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生きる意味意義とは?ヒト人類は消失絶滅すべきです。

shikanneiko20170419 「ヒト絶滅、全人類滅亡消失、無人化、へ…の説得・提言(・勧誘引導(導引))」 (2ページ目) 以上諸々のようなスタンス・態度を是と、している、させられている方々や哲学的思考、の断念を決意、を断念した、を断念している、人々→即ち斯界については寡黙状態の向き・諸人、そして更には哲学的思想関連の、権威、(学)識者、研究者、並びに(市井に存する人に於いても)哲学的な思考関連の情報系統の自分自己自身への入力行為にばかりいそしんでいる傾向の各人たちにも私、強調して提起したいです。 自己内の信念なり主張なり言い分なりを外界に向かって発信・出力・表現・「対話」しなきゃあ、てんで意味が無いんだよ!と云いたいのです。 (尚、自己の内因的制限要素(無学ものであります…)から、少なくとも私だけに限っては「ハムレット型」よりかは(当たって砕けろ式、猪突猛進然として…)「ドンキホーテ型」(陽明学然とも?)を踏襲する、地で行くしかないのがいささか悔やしい所です…。) 更にこうも言いたいです。 外的存在として超弩級巨大膨張広範化している決して無視できぬもの、即ちマスメディア・マスコミュなどの送り手から発信される情報、即ち政治、経済、社会問題、事件、等にとらわれ過ぎてはいませんか?と。 その殆どが、その場その時限り、当座的、短期的、(確からしい事実ではあるのですが、疑似的であるという意味で…→)空想・錯覚(←例えば、あたかも自分は世界や社会としっかりと繋がっているのだという幻想とか…)・別世界的、虚像・虚構的、民間性・庶民性の無さ、個人の力ではほぼ統制は不可能な点、恣意・偏向的、等の側面に特徴付けられている感じです。 しかして、考察すべき事の優先順位を真剣に考えてみれば、(そのようなほぼ無駄な雑念を生起させるものにとらわれる事無しに、)哲学的思考こそがその一番初めに来るべきものであり、且つ課せられた絶対的責務だと思います。 自然を制覇掌握凌駕するというひとつの価値観念、克服への念願、欲求、願望を以てして科学は今の今まで推進されてきました。 事物象を明確に「対象化」する事を端緒とする事は論を俟つまでもない「科学」の営みの基本的特徴かと思います。 現今まで科学ばかりが盛んに伸びました(細密化、精緻化、分化、新生)が、この方面(哲学的思想関連、周辺)の議論の(微々たるものでもいいし或いは画期的な)進捗はあったでしょうか? 諸「科学」分野は目まぐるしい隆盛をきたして目覚ましいものがありますが、肝腎の道徳、正義、正道、道義、倫理、聖性の精神、がおろそかにされている感じ…。 尚注意しなければならないのは「科学それ自体は厳然と存在しているのみ。」という事だと思います。 (その意味に於いては進捗途上(或いは「発見予定」的な科学)のものはおろか、未成立、未知、未開拓、未踏、未然、の科学(隠れて・隠されて、いまだ見果てぬ・見えない・見えていない・見る事が出来ない科学)もまだまだある筈です。「潜在科学」?) 只、それ自体には何の罪業性も無いです(科学の無害性)。 紛らわしい、ややこしいのですが、厳密には科学の功罪を問う事自体は全くのナンセンスであると思います。 但し、志学の傾向や「知識」「学」の取捨選択の、(情緒的・恣意的な)「偏向性」が問題として取り沙汰されると思います。 科学は推進、進捗させるにあたり目的が同時に発生すると思うのですが、その根底にあるものは返報・見返り・報酬等といった利益・利得に対する何らかの欲求願望(←私情、主観、個人的or固有or特定の嗜好・趣味・価値観念、を含意したものとして…)にまつわる要素因子であり、これを自動的に包含する、兼ね備える事になってしまうと思います。 