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幕末・維新を動かしたエネルギー

 徒然にというか、うとうととしながら、ふと、幕末・維新を動かしたエネルギーは一体何だったのか?という疑問が湧いてきました。もちろん、幕末・維新を動かしたエネルギーといっても単純ではないと思います。エネルギー同士ぶつかり合うこともあっただろうし、交錯することもあったと思います。  それで、ほんのちょっぴり歴史を楽しんでいる程度の少ない知識の中で、自分なりに少し考えて、思い浮かんだのが次の5点です。 (1) 外様大名と藩士の恨み  すぐに思い浮かんだのが、「薩長土肥」ということでした。それで調べてみると、4藩とも、いわゆる「外様大名」でした。それで関ヶ原の合戦以降、2百数十年間、恨みを持ち続けたのかも知れないということです。  ただ疑問もあります。    ア) 江戸城では、外様大名は、常に末席だったということを聞いたことがありますが、戦に負ければ、生かされているだけでありがたい、冷遇されるのは当たり前で、この程度のことで、「恨み」が原動力になるとは?とても考えられません。それとも江戸幕府は、外様大名に対して、2百数十年間、恨みを持ち続けられるような待遇をしてきたのだろうか?という疑問です。  イ) それと、もしそうであれば、「薩長土肥」に限らず、他の外様大名も、団結して歩調を合わせたのではないか?と思うのですか、「薩長土肥」の藩同士の関係においても、また、それぞれの藩の内部においても、必ずしも1枚岩ではなかったと歴史本を読むと理解できます。  ウ) また、他の外様藩から抜きん出たのは、この4藩に何か共通点があるのだろうか?という疑問も生じました。確かに、この4藩から、明治政府の要人を多く輩出していますが、だからといって、明治になってから、この要人達に、幕末・維新を動かしたエネルギーというものが、今ひとつ感じられません。彼らも大変だったと思いますし、表現は適切ではないと思いますが、勝てば官軍的、派閥的、官僚的、利己的な考え方が支配していて、本当にこの人達が、エネルギーになり得たのか?という疑問が生じます。根拠はありません……私のゆがんだ見方かも知れません。ただ漠然と。 (2) 幕府擁護派の抵抗  「薩長土肥」に討幕のエネルギーがあったとすれば、当然、それに抵抗するエネルギーがあったからこそ、動乱の幕末維新史が形成されたのだろう?いうくらいの知識しかありませんが。  ただ、幕末期、「江戸城の存在がずいぶん薄いなぁ」という印象を持っています。このあたり、幕府擁護派に何か方策はなかったのか?という疑問があります。もしも、幕府が江戸ではなく、京都か大阪にあったら?展開も変わっていたかもなどとも想像します。それとも、開国について、朝廷にお伺いを立てた時点で、「江戸は終わった」ということなのか?という疑問も湧いてきます。 (3) ペリーの来航  幕末史は、おおむね、ペリーの来航に始まると理解しています。  ただ、幕末・維新を動かしたエネルギーというよりも、欧米の植民地主義的な海外進出という大きな潮流がペリーの来航によって日本にも訪れ、それに巻き込まれざるを得なかったのではないか?明治政府の誕生は、この大きな潮流と、幕末・維新の動乱の中での、たまたまの結果に過ぎなかったのか?あるいは、日本なるがゆえの独自の選択の結果、あるいは切り開いてきた明治だったのか?という疑問が生じました。 (4) 江戸幕府なり、幕藩体制の体制疲労  室町幕府も、江戸幕府とおおむね同じ期間成立していますが、江戸幕府は、室町幕府とは、比較にならないほど安定していたと想像します。15代将軍慶喜の行動如何によって、多少延命されたかも知れませんし、全く異なった時代が到来したかも知れません。  ただ、ペリーの来航はひとつのきっかけであって、そもそも江戸幕府なり、幕藩体制が、世の中の流れについて行ってなかった、あるいは仕組み自体が古くなっており、ペリーの来航には関係なく早晩倒れる運命にあった。  これについては、無知なる者の単なる想像で、疑問も生じません。(*^_^*) (5) 尊皇攘夷思想  これも、私にはよく分かりません。一貫していたわけではなく、変動が激しいですよね。安政の大獄や桜田門外の変ばかりでなく、多くの出来事に関係していると思いますが、どのように影響したのか理解できていません。それに、尊皇攘夷と一言で言っても、「尊皇」と「攘夷」を分けて考えないと幕末・維新の理解が難しいのかな?という気もします。  質問、お願いは、次の2点です。 (1) 上記5点について、認識の誤りがあればご指摘願います。合わせて上記の文中、「?」のついているところについて、ご意見等いただければ、なおありがたいです。 (2) 私の考えた上記5点の他に、幕末・維新を動かしたと思われるエネルギーについて、あなたのお考えを教えて下さい。  なお、この質問については、できるだけ多くの方の異なったご意見をお伺いし、今後、日本史や幕末・維新を考える上での参考にしたいと考えておりますので、ご回答の有無、多少にかかわらず、4月5日(日)までは、締め切らないでご回答をお待ちいたします。よろしくお願いいたします。

noname#228965
noname#228965
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  • eroero4649
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回答No.5

