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善の定義をしてみた

「善の定義が難しいなら悪とは何かと考えた。悪とは人殺し、盗人、詐欺などなどである。これらに共通するのは、他人(公)のことより自分(私)のことを優先しているということである。それでは善は悪の反対であるから、善の定義は自分(私)のことよりも公のことを優先する行為である、ということになる、略して“公の為”である」 このように考えて善、つまり正しい事とは“私より公を優先する行為、つまり公の為”となった。私欲を抑えて公の為に尽くす、これこそが善ではないか。この善の導き方は論理的と言えるであろうか。また善の定義、善の意味はこれで間違いないであろうか。

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  • kurinal
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回答No.17

sinwood様、こんにちは。 >「人権は侵害しません。公の為は人権を守るためのものです。皆にとって最も正しい答えを導くのですから。」 「人権を守るために、「公」が有る」というのが、適切です。 (「公」が常に上にあるのではなくて、 弱者?のニーズに対応することで、「公」は変化していきます) >「皆にとって最も正しい答えを導くのですから。」 これでは、ANo.6様の仰る「全体主義」と、なりかねないでしょう。 (マイケル・サンデルなんてのも居るし)

shinwood
質問者

お礼

コメントありがとうございます 正しいが必要になるのは、何か問題が起きたときです。家族の問題であれば家族が公、学校の問題ならば学校が公になります。公は問題により変わります。 問題に対して各自が私欲をもっていれば正しい答えには辿り着けません。ですから正しい行為、善とは各自が私欲を少し抑えてみんなの為にと考えることです。そうすれば、最大多数の最大幸福な答えが出ます。各自が我を通していれば正しい答えにはなかなか辿り着けません。 これは全体主義から最も遠く、民主的な行為です。 >マイケル・サンデルなんてのも居るし< 彼は正しい、正義とは何か分かっていないと思います。

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  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.6

公を個人より優先する考え方を全体主義といいます。 全体の為なら、個人の利益を犠牲にするのは 善だ、ということになるのですか。 ワタシ個人としては、そういう考え方もある、と 思いますが、一般的にはどうでしょう。 全体主義の反省から個人主義が出てきたわけです。

shinwood
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 個人の利益を犠牲ではなく公の為にと考えることが最も正しい答えが出て、国民にも、もっともよい利益になるのです

回答No.5

真面目な質問ですね。 「悪とは何かと考えた。悪とは人殺し、盗人、詐欺などなどである。」 私も是認しますが、論拠が出されていませんね。 「善の定義は自分(私)のことよりも公のことを優先する行為である」としてその公を優先する自分(私)、自己はどういう存在ですか?

shinwood
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 学校である問題が起きたとき私は生徒や先生となります、公は学校です。つまり生徒や先生は自分の私欲を少し抑えてまず学校全体がどうしたらよくなるかを考えると言う事です。そうすれば最も良い答えに辿り着くと言う事です。

回答No.3

>>つまり正しい事とは“私より公を優先する行為、つまり公の為”となった。 20世紀の歴史を勉強したほうがいいですよ。文化大革命なんて、大義名分は正にこれですよ。それだけで社会を回そうとして大失敗したわけですから。

shinwood
質問者

お礼

コメントありがとうございます なるほどそういう事もあるかもしれませんがほとんどはこれで正しい答えが出ます。極端な例ですべてを否定するのはどうかと思います。

回答No.2

>悪とは人殺し、盗人、詐欺などなどである それは十分に分業化・組織化が発達している集団の中において、である。 生存単位間での戦いは生存競争として、より優秀な「単位」を選択する進化として善となる。 人の生きる上での唯一の価値基準は、人生を通算した精神的な充足量の最大化に寄与するか否かだけだ。 「善悪」自体、自己中心的に陥りがちな認識を、社会性のタガにはめるために派生した必要悪に過ぎない。 深まる認識が、現象をより原理的に把握したり、また、組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成したりして、体系化(>世界観)する上で、経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動も、不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。 その中で、未だ認識化されない原理に基づく現象の経験的先入化による、あるいは組織化の分業に於ける相対的な環境の違いに基づく認識の違和の他律的原理化による、体系への編入(常識)は、そこに於ける衝動及びその原動力たる進化の展開が認識されぬ以上、自我(衝動充足)以外の先験的価値領域を形成する。 そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。 その、短絡的利己の社会システム的(認識外)矯正としての、善-悪寄生体系は、より高まる認識に於て、内なる物理=自己の認識システムの存在原理(~不確定性)としての把握と、外なる物理=社会システムの自己の生命の延長としての把握による、全衝動の自己の生(反エントロピー)への集束によって、認識体系に吸収され、即ち全環境(宇宙)の自己としての理解と、全行動の(生産)の利己としての把握に到達する事により、その「意志による生=生存自体による充足」は、最高認識に基づく最大生存に於ける完全充足、即ち最大充足を実現する。 それこそ、現象の如何を問わず、一切の認識=全ての宇宙の、究極の理想であり、善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(他律的常識)であって、善は過程として善(生産)であっても、本質として悪(非認識=非充足)に属するのだ。

shinwood
質問者

お礼

長い文章ありがとうございました。 わたくし哲学は素人でもう少し分かり易くお願いします。 善は道徳的正しさと考えています。ですから正しい行為は公の為の行為と分ったのです。善は悪に属するはずはありません。善は善です。

回答No.1

その定義では、例えば反政府組織が腐った世の中を打倒するため、革命を起こし、その過程で人を大勢殺したとしても、少なくとも主観的には「公のためにやったこと」なので、善になりますね。 しかしそうすると、人殺しは悪であるという前提と矛盾してしまいますね。だから、残念ながら間違っているのではないかと思います。

shinwood
質問者

お礼

早速コメントありがとうございます なるほど、そういう捉え方もあるのですね、反省点です。 しかし言うならばテロリストが本当に公の為と考えることはありません。常に自分たちの私欲の為だけです。 テロリストたちが私欲つまり革命を考えずに、日本の為にと考えることはないでしょう。彼らの目的、私欲は革命なのですから。

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