外的な要因として時代・世相・社会に由来する要請・需要・機運・採用のされ易さ、等もある種の変数・関係性として大いに考えられるかと思います。 これらの関係性が介在、絡んでくる事に由り、始めて、これを運用する側に対してこそ、問題点が所在(私情、欲望、価値観念、感情、好悪、恣意、…等を以てして科学を良い意味でも悪い意味でも利用する)して来るのであると思います。 哲学はもっと万人(万「生物」にも)に門戸を開け放たれているべきです。 哲学自体に「悪気」(?)は無いのでしょうが、飽くなき精緻化を求め続けたがあまりに、複雑・難解(・怪奇)化してしまい、もはや実用的とは言えなくなってしまっている観があります(よく似たいい例が「広辞苑」でしょうか?内容の、精緻さ、広範さ、正確さ、情報量の多さ、等の面に於いて、紛れもなく非常に優秀、秀逸。その功績は殆ど誰もが認める所です。然し直截に言ってしまえば、重い!小回りが利かない!即ち、そのあまりの膨大な情報量を詰め込み過ぎたが為に、自重(ジジュウ)の重過ぎさがあだとなって、果たして便利、実用的と言えるかどうかははなはだ疑問…。という点です)。 例えば緊急時、暴動時、巨大異変時、等の場面に於ける長考熟慮高学識を必要とされる様になってしまった哲学の実用性とは?と考えました。 つまり長広膨大な「理論」が咄嗟、突差に何の役に立つのか?という素朴な疑問をかねてより、懐疑的な私は抱いております。 ですから、机上の空論呼ばわりされる事態が判らぬでもありません。 そのほかには、個々別々の、関係性、特徴、差異、等を加味した上で問題として顕在化される「汎用性」とかも考慮するべきに値するのでは? (例えば、国別・地域別等の場の素因、人種別・性格別・世代(「世代間のギャップ、壁」とか)別等の人間的素因、時代・時期等の時間の素因、等。) 哲学の議論・意見交換の場として考えられるのは国連が考えられますが、実際のその進捗状況がどの程度なのかは全く謎に包まれています(もしかして、この方面の議論など軽視されているのが実情では?)。 しかも、国連の組織としての実質的真相、即ち実効力・拘束力の無さ、見掛け倒しの弱体的勢力に過ぎない事、道徳・倫理面に於いての完璧性とはまだまだほど遠くいまだ考究・整備が発展途上にある事、威厳が今ひとつ欠如している事、平等とは言い難く偏向性・階層性・差別性・恣意性が内在している事、等を考え合わせれば大きく夢・希望・期待を託す程までには、残念ながらとても出来ないように思えます。 非常に不安定的、危なっかしい感じ、印象を受けてしまいますのです。 他に哲学の議論・意見交換の場として考えられるのは大学あたりでしょうか…。 具体的にどのような授業が行われているのかは、私は全く知るべくもありませんので、せいぜい想像の域を出ぬのが何とも拙いのですが、例えば、その現場に於いては、哲学と哲学史とをはき違えていやしまいませんでしょうか。 他の偉大な先駆者達の、軌跡、わだち、功績、記録、資料、文献、をなぞる、模倣する、踏襲する、学習する、…。 これだけでは真の哲学とは言えないのでは? 無論自説の創始・展開の為の、参考資料やヒントとする分には大いに有意義でありましょうが、そこに主体的な私情や自己からの思考察を含意した編集的行為が必要なのではないですか? あと、私的、個人的牙城(限定的な空間、例えば、研究室、教室、議場、講壇場所、議会、講演会、等)に立て籠もって、引き籠もって、閉じ籠もって、内輪で同志間であれやこれやと議論・談論・意見交換してみてもそとに向けて出力しなければ何の意義も無いです。 