黒船来航が分かりやすくするために西暦で表すと1853年。幕末がどこで終わったのか線引きは難しいですが、函館戦争の終結でひとつの区切りと考えていいと思うので、それが1869年。この間16年あり、意外に長い期間なのでびっくりします。黒船が来てから日本中が盛り上がってまるで雪崩を打つかのように明治維新になる、というイメージがありますが、実はそうでもないんですね。 当時の農民から武士に至るまで、彼らが「我が国」といったらそれは藩のことを指していました。実際に各藩は自治権を持っていましたし、藩から出るには通行手形というパスポートが必要だったのですから、まさに藩とは半分独立国家だったのです。 ずーっとずーっと先の未来人からすれば、21世紀の人々が「地球人」という概念を持たず「日本人」「アメリカ人」という概念を持っていたことに疑問を持つことでしょう。それと同じように、当時の人々にとっては自分の藩とそのお殿様に対する帰属意識が常識だったのです。 だから、戊辰戦争のときに各藩が新政府側につくか幕府側につくかで分かれたのは、宇宙人が攻めてきたときに抵抗する側になる国もあれば国民を宇宙人に殺されないために宇宙人側につく側になる国もあるであろうことと同じことです。 ただ当時は、妙な熱気というか盛り上がりというか、そういうのはあったと思います。幕末に突然、「ええじゃないかブーム」が起きます。突然人々があちこちで「ええじゃないか、ええじゃないか」と踊りだしたのです。なぜそれが始まり、なぜそれが割と全国的に広まったのかよく分かっていません。そしてこのええじゃないか踊りはああだこうだいわれてはいますが、要するに今の若者がサッカーの試合の後に渋谷で大騒ぎするのと同じなんですね、あれは。特に意味のない騒ぎなんですよ。幕末の前に文化文政という文化の爛熟期もあったので、なんかこう、日本人全体の間に「お祭り騒ぎをしたい」というエネルギーがあったんじゃないかなあと思うのです。 「明治維新とは革命なのか」というのが、幕末を巡る議論で必ず出るテーマです。若者を中心として体制を覆し新しい時代を作る運動を革命というのであれば、それは確かにレボリューションのような気がしますが、しかしこの革命は実は非常に「奇妙な革命」なのです。 何が奇妙なのかというと、実は旧幕府側でも、「殺されたお殿様は一人もいない」のです。新撰組の後見人だわ、会津若松城は攻防戦のうえで陥落するわの抵抗を見せた松平容保はもちろん、なんと最後の将軍であった徳川慶喜その人でさえ切腹はもちろん、断頭台の露ともなっていないのです。フランス革命ではルイ16世やマリー・アントワネットが殺されましたし、まあどこの国でもだいたい旧体制の支配者というのは見せしめもあって処刑されるが世界史の常です。ところが明治維新では戦死したり、処刑されたのは近藤勇とか土方歳三とか現場の末端の人たちばっかりなんですね。そしてまた面白いことに、幕府崩壊で落ちぶれたり失業した人たちも大勢いたでしょうに、「こうなったのも慶喜のせいだ」と静岡でのんびり暮らしていた徳川慶喜を暗殺しにきた人もまたいなかったのです。 戊辰戦争のとき、「俺は最後まで武士の筋を通すのだ」といって脱藩までして(藩の方針としては新政府に従うことになった)新政府軍に抵抗した千葉の小藩のお殿様がいました。実はこのお殿様も、なんと地元民から減刑嘆願書が出て結局最後は貴族扱いになったんじゃなかったかな?まーとにかくお殿様が死なない革命運動だったんですよ、明治維新は。だから「果たして旧体制を倒す運動だったのか?」ってことさえあやふやなのです。 また長くなってしまいました。会社であれ国であれ、それを「壊す」人と「作る」人、また「維持する」人では求められるタイプが違います。吉田松陰や高杉晋作のような人物は平和な時代にもいたと思いますが、その時代には彼らにはニーズがないので「変わり者のトラブルメーカー」で生涯を終えたことでしょう。松陰先生や高杉晋作、また大村益次郎のような「壊す」人というのは、その役割が終わるとまるでそれが運命であるかのように死んじゃうんですね。不思議なものです。壊す人は、長生きできない。むしろヘタに長生きしちゃうと不遇の晩年を過ごす羽目になります。 明治時代となると、かつての志士たちは壊す役割から「作る」役割になります。何かを作るっていうのは自分勝手に進めることはできませんから、何か物足りなく見えるのは仕方がないことです。アフガニスタンなんか、アフガン人には失礼だけどみんな好き勝手にやろうとするからいつまでたってもまともな国にならないわけでしょ。 近代国家日本を作るための明治の元勲たちの苦闘も実はかなーり面白いのですが、その話はまたいずれ。

