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存在性ってどう言う意味?

存在性とは・・・・? 忘れたでしょうね。 どう言う意味か当てたら偉い。

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回答No.14

再度、あなたの補足に対して、私から回答します。 存在は存在物(者)とは違うことを、区別すべきことをハイデガーは主張しています。 ハイデガーを持ち出さなくても、そのことは分かります。 存在物(者)は具体的なもの、目に見えるもの、感覚できるもの、個別的なもの、特殊的なものですが、存在は目に見えないもの、感覚できないもの、一般的なもの、普遍的なものですから、両者は違います。 あなたはウィキペディアと同じように両者を同じものと混同しているようですが、区別しなければならないですよ。 存在は個別者ではなく、一般的なもの、概念です。 しかも、個別的・具体的なものが1階にあるとしたら、存在は2階の概念です。 たとえば、学校という概念がありますが、学校というのは概念だから、見たり感覚できないし、現実にこの世界にあるものではありません。 現実にあるのは1階の生徒と先生と校舎だけです。 その1階の具体的なものの上に登って2階にあるものが学校という概念です。 存在物(者)は1階にあり、私たちに見ることができ、感覚できるものですが、存在は2階の概念で、私たちには見ることも感覚も出来ません。 ところがあなたはこう言っています、 「私は存在を名詞と考えて、存在物(者)などの存在と同じものと考えて、「存在」を「存在するもの」と考えていたことです。 ・・・・・その通り、「存在」と「存在するもの」を一緒にして考えていたということです。 私が指摘するように。 そして、こうも言っています、 「つまり私は一般の意味での「存在」という言葉を使い、先生(注、私は先生ではありませんが・・・・・)は哲学用語として「存在」という言葉を使っていた、ということです。 ・・・・・・一般の人は、あなたと同じで、またウィキペディアも同じで、「存在」と「存在するもの・存在者(物)」を区別していないのです。 だけど哲学に限らず、本当は両者は区別しなければならないのです。 ハイデガーが何といおうとも、それとは関係なしに。 存在は目に見えないのに反し、存在者(物)は目に見えるものですから。 哲学を離れても、哲学とは無関係に、両者は違うでしょ? 存在とは存在するもの・存在者(物)の全体です。 存在者(物)は部分に対して、存在はその全体です。 なぜならば、個別的な「存在するもの・存在者(物)」は「あったり」「なかったり」するけれども、存在は至る所にあり、無いことが無いのですから。 あなたも前に言っていましたよね? 存在は至る所にある、と。 つまり存在は普遍的です。 それに対して「存在するもの・存在者(物)は空間のどこか特定の所にあります。 机の上とか、学校の中とか、会社の中とか、そういう具体的な場所にあります。 ところが存在は至る所にあるのですから、どんな場所にも、宇宙空間にだってあります。 真空の中にもあります。 存在は「あまねく」存在するのですから、無いところがありません。 ハイデガーは存在を「存在するもの・存在者(物)」を存在せしめる根拠とか理由ではないかといいましたが、その一方では「存在するもの・存在者(物)」は、矛盾するようですが、根拠なしに存在するのではないかといいました。 どういうことかというと、その「存在するもの・存在者(物)」の根拠とかも、同じ「存在するもの・存在者(物)」でしかないからです。 たとえば、あなたの言う存在性とか、性質とか、エネルギーも「存在するもの・存在者(物)」でしかないからです。 だとすると、そのエネルギーが存在する根拠は何なのか? という質問が避けられなくなります。 何ものかの「存在するもの」の根拠を、ふたたび「存在するもの」で答えれば、今度はその「存在するもの」の根拠は何か? 問わねばならなくなり、無限遡行に陥るのが避けられません。 だからそれをシェリングは根拠は「無底」だと言ったのです。 「無底」というのは「底なし」という意味です。 無限遡行に陥るというのはどこまで行っても、行き着くところがないということ。 だからそれは「無」に等しい。 このことからハイデガーは「存在するもの・存在者(物)」は根拠なしに存在していると言ったのです。 この考えは仏教の「空」と「縁起」の考えによく似ています。 仏教はこの世に存在するものはいかなる実体もない、いっさいは「縁起」によって、因果関係で結ばれているだけで、「空」である、と。 ハイデガーも同じです。 この世の中に「存在するもの・存在者(物)」は根拠なしに存在している、と。 根拠は「空」である、と。 ところがあなたは「私の考えでは、存在者(物)が存在する根拠は大いにあります。まず、歴史、因果律があります。そして存在性、存在を実現している性質が在ってのことです」 ・・・・・・という。 歴史は存在ではなく、「存在するもの」です。 因果律も同様、「存在するもの」です。 そして「存在性」も「存在を実現している性質」も「存在するもの・存在者(物)」です。 だったら、その歴史が存在する根拠は何なのですか? 因果律が存在する根拠は何なのですか? そして「存在性」が「存在を実現している性質」が存在する根拠は何なのですか? それに答えようとして、また「存在するもの・存在者(物)」を持ち出して答えようとすれば、ふたたびその「存在するもの・存在者(物)」の存在する根拠は何なのですか? という問いが避けられなくなり、どこまで行っても果てしが無くなります。 無限遡行が避けられない。 「たとえば、あなたが人にあなたが存在する根拠がないと言ったらどう思うでしょうか?」 ・・・・・・といいますが、仏教はこの世の中は何も無い、「空」であると言っていますよ。 何ものかが存在すると思うのは迷妄である、と言っています。 それを「業観縁起」といい、「業」つまり、人間の欲望がこの世の中が存在すると見せているのであり、「業」を滅却すれば「空」であると教えています。 つまりこの世界、この世の中は、根拠なくして存在していると教えています。 一般の人がそれを聞いたなら、仏教の真理に目覚め、そうなんですかあ、と感謝されるんではないですか? 私はハイデガーも仏教を離れても、この世の中は根拠なくして存在していると信じています。