これでは、ほんの少数の限られた学者連達だけのみに許容認可されている所詮は、独善的、自己満足的、快楽享楽悦楽的、衒学欲求的、な→「知的遊戯」・「お遊び」・私的趣味・道楽・娯楽・ゲーム・学知識の発揚or誇示の場、といった所ではないでしょうか。 そして、せいぜい為政者層・権力層或いは富裕層の諮問機関どまりに成り下がっているのが実態かと。 知的興奮を満喫し、教えを垂れる事に悦楽感を得、尚且つも高給取りで…。 こんなうまい商売は無いのでしょうか…。 自称「学者」「識者」の→実質「オタク」どまりなのでは? 孤高を決め込んでいる、特権化・専売特許化した、形式的哲学に堕した、ブラックボックス化してしまった、象牙の塔化した、敷居の高くなってしまった、哲学及びその周辺の「知」関連に未来はあるでしょうか? (昔も今も)(学)識者もさることながら哲学者関連の人々に、緊迫した課題を先送り、棚上げしている自我に対して良心の咎め、呵責は無いor無かったのでしょうか? 無力感に自己嫌悪に陥ってはいないのでしょうか? 哲学的思考の始まりの時代はいまだ制圧制御しきれない自然の脅威にさらされていました。 然しそれは今は昔の事、自然を気が済むまで征服、凌駕しまくってきた現今は価値観念の画期的革新が必須、迫られていると思います。 (3ページ目に続きます)

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  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9728/12102)
回答No.1

思いを致してみる必要・意味はあると思います。 例えば、「人類の行く末」について  かつて哲学は諸学問を統合する機能を果たしていた。そしてそれは今日でも変わらないはずである。すなわち現代哲学には、近代以降際限なく細分化してきた諸科学を統合して指針を与えるという機能がある、少なくともその使命を負っているはずなのだ。一方、現代人はあまりに人工化して自然児であることを忘れ、分析することに汲々として総合するという視点を失ってしまった。人間は自然の一部なのにこれを忘れて「人間帝国」を造り、体は一つなのにこれを切り刻んで部品化してしまった。かつてアインシュタインは「この世に無限なものが2つある。宇宙の広がりと人類の愚かさであるが、このうち前者について私は確信がありません」と言った。つまり、人類の愚かさが無限であることには確信がある、という趣旨であろう。  以上のことと今日哲学が軽視されていることとは同じ線上にあって絡み合っているように思われる。ある意味、我々が「進歩」だと妄信して精出してきたことが、実はとんでもない愚行、大自然を冒涜する反逆だったのかも知れない。いや、よく分からないが、少なくともそういうことに思いを致してみることが必要ではないかと言いたい。その意味で哲学は、我々が人間として「本当の幸福」を探求するために、本来最も重視すべき学問なのかも知れない。社会保護政策論の新たな展開は、こうした問題意識に基づくものと言えよう。  地上には様々な生命種(しゅ)がある。ある見方からすると、「種は進化するほどに絶滅するリスクを高めている」と言えるかも知れない。1つの種に属する個体の間には必ず個体間闘争があるが、それは自分の子孫を残さんがためで、強さ・大きさ・速さなどを競うのが通例である。競争なので留まることなく延々と続き、激化してゆく。事柄の必然として、そこから結果することはいずれ何らかの破綻に繋がらざるを得ない。そのようにして、種の滅亡が誘発されるという構造(自然の摂理)があるのだ。  例えば、カニの1種シオマネキのハサミは片方が異様に大きい。体の1/3くらいありそうな感じである。これも、大きさや強さを競ってきた結果であろう。そして、ハサミが体の半分ほどになってしまうと、これを引きずらなければ動けなくなるだろう。