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【悟りは1人1人違うものなのでしょうか?】

【悟りは1人1人違うものなのでしょうか?】 それとも悟りは誰もが当てはまる解のことを人生の悟りと言うのですか?

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  • koosaka
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回答No.3

ヤフーの知恵袋で同じ質問をしていて、私から回答しましたが、ここで同じ回答を繰り返します。 昔、若いとき、鎌倉の禅宗寺院、浄妙寺で故・安谷白雲老師の座禅会に参加して禅の修行をしたことがあります。 禅宗には大別して曹洞宗・臨済宗・黄檗宗の3つの宗派がありますが、曹洞宗は「只管打坐」と言って、座る姿が仏と言っていますので「悟り」を求めません。 また、黄檗宗のことはよく知りませんが、たぶん、「悟り」を求めないと思います。 「悟り」を求めるとしたら、臨済宗だけで、「公案」を用います。 私の場合、中国の高僧・趙州禅師の「無字の公案」をいただき、参究しました。 「無字の公案」というのには、姿・形のない文字を見て来なさい、という問題です。 それが解けたら、「悟り」だと言われました。 この他に日本の白隠禅師の「隻手音声」という「公案」もあります。 これは、片手で鳴る音を聞いてきなさい、という問題です。 で、毎日、朝から晩まで座禅ばかりして「ムーッ、ムーッ」と唱えていました。 結局、「悟り」は得られませんでしたが。 よく誤解する人がいますが、「悟り」というのは、自分では分からないものなんです。 老師と一対一で、禅問答をし、老師とのやり取りを通じて、老師が、「この人は悟った」と判断するものなんです。 老師が「悟った」と判断すると、印可証明という証明書を発行してくれます。 それを持って、また別の老師を訪ね、修行を続けます。 同僚の僧に聞いたところでは、「悟りを得るためには、出家して、毎日座禅して、老師と禅問答をして、少なくとも10年間は修行しなければなりません」と言われました。 しかも、「悟り」は1回で終わりということはなく、何回でもあるものだと言われました。 このように「悟り」を得ることはひじょうに難しいものです。 在家のままで修行して「悟り」を得るのは至難です。 あなたは「悟りは一人一人違うものなんでしょうか?」と言いますが、すでに申し上げたように、「悟り」は自分では分からず、老師が判断するものですので、それは老師に聞かないと分かりません。 禅宗では、老師との「相性」によって、悟ったり、悟らないこともあると言われておりますので、人それぞれということがあります。

japanway
質問者

お礼

みなさん回答ありがとうございます 禅も瞑想も悟りの境地ではありませんよ

その他の回答 (3)

  • g27xxxxx
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回答No.4

答の無い事に答を見いだそうとするのは愚かな事ですが、 答が無いと気づいた時に悟りが開ける筈です。 それは誰にでも当てはまる事です。 解が有るかどうかもわからない事に「解の事か?」と問うてるうちは、 悟りに到ることは有りません。 ご安心ください。 悟るまでは誰にも分からない事ですから皆同じです。 解が無いことを知るのも悟りです。 これも皆同じです。 他者に頼って得た解を、自らの悟りとするのは不可能です。 これも、誰もが同じく犯す誤りです。 悟りに違いが有るのではなく、人に違いがあるのです。

回答No.2

全宇宙の情報量を、脳内で処理できない。 「悟りなどない」というのが悟りという 意味ではひとつのものだが、そこに至る べき否定すべき“現実”の過程は人それぞれだ。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.1

japanway様、こんにちは。 私などは最近、「親がバカだった」と悟りました。