noname#228965
質問者

お礼

「黒船来航が……意外に長い期間なのでびっくりします。」……幕末・維新というと多士済々の歴史人が、時代を一気に駆け抜けていったというイメージを持っていましたが、このような計算はしたことがありませんでした。自分自身のこの16年間のことを考えてみました。確かに長いですね。しかし、「あっという間」でもあったような。(*^_^*)凡人の16年間と比較をしても笑い話にもなりませんが。しかし、16年間は、やはり16年間ですよね。私事ですが、受験勉強や、仕事などに行き詰まったことは数え切れないほどありましたし、失敗したことも多々ありましたが、目標に向かって頑張るときも、失敗して慰めるときも、「時間だけは、皆、平等」という、長くもなく、短くもなくということを考えていたような気がします。 「ええじゃないかブーム」……参考書なんかでも、コラム的な位置づけで、詳しくは記されていないので、よく分かりませんでした。 「ただ当時は、妙な熱気というか盛り上がりというか、そういうのはあったと思います。」……実は、この質問をした後、また、「ふと」なんですが、幕末・維新史というと、表に出てくるのは、1割にも満たない「武士と政治家・官僚の歴史」ですよね。武士以外の民衆・農民の幕末・維新とは何だったのだろうか?……と。 eroero4649さんが、「ええじゃないかブーム」ことを記述してくれたので、少し調べてみました。本当に「今の若者がサッカーの試合の後に渋谷で大騒ぎするのと同じなんですね、あれは。特に意味のない騒ぎなんですよ。」ということでしょうか?幕末・維新史を、「武士の歴史」ととらえれば、何の意味もなさなかったかも知れませんが、民衆の「時代を反映した何らかの、そして意図しない意思表示」とは考えられませんか?日本人に限らないとは思いますが、ときどきは「お祭り騒ぎをしたい」というのは、心情的によく分かりますが、気になったので、「ええじゃないか騒動」のことをネットで調べたのですが、結局、よく分かりませんでした。 それで私は、「ええじゃないか騒動」というのは、「盲、象をなず」程度に歴史を楽しんでいる私のような人間に対して、「武士や政治家・官僚の歴史ばかりが歴史ではないぞ」とレッドカードをちらつかせているのだと解釈することにしました。(*^_^*) 「明治維新とは革命なのか」というのが、幕末を巡る議論で必ず出るテーマです。……ichikawaseijiさんのご回答の中でも触れられていました。私自身は、歴史の専門家ではないので、「革命か、否か」ということには関心がありませんが、「殺されたお殿様は一人もいない」には、幕末・維新の顛末として、おもしろいですね。 「処刑されるが世界史の常です。」……そうですよね。私は、この点では、慶喜公は、言われるように「聡明なお方」だと感服しています。それにイケメンだし。(*^_^*) 「お殿様が死なない革命運動だったんですよ」……何でしょうかねぇ。日本の穏やかな気候のおかげでしょうか?もともと「武士の歴史」の範疇だから、結果はどうであろうと、「お殿様にはかなわねぇ」というあきらめでしょうか?あるいは、「お殿様には、腹は切らせねぇ」、この部分で「武士道」が発揮されたとか?それとも「あまりにも馬鹿すぎて処刑する気持ちも湧かなかったのか?」、「そもそも歴史に参加していなかったのか?」……これも考えると疑問だらけですね。(*^_^*)私の質問の趣旨からすると、幕末・維新を動かすエネルギーになり得ていなかったということかも知れませんね。 「果たして旧体制を倒す運動だったのか?」……あまり、深入りする気持ちはありませんが、ichikawaseijiさんのご回答ともあわせて、自分なりに空想してみたいと。 会社であれ国であれ、それを「壊す」人と「作る」人、また「維持する」人では求められるタイプが違います。……そうだと思うし、どんな時代も、どんな社会も、「壊す」人と「作る」人、また「維持する」人を求めているし、又、それがなければ「社会や組織」は発展しないし、そもそも成り立ちません。だからこそ、私のような一般市民でも生きていけるし、生かされるのだとも思います。 また長くなってしまいました。……いえいえ、eroero4649さんには、もっともっと、長く語ってもらいたいと思います。物足りないくらいです。もしかしたら、私の「お礼」のほうが長くなっていないですか?ただ、あまり語られ過ぎても、私の理解力にも限界はありますので、それをご覚悟の上で。 「吉田松陰や高杉晋作のような……むしろヘタに長生きしちゃうと不遇の晩年を過ごす羽目になります。」……必ずしも納得できませんが、おもしろいですね。「歴史」というよりも、「人生」カテに入り込んでしまいそうな。 私の質問の趣旨とは、かなり離れた部分のあるご回答だったような気もしますが、「近代国家日本を作るための明治の元勲たちの苦闘も実はかなーり面白いのですが、その話はまたいずれ。」ということですので、私も見捨てられてはいないようですね。(*^_^*)これからもよろしくお願いいたします。