yuniko99
質問者

お礼

先生(貴方)の論法だと、生徒と先生と校舎だって実際にあると言うわではなくなります 実際にいるのは子供?と大人?と建物です。 子供も、色んな子供がいますし、人間でしょうけど、人間も結局は素粒子で出来ているのです 学校がないのなら人間もないのでは?? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 何も信じることはないと思いますが ご説明で色々哲学の事が分かりました。 なるほどと思う一方 それじゃ人々は「存在者」でさえ根拠がない 空だ。こうなったら即身成仏だ即身仏だと言い出しはしませんかねえ? 私は「存在」と言う言葉を身近にする為にも私の語感を使いたいと思います 私は「存在」とは(個性ある)性質を持ったエネルギー と定義しました その定義に拘るつもりはありませんが 何で(個性ある)という言葉を付けてるかというと、仰る通り存在はどこからどこまでが存在なのか分からないということです。 ですから定義をしなければ「存在」は内容もなく、空虚で、定義できないものになってしまいます。 そこで私は考えました。それでは存在者も空で何が何だか普通の人には分からない しかし存在は模様がある、濃淡や形があるのです。形もハッキリはしてませんが エネルギーに働く性質のおかげでエネルギーには個性がある 酸素分子なら酸素分子の個性、犬なら犬の(その犬の)個性が、葉っぱにも家にも 学校にも個性がある(学校なんて在る訳じゃないとか言ったら学生たちは寝るか困惑するか分かりませんよ^^) その個性を持って存在の単位としたのです。当然原子も個性、分子も個性、物質も個性、生物も個性、人間も個性、個人の考えにも個性です。つまり重なっています。共有する個性もあるでしょう。 その方が生き生きしていいじゃないですか。 それにエネルギー・物質も存在としなければ 他に何が存在なのかという気がします。 この世はその様な個性(本質?)を持って存在としなければ、仰る通り 存在は定義できず内容もない空虚なものになり、人々から哲学は難しくて何がなんだか分からない と言われるようになってしまいます。 個性が本質を意味するのかどうかは私もまだよく考えていません。 PCの調子がおかしく、消えそうになったので とりあえず送信

yuniko99
質問者

補足

お礼を忘れていました 色即是空 空即是色 どうも大変ありがとうございます☆

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その他の回答 (13)

