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アフリカ分割・・・3C政策、横断政策、3B政策
1880年代から進んだアフリカ分割を主導したのはイギリスとフランスですが、 イギリスが縦断政策のもと、カイロとケープタウンとカルカッタをつなげる 「3C政策」 フランスが、アルジェリアとチュニジアを拠点に、サハラ砂漠の南辺に沿って 西アフリカから東海岸をつなぐ「横断政策」 またドイツが、ベルリン、ヴィザンチウム、バクダッドをつないだ「3B政策」 それぞれの国が追及した政策の目的や内容がわかりません。 授業にも資料にも説明がありませんでした。 よろしくおねがいします。
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注)以下、「世界地図」をみながら読んでください。 【イギリス】 イギリスの最重要植民地は「インド」です。イギリスの政策の目的は「最重要植民地インドの防衛」です。インドに何かあったとき(例えば、ロシアの南下政策やインド国内での反乱)にイギリス軍がすぐにインドに駆けつけられるようにしたいわけです。で、イギリスからインドに行くには海を通るわけですよ、飛行機ないんで。じゃあどこ通る?っていうと、2つのルートがあるんですよ。大西洋へ出てから2ルートに分かれます。1.アフリカをぐるっとまわって(=アフリカの南端を通って)行くルート、2.地中海~紅海~インド洋を通っていくルートのことです。じゃあ、それぞれで拠点を設けようっつって、1の拠点にケープタウン、2の拠点にカイロをおさえたってわけです。 【フランス】 (前提:イギリスとフランスは百年戦以来、仲が悪いんです。)イギリスがカイロを拠点に南下してる途中に、現在のスーダンで足止めを食らいます。(1881~1898, マフディーの乱のこと。)それをいいことにフランスは思う。「イギリスが足止めを食らってるうちに横断してしまおう。」で、フランスはマフディーの乱が始まったのと同じ年の1881年に急いでチュニジアを保護国化し、(=アフリカ横断の拠点づくり)横断を始めました、ってこと。イギリスが縦断できないように。これがフランスの政策の目的。 【ドイツ】 ドイツの頭には、「イギリスの妨害」と「世界進出」しかない。そこで名案。中東に出て、そのままインドに行ってイギリスを邪魔してやろうってわけです。だからバグダードを拠点にしてるんです。(その証拠に、1899年、ドイツはバグダード鉄道の建設を開始しています。)余談ですけど、インドの「ベンガル」という地域まで行ってしまおうと考えてたみたいです。ベンガルの頭文字て「B」ですよね。ドイツは「4B政策」を狙ってたらしいですよ。高校で聞きました。
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- jkpawapuro
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目的と言っても植民地時代なので、単に各帝国がどこの帝国にも属してない白地図を埋めるようなノリで植民地を拡大していく政策ですよ。 当時の物流というのは(まあ現代もそうですが)船と鉄道頼りです。 ですから港を作り沿岸部を支配し、徐々に内陸に進出するわけです。 鉄道ってのは両端に出口が合ってこそ効率的ですので、イギリスはカイロ・ケープタウンを持っているからそこを鉄道でぶち抜いて沿線を支配しよう、フランスはアフリカ西岸を支配していたのでジプチを支配して東西に鉄道をぶち抜いて沿線を支配しようという考えです。 一方ドイツは大陸国ですので海軍力が圧倒的に劣ります。そこで鉄道を本国から直接トルコ中東まで敷き、トルコを影響下にしようとしました。ビザンティウム(イスタンブール)バグダット、ともにオスマントルコ領です。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%88%86%E5%89%B2
お礼
とてもわかりやすく教えて頂きありがとうございました。 #1の回答を#2が補強してくださった感じになりましたので #1をBAに致しました。 2人の方に感謝します。勉強になりました。ありがとうございました。