  • titelist1
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回答No.4

幕藩体制という封建制に基づいた経済が行き詰まっていたのです。幕府をはじめ各藩では大きな借金を抱えていたのです。借りていた先は江戸や大阪の両替商人です。 幕藩体制とは有力大名である徳川家が将軍となり各大名を支配する体制ですが、明治政府のような中央集権政府ではないのです。幕末に幕府は長州征伐をしていますが、それが良い例です。長州が一つの国であることを示しています。幕府とは各藩の小さな国からなる連合政府なのです。しかも、将軍は天皇から任命される官位であるのです。しかし、天皇に権力があったのではないのです。 明治政府になり廃藩置県を行います。表立って反対する大名はほとんど無く、その条件が貴族に取り立てることと各大名の借金を棒引きすることでした。各大名は借金苦から解放されると思ったのです。薩摩の島津久光ぐらいが反対であったのです。久光は島津幕府はいつ出来るのだと大久保利通に聞いているのです。廃藩置県を聞いた時に激怒したと言われています。後の西南の役の火種です。それに対し、長州藩主はそうかと答えたと言われています。 幕藩の財政困窮の原因は税金と言う考えが封建制では取れなかったからです。土地を支配することで成り立つ封建制では年貢米は土地の使用料なのです。商人への土地使用料は店の間口で計算されます。商品や物流や所得に税金を掛けることができないのです。日本に何百という大名の国があってそれぞれが支配しているからです。自分の藩だけが税金を課したら他藩への人口理由出が起きてしまいます。封建制ですので土地に固定資産税をかけられないし、相続税も自分の首を絞めるようなものです。 幕末の江戸城の写真を見たことがありま。各藩の城の写真も残っています。ほとんどがボロボロです。庶民もそれを見て武士の権威が落ちていることは分ったと思います。大きな借金を抱えている現在の日本政府も危ないです。当時は武士の地位がお金で売買されていました。坂本竜馬の祖父か曽祖父の時に侍株を買って武士になったのです。世襲公務員のようなもので給金がはいるからです。勝海舟の先祖も同じで旗本株を買って武士になったのです。また先祖代々の旗本は幕末に倒幕軍と戦うお金も気力もないのです。幕末を攘夷と開国、勤皇と佐幕で考えるのはおもしろいですが、お金がなくては何もできないのです。

noname#228965
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 私は日本史に関しては、ほとんど知識がありません。ましてや「経済」は尚更です。 そのため、ご回答にある「幕藩体制という封建制に基づいた経済が行き詰まっていた」ということが、幕末・維新にどのように作用したのかが理解できません。 「幕藩の財政困窮の原因は税金と言う考えが封建制では取れなかったからです。」……年貢米も1種の税金ではないのですか? 要するに、幕藩の貧乏が幕末・維新につながったということですね。