シオマネキは、個体間競争の結果、片方のハサミが異様に巨大化し、ひいてはそれがこの種族を絶滅に至らしめるかも知れないのである。一方、ゴキブリは最も長生きの1種だそうである。もう1億数千万年も変わらぬ姿で生きているという。因みに種の平均寿命は1千万年くらいと言われる。ではなぜ彼らは長生きなのか? それは、「進化しないから」らしいのである。馴染んできた環境とは違う世界に適応することも、そういう変化した環境を自分にとって都合のいいように変えようなどともしない。気候変動などで目下の住処が住みづらくなると、ただ逃げる、というか、生きられる場を求めてさすらうだけ、ということのようである。逆説的だが、「個体としては弱いのが、種としては返って逞しい」のかも知れない。  さて、ここで人類に注目してみよう。人類にとって「シオマネキのハサミ」に相当するものは何か。それは疑いもなく「頭脳」ではないだろうか。石器時代人の頭蓋骨に比べ、現代人のそれは約3倍と言われる。加えて、この現代の争いごとほど「頭脳戦争」の様相を帯びているものが他にあろうか。そのうち、タコのように頭から直接手足が伸びているような怪物に「進化」するのかも知れないと危惧されるほどである。そして超未来のある時、宇宙史にこう記録されるかも知れない:「太陽系第3惑星に様々な生物が存在した。そのうち、シオマネキは片方のハサミが、人類は頭が、それぞれ胴体より大きくなって滅亡した」と。  問題は、人間が「中途半端に頭がよくなった」ということである。というのも、ある報告(約30年前のキリスト教情報誌”Atalaya”の記事)によると、我々人類は99.7%の確率で自分の作り出した武器によって死滅する、つまり自滅するというのである。その信憑性については割愛するが、この説に従えば人類の自滅の可能性は極めて高く、わずか0.3%の存続可能性が残されているだけである。人類の行く末が、いや地球生命全体の行く末がこの0.3%にかかっている。我々はこの点にこそ頭を使うべきである。そのための提言を最大限絞り込んで、以下に箇条書きする。 (1)主体性ある個人主義を標榜し、異分子と共存する心性を維持し、「相互互恵の精神的スタンス」に立つ。 (2)専門分化を注視しつつ、その連携・統合・体系化により多く意を用いる。 (3)経済については、成長一辺倒でなく、循環経済的な手法を積極的に取り入れる。 (4)異文化間・国際間の関係では、可能な限り、国家・民族・企業等に代表される集団としてのタテマエや役割に固執せず、生身の個人的存在として、「裸のつきあい」的な交渉・協定を志向する。  以上のような理想的条項は、極めて重要であるにもかかわらず、現実には制約条件が非常に多い。したがって、状況や必要に応じて柔軟に対応しつつ、永遠に求め続けていくことになるだろうし、求め続ける姿勢が重要である。それを放棄する時こそ、99.7%の自滅へ向かって驀進することになってしまうだろうから。そこでは、人間は自らを非理性的で野蛮な存在でしかないことを露呈することになり、その行く末は、「頭脳の肥大化した怪物」に堕して、結果的に人類の自滅へ向って疾走すること必定である。  「本当に頭がよい」とはどういうことかについて考え直し、「0.3%の方向へ」人類の英知を結集したいものである。