  • a_hona
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回答No.3

例えば、生きたいという意思が、病気や怪我などした時に現れたりする事があるでしょう。 同じように、存在したい、存在しようと言う一種力のようなものが、存在の危機には明確に感じられるものかもしれません。その力のベクトルを、存在性と呼んでいるのではないでしょうか。 しかし私が思うに、その様な力を必要としている間は、純粋な存在たり得ず、常に何か欠けたような不全感を常に感じる事となるのではないか。何故なら、それが物であれ精神であれ、円満なものというのは、そんなベクトルを持ってはいないだろうからです。

yuniko99
質問者

お礼

円満なものは存在性に満ちていて 存在が安定しているので ぎゃくにそれを感じない 例えばパンや肉や野菜が満ち足りてる時に飢えを感じる必要はないですが 全く無い時 激しい飢えを感じるのです。その飢えた時に求めるのが存在性 存在する為に必要な性質、有効な性質を 存在性 と呼ぶのです。私はね。 性質は無数にあります。その中の殆どが何らかの存在性であり その存在性が違う存在(存在者?)にとっては非存在性にもなり、破壊性にもなります。 ベクトルという言葉は良いかもしれません。存在しようとするベクトルです。 どうも大変ありがとうございます。

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回答No.2

2~3年前から同じことを繰り返しているみたいだけど、「存在性」なんて言葉は哲学にはないし、あなたの勝手な造語だし、私がすでに指摘しているようにただのデタラメで、哲学の知識なんて皆無なあなたの自分勝手な、他人には通用しない言葉です。 ホント、笑っちゃう。 あんなに批判したのに、まだ性懲りないのですか? このOKウエイブを見ている人も、呆れているでしょう。 そんなデタラメを繰り返すあなたの情熱の出所はいったい何なのですか? ちょっとでも、自分のいうことに耳を傾けてもらいたい、自分の思いついた思想、しかもデタラメの思想に耳を傾けて欲しい、ということですか? 大学を中退して、ちょっとの物理学を齧っただけで、デカルトも知らず、カントも知らず、ヘーゲルも知らず、フッサールも知らず、ハイデガーも知らず、メルロー・ポンティーも知らず、サルトルも知らず、デリダも知らず、フーコーも知らず、ソシュールも知らず、ヤコブソンも知らず、バンベニストも知らず、ボードリアールも知らず、フロイトも知らず、ラカンも知らず、ウィトゲンシュタインも知らず、ジョン・サールも知らず、ディヴィッドソンも知らず、クリブキも知らず、パットナムも知らず、バルトも知らず、デネットも知らず、チャーマーズも知らず、ダマシオも知らず、アームストロングも知らず、コリン・マッギンも知らず、フレデリック・ジェイムソンも知らず、アレクサンドル・コイレも知らず、ギルバート・ライルも知らず…・・・・ああ、疲れる! とにかく知らない尽くしではありませんか? そんな人がどうしてこのOKウエイブに2年も、3年も住み着いて、毎日のようにそんなデタラメを振りまいているのですか? 私はあなたの考えていることが分かりません。 ちょっとは恥ずかしいという気持ちがないのでしょうか? 哲学の質問をするんだったら、哲学をまずやってから質問すべきなのではありませんか? 誰でもいいですが、大学でやっているように哲学の古典を、一行一行読んで解釈して、それを自分なりに疑問を持ったら、このokウエイブで質問するのもよし、またヤフーの知恵袋で質問するのもよし、それをやってから自分の思想を主張してください。 カントの「純粋理性批判」でもいいですが、それを一行一行、読むんです。 そうやって10年間は、一人の哲学者に取り組むんです。 私もそうやって哲学をやって来ました。 一人の哲学者をやるんだったら、その哲学者の全集をそろえて、最低でも10年間はその哲学者の本を隅から隅まで読んで暮らすんです。 人間の命は短いから、せいぜいやると言っても、5~6人の哲学者を読むのが精いっぱい。 哲学を学ぶというのはものすごく時間がかかるんですよ。 粘り強く、根気よく、毎日毎日、雨が降っても、雪が降っても、飽きもせず、精神を集中するんです。 あなたが今何歳なのか、私は知りませんが、たいていは18歳ころから哲学ばかりやるんです。 そうやって、毎日哲学書を読んで、50年くらいしてようやく少し哲学が理解できてくるんです。 あなたはそのような努力をしていますか? 大学で少しかじった物理学の中途半端な知識だけで、哲学をやろうと考えているんではないですか? 哲学の基礎ができていないから、そんなデタラメを言って皆から失笑を買うんです。 存在性なんて言葉は哲学にはありませんよ。 