦いの後、家康によって豊臣家の領土・勢力は大きく削がれますよね? 一応、徳川方の言い分としては、忠臣家康が奸臣三成一派を成敗した・・・というものであったはず。 だから主君である豊臣家が徳川方の大名達に、恩賞を与えなくてはならない という名目は分からないでもないのですが・・・ だからといって、豊臣家の身をあそこまで急激に削らせるのは、 いくら秀頼が幼いといっても豊臣家または豊臣恩顧の大名から異論や抵抗はなかったのでしょうか? あまりにもあっさりと家康が豊臣家の勢力削減に成功したように見えて不思議です。 家康はどのような手段を使ったのでしょうか。

  • 沖縄の「珍しくない」苗字について(沖縄「で」ではないので注意)

    沖縄は独特な苗字の方が多いですよね。沖縄が語られるときによくでる話題です。逆に、内地(ヤマト)では珍しくない苗字で沖縄にも存在する苗字はどのようなものがあるのか知りたいと思い、質問します。 私が知っている範囲では、森、堀川、石川という苗字のウチナンチュがいます。彼らに尋ねたところ、先祖にヤマトの人はいないそうです。他にあれば教えて下さい。

  • 名字の事で追加質問を

    名字、姓のことがあまりに難しくお返事が遅れていたのですが理解をしながらお返事を書いていました。 そこでまた疑問が思い浮かんだのですが〆たのでお聞きできません。 きちんとお礼を書くためにも聞いておきたいのですが、豊臣は姓だと教えていただきました。 「徳川」は名字ですよね? そうすると、豊臣秀吉は歴史の時間で姓で教えられていますが、徳川家康は歴史で今の時代に名字で流通?しているということになりますか? 織田信長や、その他の有名な歴史人物はほとんどが名字での登場となりますよね? 豊臣秀吉は名字は何だったのでしょうか? 名字と姓の区別さえも知らなかったので混乱しています。 宜しくお願いします。

  • もし豊臣秀頼が女だったら?

    私は豊臣贔屓で歴史シュミレーション小説等を楽しみにしているのですが、自分でも暇つぶしにあれこれ考えたりしています。 そこで最近考えているのがタイトルの件なのですが、もし豊臣秀頼が女児として出生していたら、その後の歴史の推移はどうなるか?ということです。 史実では秀頼は唯一の秀吉直系男子として、徳川幕府に滅ぼされてしまうのですが、この場合かなり違った歴史が展開されると思います。 具体的にはその姫に相応しい同年代の男子を豊臣家へ婿養子として迎えるという流れになるのでしょうが、その婿殿次第で私が考えられるだけでもいくつかパターンが考えられました。 例えば‥‥ I豊臣仙千代丸(豊臣秀次嫡男1590年生) 最も豊臣家との血筋が近い婚姻になり、周囲も納得しやすい人選。 秀次は姫の岳父になるため失脚事件が起こらず、関白職を続け最終的には自分の嫡男が後継者になることが予想でき、豊臣家の安定に繋がる。 (徳川家の勝率がかなり下がる) II松平忠直(結城秀康嫡男1595年生) 史実の秀頼・千姫の婚姻のように徳川家康を取り込むことで豊臣家ではなく、豊臣政権の安定を図るという人選。 忠直を選んだ理由は結城秀康が秀吉の養子だった事で、徳川家で最も豊臣に近い人物だから。 この場合は比較的史実に近い展開になりそうな気がします。 秀次は結局失脚し、秀康が比較的短命なため後見役を失った豊臣家は星治か武力の差はあれ、徳川家に政権を奪われてしまう。 他に徳川家からでは松平忠輝もありえるかもしれません。 III宇喜多秀高(宇喜多秀家嫡男1591年生) 姫の婿を選ぶ前に秀次失脚事件が起きてしまった場合に考えられる豊臣側からの人選。 父は五大老で秀吉の養子だった秀家、実母は同じく五大老の前田利家の娘で秀吉の養女でもあった豪姫。 直接の血縁はないものの秀吉の心理的に近い人物が関係し、対徳川を意識した婚姻だと思います。 最終的には徳川家との東西決戦になりそうですが、婿殿は高台院が実子のように可愛がっていた豪姫の実子であるため、この動き次第では史実より勝率は高くなりそうかなと。 以上が私が大まかに考えた有力候補なのですすが、ご興味を持たれた方がいらっしゃれば、(1)婿候補とその理由 (2)その後の展開等をお答え下さい。 よろしくお願いいたします。

  • 豊臣時代で渡来人を先祖とする武将はいますか?