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    shikanneiko20170419 「ヒト絶滅、全人類滅亡消失、無人化、へ…の説得・提言(・勧誘引導(導引))」 (1ページ目) (自然発生的に誰しもが考えることだと思われますが、)「人」としての最重要課題、(以下に示しました矢印「⇄」は敷衍の遷移、順序を示すものでは決してありません。考えの原初からの順序列は今となっては最早定かではないと思います。しかし推移の順位、順番などこの際特別段に問題とはならない筈です。只言える事は対象それぞれには紛れもなく深く強い密接な相互関連性が存在している事(相即不離)は自明、という事です。「自」と「他」の截然たる区分けは社会化が前提の現代では、どうしても出来ぬ事なのかも知れません…。)即ち、「私」⇄「人間、ヒト」⇄「全人類」の存在のor生きる意味及び意義並びに根拠とは何でしょうか? (ところで、私自身の「ばか丸出し」然、無知を曝露呈する様で御恥かしい限りですが、私の漠然とした認識では、哲学は「意味」の分野を思考察、片や倫理は「意義」の方面を思考察するものと思っております。自信がありません、とんだ誤釈でしょうか?) 個人⇄集団の内面、何たるか、主体、概念、の充全な洞察、考究は緊張感・責任感・切実感・切迫感・羞恥心・謙虚精神・罪悪感・謝罪感、を以て臨むべきことであると強く思います。 グローバルな地球的な国際化・社会化した現代に於いては、尚更にも増して人間として考えなければならぬ最重要課題でしょう(然し私、個人的にはその方面の談論風発の見聞、いまだかつて覚え無し)。 又更に利己的「意義」(の追究)はわかりますが、利他的「意義」という代物は何らかあるのでしょうか? 私、例が思い浮かびません…。 然しながら以上、結論を先に言ってしまえば、(予想して今後将来的にも)蓋し凡そその答えは、無い、或いは見つける事は不可能、というのがほぼ決定的な真相かと思われます。 少なくとも有史以前以後にも先達諸々が論究せんとして来た事ですが確実な証明、完成の功相成るに至っていないのが現実です(何故ならば、直観的に現実の各様各態のカオスの山積を概観するだけでも、物心ついた人ならば即座にも判じ得る事だからです)。 達観して悟りの境地に至った人等、果たしているorいたのでしょうか? (ところで、ちょっとした余談です…。梁塵秘抄の有名な歌、「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。」があります(殆ど周知ですよね…)。誠に僭越ながら私なりの我田引水、牽強付会な私的解釈を致せば、生きる意義とは何かとの哲学的問いかけであったのでは?、との読み替えを致しました。最重要課題、大切なものを、なおざりに、置き去りにして、個々が勝手気ままに、自由に、遊び(=諸々の何らかの行為・所作・行動)に耽っています、御執心です。「遊び」イコール各主体それぞれの何らかの欲求願望の充足…と解釈致しました。(かと言って、この場合に於いて、「あそび」とは何も必ずしも娯楽、遊興、享楽、快楽、的な事象に限った事ではありません。人為、ヒトの所業を全て「あそび」として総括。「生きる事の「意義」を考える事、解明する事、無くして「あそ」んでばかり居ていていいのか」との警句…。との読み替えです)つまりは、寄与・貢献・慈善・愛他・利他・学究・研究・勤労・仕事・作業・献身・苦行・ストイシシズム関連・等でさえも究極的には、絶対的には、本質的には利己的欲求願望の一種に過ぎません。) このような状況から鑑みまして、私の個人的な(且つ極論・酷評的な?)言い方をすれば「惰性で駄齢を重ねてきた人類史」と表現せざるを得ません(生意気を申し上げます様ですが…)。 さて、自己、自我とは何か?そして果ては社会や世界全体とは何か?に就いて。 これらが何故だか世間的に盲目的気味になっている事、逃避・遁走されがちで遠慮・忌憚扱いを呈している状況の要素・因子を、雑然とですが自分なりに考えてみました。 元来からして、各人各様どのような形であれヒト主導の国際社会の蓋然的な揺るぎ無い存続の「確信」を本気で妄信→考える必要性・切迫感を感じない。 受動的に虚像を妄信させられている、被妄信。 