noname#224207
noname#224207
回答No.3

(1)明治維新というのは薩長土肥などの藩と江戸幕府との抗争ではなかったということを御理解願います。 大名といいますのは、正室が江戸から離れることができませんでしたので、必然的に江戸生まれ江戸育ちです。 廃藩置県で国元へ戻された時に大反対したのは女性陣です。 明治政府もあわててすぐに江戸(東京)へ戻させました。 参勤交代も理屈の上では領国から江戸へ出てくる、ということですが、大名自身にすれば、江戸から仕事で地方へ行って帰ってくるという感覚でした。 常時身辺にいる江戸藩邸の家臣も代々江戸詰めで江戸生まれ江戸育ちです。 日常的に幕臣と付き合っていました。 つまり大名以下江戸藩邸の連中には幕府とことを構える理由も動機もなかったということです。 (2)(3)(5)明治維新のスローガンも当初は「尊王攘夷」でした。 江戸時代には形式的には外交権は朝廷にあり幕府は持っていませんでした。 形式論から言えば幕府は天皇の認可を得たうえで調印する必要があります。 多々行き違いがあり結果として幕府が独断で調印してしまったことになりました。 オランダ以外とは外交関係を結ばないのは天皇の意志による国是と信じていた外様の下級藩士たちが騒ぎ出して持ち出してきたのがこの「勤皇攘夷」です。 吉田松陰などは攘夷の塊でした。 薩英戦争、馬関戦争などで外国の軍艦にこっぴどくやられた後に「攘夷」を引っ込めて「討幕」に切り替えました。 この辺の経緯が明治維新を分かり難くしています (4)藩幕体制の制度疲労、弛緩が最大の原因ですが、むしろこのことが明治維新を分かり難くしています。 明治以降も侯爵だの伯爵だの士族だの平民だのと身分制度はそのまま温存していたことも分かり難くしています。 これが革命と呼ばれずに維新とよばれる最大の理由です。 明治時代の政府要人も江戸幕府はボロカス言いますが、武士には限りなく憧れを持ちつ続けていたという、現代からすると意味不明な意識の持ち主です。 その集大成が新渡戸稲造の「葉隠れ」です。 こんなものは明治人が勝手に理想化した武士像です。 実際の「葉隠れ」は佐賀の奇書として内容が不穏当であるとして禁書扱いされていた書籍です。 弛緩の典型的な例が戊辰戦争の際の尾張徳川と紀州徳川の行動です。 そもそも家康がこの将軍継承権を持った家を分離独立させて、尾張と紀伊に配備したのも、西国からの攻撃に備えることが最大の目的でした。 大阪城にご本家の御大将が出張ってきているのに、籠城もしないで敵に内通するなど以ての外です。 しかも敵は薩長と言いながら、薩摩は徳川と姻戚であることを示す松平を名乗っていました。 江戸時代の地図にも松平薩摩守斉彬と明記されています。 御大将が江戸へ逃げ帰るときにも神君家康公由来の馬印を置き忘れて、それをお妾さんの親父の新門辰五郎などという町火消の親分が東海道をエッチラ担いで持って帰ってきてくれた、というていたらくです。 ご質問のエネルギーの源泉はむしろ各の大名家の下級藩士の溜まりに溜まった鬱積でしょう。 維新の壮士などと呼ばれる連中は脱藩すなわち雇用主を見限っています。 西郷などは一度島流しの憂き目も見ています。 大名連中もあわよくば徳川の代わりにおれが江戸城の主になろうと目論んでいた形跡が覗えます。 下級藩士の連中の形勢次第でコロコロ態度を変えています。 だれも藩など廃止して中央集権国家を創ろうなどとは考えていなかったようです。 薩長土肥などという藩はどこも下記のような厄介な問題を抱え込んでいました。 薩摩藩 兵農分離が徹底していなかったようです。 西郷隆盛も日常は農耕に従事していたようです。 他の大名領はいずれも徹底していて、武家が城下町を離れることを原則として認めていませんでした。 領民の大多数を占める農民と武家との接触が極めて希薄でした。 更に幕末には藩主の父親と祖父が健在でお互いにメンツにかけたような豪奢な生活を送っていたようです。 結果として500万両という途方もない借金を背負うはめになっていました。 長州藩 関ヶ原で敗北後、長門周防の二か国に領地が削られたにもかかわらず、中国地方全域を領有していた時代の家臣団が大挙して移住し、結果として養いきれない下級家臣は農漁民となったようです。 元はと言えば武士という人がゴロゴロいたようです。 関ヶ原では西軍の総大将を務めたこともあり、加賀前田、薩摩島津などに準じた体裁を整え続ける必要もあったようです。 収入源である領地は平野部が少なく大型河川もないことから、領民も藩も財政的には相当に苦しかったようです。 土佐藩 在郷郷士制度という特異な制度があり同じ藩士でも上士下士に峻別して取り扱われていたようです。 更にこの郷士の身分が売買されて身分間の流動現象がおきていたようです。 坂本龍馬などはこの下士階級の人です。 佐賀藩 分家や支藩を多く抱えていて本家鍋島家は実質6万石程度の中大名程度の財政力しかなかったようです。 これに長崎警護の役割も負担させらていました。 幕末近くに負担軽減のために派遣要員を減らしていたところへフェートン号事件というのが起きて、その際の不手際で幕府から叱責されて面目丸つぶれになっていました。