    古代までは百済などからやってきた渡来人が貴族になることもあったようですが、豊臣時代あたりまでで、渡来人を先祖とする武将はいますか? いたら教えてください。よろしくお願いいたします。

  • 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を一枚の色紙に三角形に

    織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を一枚の色紙に三角形に御朱印を貰おうと思った場合は頂点には誰の御朱印を配置すべきでしょうか? やはりここは天下を統一した徳川家康でしょうか? では三角形下側の左右には織田信長と豊臣秀吉のどちらの御朱印を押すべきでしょうか? 日本では社長の右腕という表現がありますが、左腕はないのでここは色紙の右側に上司の織田信長を押すべきでしょうか? それとも天下も何も取ってない道半ばで死んでたまたま部下の豊臣秀吉が天下を取ったので棚からぼた餅で戦国時代の有名人になっただけでもし織田信長が殺されて、織田信長と関係がない大名が天下を取っていたら織田信長は有名人にはなってなかったと思いませんか? ということで織田信長の御朱印はなしで見開きの御朱印帳に左に豊臣秀吉、右側に徳川家康の御朱印の2つで良いのではと思ったりします。 なぜ戦国時代以前の有名人は現在ではあまり祀られていないのでしょう?殆どが戦国時代からですよね。

  • 豊臣家の子孫

    現代に「羽柴」と言う姓の人が居ます 名前も「秀○」だし 明らかに秀吉一族の子孫と思われますが 公式には豊臣家の血筋は秀頼で途絶えたとなっています 現代に残る羽柴氏とは何者でしょうか? 秀吉の直系…秀頼→国松で断絶 秀次の直系…六条河原で一家打ち首 秀長の直系…男子はおらず断絶 他にも 羽柴秀勝や秀保の子孫も途絶えています 徳川時代に豊臣及び羽柴家が再興されたとは聞かないし…

  • 豊臣秀吉のことで教えてください。

    歴史に興味があり豊臣秀吉を祀る京都の豊国神社について知りたいのですが、出来るだけ簡単な言葉で教えてください。 自分でも調べましたが難しい言葉ばかりで良くわかりませんでした。 豊国神社は豊臣秀吉が亡くなって建てられ、徳川幕府により豊国社は破却され、明治時代に新たに再建されたという事ですが、 現在の豊国神社は当時(豊国社を造営された時)に建てられたそのままの物ではないと言う事でしょうか? 場所も当時に建てられた場所とは違うのでしょうか? 他には、豊国神社の唐門は、元は伏見城の城門だと言う事ですが、豊国社を造営された時に伏見城から移したという事でしょうか? 豊臣秀吉が眠っているのは豊国廟ですか?

  • 大坂の陣の前に豊臣秀頼の官位は剥奪された?

    豊臣秀頼は、大坂冬の陣の前の時点で正二位・前の右大臣という高い官位を有していました。秀頼の父である秀吉、その養子である秀次は、いずれも関白任官の直前には「正二位内大臣」の官職にありましたので、秀頼の「正二位・前の右大臣」という官位官職は「関白任官待ちの状態」と言えます。 これに対し、 徳川秀忠 従一位 右大臣 征夷大将軍 徳川家康 従一位 前の右大臣 前の征夷大将軍 の両名が「鐘銘事件」をきっかけに「因縁をつけて」、豊臣秀頼と断交し、諸大名を動員して大坂城を攻囲するに至ったわけですが、その過程で * 徳川方が朝廷に工作し、豊臣秀頼の官位を剥奪させた。 * 同じく徳川方が朝廷に工作し、豊臣秀頼を追討することを正当化する文書を出させた。 などということが行われたとは聞いたことがありません。 「正二位の高位の公卿を討つ」という尋常ならざる事態ですから、 「予め、秀頼の官位を剥奪して無位無官の地下人に落としてから天下の兵で攻撃する」 といった手続きが要るように思うのですが、そのような手続きは踏まれなかったのでしょうか?