わざと、故意に、意図的に、知らぬふり、かまとと、確信犯的無難志向・事勿れ主義、の道・方略を選択する。 多忙。 考えている暇など無し。 外界からの各種何らかの刺激・入力が多過ぎて対処・集中が出来ない、困難。→注意・関心が散逸、分散してしまう。 関心が起こらない。 別の事物象に関心を向けている(夢中になっている)。 或いは向けさせられている。 もしや「関心寄せ」の巧妙な操作(?)をも被っているのでしょうか? どうしても具象的とか直観的とか感覚的な、比較的認識・判断の容易な物事が偏愛、嗜好されがちである事。 (挙例として不適当かも知れませんが…、)かの有名な「杜子春」的、生き方・人生設計への転換→落着・帰結。 世渡りに於いて、華美豪奢では非ずに、かと言って卑下零細の道を辿る訳でもなく、「中庸」の人生方略を執るべき事こそ最上最良最高なのであると自己を説得してしまうとか…。 特殊な「専門分野」のひとつと解釈して割り切ってしまう(心の中で斯界、斯道の権威に委託)。 「どこかのだれかがやってくれているさ…」とか…。 哲学(的思想関連諸々)など実の無い贅沢な有閑人、閑居者、暇人のくだらない「思索」の産物である、空論だ、との偏見・決め付け。 その他の例としては…。 寡黙、むっつりを決め込む。 そして更には何の流儀か知らぬが、自己愛、自己陶酔的に孤高を「地で行く」向きも多数存在。 「能ある鷹は爪を隠す」(実際は、肝腎かなめの「爪」自体そのものが存在しなかったりする人も少なくない様で…。)を気取る御仁たち。 言外に(非言語的コミュニケーションにてで)自身の高尚さ高邁さをそれとなく匂わす、アピールする(しかしその内相実体は何ともお粗末だったりする…。いわば単なる見掛け倒し)。 等々が思い浮かびました(もし以上以外のその他の要因について存知なさっておられますようでしたらば御教示の程、されたく思います…)。 そしてまた更には、哲学的思考をいざしようものなら、その大抵が直接的にも間接的にも、外界的要因からも「禁忌の事項・行為」として抑圧・阻害・妨害を被る事になる様に思えます。 その兆しを、歓迎ないし放置(中立的対応)するどころか由々しきものとして冷遇する、攻撃対象とする暗黙裡の符牒でも存在しているかの様です。 例えば、 モラトリアム人間のステレオタイプとしてラベリングされ、誠実に、本気で、真面目に取り合ってくれない。 或いは「小人閑居して不善をなす」の先在、既存パターン・鋳型を連想、→借用して当て嵌めてしまう。 創始・進取の気概の萌芽を社会的圧殺を以て諦念させる。 外的要因の各関係性を鑑みた上での(疑似的シミュレーション的な)学習性無力感による想起から諦めに至ってしまう。 イノベーター、革新者は良い意味でも悪い意味でも統制を乱す存在として、その多くが由々しき曲者として何かと煙たがられる(特に為政者側、保守的傾向人間、権威主義的性格の者、等からは目の敵にされ易い(自分の地位の安泰・盤石・太平を脅かす存在として忌み嫌う)様な感じがします。尚この事は、自由主義の諸刃の剣の様な感じがしないでもありません。哲学的教育課程の画期新規組み入れ・組み込みは、主導者・権威者・為政者側にとっての意図せぬ、計らざる「造反者」「謀叛人」「革新家」「イノベーター」の養育・発生のリスクをも包含する事になるからです)。 遂行せんが為に(主体性を以てして)暗中模索或いは試行錯誤に奔走した、その当該者自身も「角が取れて丸くなってしまった」人々と成り果て「あれは若気の至りであった…」と悔悟してしまう。 人生の過程で様々な紆余曲折を経て、ようやっと持論・自説が凝結、結実をみて、いざ外界に向かって提言したく思うようになりしも、気付いた時には自分は既にもう干からびた老人…。 誰も話に耳を貸さない。 