noname#228965
質問者

お礼

(1)「明治維新と……動機もなかったということです。」……本社から地方への単身赴任という感覚ですか?認識を180度転換しなければなりません。それにしても、「廃藩置県で国元へ戻された時に大反対したのは女性陣です。」とは、……(*^_^*)時代の流れなんかに関係なく、 女性には、女性の考え方や生活があったということですね。分かるような気もします。 (2)(3)(5) 「江戸時代には形式的には外交権は朝廷にあり幕府は持っていませんでした。形式論から言えば幕府は天皇の認可を得たうえで調印する必要があります。」……驚きました。何かの歴史本に、条約の締結について、「朝廷にお伺いを立てたことが、幕府の権威を失墜させた。」という趣旨のことが書かれてあったので、そのように思い込んでいました。しかし、政治には参加させないで、「外交」と言われても、私だったら困りますね。そういえば、鎌倉時代に、蒙古からの国書が、鎌倉幕府に届いていますが、その後に、幕府から朝廷にもその国書が届けられたと記憶しています。朝廷には、そのような役割があると、基本的に認識されていたのでしょうかねぇ。 「薩英戦争、馬関戦争など……この辺の経緯が明治維新を分かり難くしています。」……幕末・維新を動かした志士たちであったかも知れませんが、痛い目にあわないと分からない連中だったとも言えますね。 (4)「藩幕体制の制度疲労、弛緩が最大の原因ですが、むしろこのことが明治維新を分かり難くしています。」……ご回答の趣旨とは異なるかも知れませんが、幕末・維新というと、数多くの人物が登場し、戦あり、暗殺あり、数多くの事件が発生し、……と派手な部分が注目され過ぎていて、本質を見えにくくしているのではないかという気持ちは抱いています。 新渡戸稲造の「葉隠れ」なんてあったのですか?もとは山本常朝ですよね。もう遙か昔に三島由紀夫の「葉隠入門」という小冊子を読んだ記憶があります。 「御大将が江戸へ逃げ帰るときにも神君家康公由来の馬印を置き忘れて、それをお妾さんの親父の新門辰五郎などという町火消の親分が東海道をエッチラ担いで持って帰ってきてくれた、というていたらくです。」……これも、最近、何かの本で読んだ記憶がありますが、その時、ふと「新門辰五郎のほうが将軍に相応しいのではないの?」と想像しながら、ひとりで吹き出してしまいました。しかし、あの聡明だったと言われる慶喜公が、本当に「置き忘れて」しまったということであれば、頭の中は、相当パニクっていたということですね。あえて、おいて逃げざるを得なかったということであれば、「徳川の終わりを告げる」、笑い話だけど、家康にとっては、笑うに笑えない大きな事件という気がします。また吹き出しそうにもなりますが、「憐れ」というものをしみじみと。 「ご質問のエネルギーの源泉はむしろ各の大名家の下級藩士の溜まりに溜まった鬱積でしょう。」……このような視点は持っていませんでした。しかし、これは奥が深すぎて、理解は難しいですが、頭に入れながら、考えることにします。 「大名連中もあわよくば徳川の代わりにおれが江戸城の主になろうと目論んでいた形跡が覗えます。……だれも藩など廃止して中央集権国家を創ろうなどとは考えていなかったようです。」……そうなのですか。「苦しみ、もがいているうちに出来てしまった」という要素もあるということですね。 「薩長土肥などという藩はどこも下記のような厄介な問題を抱え込んでいました。」……興味深いご説明ありがとうございました。

  • lisa6708
  • ベストアンサー率30% (100/330)
回答No.2

(2)について私の考えを書きます。 明治元年(1968)から凡そ74年前(1972年)に始まるロシアによる日本への何度かの通称要求に対する不受理及び拒否によって、1806-7年(明治元年から約60年前)、ロシアから受けた軍事行動(文化露寇)によって、ロシアの南下に対する脅威を江戸幕府はすでに感じていた。 この頃から国防の大切さを骨身に感じるようになった事→近代的な軍隊の必要性→幕府における近代的に軍隊の限界が大きく影響していると見てます。

noname#228965
質問者

お礼

 ご回答にある文化露寇など、ロシアをはじめとして、諸外国に対する「脅威論」というのは、昭和までの「なぜ、戦争をしなければならなかったのか?」という理由の大きな柱として、主張される方々がおられることは承知しています。そのような側面があったか、どうか私の知識では分かりません。ただ、日清戦争、日露戦争、その後の戦争で犠牲になられた多くの英霊や国民のことを考えると、「日本の戦争を信じたい」という気持ちがあります。ただ単に「歴史を楽しむ」だけではなく、何か「歴史を学ぶことの義務」のようなものを感じます。  ありがとうございました。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.1