いったいなんですか、それは! 前にも言いましたように「存在」とは日本語では「ある」とか「いる」といいます。 「そこに山がある」「そこに猫がいる」「机の上にノートがある」「富士山は日本一の山である」「学校で今日、授業がある」「今テレビを見ている」「現在は12時である」「明日ディズニー・ランドに行こうと思っている」「明日は晴れである」・・・・・・・etc そして存在の「ある」とか「いる」は主語につく述語ではありません。 たとえば、「エンピツの色は黄色い」だったら、黄色は主語のエンピツの述語ですから、黄色という性質を持ちます。 黄色は主語エンピツの述語です。 ところが存在、「ある」とか「いる」は果たして述語でしょうか? 例えば「そこに山がある」と言った場合の「ある」は主語「山」の述語でしょうか? 主語「山」の性質とか属性でしょうか? あるいは、あなたの言うエネルギーでしょうか? 述語は主語を修飾し、主語の内容を豊かにするものです。 では「ある」とか「いる」というのは主語を豊かにするものでしょうか? 「ある」とか「いる」というのは主語を修飾するものでしょうか? 学校で文法を学んだならば、あなたでも、それは簡単に分かりますよね? 「ある」とか「いる」というのはなんら主語を修飾するものでも、主語の内容を豊かにするものでまなく、主語の述語ではありません。 存在するもの、物体とか人間だったなら、定義できますが、存在は「存在するもの」ではなく、抽象的な概念ですから、定義できないのです。 あなたがいうエネルギーとか、性質というのは「存在するもの」でしょ? ところが存在と「存在するもの」は違いますから区別しなければなりません。 存在には、いかなるエネルギーも、性質も含みません。 それは「山がある」という場合の「ある」にいかなる性質も含まないのと同じです。 だから私は前に存在は空虚で、中身が空っぽで、定義できないと言ったのです。 カントによれば、存在とは主語の一般定立です。 一般定立とは、その主語を特定するものでなく、その周辺の存在するものすべてを定立するもの、措定するものです。 だから「山がある」と言った場合の「ある」とは山を含めたすべての存在するものを、単に存在するものと定位しているだけです。 つまり、主題として指示しているだけ。 一般的に定立しているだけだから、内容がないし、中身は空っぽだし、空虚で、「ある」とか「いる」という言葉を定義できないのです。 ところがあなたはその「ある」とか「いる」を定義できるという。 存在性があるという。 存在性とは存在の性質だという。 どうして「山がある」と言った場合の「ある」が性質なんですか? どんな性質なんですか? 「山がある」と言った場合の「ある」には性質も何も含まれていません。 ただ「ある」と言っているだけです。 つまり中身なんて何もない。 「ある」とか「いる」という言葉にどんな性質や中身があるんですか? カントは「純粋理性批判」の第2部の「神の存在論的証明の不可能のゆえんについて」という章で、「存在はレアールな述語ではない」と言っています。 簡単に言えば、存在はいかなる意味でも述語ではない、ということです。 主語から導き出せる述語ではない、ということ。 ところがあなたは存在はエネルギーであるとか、性質を持っているとか、述語だと述べています。 つまり存在を修飾する述語だと言っている。 カントはそれを否定したんです。 存在はいかなる意味でも述語ではない、存在は主語の一般定立に他ならないと。 まあ、私がこんなにも口を酸っぱく言っても、あなたには理解できないでしょうね? 人のいうことには耳を傾けず、相変わらず自己の主張を連呼するばかりで。 それが私の思想なんです、と言って。 私もなんでこんな回答をしなければならないのか、徒労感を感じます。 もうすこし、哲学を学んでください。 西欧の哲学の古典をしっかり読んでから、質問してください。

yuniko99
質問者

お礼

哲学的学問の塊が哲学だと言う訳ですね。 しかしそんなに沢山学者を上げて それぞれは意見は一致してるんですか? 学説が矛盾してることも多いんじゃないですか? もし一致してるのなら 人生観・世界観を綺麗に説明して頂けないでしょうか? 人間の生きる意味。人間とは何か?精神とは何か?存在、実存とは何か?その他諸々の哲学的課題に説明を加えてください どうもありがとうございます。

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noname#207377
noname#207377
回答No.1

当てない方が偉いのです・・・ あなたを相手にする方が偉く無いだけです(俺みたいに・・・)

yuniko99
質問者

お礼

そうですか。

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