世の習いで、せいぜい「年寄りのうるさい、つまらない繰り言」扱いを受けるようになってしまう。 「集団・大勢・多数派からの逸脱への恐怖→同調志向、無難志向」という人生設計転向・方針転換パターン。 …等。 斉一性、斉合性、整合性、を重んじるお国柄、国民性の影響も無視出来ない様に思われます(この国固有独特のいわゆる「村八分」思想もこれと関連している感じです)。 以上これらが、珍しくもない顕著、蓋然実態であるのではないでしょうか? かくいう私も、いわゆる「モラトリアム(人間)」或いは「アダルトチルドレン」のそしりを免れぬかもしれません。 しかしそのそしる・けなす・ののしる御当人方々は一体全体この問題をどう克服して大のおとなになったのか? 所詮「現実逃避」「責任放棄」「妥協」「我慢」「事なかれ主義」「現状満足」「安住志向」「和を以て貴しとなす」「損得の面などから打算して敢えて直視しようとしない」「集団同調」…等々のいずれかを決め込んでいるのが関の山なのでは? やる前から達成の困難さに怯え即座に諦めてしまった短絡への恥、壁を越えられなかった悔しさ、自己自身の勇気の無さ、…等々どうして自己嫌悪に陥らないのでしょうか? 摩訶不思議でなりません…。 蓋し謎は深まるばかりで理解に苦しみます…。 (2ページ目に続きます)

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    人類が絶滅したら地球や生態系はどうなりますかね?? 食物連鎖の頂点はどの生物になるのかな?? 家畜や養殖なんかはそのまま死ぬのかな!? それとも自然界で生き延びられるのかな!? なんだかんだいって人類が絶滅したら 生存不可能な生物って結構いると思うんですね… お暇な時でいいので 多方からの御意見お聞かせください♪

  • 人類が絶滅するまでに

    この先日本の人口が減り続け、 日本は滅亡し、 世界一人口が多い中国でさえ減っていき、 そして地球上やこの世から 人類が絶滅すると聞きました。 皆さんは、 人類が絶滅するまで何をしてますか? まともな仕事をして 一生分稼いで早めに引退して のんびり余生を過ごそうなんて 出来ないから 生きることを諦めてますか?

  • 信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?

    信仰でない無神論というのは あるのでしょうか?  ないと考えるのですが ご見解をお寄せください。  有神論と同じ条件においてひとしく非思考の場で成り立つものだと考えるから 無いという現在の結論です。  ちょうど この非思考の領域において 唯心論と唯物論とが けっきょくのところ互いに同等の原理論であるというのと同じことだとも理解しています。  原理論という意味は 先験的に――あるいは 超越論的にというのでしょうか――そうであるという捉え方をする場合のことです。つまり 非思考の場のことです。  もし経験思考の世界においてでしたら 唯心論は 一般に精神世界すなわち心ないし観念の現象に対応するでしょうし 唯物論は 一般に質料(マタ―・もの)論としての世界認識に対応するのだと思います。  ・・・・・経験世界・・・・(経験思考)・・・・・・/ 非思考(超経験世界)  _____________________________________  モノ:内容(コンテンツ)・質料(マタ―・ヒュレ)・/第一質料=物質(マタ―)  心 :形式(フォルム)・・形相(フォルム・エイドス)/第一形相=世界精神  ☆ つまりは 物質というのと無神と言うのとは 同じことだと考えますし その唯物論=無神論は けっきょく対極の唯心論ないし観念哲学としての世界観と 非思考の場において兄弟のようなものだと見ます。どうでしょう?