(1)外様大名と藩士の恨み  ↑ 幕藩体制を調べてみますと、幕府はおおむね公平妥当な治世 を敷いていたことが判ってきました。 改易にしても、なるほど、と納得出来る場合が多かったのです。 だから、あれほど永く続けることが出来ました。 恨みですが、藩による濃淡があります。 薩摩は、いじめられたこともありましたが、やがて将軍と 姻戚関係を結ぶなどの仲になりました。 だから、当初は幕府寄りだったのです。 長州は、幕府に対する恨みが骨髄に達していた、と 言われています。 領主が「倒幕はまだか」と尋ね、家老が「未だに」 と答える風習があったとか、無かったとか。 肥後は徳川に暗殺されたと言われる加藤清正です。 土佐は、上級武士と下級武士との差別が激しく、下級武士には 幕府を恨む者が多かった、と言われています。 ウ)また、他の外様藩から抜きん出たのは、この4藩に何か共通点があるのだろうか?       ↑ 薩長は財政改革に成功しています。 土佐藩は山内容堂と吉田東洋が改革しています。 熊本藩は、細川重賢が堀勝名を登用して改革を断行しています。 ”幕末期、「江戸城の存在がずいぶん薄いなぁ」という印象を持っています”      ↑ そりゃそうですよ。旗本などはただの官僚になってしまいました。 刀など抜いたことも無い、なんて武士は珍しくありません。 だから、新撰組などに頼るようになり、鳥羽伏見で醜態を 晒したわけです。 ”幕末史は、おおむね、ペリーの来航に始まると理解しています”      ↑ 露寇事件から始まった、という説があります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E9%9C%B2%E5%AF%87 エネルギーという点からは 高杉晋作などが上海に出掛け、奴隷のように扱われている 中国人を目にして、日本をどうにかせねば、ということが 一番大きかったと思います。 その後の日清日露戦争、大東亜戦争などもこの延長で考える べきです。 そうすれば、どうして日本があの戦争をやったのか、理解 できると思います。

noname#228965
質問者

お礼

hekiyu  「薩摩は、……だから、当初は幕府寄りだったのです。」……薩摩藩の幕末の頃の動きは複雑ですよね。日和見という言葉は適当でないかも知れませんが、関ヶ原の合戦の顛末を考えても、不思議な気がします。「薩摩の風土というか、なにか独特の藩風があるのかなぁ」と感じています。あるいは現在の鹿児島県人にも???  「長州は、幕府に対する恨みが骨髄に達していた、と言われています。領主が「倒幕はまだか」と尋ね、家老が「未だに」と答える風習があったとか、無かったとか。」……合い言葉になっていたのでしょうね。(*^_^*)確か、何でも「そうせい」と答えていたのは、長州のお殿様でなかったでしょうか??お殿様と藩士の意識の差が大きかったのが長州藩ではないかと想像します。関ヶ原の合戦のことを考えられても、長州のお殿様は、担ぎ上げられるのが性に合っているという印象ですね。(*^_^*)  「薩長は財政改革に成功しています。土佐藩は山内容堂と吉田東洋が改革しています。」……成功させなければ、どうにも立ちゆかない背景があったのかと、想像しますが、考えるヒントになりました。  「鳥羽伏見で醜態を晒したわけです。」……将軍も兵士も醜態をさらしたのでは、勝てるわけないですよね。  「露寇事件から始まった、という説があります。」……歴史というのは、「つながり」なのでしょうから、背景を追っていくといろいろな解釈が生まれてくるのでしょうね。分かりました。  「高杉晋作などが上海に出掛け、奴隷のように扱われている中国人を目にして、日本をどうにかせねば、ということが一番大きかったと思います。」……アヘン戦争後の中国のことですよね。ただ、それがどうして「攘夷」につながったのか???このあたりにも、幕末がもつれた原因のひとつのような気がします。  「その後の日清日露戦争、大東亜戦争なども……理解できると思います。」……そこまで関心を持ってたどりつけるかどうか・・・まだ、質問の数は多くありませんが、皆さんからいただいたご回答は、別冊のファイルを作って、時々眺めていますので、思い出すこともあると思います。  ありがとうございました。

noname#228965
質問者

補足

「薩長土肥」の「肥」は、江藤新平や大隈重信の肥前(佐賀)ではないのですか?

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    教えてください。 幕末の歴史について素人でもわかるHPを教えていただけないでしょうか? 江戸幕府がどうやってつぶれていったか、薩長がどうかかわっていたか、新撰組は・・・ 何がどうかかわって明治維新になったのか・・・ よろしくお願いします。

  • 江戸幕府と幕末について

    私も歴史は得意ですがどうも江戸と幕末が苦手なので教えて下さい。まず、幕府ですが、 1.どのくらい権力があったのでしょうか。 幕府と言えども簡単に抵抗する藩を潰したりは出来なかったのでしょうか。 特に幕末はまったくわからないのですが、 2.長州藩をどうして潰せなかったのか。 3.なぜ、幕府軍は薩摩や会津なのか。他にもいたのか。 そして最後に究極の質問ですが、薩摩や長州が幕府を倒そうとした時、この様にすることが出来なかったのでしょうか。 4.全国の藩に命じて薩長を倒す。いくら薩長が強いとは言え、全国から総動員すれば勝てそうな気がするのですが、できなかったのでしょうか。 5.また、伊達や前田、家康以来の本多、酒井、など戦国時代に活躍した家臣たちはどうなっていたのでしょうか。 たくさん質問してすみません。けど、非常に気になるので教えて下さい。