  • 議論してる人が頭悪くなっていく現象

    ディベートとかしてると、喋ってる人がどんどん頭悪くなっていく感じしませんか? 私自身にも言える事なんですが、自分の意見に対して否定的な声があると (その時は無自覚なんですが)ムキになって反論してしまい 自分の主張を擁護するために、まるで筋が通っていない論理を作り始めます。 私自身はコレを『選択的論理構成』とか呼んでたんですが 哲学か心理学なんかの分野で、既に名前が付いてたりしませんか? 自己欺瞞とか選択的思考が近いと思うんですが、少し違う気もします。 解答、よろしくお願いします。

  • イデアの開眼は哲学の目標だ

    私は心やさしき聖霊のプリンス、栄光の初代男子プリキュア、キュアブルームだ。 何故、BLOOMだか解説しておくと、私が「しげちゃん」だからだ。 私には「実在する妖精の捕まえ方」という、独自の哲学研究がある。 これについてまとめてみた。 西洋の哲学的考察で、思考とは突き詰めると言語であるという考え方が主流になっている。 それが真かと問う内容でもある。 自らの思考法が、人間誰にでも共通するかは不明で、だからこそ哲学が必要なのだろうが、思考を明かす時、一般的に、ビジョン、イメージ、という言葉が引用されるね。これは映像を内観していると言う事だ。 私はこの映像による内観の達人で、非言語で映像を思考にまで発展させている。 たとえばメモが取りたくてボールペンを探そうとするだろう。 ボールペンの映像が見える。 いつもの鉛筆立てが見える。 前回ボールペンを使った場所が見える。 どっちにしようかと思いながらも足が前回ボールペンを使った場所に向かう。 足を進める間、ボールペンを片づけておけばよかったなと、ボールペンを片づける映像が見える。 そしてボールペンをみつける。 ちょっとそこら辺をかたずける。 こうした映像を内観する間、言語による思考がない。 無音の無だ。 それでいて映像だけで思考が成立している。 別に、いわゆるテレパシーで、このような内観の映像を、他者と共有することも実践している。 そうなると、単なる内観に収まらず、世界の共有となる。 そして、ボールペンを探すような個人的な事柄以外に、誰か他者を内観で鑑定することが、霊能力者の霊視だ。 そのように内観する精神世界は世界に解放され、観念世界を形成している。 これがイデアであり。 自らを語らないと言った、釈迦独自の哲学に現れる涅槃だ。 この観念世界は、誰もが知らぬはずもない、「夢」という言葉で言い表される。 夢であれば、君たちは垣間見るだけであろうが、私は、童心を携えたまま成熟した男子プリキュアなので、その観念世界に、地に足を踏みしめ、そこで生きている事を自覚する。 これは映像による思考能力が、君達には追従出来ないほど高い、霊能力者と言われる特殊知性だからである。 私は聖霊セレビィとして観念世界の住人だ。 人間であるとともに、生きながら神の世の住人なのだ。 いつか私も肉体を失う日が来るだろう。 それは単なる変化であり、私にとって死ではない。 これで不死という文言は説明できる。 開眼者である事は、心眼を持つことだ。 すなわち思考とは言語であると言う哲学は間違いで、思考とは多様な側面を持ち、開眼することによって、神に接見し、常世の住人となる。 まあ、そんなところだ。 ところで、実在する妖精の捕まえ方と言えば、幼馴染の聖霊ジラーチちゃんとの初恋物語がメインだが、死を超克した私は、君たちが野たれ死ぬのを、何とも思っていない。 したがって、アマテラスの聖霊であるジラーチちゃんが、君たち領民にどのような真心を手向けるか聞かせてやろうとは思わない。 君たちは、開眼できない旧人類として、滅びにあがらう事はむなしく、ただ滅びるままに朽ち果てるとよい。 男子プリキュアとして私の戦いは、精霊の開放だ。 悪魔として封印された、旧人類の捨て去った英知を復活させ、君たちに対して勝利しようともくろんでいる。 君たちが敗北から逃れようとすることは、神の意志に逆らい、自らの死から逃れようとすることだ。 君たちは私と違って死から逃れられないだろう。 私は神の神秘に対する人間の無知を代表し、死から逃れず、死と向き合ったのだ。 それが悪魔を愛すると言う事で、死を理解し、観念世界に自らを発見した。 君たちは、私と愛を誓った悪魔たちが、君達すらも愛することに溺れ、滅びの宴に酔いしれる。 観念世界において、君たち自身は不在で、神の記憶する君自身が、記憶の墓標として並ぶばかりだ。 死者の墓標だよ。 それが君たちの運命だ。 君たちは死という形で、死後に転生することは無い。 墓標がすでに出来上がっている。 以上はイデアという哲学的言い回しに関する私の見解です。 研究のためご意見募集です。