  • 幕末の薩長土肥の殿様

    幕末に、徳川幕府と戦う薩長土肥の下級武士達(官軍)に対して、 それらの藩の殿様は、制止できなかったのでしょうか? 力がなくなったから止められなかったのか、逆に秘かに応援していたのか、 殿様はどのような状態・立場だったんでしょうか? 歴史に疎いので、単純な質問ですが、教えてください。

  • 幕末の各勢力の立ち位置について

    黒船が来航したことで、幕府は開国をしましたよね。 それに反対する形で、薩摩・長州などが 尊皇攘夷を唱えて対立したのが、幕末の始まりだと思います。 でも、薩摩や長州が外国との戦争で負けたことをきっかけとして、 開国に主張が変わったのに、その後も倒幕運動が行われたのは どうしてなんでしょうか? スローガンが尊皇だけだと、倒幕の根拠が薄いような気がします。 なぜなら、幕府は朝廷と対立したのは幕府が開国したためで 尊皇を唱える薩摩・長州も開国に主張を変えたなら どちらも、朝廷と対立する立場になると思うからです。 個人的には、関が原の戦い以降の毛利・島津の恨みが根底に あって、尊皇や攘夷は口実に過ぎないと思ったりもしたのですが。 どうなんでしょうか。よろしくお願いします。

  • 「藩」とは?「家中」とは?

    幕末期の武士階級の日記や書簡をみると「藩」という字が溢れています。 「本藩」「弊藩」「一藩」「他藩」「尊藩」「諸藩」「列藩」のように自領にも他領にも使用されています。 藩の呼称は,江戸幕府の大名領に対する公称ではないとされていますが、あたかも公称のごとく多用されていると思います。 当時は、藩ではなく「家中」と呼んでいたと聞いたこともありますが、「家中」は、自領内向けの用語で、例えば「御家中の面々へ」というように、使う場合が多いと思います。 質問です。 幕末期、武士階級では「藩」という概念が広く行き渡っていたと思っているのですが、このような認識でよいでしょうか。 「書状」や「日記」をキーワードにちょっとググッタだけの感触ですから自信ありません。 そこで、他の大名領を「藩」以外の用語、例えば「家中」などと呼んだ例があれば教えてください。 なお、幕末とは、嘉永六 (1853)年ペリー来航後くらいとします。 よろしくお願いします。

  • 幕末の外様大名と徳川家康の関係

    幕末、倒幕・佐幕に分かれて争いがありましたが、薩長を含め、外様大名と徳川家康とはなんらかの関係があったのでしょうか。 知っているのは、加賀・前田家はかつて前田利長が徳川家康の恫喝に屈し、母まつを人質に出すという屈辱がありましたが、幕末時の前田家の当主の母はかつての将軍の孫、つまり徳川家康の子孫であるので、積極的に幕府を戦おうとしなかったことぐらいです。。 他の大名はどうだったのでしょうか。

  • 幕末~明治維新時期の大名家

    江戸開府以来、大・大名だった加賀・前田家や仙台・伊達家は幕末から明治維新の時期に全くと言って良いほど、その動向や活動を聞くことがありません。 特に伊達家は本家ではなく宇和島の伊達家が幕末に活躍しています。 本来、大名家の中でも大規模な両家が幕末期に何の影響力を果たさなかった(発揮しなかった)理由みたいなものはあるのでしょうか?

  • なぜ薩摩と長州は中央政府を江戸に置き部下に任せたのですか?

    戦いに勝利した国は、天皇陛下の下、自分が将軍になり、政治を行うイメージが有りますが、明治維新では、中央政府を江戸に置き、更に部下たちに政治を治めさせたのですか?天皇陛下まで江戸に赴き、東の京・・東京と名乗らせる位重要だったのですかね?薩摩や長州や土佐が喧嘩しないよう部下たちに任せたとして、部下たちは自分の藩の為に頑張ると思うのですが廃藩置県は薩長の大名に得??薩長は維新では部下たちが有名ですが当時の大名の名前を私は知りません・・幕末から維新にかけて、薩長の大名を主役にした本<出来れば漫画で>やサイトはありますか?

  • 尊王攘夷について

    幕末は長州藩の開国論と薩摩藩の尊皇攘夷派の 対立があったわけですが薩長同盟が成立したのは 開国論者も尊皇攘夷派も幕府を倒さなければならないと 言った共通項があったからですか? また、なぜ攘夷派の人間は明治以降、開国論に 考え方を変えたのでしょうか?